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『唱歌・童謡120の真実』がまもなく発刊されます。

2017年02月03日 13時25分31秒 | 「大正・昭和初期研究」関連

 

 

 「やっと」と言うべきでしょう。2014年9月17日付けの当ブログでご報告した『唱歌・童謡100の真実』の増補、新版が、結局、2年以上の歳月を経てしまいましたが、まもなく発刊されます。下記の20曲を加えて、取り扱い曲は100曲から120曲へと膨らみましたので、48ページも増えて総ページ280ページの大作になりました。出版元のヤマハミュージックメディアさんの踏ん張り(?)で、定価1800円(税別)は据え置きです。

[01]「みどりのそよ風」

[02]「お誕生日の歌」

[03]「ろばのパン屋さん」

[04]「エンゼルはいつでも」

[05]「少年探偵団のうた」

[06]「ヤン坊ニン坊トン坊」

[07]「赤胴鈴之助」

[08]「月光仮面は誰でしょう」

[09]「ちょっときてママ」

[10]「鉄腕アトム」

[11]「ふしぎなポケット」

[12]「とんぼのめがね」

[13]「いぬのおまわりさん」

[14]「サッちゃん」

[15]「ちいさい秋みつけた」

[16]「アイスクリームのうた」

[17]「ドレミの歌」

[18]「手のひらを太陽に」

[19]「おもちゃのチャチャチャ」

[20]「おもいでのアルバム」

 

 もちろん、これまでの100曲については誤りを訂正し、また、いくつかの曲については、全面的に書き直しましたが、私としては、従来の4つの章の流れは完成されていると思っていましたので、途中に曲を加えるということを一切せずに、そのままにして置きたかったので、上記の20曲を、従来の年代順に並べた第1章から第4章までの後に、「付章/さまざまなメデイアと子どもの歌」として加えました。

 単に「20曲増やしました」というものではないのです。この「付章」の扉のリードとして、以下の文章を添えました。

       *

前章でも見てきたように、「戦後」とは、言うまでもなく、それまでの十数年に対する大きな反省の上に立った「民主化」の歩みであった。それは、メディアの多様化の促進にも現われている。多くの雑誌が創刊され、民間放送局が誕生し、それがさらに、ラジオからテレビへと広がっていった。様々のメディアが大正デモクラシーの時代以上の活気を取り戻したのだ。そうした戦後社会のダイナミックな変化を、「メディア」をキーワードにもう一度見直したのが本章である。前章と時代が重なり合っているように見えるかも知れないが、その内実は「戦中派」と「戦後派」の違いほどに大きい。

       

 そして、追加の20曲の後に以下の「追記」を入れました。

       *

■永遠につづく〈戦後〉のために――付章の「追記」として

 本書は、最初の構想では第一章から第四章までの一〇〇曲で完結していた。それが、さらに二〇曲について言及する「付章」を加えることになったのは、いったん書き終えた私の中に、ひとつの釈然としない思いが残っていたからでもあった。「付章」の扉でも触れているように、戦後の動きを追った第四章は、第三章に描かれているような戦時体制下で、抑圧され、耐えに耐えていた童謡の担い手たちの熱い想いが弾け飛んだといった趣が強くなっている。だが、ほんとうの「戦後」は、もっと違うところにあるはずだし、それは、昭和三〇年代に、まだ小学生だった「団塊の世代」のひとりである私自身の幼少期の音楽体験とも、微妙にずれていると感じていた。言わば、戦争を知らずに育った私たちの世代の、まっさらな「戦後」を見て行こうという、「戦後童謡」の再説が必要だったのかも知れない。

 こうして新たに選択された「付章」の二〇曲は私にとって、ほぼ「同時代の[コンテンポラリー]音楽」そのものである。少年時代の私自身が、それぞれの歌の中にいる。本文では触れなかったが、冒頭の「みどりのそよ風」は、妹の手を引いてしばしば行った江戸川の土手の記憶と重なり合っている。そのほかにも、いくつかの曲で、私自身の思い出が顔をのぞかせてしまっているが、ご寛容いただきたい。二〇曲の選に漏れた曲は数知れないが、私としてはこの時代の様々な特徴がコンパクトに収まるように工夫したつもりである。

 この二〇曲が生まれた背景の調査は、予想以上に困難だった。時代が現在に近接していることから、関係者が存命で、それぞれの事情によって必ずしも真実を語っていない、ということもあったが、戦後の混乱期、勃興期の放送界の混乱、レコード会社の担当者の世代交代による混乱など、様々の要因がある。だが、かろうじて見えてきた事柄から、「核」になる人物や集団が浮かび上がってきたのは、相も変わらず「歴史」という大きなドラマの神秘でもあった。

