原子力エネルギー問題に関する情報

杜撰で不経済極まりない原子力政策が、生存権を脅かし環境を汚染し続けていても、原発推進派の議員を選挙で選びますか?

東電の社内政治と経産省と天下り

2011年04月10日 | 原子力ムラ・天下り
まず最初に、「脱原発・東電株主運動」があることがわかった。
東電の国有化の話も出ているが、原発推進の政治が続く以上、日本全国の電力会社でこのような株主運動によって脱原発に向かわせるのも一つの可能性だと思う。

さて、これまで当ブログでももう一つのブログでも、ドイツに比べて日本のメディアのお粗末さをたびたび問題視してきたが、珍しく欧州並みの分析記事があったので紹介する。地方主権の欧州では、こういう記事が地方の日刊紙にも有力週刊誌にもいつも掲載されている。通信社のコピー記事が目立つ日本の全国紙や地方紙と大きく異なる点だ。こうした豊富な情報により国民の知る権利が保障されているため、欧州(といっても国によって多少の落差はあるが)では日本に比べてはるかに民主主義が根付いているといえる。

以下の二つのような記事によって次第に問題があぶりだされてきても、いったいこれから誰がどうやってこのような東電、政府、経産省を改革できるのかが、更に大きな問題だ。


原発事故が浮き彫りにした東電の権力構造  官邸・経産省との連携、十分に機能せず
日本経済新聞 2011/4/9 20:15

 4月7日、体調不良で入院していた東京電力の清水正孝社長が復帰した。しかし社内外では、社長不在の間に陣頭指揮を執っていた勝俣恒久会 長が引き続き、事態収拾までリーダーシップを振るうとの見方が支配的だ。東電の社内政治を考えると、「指揮命令系統が1つになり動きやすい」(電力関係 者)からだ。福島第1原発の事故処理でのもたつきが招いた危機は、皮肉にも同社の特殊な権力構図を浮き彫りにしている。

 清水氏の08年の社長就任は東電の歴史から見て二つの点で異例だった。ひとつは出身大学。同氏は慶応大卒で、47年ぶりの東大以外の大学出 身者だった。ふたつ目は東電の主流である企画、総務ではなく、資材部門の出身だったこと。明朗で人当たりの良い清水氏の業界内での評判は決して悪くなかっ た。原発などオールジャパンのインフラ輸出を側面支援するため、東電として海外の電力事業に積極的に進出する新機軸を打ち出そうとしていた。
 しかし、非主流部門の出身であるがゆえ、同社長を支える社内基盤の弱さや政官界との人脈不足を指摘する声はついてまわった。今回の原発事故の初期段階で東電と官邸、経済産業省との連携が十分に機能しなかった一因は、ここにあった可能性がある。

 東電の歴代社長は1971年就任の水野久男氏から荒木浩氏まで4代にわたって東大卒、総務部門出身。電力自由化にともない、霞が関(経済産業省)との関係を重視するため、2000年以降は南直哉氏、勝俣氏と企画部門が続けて社長を輩出した。
 東電の総務部門は代々、政界人脈を引き継ぎ、企画部門は霞が関とのパイプ役を担うことで政官財のトライアングルを築き上げ、時には「財界の共有財産」として活用された。
 09年秋、政権を奪取した民主党は自民党寄りだった経団連との対話を拒絶し、財界は政界との意思疎通の手段を失う非常事態に陥った。
 打開に乗り出したのは小沢一郎幹事長とのパイプの太い荒木氏だった。平岩外四・元会長以降、脈々と引き継いできた東電の貴重な政界人脈への 財界の期待は大きかった。10年秋、原発輸出を推進する官民一体組織「国際原子力開発」を設立する際には、慎重姿勢を崩さない他電力を勝俣会長が説得して 回り、「原発日の丸連合」にこぎつけたとされている。

総務・企画部門は政治家や官僚との関係構築の具体的な方法や距離感の取り方など暗黙知を直伝する過程を通じ、忠誠心の強い部下を育成。その集団は部門トップの意思を忠実に具現化する装置として機能する。だが資材畑の清水氏にはこうした目に見えない後ろ盾がなかった。
 東電が発信する原発関連情報の大半は経営トップによるものではなく、原発部門を率いる武藤栄副社長によるものだ。情報のわかりにくさや発信するタイミングの違和感は、電力会社の原子力部門が持つ特有のカルチャーに起因するとの指摘がある。
 電力会社において、原発部門は長らく「サンクチュアリ(聖域)」とされてきた。「君がどんなに優秀でも社長にはなれないよ」。原子力技術者 として電力に入社した新入社員はまず、こうすり込まれるという。原発は時に不測の事故が発生し、厳しく責任追及される。トップが原子力出身では「いくつ首 があっても足りない」(電力関係者)からだ。

