黄昏ってkimera25

kimera25です。転戦してすみません。2014/05/25にここから黄昏れないで出発です。

Abeが目指しているのは先制攻撃

2014-06-01 16:24:30 | Abeの終焉
アクセスに深く感謝いたします。 カメラを持ち込めるほど 荷物の余裕もなく 毎日 雄大な富士を見ながら 二時間の通勤にがんばっております。 そのうち 余裕ができたら 雄大な かつ 雪解けの富士の写真を出します。 いましばらく 不都合おかけいたします。 ******************************************* さて Abeが小泉内閣の時 北朝鮮のミサイル発射を現実にして 先制攻撃を口にしました。 10年一日何も変わっていません。 集団的自衛権 これはアメリカのためです。 例えば フィリピンの船舶に 邦人が乗っていても フィリピンとは防衛協定がありませんので 彼のこくには迷惑です。 「日本の行為は迷惑」と公式見解を出さざるをえません。 集団的自衛権の告解などお笑いものなどです。 Abeの狙いは自己防衛における先聖攻撃です。 ロックオンされたら先制攻撃 対象は  北朝鮮のミサイルです。 ******************************************* あほです 海戦と空自しか想定してません。 そのに方向では中国にも初戦は勝てます。 が 尖閣上陸で対抗しても 本土攻撃を夢見ているのでしょうか? アホとしか言いようがありません。 ******************************** 若者がいないまま 戦争や徴兵でさらに国家による減少を あほのごとくあおってます。 不足した労働力は海外から? それでいいのですか 若者たちよ!!!! 最後まで読んでくれて ありがとう。

資料 2014/06/01 細野

2014-06-01 11:11:19 | Abeの終焉
2号機の危機、吉田氏から電話 細野氏証言、調書と符合

木村英昭 堀内京子

2014年6月1日08時30分

 福島第一原発の最前線で事故対応を指揮した吉田昌郎所長との連絡役を務めた細野豪志氏。その証言は「吉田調書」に残る吉田氏の言葉と重なり合う。


■携帯へ2度の電話

 細野氏が吉田氏と携帯で連絡をとり始めたのは2011年3月12日に第一原発1号機が爆発してからだ。

 細野証言によると、第一原発からの撤退問題が浮上する14日夜、細野氏は吉田氏から2本の電話を受けた。午後7~8時ごろとみられる。

 「吉田1F所長」。細野氏の携帯に表示が出た。吉田氏からかかってきたのは初めてで、「ことの重さを感じた」という。官邸5階の首相応接室を外して電話に出た。

 「吉田です」。その声は深刻そうな響きを伴っていたが、ゆっくりと落ち着いていた。電話の向こうはざわざわしていた。

 「2号機に水が入りません。原因が分かりません」

 その切羽詰まった言葉に細野氏は「自分たちは頑張ってきたけど、ダメかもしれないというニュアンスと受け止めた」という。

 この場面は吉田調書にもある。吉田氏が細野氏に「炉心が溶けてチャイナシンドロームになる」「水が入るか入らないか賭けるしかないですけども、やります。ただ、関係ない人は退避させる必要があると私は考えています」「1号、3号と水がなくなる。同じようなプラントが三つでき、すさまじい惨事ですよ」と伝えたという記録だ。

 細野氏の証言が一段落した時点で、取材班は吉田調書の該当部分を示し、自身の記憶と合致するかどうかを尋ねた。言葉遣いは多少違うが、細野氏は「違和感はない」と述べた。

 細野氏は吉田氏からの電話を切り、首相執務室にいた菅直人首相に対し、2号機に水が入らずに厳しい状況にあると伝えた。菅氏は長く沈黙していたという。

 10分ほどたって細野氏の携帯が再び鳴った。吉田氏からだった。ここは吉田調書にない場面だ。

 吉田氏は「何とか水が入った。頑張れます」と言った。細野氏はその言葉を菅首相や枝野幸男官房長官に伝えた。だが、2号機原子炉の圧力は高いままで、翌日の朝を迎えた。


■待機命令を記憶

 15日午前5時35分、細野氏は菅首相と一緒に東電本店2階の対策本部に乗り込んだ。菅首相は第一原発からの撤退に傾く東電幹部を「撤退したら東電は必ず潰れる」と激しく叱責(しっせき)した。

 細野氏は菅氏とともに同じ階の小部屋に移った。そこにはテレビ会議の映像が流れ、吉田氏がいる現場の様子を知ることができた。

 午前6時42分。吉田氏が発言する様子が映った。前夜に想定した福島第二への撤退ではなく、すぐに現場に戻れる第一原発構内やその近くの場所での待機を命令した瞬間だ。

 東電がのちに開示したこの時の映像には音声がない。菅氏とともに画像を見つめる青い防災服姿の細野氏の様子が映っている。

 吉田氏はこの時を自分の調書でこう振り返っている。

 「本当は私、2F(福島第二)に行けと言っていないんですよ。福島第一の近辺で、所内にかかわらず線量が低いようなところに1回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんです」

 細野氏は吉田調書を見て「思い出しました。確かにそういうやりとりはあった」と語った。前夜に吉田氏から「頑張ります」という強い言葉を聞いていたため、「退避」という言葉遣いに少し引っかかったが、「吉田さんが言っているから現場が回る(対応できる)ということだろう」と受け止めたという。=肩書は当時(木村英昭)

     ◇

 朝日新聞は独自に入手した「吉田調書」をもとに、原発事故の真実に迫るため、当時責任ある立場にあった人々へのインタビュー取材を進めていきます。

■入院中の吉田氏「現場戻りたい」

 事故から1年が過ぎた12年4月、細野氏は入院中の吉田氏を見舞った。原発の安全研究機関を作り、吉田氏をトップに起用する腹案を抱いていたが、吉田氏は「現場のサポート役をしないといけない。絶対に戻りたい」と語り、福島第一原発への復帰に強い意欲を見せたという。

 吉田氏は「自分たちは当事者だからちゃんとやり切る。ただ、次の世代がどうなるかが大きな問題だ」と話し、30~40年かかる廃炉に向き合う人材確保を憂え、国に十分な対応を求めた。細野氏は退院後にゆっくり話し合うつもりだったが、吉田氏は13年7月に亡くなり実現しなかった。

 事故数日後、細野氏は最前線で事故収束作業にあたる人々を、船をチャーターして海上で休息させる案を伝えたところ、吉田氏は「そういう状況にない。我々の待遇を考えるなら被災者の方のことを考えてくれ」と答えたという。細野氏はインタビューの最後に「私は東電本店や官邸にいて現場を想像していたが、調書を読んで改めて本当にシビアだったと思う。吉田所長が伝えようとしたことを自分が全部受け止められたのかと考えてしまう」と語った。(堀内京子)

5月31日(土)のつぶやき

2014-06-01 01:53:07 | 日記

国立競技場:SAYONARA 思い出の聖火リレーで点火 - 毎日新聞 mainichi.jp/select/news/20… 確か坂井さんがオリンピックの点灯者と記憶しているが。メタボ森の利権で壊されていく神宮外苑。