 調査した昭和二〇年代初頭から三〇年代半ば過ぎまでのわずか十五年間に、どれほど凝縮された時間が流れていたか。そのなかで、特定の人々が、それこそ八面六臂の大活躍をしていたことを、私は改めて確認した。お読みいただければわかることだが、このわずかの時間に、増子とし、長田暁二、そして、ろばの会に参加していたサトウハチロー、佐藤義美、中田喜直、大中恩らの面々の残した仕事は大きい。また、ラジオからは、これまでの「レコード童謡」にはない、まったく新しい発想の音楽が生まれ、黎明期のテレビからは、鬼才・三木鶏郎の工房に直接・間接に関わった若い才能が次々に巣立って行った。

 こうした、少年時代に私が口ずさんだ歌のひとつひとつが、先の戦争に突き進んでいったこの国の文化のあり方に対する反省の産物だったのだということに、いくつかについては、この歳になってやっと気づいたということを、私は告白しなければならない。昭和三〇年代の子どもたちのヒーローが皆、一様に「正義の味方」を標榜していたのは、理由のあることだった。「戦後」という言葉は、戦争が終わったままだからこそ、言われ続け、使われ続ける。私たちの時代が、永遠に「戦後」と呼ばれることを、誰もが望んでいるはずだ。

 なお、「付章」が今日に近接した時代だったこともあって、ここでは、ことさらに私の推論が多かったと思うが、本書全般について、それはいくつか言えることでもある。これらについて、推論は、あくまでも私の推論であって、出典を明示できるようなものではないことをお許しいただきたい。出典を明示して列記するばかりが研究ではないはずだ。たとえ「推論に過ぎない」と打ち捨てられても、最初に声を挙げなければならないほどに確信のある推論もあるということをご理解いただきたい。むしろ、こうして公刊された後、多くの方々からの異論や、私の誤りへの指摘が出てくることをお待ちしている。それが「同時代」の活発さであることを、私たちの「戦後」は、皆、理解したはずなのだ。

            * 

 私としては、この本は、これで完結したと考えています。今の私の心境としては、この後の時代については、私に続く世代の方が書くべきだと思っているのです。

 何はともあれ、昭和30年代に、この国で育っていった世代の方を始めとして、その世代に育てられたいわゆる「団塊ジュニア」の方々を中心に、多くの方に楽しんで読んでいただきたいと思っています。いわば「3丁目の夕日」の時代ですね。

 この時代のことに関しては、ネット上に、さまざまの誤情報、勘違い情報、ねつ造情報が飛び交っています。子ども時代の思い出の歌を語る時に、お読みいただける本となることを願っていますし、子ども時代のことを語る祖父母や両親の時代のことに、若いみなさんが少しでも関心を持ってくださることを願っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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N響の1960年世界一周公演ツアー記録のCD/カイルベルトとケルン放響/クレンペラーのドキュメンタリー

2017年02月01日 16時14分29秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)

 

半年ごとに、新譜CDの中から書いておきたいと思ったものを自由に採り上げて、詩誌『孔雀船』に掲載して、もう20年以上も経ちました。2011年までの執筆分は、私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)に収めましたが、本日は、最新の執筆分で、先週書き終えたばかりの昨年下半期分です。いつものように、詩誌主宰者のいつもながらのご好意で、このブログに先行掲載します。なお、当ブログのこのカテゴリー名称「新譜CD雑感」の部分をクリックすると、これまでのこの欄の全ての執筆分が順に読めます。

 

