
目の見えないミチルは駅のホームが下にある家で一人暮しを始める。ある日、一人の男がホームから転落死した。その直後、一人の青年がミチルの家に忍び込み、彼女に気づかれないように息をひそめて居間で暮らし始めた……。続きを読む
視覚障害であっても、気配はより濃密に察知され、涙も流れる。
数年前になるが、グループの小さな出版社で、視覚障害者の方たちの短歌や俳句を編纂し、出版させていただいたことがあった。生まれつきから、ほぼ盲目の人から、ある日突然視力が亡くなった人、老齢化すると共に緩慢にほとんど視界が定かでなくなった人、さまざまな来歴の視覚障害者の方たちから寄せられた1千通を超える句や歌を見させていただいて、その瑞々しい表現に、繰り返しはっとさせられたことを、よく記憶している。
もともと、日本の句や歌の伝統としてさまざまな修辞や隠喩の技法が蓄積されてきたが、近代以降、「見たものをそのまますっと詠む」という詠み手の心構えが、大切な立ち位置として、強く意識されるようになった。言葉でいってしまえば簡単なようでいて、これはなかなか難しいことだ。
見ることは、単に網膜に像として、映っているということを意味しない。かならず、記憶や意味づけによって、つまり脳によって、発語のとき(言葉となるとき)に変容させられるからだ。

視覚障害の方たちの句や歌を通じて、はっとさせられたこととはなにか。
「今、見ていること」は五感によって感覚していることなのだが、脳の複雑な記憶回路を通じて、ひとつの光景に結像するときは、現実の目の前の光景とは微妙に異なっている。たぶん、視覚がなくなった分だけ、聴覚や、嗅覚や、触覚や、味覚や・・・といった他の感覚がそのことを補填するように鋭敏になり、独特の結像の仕方を促すのかもしれない、と思わせられる。
その句歌は、どんなにも、光や色の表現が、豊かであることか。あるいは、定まらぬ記憶の中で、匂いや、触れ合った感触が、前面にせり出してくる。とても繊細に、力強く・・・。
そしてすぐれたどの句歌にも、「気配」とでもいうしかないものが、強く暗喩されているのを感じとれる。
暗闇の中で、空気が揺れる。あるいは体温が、吸い取られる。ざわめきにも、ある周期が察知され、それが不安を呼び起こしたり、安堵をもたらしたりする。その気配をめぐる緊張と弛緩が、生命の呼吸を豊かなものにしている。


「暗いところで待ち合わせ」は僕も大好きな乙一の長編小説の映画化である。
3年前の事故をきっかけに、徐々に視力をなくしたミチル(田中麗奈)。ずっと二人暮らしだった優しい父(岸部一徳)もある日、脳卒中で他界した。残された家でたった一人で静かなしかし自閉した生活をしている。幼馴染のカズエ(宮地真緒)だけが、外の世界に連れ出してくれる存在だ。
ある日、印刷工場に勤めるアキヒロ(チェン・ボーリン)が彼女の家に忍び込んだ。アキヒロは同僚の松永トシオ(佐藤浩一)をホームから突き落とした殺人の嫌疑がかけられている。
ミチルは徐々に家の中に異質なものが存在する気配を感じる。警戒はするが、そこに悪意は感じられない・・・。
映画の脚色上、原作は少し、設定の修正を加えられている。
アキヒロは、なかなか集団に溶け込むことが出来ない、いわばニート的な資質を持つ青年だが、その関係の不器用さ、孤立癖を強調するためと、台湾出身の人気俳優チェン・ボーリンの起用ということであろうか、日中のハーフというキャラクターに変更されている。
あとは父親がサラリーマンであるところがロシア語の翻訳者になっていたり、カズエとの幼い頃のエピソードが捨象されていたり、ミチルがピアノを弾くというエピソードが加えられたり、結局は松本トシオに弄ばれ恨みのあまり突き落としてしまったハルミ(井川遥)の真相を明らかにした後、ハルミの哀しみを思い、ミチルはもっと激しく落ち込んだり・・・といったことは別としても、ほぼ原作に忠実である。

しかし、この作品の映画化にあたり、今村昌平の息子であり、父の作品の脚本にもつきあいながら、期待の若手監督に育ってきた天願大介監督らスタッフが、大きく変えざるを得なかったことがある。
それは、ミチルとアキヒロというふたりの人見知りする性格と、一方は視覚障害、もう一方は、職場でのいじめ・差別という環境から、同じように自分の殻に引きこもってしまう日常、そのなかでの心の揺れを、原作ではそれぞれの主体の側から、モノローグとして記述している。
しかし、映画では、ことにふたりが奇妙な共棲をする場面において、まったくといっていいほど、会話をなくし、沈黙のなかでの仕種や表情や目の動かし方で、原作のモノローグを置き換えようとした、あるいは、置き換えざるを得なかったという、演出上の困難さが随所にうかがわれる。
窓から外が見える居間の東南の片隅に、体を丸めるようにして息をころし、存在を無化しようというように蹲るアキヒロ。
子どものように無警戒なミチルが、徐々になにものかの存在を感知し、気配を読み取ろうとし、小さなトラップを仕掛けるにいたる緊張感。
そして、たしかな他者の存在を確認したあとは、怯えることも脅かすこともなく、もう一人分の食事を用意し、無言で共棲を許容する。
ひたすら存在を無化しようとするような、キム・ギドクの「うつせみ」の主人公を思わせるようなチュン・ボーリンの演技もよかったが、ひとりで生きていくことの決意をしながらも、どんどん世界から孤立し、やがて時間の観念もなくなっていくように丸まってひたすら眠ることだけが安心できるといった田中麗奈の演技の見事さは出色である。