東電の過去40年の主な歴史 歴代社長
1971 東電初の原発、福島第1原発1号機が運転開始 水野久男(総務、71~76)
1974 第1次オイルショックで大幅値上げ 政治献金を取りやめ
1980 第2次オイルショックによる燃料費上昇で79年度に赤字転落 平岩外四(総務、76~84)
1982 福島第2原発1号機が運転開始
1985 柏崎刈羽原発1号機が運転開始
1990 平岩外四氏が経団連会長就任(~94) 那須翔(総務、84~93)
1995 電力自由化で発電事業者(IPP)の電力卸売り解禁
1997 福島、新潟県にプルサーマル計画を表明。柏崎刈羽原発7号機が稼働し、原発総出力が現在の1730万キロワットに 荒木浩(総務、93~99)
2000 電力自由化で特定規模電気事業者(PPS)の電力小売り解禁
2002 東電の原発データ改ざん事件発覚。南社長ら辞任 南直哉(企画、99~2002)
総合資源エネルギー調査会で「発送電一貫体制存続」答申案
2007 発電所データ改ざん事件発覚。新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原発全面停止 勝俣恒久(企画、02~08)
夏場に電力不足で大口需要家に送電抑制実施
2008 28年ぶりに最終赤字転落(07年度) 清水正孝(資材、08~)
2010 原発輸出推進する「国際原子力開発」を東電主導で設立
2011 東日本大震災で福島第1原発が被災し、原発危機

半面、原発部門は電力会社の稼ぎ頭でもある。償 却が進んだ古い原発ほど利益を生む。会社への貢献度が高いのに人事で厚遇されない原子力部門は、同じ会社の他部門よりも他社の原発部門などと交流を密に し、業界横断的な「原子力村」をつくりあげ、他部門は口出しできない雰囲気ができあがっていった。
 ところが、2002年の東電原発データ改ざん事件によってその結束が破られる。東電は「聖域」を壊すため、原子力と他部門との間で頻繁な配置転換を実施した。原子力技術者が真っ赤なジャンパーを着て「オール電化」の営業に走る姿も見られた。
 だが、「専門家集団という自負心が簡単に消えるものではない」(電力大手幹部)。何度かの制度改革を経て、形としては他部門と同じように統制されているかに見えるが、電力トップが原子力部門を完全掌握できているのかどうかは業界内でも懐疑的な声が多い。

 東電が長年かけて築いてきた政官財のトライアングルもこの局面ではさすがに役立たないようだ。政権内部からは、東電を発電部門と送電部門に 分割する「発送電分離案」が浮上してきた。東電にとって会社分割論議は初めてではない。電力完全自由化論議が正念場を迎えた02年にも直面したことがあ る。
 当時、「反電力」といわれた村田成二・通産省事務次官は電力会社の権力の源泉を削ぐために、発送電分離を軸とした完全自由化を主導した。一 方、東電の南直哉社長(当時)は電力自由化された米カリフォルニア州で01年に発生した大規模停電を引き合いに出し、「安定供給には発送電一体が不可欠」 と強硬に抵抗。そのさなかに発生した原発データ改ざん事件なども絡んだ暗闘の結果、東電は南社長ら4人の歴代トップの辞任と引き換えにするかたちで、発送 電分離をかろうじて食い止めた。
 福島第1原発事故を収拾した後も膨大な賠償を背負う東電には、当時のように正面から抵抗する余力はないだろう。仮に発送電分離を免れたとしても、事実上地域独占状態の電力10社体制がそのまま存続するかどうかは疑問だ。
 リスクが顕在化した原子力事業の分離案が浮上する可能性もある。総務、企画、原子力の3部門が微妙な濃度で混じり合った電力会社特有の権力構造は、すでに過去の遺物となりつつあるのかもしれない。
(産業部 江村亮一)

2011年4月10日(日)「しんぶん赤旗」
東電副社長はエネ庁幹部の指定席 塩川議員調べ 天下り禁止が必要

 東日本大震災にともなう東京電力福島第1原発の未曽有の事故で、原発の安全のための規制機関を原発推進の官庁から切り離すことの重要性が浮き彫りになっています。こうしたなか、日本共産党の塩川鉄也衆院議員の調べで、東電副社長が原発推進官庁である経済産業省(旧通商産業省)幹部の「天下り」指定席になっていることがわかりました。