■伝説の「NHK交響楽団1960年海外公演」が初CD化

 日本のオーケストラによる初めての世界一周公演ツアーとして知られているN響の一九六〇年ツアーの演奏が、8枚のCDアルバムでキングインターナショナルから発売された。九月一日から十一月一日までの二ヶ月、三〇公演に及ぶものだから、もちろん「全貌」という訳ではないが、ツアー全体の様子がかなり俯瞰できるものになっている。同行の指揮者がまだ三〇歳にもならない若い岩城宏之と外山雄三、そして当時の常任指揮者ウィルヘルム・シュヒター。協奏曲のソリストとしてピアノが園田高弘、松浦豊明、そして、まだ一六歳だった中村紘子。チェロが一八歳の堤剛というメンバーだった。日本のオーケストラが本格的にクラシック音楽の演奏をするようになって、まだ数十年しか経っていない時期の記録として、このような体系的なリリースは貴重だ。このツアーのアンコール用に作曲された外山雄三『ラプソディー』が岩城、外山、シュヒターと、三人の指揮でそれぞれ収録されているのも凄い。岩城はワルシャワ、外山はローマ、シュヒターはロンドンでの公演。思わず、その三者三様を聴き比べてしまったが、改めて岩城宏之の自然で伸び伸びした音楽に感心した。だから、このアルバムの一枚目、冒頭に収められたモスクワ音楽院大ホールでの岩城が指揮するチャイコフスキー「交響曲第5番」が、まず、強く印象に残った。この曲はチャイコフスキーの交響曲の中で一番、日本人の演奏に向いていると思っているが、岩城のこの録音も、なかなかのもの。特に第二楽章のひた押しな音楽の運びには息をつかせない力がある。岩城が日本人として最初の『ベートーヴェン交響曲全集』録音を日本コロムビアにするのは、このツアーが終わって数年後、一九六七~八年のことだが、その下地が二ヵ月にわたって少しずつ固められて行く過程を聴く思いがするアルバムでもあった。岩城/N響には、一九六七年のチャイコフスキー『悲愴』のコロムビア録音もあるが、『悲愴』は、このツアーでも取り上げられていて、今回のアルバムではスイスでの公演が収録されている。『悲愴』は『第5番』以上に岩城にとって繰り返し取り上げられ録音も残されている曲目だが、その数ある岩城の『悲愴』の中で最も若い時の録音がこれだ。N響の『悲愴』には、一九五四年にカラヤンが指揮した貴重な録音もある。岩城の最後のN響定期でも『悲愴』が取り上げられていてCDが追悼盤として発売されているから、この曲で定点観測をしてみるのもおもしろいと思った。定点観測と言えば、もうひとつ、興味深いテーマがある。中村紘子のショパン『ピアノ協奏曲第一番』だ。彼女が「その曲のことを想っただけで、ふと胸がいっぱいになるような、自分の過ぎ去った日々のなかで何ものにもかえ難い価値をもって光り輝いているような、本当に特別な1曲」と表現したこの曲も、シュヒター指揮のロンドン公演で収録されている。これもまた、彼女の最初の録音である。中村は、この五年後にショパン・コンクールで同曲を弾き、その本選での伴奏者ロヴィッキ率いるワルシャワ・フィルと再会した一九七〇年の録音、更に、満を持しての一九八四年フィストラーリ指揮ロンドン響との録音がある。このツアーの記録からは、「怖いものなど何もない」といった活きのよいピアノが聞こえてくる。後年、「日本人が西洋音楽を演奏するとはどういう意味があるのか?」と自問自答する以前の中村紘子の演奏だ。私は、ふと、ケルンの放送局のライブラリーでみっちりと〈学習してしまった〉若杉弘が、そんな学習前に活き活きと日本人の感性をぶつけていたころの読響の演奏を思い出した。西洋音楽の学習は〈魔物〉なのだ。学習後の中村や岩城と、若杉の違いとは何だったのか? また、大きなテーマが生まれてしまった。


■カイルベルト/ケルン放送響の名演が4枚組で発売

 

 第二次大戦が終結して直後のヨーロッパで最もドイツ的だった指揮者というと、誰が思い浮かぶだろう。ひょっとすると、その筆頭に挙げられるのは、カイルベルトかも知れないと思うことがある。あとは、クナッパーツブッシュ、エーリッヒ・クライバーあたりだろうか? クレメンス・クラウス、ヨーゼフ・クリップス、カール・ベームといった名前は、ウィーン寄りだし、多くの人材がヒットラーの時代に国外へと散り散りになり、地歩を失っていたからでもある。そのカイルベルトの録音が、ケルン放送局(WDR)の正式なライセンスを得てWEITBLICKというレーベルから、4枚組CDアルバムで登場した。すべて最晩年一九六六年~六七年にケルン放送交響楽団を指揮したステレオ録音。東武ランドシステムから日本語解説付きで発売されている。ケルン放送局のライブラリーには多くの名演が保管されているが、今回のカイルベルトは特に音質もよいコンディションだ。曲目は、ベートーヴェン『田園』『コリオラン序曲』、ブラームス『第一』、マーラー『第四』、ドヴォルザーク『新世界』、モーツァルト『三三番』。ブラームスは、ベルリン・フィルとのテレフンケン盤をはるかに凌駕する名演で、この剛直で堂々とした音楽の歩みは貴重だ。『新世界』もそうだ。一方、この指揮者としてはめずらしいマーラーでは、この時代のマーラー解釈の限界も感じてしまったが、緩徐楽章の甘美な鳴らし方にはメンゲルベルクを思い出させるところもあって興味深い。モーツァルトがベートーヴェンのように聞こえるのも、いかにも、だ。どれも単に「往年の~」では済まされない、貴重な記録だと思う。