視覚障害者の施設で体験するだけではなく、アイマスクをつけ、日常生活の中で、視覚が喪われるということはどういうことかを、ひたすらトレーニングしたという田中麗奈。ピアノを弾く場面でも、もちろん楽譜は存在しないし、鍵盤をみることもない。しかし、その音色が、存在するもうひとりに聞かせるように弾んだ音色に変化していく。
演技も、目が特定の対象を捉えることは許されない。気配だけが、そこにある。目は、なにかを特定してみているのではなく、気配を察知しようとして開かれた神経の、その窓であるように。そこから、攪拌され、ときに温かな、ときに怯えたような、しかし悪意のない優しげな同類であるような気配が、伝わってくる・・・。
もともとは、「なっちゃん」はじめ、短いCMの演技の中で、忘れられない表情を印象付けるこの特異な女優の大ファンであった。だから、湾岸署シリーズのクソのような娯楽映画(「容疑者室井慎次」)で、消費されているこの女優をみるのはつらかった。お子様娯楽劇でも、ユニークな(情けない)造形で道化をさせられている。
しかし、僕などがそんなことにチャチャをいれてもしょうがない。数々の映画賞に輝いているし、ちゃんと、彼女は、中国語なども独学し、アジアでの作品にも出演している。今度の「夕凪の街 桜の国」は未見だが、原作漫画のあの哀しい宿命を背負ったしかしたくましい少女を思うにつけ、田中麗奈の起用は、期待させるものがある。

ミチルは、家族から置き去りにされた小鹿のように、脆く、儚げで、もうひっそりと一人でこの家で死んでしまってもいいと思い決めている。
アキヒロは、手負いのはぐれ狼のように、世界の悪意を過剰に感じ取り、不信と自尊で心を強張らせながら、侵されない自分の閉塞的な居場所だけを求めている。
傷ついているふたり、孤独を求めるふたりは、本当はだれよりも、寂しい心に苦しめられていた。
嫌疑は晴れたが、印刷工場は止める事になり、アパートも追い出されたアキヒロ。
ハルミの病んだ心まで自分で受け止めてあげたいミチル。
アキヒロは「どう話しかけたらいいかわからないけれど」とおずおずとミチルに近づく。
ミチルは一人じゃない自分を、感じる。いろんなことが愛しくなる。
春の芽吹きが感じられる。世界は、自分にも、たぶん等しく、開かれている。
白杖をもって、日差しに足を一歩踏み出す。
自分を見守ってくれるアキヒロの気配を濃密に感じる。
わかっている。
目は見えない。
けれど、ミチルはアキヒロの気配に、しっかりと「まなざし」を向ける。

視覚障害者の句歌集につけた表題は「まなざし」であった。
この本は点字の書物ではない。
視覚障害者に寄り添う人が、かたわらで詠んであげることを想定して、編集された。
箱入りケースに細工をして、名刺などに点字を細工できるプラスティックの小さなキットを組み込んだ。
ミチルの父が、点字でミチルに伝言を残す。
「タ・ン・ジ・ョ・ウ・ビ・オ・メ・デ・ト・ウ」
残された1行、1行を指でなぞりながら、ミチルは父のやさしさを感じ取り、涙する。
世界は見えなくても、涙は流れる。
句歌集に組み込んだのは、そのとき、父が使っていたような、簡易な点字造形盤であった。













