
『ゴッドファーザー』3部作などの巨匠フランシス・F・コッポラが、幻想文学の鬼才ミルチャ・エリアーデの原作を映画化。人生をやり直す機会が与えられた老齢の言語学者が、切なくもまか不思議な魂の旅を繰り広げる。主演は『神に選ばれし無敵の男』のティム・ロス。共演は『コントロール』などで注目を集めるアレクサンドラ・マリア・ラーラ。正式な新作発表は10年ぶりとなるコッポラの新境地ともいうべき作品世界が楽しめる。[もっと詳しく]
私が胡蝶なのか、胡蝶が私なのか。
フランシス・フォード・コッポラ監督の『レイン・メーカー』から、実に10年ぶりの映画作品である。
この10年間、コッポラは『ゴッドファーザー三部作』や『地獄の黙示録』で大ヒットを飛ばしたにもかかわらず、いやそこで、映画制作に関して、たぶんもっとも高い水域で、ハリウッドの体質と対立したからこそといったほうがいいかもしれないが、「もうおどおどして資金獲得のために頭を下げたりするのは辟易だ」といった趣旨の発言をしている。
娘のソフィア・コッポラや息子のローマン・コッポラ、親戚筋にあたるニコラス・ケイジ一族など、華麗なるコッポラファミリーの映画界における話題は、十分見聞きするのだが、フランシス・フォード・コッポラその人は、主としてビジネス=カリフォルニアワインの製造・販売を仕掛け、充分な成功を遂げてきたのだ。
しかし、コッポラが映画制作に興味をなくしたわけではもちろんない。
「自分には、ゴダールのような映画だって撮れるんだ」という強烈な自負は、失わずにいたのである。
そして、コッポラは知人の助言もあり、ミルチャ・エリアーデの『若さなき若さ』という幻想小説と出会い、ワインで稼いだ自費を投入して、ついにインディペンダントな「創りたい映画」に着手したのである。
コッポラは70歳をすでに超えている。

邦訳のタイトルでは『コッポラの胡蝶の夢』となっている。
原題はエリアーデの原作のタイトルそのままに『YOUTH WITHOUT YOUTH(若さなき若さ)』だ。
もちろん原作にも、荘子の思想がきわめて象徴的に説話されているという「胡蝶の夢」は引用されている。
いつのことだったか、私はうたた寝の夢の中で胡蝶となった。ひらひ
らと翅にまかせて大気の中を舞いあるくことの楽しさ。私は私が私であ
ることも忘れてその楽しみに耽った。やがてふと目が覚める。私はやっ
ぱり現身の私だ。
だが――この現身の私が夢の中であの胡蝶になったのだろうか、それ
ともあのひらひらと楽しげに舞いあるいていた胡蝶が夢の中で私という
人間になっているのだろうか。私が胡蝶なのか、胡蝶が私なのか。夢が
現実なのか、現実が夢なのか……。
(「荘子」斉物篇)
タオイズムの始祖でもある荘子の、僕たちにも親しい説話である。
荘子はいつも夢を見ている。いや、夢と現実の間(あわい)のうつつに遊んでいる。
そこには言語もなく、自我的主体もなく、「戯夢人生」とでもいいたくなるような曖昧な領域がある。
無為自然、一切斉同・・・僕たちは荘子にふれると、いつももうどうでもいいや、悠久ということがあるなら、夢を見ているような状態に同致さえできればいい、夢の中では、なにものにもなれるし、なにものでもない、夢を見ているのは私であるだろうし、そうでないかもしれない、それもまたどうでもいいことかもしれないなどと、たゆたうような気持ちになってくる。
禅問答のようだが、そうではない。明確な道理など持たない。ただただ、意識は無言語的な始原に限りなく遡行している・・・。

ミルチャ・エリアーデは、大学時代にとても影響を受けた哲学者であり、宗教学者であり、幻想小説家である。
せりか書房から『太陽と天空神』『豊穣と再生』『聖なる空間と時間』という哲学3部作が刊行されている。
エリアーデはルーマニア生まれだが、ルーマニア語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、英語、ヘブライ語、ペルシヤ語、サンスクリット語の8つの言語を自在に操ったという。
俗⇔聖の往還構造や、宇宙論的な神話の意味や、聖なる場所という概念を、僕もまたいちばんエリアーデから得たような気がする。
宇宙木や生命木、あるいは聖なる水の流れがなにを象徴しているのか、エリアーデは繰り返しそのイメージを展開していく。
西洋的なユートピア、アルカディア、桃源郷といった幻想の場所に、どんなシンボルやイコンが見出されるのか、ということを学び、そのイメージで日本の浄土や彼岸や楽土という概念に置き換えてみたりした。
エリアーデはいつも、生と死と観念の起源を辿ろうとする。
そこには、永遠回帰の場所があり、僕たちはどこかでその場所にノスタルジックな感情を持つことになる。
コッポラにとっても、エリアーデの提示する場所の概念、言語や意識つまりは人間というものの起源の探求に、深くインスパイアされるものがあったのだろう。