■クレンペラーのドキュメント映像は興味深いが――

 『クレンペラー・ドキュメンタリー』というDVD二枚、CD二枚に、かなりのページ数の書籍まで付いたセットが発売された。ドイツの「ART HAUS MUSIK」の制作だが、映像は日本語字幕が付いている。「ロング・ジャーニー~彼の生きた時代」と題されたドキュメントと、クレンペラーがニュー・フィルハーモニア管弦楽団を指揮した一九七一年のラスト・コンサートに向けてのリハーサルや楽団員たちの証言ドキュメント、いずれも秀逸の映像に、そのコンサート本番全体を収録しCDが書籍とともにパッケージされている。CDは、二〇〇八年に英テスタメントから既に発売されているものと同内容だが、今回は、独ARCHIPHONにより「丹念なリマスタリングが施されている」と表記されている。だが、このCDに大いに疑問がある。有名なEMIのフルトヴェングラー/ウィーン・フィルの「未完成」もそうだったが、最近、リマスタリングによって演奏時間一〇分ほどのものが三〇秒以上も短くなることが多いのは、どうしたものか? 私は、ひとつには、最近の経験の浅いエンジニアが、機械的にピッチを「正しく修正」してしまうからではないかと疑っている。往年の名ディレクターのレッグなどの証言では、オーケストラの調律ピッチは国によっても、時代によってもマチマチだったという。クレンペラーがそうしたピッチを要求していたとしても不思議ではない。いずれにしても、このCD、テスタメント盤では互いの音を聞き分けるかのような絶妙の間合いだった木管の受け渡しなどが、奇妙にてきぱきしている。これがクレンペラーの指揮した音楽とは、とても思えないのである。


 

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福原彰美の真価が眩しく光ったシューマン『ピアノ四重奏曲』――ハイフェッツ門下の巨匠たちとの共演で――

2016年10月11日 15時27分50秒 | エッセイ(クラシック音楽)

 

 

 一昨日、10月9日、連休中の日曜日に横浜・山手ゲーテ座ホールで行われた「第2回・樅楓舎コンサートシリーズ」を聴いた。ピアニストの福原彰美が参加するということで誘われてのもので、演奏者はヴァイオリンがピエール・アモイヤル、ヴィオラがポール・ローゼンタール、チェロがナサニエル・ローゼンという錚々たる顔ぶれに、若い福原が加わってのシューマンの傑作『ピアノ四重奏曲 変ホ長調 作品47』がメインのプログラム。これに先立って、ナサニエル・ローゼンがバッハ『無伴奏チェロ組曲 第3番』を、ポール・ローゼンタールがバッハ『無伴奏ヴァイオリン・パルティータ』から「シャコンヌ」と、ヘンデル(ハルヴォルセン編)『パッサカリア』を披露するというコンサートである。

 ご存知の方もあるかと思うが、アモイヤル、ローゼンタール、ローゼンの三人はいずれも南カリフォルニア大学で数年間、大ヴァイオリニストのヤッシャ・ハイフェッツに学んだということで、言わば同門の同窓会のようなくつろいだ雰囲気のなかで行われたコンサートに、孫娘が呼ばれて一緒に演奏するといった趣きがあった、と書くと誤解されてしまうだろうか? 久しぶりに、インティメートな暖かさが漂う幸福な音楽を味わう時間が、ゆったりと流れていった。

 しかし、誤解は解かねばならない。シューマンの四重奏曲は、すばらしい演奏だったが、何よりも私が驚嘆したのは、福原のピアノが、ともすれば四人がそれぞれの思いで熱っぽく語り出してしまうこの曲を、第1楽章冒頭から、しっかりとまとめ上げていたことだ。この曲ではピアノがことさらにペースメーカーであることは、古くはリヒテル盤やグールド盤でも証明されているが、アモイヤルと目を合わせて最初の一音を発する決然とした福原の表情が、すべてを物語っていた。数年前、福原からのメールでサンフランシスコ交響楽団の「室内楽シリーズ」にソリストとして参加したことを知った際に、現地の新聞のコンサート評が「小柄で可憐な女性としか見えなかったフクハラが、音楽が開始されると、大の男たちを自分のペースに引き付けてしまった」というような表現で好評価を与えていたと記憶しているが、そのことを思い出しながら、私は、この夜の類まれな、といってよい名演に酔いしれていた。共演者が優れた演奏を繰り広げるときの、福原の集中度、音楽への没入の深さには、並外れたものを感じる。室内楽奏者としての福原の資質、なかなかのものだと改めて思った。鳴り止まない拍手の末、アンコールで再度「四重奏曲」の第3楽章「アンダンテ・カンタービレ」が演奏されたが、思わず涙腺が緩んでしまうのを、私は禁じえなかった。