この作品もキャストが嵌っていましたね!
原作は未読ですが、田中麗奈ちゃんとチェンボーりんの
2人のシーンは大好きでした。
言葉もなく、でもお互いに感謝しあって食事をとるシーンがよかったです。
『夕凪の街 桜の国』も観たい作品です。
これは麗奈ちゃんの希望で制作されたと以前見た記憶があります。楽しみです
ああいうシーンをみると、むやみな言葉は必要ないんだなぁ、と思いました。
TB・コメントありがとうございました。
見事なレヴューですね、感心しました。
とにかく思っていた以上の良い作品でしたね。
田中麗奈の演技、見事でした。
田中麗奈は売れっ子だけど、CMをのぞいて、なんか、あんまりテレビに出ないじゃないですか。そのへんが、好きですね。
田中麗奈は良いですね。20代後半の女優には今話題の“22歳以下の女優陣”に比べると人材がめちゃくちゃ少なく、寂しい気がしていますが、彼女には頑張って欲しいものです。
乙一の作品の映画化は近作「きみにしか聞こえない」もありますが、映画作家がインスピレーションを受けやすい素材ではないかと思います。今後もさらなる映画化を期待したいと思います。
それでは、今後とも宜しくお願いします。
乙一は17歳のデヴューから、注目していました。
あんまりおどろおどろしくなくて、哀切なホラーやミステリーが多いですね。
(彼の体育座りが印象的!)
いいキャスティングでしたよね。
撮影シーンを想像すると、大変だろうなあ、と思いますけどね。
「おい、チェン!音を出すなって言ってるだろう!」
「麗奈ちゃん、目が焦点合っちゃってるよ!」
とかね(笑)
チュン・ボーリン&田中麗奈という、去年のワースト映画の一つ『幻遊伝』のコンビだったので正直不安だったんですが、この映画はなかなか良かったですね。 静かな雰囲気の田中麗奈が印象的でした。
「幻遊伝」は未見なんです。
このまま、そんな映画なかったことにしましょう(笑)
TBありがとうございました。
好きな映画だったので、うれしいです。
田中麗奈さんは静の演技、
チュン・ボーリンさんは目の演技に魅せられました。
映画の空気感も好きだったし、おとぎ話っぽい所も好きでした。
また、よろしくお願いします。
実体験から語られる内容の濃いブログを読ませてもらいました。実体験がオーバーラップすると、本当に生きた文章になりますね。素晴らしいという思いだけです。ありがとうございました。 冨田弘嗣
そうですね。大袈裟じゃなく、大切なものを守るって大変なことじゃないですか。この映画は、そのあたりを、丁寧に描いていましたね。
僕自身は、ボランティアをちゃんとやっている方ではないですけどね。
たまたまこの句歌集は、点字図書館を運営する友人からの持ち込み企画です。
監修等は、角川春樹さんのお姉さまの辺見じゅんさんにお願いしました。
TB&コメントいつもありがとうございます
主演の田中麗奈さん、視覚障害者施設にて
体験をされたとか
役者さんの仕事って、本当に大変ですね。
ゆっくり流れる映像に、心が洗われるような
気分になりました。また宜しくです
なかなか、相当意識的に訓練しないと、ああいう、演技はできないと思いますね。
TBありがとうございました。
kimionさんも原作がお好きとのこと。私もなんです。
この映画は、原作を壊すことなく、上手に出来上がっていましたよね☆
>今村昌平の息子であり、父の作品の脚本にもつきあいながら、期待の若手監督に育ってきた天願大介監督
そうだったんですかー!初めて知りました。期待されますー
もともとは、短編の名手のようなところがある人ですけどね。いつも、新作を楽しみにしています。
視覚障害の人の「まなざし」というのはすごい深いですね。見えている人のまなざし以上に強烈なインパクトがあります。
田中麗奈さんの演技は本当にすごかったです。
機能的には見えているものを見えていないふりをしているのでしょうけど、役者はそれを本当に「見えな」くしちゃうのかも・・・と思いました。
演技するときも、目は開けているわけですからね。
でも、脳で了解することを、意識的にセーブしているような・・・。
TB&コメント有り難うございました.
>湾岸署シリーズのクソのような娯楽映画(「容疑者室井慎次」)で、消費されているこの女優をみるのはつらかった。
おっしゃるとおりです.この映画では久しぶりに「がんばっていきまっしょい」で見たあの健気な田中麗奈が帰ってきたかのような思いです.
「夕凪の街 桜の国」では,麻生久美子との競演,見応えがありました.
先日、久しぶりに「がんばっていきまっしょい」を再見しました。うーん、なっちゃんに萌えました〈笑)
kimionさんのレビューを拝見して、
随分昔「詩とメルヘン」と言う雑誌に、
とても色彩感覚豊かな詩を書く方がいて、
後に、その方が目の不自由な方と知り、
とても驚いたのを、思い出しました。
あたりの気配・空気感などは、
目で見るより、もっと鋭く鮮明に感じられるんでしょうね。
私も田中麗奈さんの演技に、引き込まれました。
「詩とメルヘン」!懐かしいですなあ。
たしか、やなせたかしさんが、やっておられましたね。
「気配をめぐる緊張と弛緩」という表現いいですね。この映画自体、そんな感覚をうけました。
ついつい僕たちは、「観てしまっている」と思い込んでいる光景に馴らされてしまって、微細な気配を感受することができなくなっているように思いました。
随所に見られるキャストへの愛情がまたいい感じです。
本文中で駄作認定されておられる2本の映画は、
「田中麗奈を起用した」
という"実績"が欲しかった人達の顕示欲みたいなものが見え隠れしてましたね。
そんな"どーでもいいもの"に流されずに、今後も頑張って欲しいと思っています。
最近、また「がんばっしょい」を見たんです。
よかったなあ。
麗奈は、きっと、いいおばあさん役まで、できるような歳の取り方をして欲しいなあ。