日々徒然なるままに

日々感じたことを書いていきます、よろしくお願いします

龍 は 流

2017-12-02 21:17:02 | 神様等について
こんばんは。
日中はお天気もよく割りに暖かかったですけれど、朝晩は結構冷えてきております。
先ほど歩いてきましたが、大きな月が昇ってきておりました。
この四日はスーパームーンだとか。
確かに出たばかりで大きく見えるのもあるのでしょうが、それでも結構な大きさに思えました。
満月だとより大きく見えるのでしょうね。
そんな日の朝はこんな風でした。
朝日がちょうど差して来る時に撮れたようで、美しく感じられましたよ。

                                    



                                    


                                                     
                                    




                                     



昨日、新しい?龍が傍らに来たと話しておりましたけれど、いつもいつもその存在を感じておるわけではありません。
感じ取れる方ならそうなのかもしれませんけれど、案外鈍い;自分はそこまででは無いようでして。
普通に生活している分には、殆ど考えてもいないのが実のところです;。
まぁ言ってしまえばペットではなく(当然;)、あくまでも神の遣いなのでしょうから必要な時にその存在を感じ取れればよいのだろうと
勝手に解釈しております。
そんな龍のことについてなのか、大神より言葉を受けましたので綴ってみたいと思います。
これも昨日申しましたように三十日、また一日とお伺い致したことを書いて参ります。
というよりも書いておかないと段々、たまってくる感じですので;。


 
                                    



まずは三十日の事から。


 祝詞奏上後

      〝   まずは大儀であった  

          その方 人と多く交われ 交わることにより 多くが 流れる

          『龍』  即ち  『流』 であるぞ   〟
                                 

 あ、そうかと思う りゅう は りゅう
 流れるからこそ 龍
 カタカムナではないけれど 確かにそうだ
 龍だからこそ エネルギーが廻る
 流れるということか
 なんだか 目から 鱗

  
      〝   そなた 既に 多くのこと出来るように なっておる

          多くの人と より多く接し (輪を)拡げて参れ  〟


 その後 目を閉じていても 非常に明るい
 穏やかに下から上へエネルギーが通る感じ
 有難い 感謝の念
 既に自分がそうなっているよう波動を上げること
 心配を心に抱かぬこと

 

このように頭に入って来た言葉で、確かに、まさに龍は流、同じ「りゅう」という言葉、流れるということなのではと思いつきました。
つまり龍とは、これもよく言われているようにエネルギーの流れのことなのではないのか、と。
何を今更、ですけれど、エネルギーはたとえ勢いがあったとしても一つところへ留まっていてはその行き場を失い、かえって悪くなると
聞きます。
だからこそ、流さねばならないとも。
これはお金でも同様なことを言われておりますよね。
大事だからとそれを掴んで離さなければお金そのもののエネルギーも廻らないので滞ってしまい、余計お金廻りも悪くなるとも。
(尤も自分の場合、廻すそのお金もあやしいところではありますけれど;)
全ては流すこと、そういうことなのでしょうね。
お金に例えられるお水も然り。
新鮮なお水も長い間その場所へずっと置いておけば、よほどでない限りやはり流れが無い分、良くなくなるのかもしれません。
じっとしておれば、そこではエネルギーが発生しませんので動きようがないということにもなるのでしょう。
自分達でも寒い時、じっとしていればそれこそ寒いばかりですけれど身体を動かすことで中から温もってきますね。
それを自分だけではなく、より大勢の方と身体を動かすことをすれば、それだけでエネルギーも発生し、ともすればお互いのそのエネルギーの
交換ということになるのでしょうね。
なんだ、そういうことか、とこれもまたこうして綴りながら、これまたいつもの如く一人合点しておるところです;。
それでも、『龍』は『流』 これには本当に目から鱗な思いでした。
龍が坐しますとされておる神社等はそのようなエネルギーが流れる場所でもある、だから人間がそこへ参ると何かしら目に見えないパワーを
頂戴するということなのかもしれませんね。
風水的にそのような場所を古から人々は感じ取り、そのような場所へ社寺を設けたのでしょう。
このことは同じように以前にも述べた覚えがありますけれど。
そのような場所で感覚の鋭い方が写真を撮ると、そこへあたかも龍のような光が映り込むというのはこういうことなのかもしれない、そうも
感じます。 
いやぁ、『龍』は『流』 なんだか凄いなとますます感じておる自分です;。