 

          *

 

 さて、ここまで書いて、私は、数ヶ月前に書きかけたままで放置してしまった文章を引きずり出さなければならない。じつは、今年の5月に行われた福原のリサイタルについての「感想」をブログにUPすると約束したまま、果たせないでいたのだ。その書きかけで放置した文章とは、下記のものである。

 

          *

 

先日、5月25日に「福原彰美ピアノリサイタル 2016」を聴きに行った。東京墨田区の「すみだトリフォニー小ホール」、15歳で単身渡米しサンフランシスコ音楽大学で研鑽を積んだ後、ジュリアード音楽院に進み、さらに思うところあって再度サンフランシスコに居を戻し、ニューヨークとサンフランシスコの双方を拠点にしていた福原が、ほぼ年一回、帰国して行っていた自主リサイタルである。

今回のリサイタルに際して福原が付けたタイトルが「ピアノに込めた想い~たくさんのありがとう」だと聞いて、少々の違和感を覚えたのは私だけだろうか? あたかも、引退を決意したピアニストのファイナル・リサイタルのようではないか? だが、じつはそうではない。これは、福原の新たな決意の表明だったようだ。思えば15歳で単身渡米する直前のリサイタルの記録である福原の最初のソロアルバムCDから、もう15年の歳月が流れている。福原は今、折り返し地点に立っているのだ。仄聞するところによれば、これからしばらくは日本での活動にウエイトを高めることになるようで、日本でのマネージメント事務所を決めたのも昨年のことだった。

福原自身も認めていることのようだが、いくつかの偶然が重なり合ってチェロのクリスティーナ・ワレフスカとの共演が実現してからの福原の音楽は、じわじわと変貌していった。私は、彼女のピアノに注目したのがワレフスカとの2010年の共演からだが、その時の彼女の、ぴったりとチェロに随いていくピアノのみずみずしい響きが、豊かで幅のある音楽を獲得していく過程を、ずっと追ってきたつもりだ。――

 

          *

 

 ――この先が書けなくなってしまい、放置してしまったものだ。

 何度か書いてきたことだが、私は、演奏家について書くということを対外的にしてきている以上、それぞれの演奏家やその周辺の人との個人的な接触を殊更に避けることを原則としてきた。いろいろお声を掛けられても、演奏後に楽屋を訪ねたりもしないで帰ってしまう失礼を多くの方にしているが、それを破ったのはギターの山下和仁と、この福原彰美だけだと言っていい。父親が舞踊家だった私が、子供のころから、舞台袖や楽屋の持っている独特の緊張感や孤独感に過敏すぎるのかも知れないが、個人的なお付き合いが筆鋒の自由さを失ってしまうことへの畏れもあると思う。

 じつは、このときも、数年前に福原を陰で支え続けているお母上が、ワレフスカとの共演を収めたCDを聴きながら「あの子が、こんなふうにピアノを弾くようになったなんて」と洩らされていたことを、ふと思い出して、思うところがあったからだ。

 さて、今回のシューマン「四重奏曲」に誘われたときには、私は福原に、以下のメールを送っている。

 

このあいだのリサイタルのこと、

何か書こうと思いながら、果たせませんでした。

ごめんなさい。

以前から気になっていた、あることが、

どうしても私のなかで解決つかず、

書きあぐねてしまいました。

じつは、最近の貴方のピアノから、

辺りのかすかな気配や、

ふと聞こえてくる小さな音の色合いの変化とでもいった、

あなただけが持ちえた美しいものが陰を潜めて、

堂々とした、恰幅のいい音楽に向かっているように感じていることを、

手放しでよろこべないでいるのです。

ですから、今度の、

室内楽でのあなたの演奏がたのしみなのです。

聴き合うこと、奏で合うこと、

その一期一会のなかで、あなたの音楽の感性が、

自在に響くことを期待しています。

音楽は、孤独なものではないはずです。

聴き合い、響き合ってこそ、

高く飛翔していくのだと思っていますし、

その相手は、高く、遠く、はるか彼方にあってこそ、

美しい時を生むのだと思っています。

抽象的な物言いで、申し訳ありません。

 