 東電には、ことし1月1日付で、前資源エネルギー庁長官の石田徹氏が顧問として「天下り」したばかり。同氏の前に東電に天下りした旧通産省官僚は4人にのぼり、1962年からほぼ切れ目なく、東電に役員として在籍していたことになります。(表は原文参照)

 1957年6月、通産事務次官を退官した石原武夫氏は、古河電工(取締役、常務)を経て、62年5月に東電取締役に就任し、常務、副社長、常任監査役を歴任しました。

 資源エネルギー庁長官、通産審議官などを務めた増田實氏は、東京銀行顧問を経て、80年11月に東電顧問に就任。常務、副社長を務めました。

 資源エネルギー庁次長、経企庁審議官などを務めた川崎弘氏は、日本輸出入銀行理事を経て、90年12月に東電顧問に就任。その後、常務、副社長となりました。

 同じく、資源エネルギー庁次長、通産省基礎産業局長、日本輸出入銀行理事などを歴任した白川進氏も、増田、川崎両氏と同様、99年10月、顧問として入社後、副社長まで務めました。

 天下りは、2007年の国家公務員法改悪までは、「原則禁止」でしたが、禁止期間は2年間だけ。石田氏以前の天下り官僚が、いずれも退官後、銀行顧問など他の企業ですごした後に天下りしているように「抜け道」がありました。

 国公法改悪で、「原則禁止」から「あっせん禁止」となりました。昨年8月に経産省を退職した石田氏は、わずか4カ月後の東電顧問就任。民主党・菅直人内閣は、官庁側の「あっせん」がなかったから「天下り」に該当しないといいますが、天下りそのものです。

 塩川議員は、「『指定席』ともいえる経産省と電力会社との癒着が、今回の福島原発事故の背景にあったことは明らか。今回の事故を踏まえれば、『あっせん』があったかどうかではなく、高級官僚が所管企業に再就職すること自体が天下りであり、明確に禁止するべきです」と話しています。


最後に、天下り関連で河野太郎議員のメルマガを転載する。
こういう問題を不甲斐ないメディアに代わって発信する国会議員がいることはありがたいが、河野議員は自民党が与党のときから原発政策に関して孤軍奮闘しており、政権内にいても何もできなかった。彼のような議員が、欧州の社民党や緑の党のように政権交代できる脱原発政党に結集してくれねば、脱原発を望む有権者は政党の選びようがない。


......ごまめの歯ぎしり メールマガジン版......
  衆議院議員 河野太郎の国会日記 2011年4月10日号
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河野太郎のツィッターはこちらから! @konotarogomame

需給調整契約の約款が経産省電力需給流通政策室から提出された。

東京電力から契約約款を取り寄せていたので時間がかかったそうだ
が、経産省の電力需給流通政策室は、需給調整契約のことを知らず
に、無計画停電をやらせたのだろうか。

緊急時調整契約B約款
対象 事前の連絡により、3時間以上継続して契約電力の20%以
上または1000kW以上の調整をできる顧客。

期間 4月1日から3月31日

契約調整電力 事前の依頼により調整できる付加設備を基準に協議
により決める。

調整依頼 調整の3時間前までまたは1時間前までに依頼をする。

調整時間 1回につき原則として3時間。

契約調整回数 あらかじめ協議の上、期間ごとに契約調整回数を決
める。

料金 料金からこの契約をすることによって割り引かれる予約割引
額、及び実施された場合に割り引かれる実施割引額の合計を差し引
いたものとする。

この他に、瞬時に遮断可能な負荷設備により原則として10000
kW以上を1時間以上にわたり調整する瞬時調整電力契約、6月1
日から9月30日までの期間に10%以上または500kW以上の
調整をする緊急時調整契約A、あるいは夏季休日契約、夏季操業調
整契約、午後1時から午後4時までの間に調整をするピーク時間調
整契約などの契約形態もある。

こうした契約があるにもかかわらず、全ての消費者に一律の無計画
停電を強いたり、法令で全ての消費者に電力の使用抑制を強制しよ
うというやり方は明らかにおかしい。

経産大臣、あるいは節電大臣は、なぜ、このような需給調整契約を
使わないのか、また、夏に向けて、このような需給調整契約を拡大
していかないのかをきちんと説明するべきだ。

経産省と東電の天下りをはさんだ癒着といわれてもしかたがないこ
とが起きている。
【転載ここまで】