大神からの、人と多く交われはこれも同じ事を繰り返し伝えられます。
いつもそうですけれど、おんなじことを聞かせとかないとこいつ(自分のことですよ;)はいくら言っても聞かないからな、と思われているの
でしょう。
聞くほうも、これまたどうしてか、これ前も聞いたとは思わずにその度、ああそうなんだと感じておるわけです。
どっちもどっち、ということでしょうか。
それでも繰り返して言われることにより自分の中へじんわりと浸透していくように感じます。
お、浸透、これも神道と同じ言葉、しんとう。
どちらも申すようにまさにじんわりと「しんとう」していく感じですね。(自分で書いてどうする;)



                                   


続いて一日の言葉。

 祝詞奏上後 大神の言葉。

      〝   大儀であった(祭のこと)

          そなたに遣わしし 白龍 これより後 そなたと共に 動け(働け)

          そなたが致すこと 人々に 気づきを 与えること それが務めぞ

          宙(くう)は 一つ そなたらは その一部でもある(宇宙が見える)

          不安は 安からず である そう思うことが それに繋がる
 
          安心は 安らかなる心 その心で おるべし  〟


       
      〝   (祭で見た 感じた)神の姿 形 感じ方は 人それぞれである
  
          そのように感じておるなら そうであろう
 
          いずれにしても 数多の神々(存在)が来ておったことに 違いはない  〟


      〝   月読尊(つくよみのみこと) 何故そなたに 姿を現していたか

          それは 闇の大事さを教えるため

          月の光の大事さを 伝えるためである

          今 人間は 夜の闇をも 人々の光で 照らし続けておる

          本来は 無かったことである

          元々 月の光で照らし出されていた世界じゃ
      
          植物も 太陽の光だけではなく 

          柔らかい月の光を浴びて 育つようになっておった

          また 人間も生き物も暗闇の中では 休めよということ
 
          その大切さを 知らせるために 闇はある

          未だ人間は 食べて 寝て 生活をしておる

          休まねば ならない

          それを知らせる為に 闇は 存在しておる

          しかし今は その闇をも自らの作り出した光で 明るくしてしまっておる

          これでは 休めぬ

          殊に 植物は 人口の光を浴びせられておることにより かえって弱ってしまう

          休む時には しっかり休ませよ

          人間の勝手だけで 照らすようなことは あってはならぬ  〟


        
      〝   また月読(尊)は この暗い部分こそが これから大事になってくることを

          知らせておる
    
          目に見えぬ部分の働きが大事である しかと心せよ  〟
 
 雲に浮かぶキリストの姿 チラッと出てくる
       



自分でノートに書いておりましたのをこうして再度此方へ書き写しておるわけですけれど、結構同じことを繰り返しいわれているようですね。
特に月読尊のこと、またそれに関する月の明かり、あるいは暗闇等、昨日もお伝えしたように大極図のあの黒い部分が大事であるといわれた
事と同じかと思います。
明るいだけでは植物は育たない、また月の淡い光も併せ持って育っていくということなのでしょうか。
同じように取り上げられておりますけれど、それぞれの効用というものがあるということなのかもしれませんね。

不安と安心という言葉、それぞれまるで文字の読み下し文?のように言われておりますけれど、言われてみれば、これも然りだなと感じること
ではあります。
安らかでないから不安なのだし、安らかな心でいるからこそ安心、言葉そのままですけれど今一度意味を考えてみることでその言葉の響きが
わかるように感じられます。
そう思うと、日々やはり安心しておりたいものだな、と思うところですね。

祭の際での神の感じ方、受け取り方、これは確かに人それぞれですね。
自分のように賑やかしい神々を感じた者もおれば、なんだかわからないけれど有難さを覚えたという方もおられるでしょう。
目に見えぬ存在ですので、その感じ方はそれぞれあって当然かと思います。
あの場で何かを感じ取った、そのことが大事なのではと、これもまた思っております。



                                   

                                     



                                    




                                    



                                    


ようやっと書き留めておりました言葉、大神のみくじが追いついてきた感じです;。
今日のは無いのかといわれそうですけれど、すみません、今日は御座いません;。
午前中、えっちらおっちら下界まで買出し作業に行っておりましたので、神様のお言葉、みくじを下ろすこともおやすみとさせて頂きました。
また明日は再開致したいと思います。
                                    



                                    
                                    

自分でも読み返して、長いよなぁ、長ったらしいよなぁ、と感じております当ブログで御座います;。
そのようなブログ、相も変わらずのお付き合い頂きますこと、いつも本当に有難うございます。
感謝申し上げます。

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