           *

 

 ことほど左様に、私は、個人的な付き合いに踏み込んでしまうと、「音楽評論」が停止してしまうのだ。とは言え、こんなことを公けにしてしまうというのも、何やら――である。願わくは、ご笑覧いただきたい。

 ただ、私が最近感じている「疑問」とは、おそらく、このところの福原のソリストとしての立ち位置が、どこかひとり合点というか、誰にも相談しないで進めてしまう、というか、何かしらの不自由さに入り込んでしまったように感じているということだと思っている。福原が最近、もうひとつ、私に言ってきたことに、何人かの恩師のひとり(そして、とても大切にしていた恩師)故・松岡三恵氏の演奏を収めたCDが、関係者の尽力でやっと制作されたのだが、それを聴いていていろいろ思うことがあったということだった。ジュリアードでの指導法に疑問を感じていたようだったのが一昨年あたりだったし、だからこそのサンフランシスコへの復学だったのだろうし、福原は、改めて自身の軸線を立て直そうとしているのかも知れない。

 ただ、間違いなく私が確信していることは、福原彰美というピアニストは、いよいよ、大きな音楽を掴みかけている、ということである。またしばらくは、目が離せない。

 

 

 

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オリジナル・ジャケットのサティBOX/米デッカ時代のレジナルド・ケル/17歳の潮田益子を聴く/岩城宏之~札響を聴く

2016年06月30日 15時53分11秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)

半年ごとに、新譜CDの中から書いておきたいと思ったものを自由に採り上げて、詩誌『孔雀船』に掲載して、もう20年以上も経ちました。2011年までの執筆分は、私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)に収めましたが、本日は、最新の執筆分で、昨日書き終えたばかりの今年上半期分です。いつものように、詩誌主宰者のいつもながらのご好意で、このブログに先行掲載します。なお、当ブログのこのカテゴリー名称「新譜CD雑感」の部分をクリックすると、これまでのこの欄の全ての執筆分が順に読めます。

 

■貴重なサティ録音がオリジナル・ジャケットで一気に登場

 ソニー系に米コロンビアと米RCAの原盤権が集約されたおかげで、このところテーマ別に集大成された様々なボックス物が登場している。この『ERIK SATIE & Friends』と題されたものは、サティの作品を中心に、その仲間たちの音楽も集めた一三枚組。それぞれオリジナルLPのオモテ・ウラを当時のままに再現した紙ジャケットに封入され、CDの盤面も当時のレーベル面を再現するという念の入ったもの。すなわち、「音符」も「犬」も居て、二つ目、六つ目、白犬、影付き犬も登場する。(この話、レコードマニアでなければ伝わらない?)音は、どれもかなりいい。カサドシュ夫妻の弾く『四手のピアノ曲集』は、これまで様々の復刻盤でずっと裏切られていたが、今回の盤でやっと納得。プーランクのピアノ伴奏によるベルナックの『フランス歌曲集』やクレスパンの歌う『サティ+ラヴェル歌曲集』も、思わず、歌声に惚れ込んだ。クレスパンの伴奏、サティ作品のピアノ独奏、ロイヤル・フィルを指揮してのサティと、三者三様のフィリップ・アントルモンのセンスにもすっかり感心した。『パラード』でアントルモン指揮のほかに一九四九年録音のエフレム・クルツ盤も収録するなど、同曲異演で四〇年代後半から七〇年代後半までのサティ解釈の変遷も追える。サティを六〇年代半ばに追いかけ始めた私にとっては、米コロンビア系のモノラル録音は見落としていたものも多かったし、七〇年から八〇年にかけてのアメリカレーベルのサティ録音(ヴァルサーノやマッセロスによるピアノ曲)にも目配りしていなかったことを思い知らされた。

 