1930年代、言語学者のドミニク・マティ(ティム・ロス)は言語と意識の起源を探究しているが、仕事に行き詰まりを感じている。70歳も過ぎて身体も覚束ない。若き日に恋し、去られたラウラ(アレクサンドラ・マリア・ララ)を忘れることが出来ない。
復活祭の夜、ピアトラネアムツという小さな町を離れ、ブカレスト北駅に足を向ける。もうここで、自殺をしてしまおう・・・。
そんなドミニクが落雷に打たれる。病院に運ばれ、スタンチェレス教授(ブルーノ・ガンツ)が治療にあたるが、もう生きているのも不思議なくらいだ。
しかし、落雷のせいか、ドミニクは若き肉体を得て、頭脳もずば抜けた能力を持つことになる。
どうみても30歳から40歳の壮年に見え、頑丈な歯が生え変わり、多くの言語を自在に操れるようになるばかりか、超人的な能力も身につけるようになる。時空を超越するもうひとりの分身を持つようにもなる。
時代は、ナチスがヨーロッパを侵略している時代。
ナチの科学者やライフ誌の記者を装うアメリカのエージェントたちが、ドミニクを争奪しようとする。
ドミニクは、スタンチェレス教授に偽装パスポートを依頼し、スイス・ジュネーブに逃避をする。
その地で、ドミニクはラウラに生き写しのヴェロニカ(ラウラと二役)という若い快活な女性にめぐり合うことになるのだが・・・。

言語の起源を遡ろうとするドミニクが、冒頭のほうでこんなモノローグを吐いている。
「東洋の言語を探求しようとしたら、チベット語、サンスクリット語、中国語、日本語の四つは必須だ」。
しかし、同じく雷に打たれ、千数百年前のチベットの聖なる洞窟の中で写経する修道尼が転生したヴェロニカによって、それどころではない言葉の始原に旅をすることになる。
サンスクリット語からバビロニア語に、そして、古代エジプト語からたぶん人類の祖語段階に・・・。
そのたびに、ヴェロニカは前世がそうであったかのように、古代の人格が何人も転位することになり、25歳の若き女性であったが、いつしか急速に更年期のように肉体が衰える。

永遠に回帰するものはどこにあるのか?
ドミニクは突然変異のミュータントなのか?
時を超え、未来が見通せるのか?
徐福伝説のように不老不死を手に入れたのか?
ミルチャ・エリアーデは、ドミニクに残酷な試練を与える。
ドミニクは、はたして現実に生きていたのか、それともうたかたの夢を見ていたのか。
26歳から101歳まで、ドミニク役のティム・ロスは見事に演じているのだが、ラストシーンでこの作品は、冒頭のブカレスト北駅のカフェのシーンと円環することになる。
真っ赤な野ばらが一挙に老衰して孤独に死に行くドミニクの手に握られている。

たぶん、ゴダールの映画を、わかったような気になって、何年も置いて、またその年齢で見直して新たな発見をしてしまうように、この『コッポラの胡蝶の夢』という作品は、現実に見直すかどうかは別にして、何度も何度も反芻するように、コッポラがイコンのように映像に刻み付けたシンボルやイメージを、瞼に再現することになるだろうという予感がする。













こちらはお返しするばかりですが、、、
この作品、けっこう見応えあって好きです。
コッポラの夢物語とも言われてますが、ティムロスも良かったです。
ティム・ロスは、以外に背が低いんですね。
ララ嬢のほうが、背丈がありましたね(笑)
ホテルのシーンや舞踏会のシーンなどでは、「ゴッドファーザー」風の重厚さを感じましたね。
そ、そうですか。
ぼんくらな僕でも、本作には東洋的な輪廻思想と、ニーチェの超人/永劫回帰の思想が底流にあるくらいは解りましたが、他にも色々な要素があってなかなか難渋でした。
本作はゴダールとは大分違うような・・・
ゴダールは作り方が解りにくいけど、内容はそうでもない。
本作は内容は難解だけれど、作り方はそうでもない。
僕はそんな気がしているんですが。
つまり、本作の方がゴダールの諸作より親しみやすい。ということです。
ああ、ゴダールはそうかもしれませんね。
ちょっと、blogではないんですけどね、ゴダールについてのメモを3回ほど書き始めて、挫折しちゃってるんで(笑)