■レジナルド・ケルのクラリネットの名技を聴き直す

 レジナルド・ケルのクラリネットで一九五〇年録音のモーツァルト「協奏曲」と五一年録音の「五重奏曲」を聴くCDが、タワーレコードの限定発売で復刻された。私にとって見慣れないドイツ・グラモフォン表紙での発売だが、これはジンブラー・シンフォニエッタとの協奏、ファイン・アーツ・カルテットとの五重奏とれっきとしたアメリカ録音だから、一九五〇年代初頭まで米デッカとドイツ・グラモフォンが提携していた時代のもの。米デッカのオリジナルは確か幾何学模様とアルファベットをあしらったものだったはずだが、我が家のどこに紛れてしまったものか、見当たらないので確証はない。レジナルド・ケルは、戦前からイギリスで活躍し、いくつもの名門オーケストラの主席奏者を歴任しているから、いわゆるイギリス管楽器演奏の伝統の中の一人――というより草創期の人と言っていいだろう。見事なアゴーギクの妙技で、よく揺れ動き、伸び縮みする音楽を奏でる名人だということはわかっていたが、今回のCDではさらに、よく走り、跳ねる自在な音楽の持ち主であることに気づかされた。アメリカ録音だからだろうなどと色めがねで判断してはいけない。あわてて一九四〇年のサージェント指揮ロンドン・フィルとの協奏、四五年のフィルハーモニアSQとの五重奏というEMI録音を聴き直してみたが、そうした思いで聴くと、ここでもその傾向がはっきり聞き取れる。一九五〇年前後の演奏に、既に現在に連なるものの芽が生まれていることに気づく感覚が、自分の中で最近研ぎ澄まされて来ていることに、改めて愕然とした。


■何と、一七歳の潮田益子の協奏曲録音が、一挙に発売!

 二〇一三年五月に七一歳で亡くなったヴァイオリニスト潮田益子の未発表音源が、フォンテックから二枚のCDとなって登場した。彼女の夫君であるローレンス・レッサー氏の協力によるもので、ライナーノートに寄せられた文章によれば、「彼女の若い時からの膨大な録音テープを聴き、改めて宝物に出会ったような気分になった」のだそうだが、それは、私にとっても同じだった。彼女の独自の感性の魅力に私が取り憑かれたのは一九七一年録音の小澤征爾指揮日本フィルとのシベリウスとブルッフの協奏曲から。その後、六八年に森正の指揮でチャイコフスキーとバルトークの協奏曲を録音しているのを知り、一九六六年のチャイコフスキー・コンクール入賞直後にヨーロッパやアメリカでの演奏を始めた彼女の青春時代の録音は、この二枚と新星堂から復刻されたことのある東芝録音のバッハくらいだと思っていたからである。今回、彼女が一七歳だった一九五九年録音の協奏曲2曲(プロコフィエフ第二番/グラズノフ)をそれぞれメインとし、各々に最晩年二〇一二年の室内楽録音を組み合わせるという構成で二枚発売され、プロコフィエフではストラヴィンスキー『ミューズを率いるアポロ』『デュオ・コンツェルタンテ』、グラズノフでは同じくストラヴィンスキー『ディヴェルティメント』とバルトーク『無伴奏ソナタ』と、彼女が晩年に残した重要な仕事も聴けるのだが、私が何より驚いたのは少女時代の潮田から、既に自身のイメージが確立している人の堂々とした音楽が鳴り響いてくることだ。改めて彼女の功績に感謝しつつ、その冥福を祈った。

 

■フォンテック「札響アーカイヴ・シリーズ」で岩城を聴く

 前項の一九五九年、まだ一七歳の潮田益子協奏曲で伴奏しているのは、プロコフィエフが恩師齋藤秀雄指揮する桐朋学園オーケストラ。そして、グラズノフが森正指揮のABC交響楽団である。ABC交響楽団とは懐しい名前だ。日本の交響楽団運動の父と讃えられる近衛秀麿が朝日放送の支援を受けていた時期の自身のオーケストラの名称だったと思う。思えば、日本の西洋音楽受容の歴史は、第二次大戦が終わって十余年というこの時期でも、その歩みはまだまだ端緒から這い出した程度だったと言っていい。これまでに幾度か書いてきたことだが、私は、日本の交響楽運動が、本当の意味で自分たちのものとして自立したのは、岩城宏之、小澤征爾、若杉弘というほぼ同世代の三人が、それぞれの音楽観を全世界に発信し始めた一九六〇年代後半以降だと思っている。だが、それでもベートーヴェンは手強かった。小澤、若杉が結局「ベートーヴェン全集」に手を出さなかったのは、偶然ではない。それほどに西欧の音楽伝統の岩盤は堅固なのだ。だが、岩城だけは違った。おそらく、この三人のなかで岩城が一番、西欧文化に対するコンプレックスが少なかったのだと思う。無理せず、ムキにもならず自然に接することができたのは、なぜだったのだろう。まだその答えが見つかっていないが、明らかに岩城だけが、最後の最後まで、自分の(すなわち日本人の)感じるドイツ音楽を、何の衒いもなく高らかに響かせることができた。この七七年と七九年の札幌交響楽団との演奏会記録で聴く「第4」「第7」からは、そうした岩城の雄叫びが聞こえる。

 

【付記】

上記「ベートーヴェン全集~」について、念のため補足します。小澤ファンはご存知のことと思いますが、小澤~サイトウキネンによって、ずいぶん長い年月をかけ、ばらばらに録音したベートーヴェンの交響曲が全曲録音を終えています。ただ、このことと私が言いたかったこととは違います。また、私の第一評論集(洋泉社・刊「コレクターの快楽」)にも収録しましたが、若杉~読響の最初の重要な録音が「田園」であることも、指摘しています。決して「幻想」ではないのです。一方、岩城は極く初期に「運命/未完成」の録音とは別に、「運命」を再録音してまで、一気に「全集」としての交響曲録音を完成させ、アンサンブル金沢との全曲演奏を機に二度目の全集、そして、ご承知の「振るマラソン」の記録映像まで残しました。

 

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METライブビューイング2015-16第6作プッチーニ「トゥーランドット」を観て。(音盤派のオペラ鑑賞記)

2016年03月03日 17時04分05秒 | エッセイ(クラシック音楽)

 先日、東京・東銀座の東劇で、METライブビューイング2015-16の第6作、プッチーニの『トゥーランドット』を観てきた。1月30日にニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演されたばかりのものの収録で、キャスト、スタッフは以下のとおり。この半年ほど、縁あって『トゥーランドット』を映像で観る機会が重なっていたので、ことさらに思う事も多々あったので、それらをいくつかを書き連ねてみよう。

 

指揮:パオロ・カリニャーニ
演出:フランコ・ゼフィレッリ
振付:チン・チャン

 

トゥーランドット:ニーナ・ステンメ(ソプラノ)
カラフ:マルコ・ベルティ(テノール)
リュー:アニータ・ハーティッグ(ソプラノ)
ティムール:アレクサンダー・ツィムバリュク(バスバリトン)

 

 スタッフ一覧を見てお気づきの方も多いと思うが、これは、世界に冠たるメトロポリタン歌劇場が1987年から上演しているゼフィレッリ演出の伝統の舞台である。すでに過去に発売されたDVDで幾度も鑑賞している人も多い。実際、私が観た日にも、客席のあちらこちらで、その話が交わされているのが聞こえてきた。この演出の舞台装置の豪華さがよく話題になるが、私は、この演出の最大の成果は、チン・チャンの振付による「京劇」の舞台を思わせるような、あるいは、時として、中国曲舞団を思い出させるような舞踏場面的演出を、全体にふんだんに取り込んだことだと思っている。
 ゼフィレッリが残したこの演出のもうひとりの功労者である振付師チャン・チン氏が、今回のライブビューイングの幕間インタビューに登場したので、思わず見入ってしまった。もう70歳になったという彼女は、ゼフィレッリから突然依頼を受けたときのことを、淡々と語っていたが、その言葉の端ばしから、この二人が、ある芸術的必然で結ばれていたのだということが感じられた。ゼフィレッリにとって、あの第一幕の、途方もない大群集の大合唱の中から、リューとティムールが忽然と浮き出てくる瞬間を支える視覚的処理と音楽的処理を両立させるものとして、かつて観た中国の音楽劇の要素を取り入れる事は、絶対的な条件だったのだと思う。そして、有名な第2幕第2場の、まばゆいばかりの宮殿の場面。ライトが一斉に点いて大歓声が客席から漏れるお決まりの瞬間。これが、伝統的演出の、伝統たる所以である。

 

▲メトロポリタン初演の1987年から22年後、2009年のメト公演を収録したBD。指揮はネルソンスに代わっているが、基本の演出はゼフィレッリのもの。この演出が、レヴァイン指揮で残されている1987年映像から進化を遂げて、完成の域に達したことが伝わってくる舞台だ。

 

 だが、せっかくの伝統に水を差すようだが、もうそろそろメトも、この、ある意味で「完成された」ゼフィレッリ演出を超える手立てを考えなくてはならないだろう、と思ったのは、おそらく私だけではないだろう。

 数ヶ月前だったと思うが、NHK-BS放送の深夜枠で、2015年ブレゲンツ音楽祭の『トゥーランドット』を放送していたが、その演出、衣装、舞台上での人物の配置や動きを、新鮮な驚きを持って観た。たまたま、その数週間前だったと思うが、ズービン・メータが北京の「紫禁城」を舞台に見立てて行なったフィレンツェ五月音楽祭の引越し公演DVDを観る機会があったので、なおさらだった。ブレゲンツの「湖上舞台」での幻想的な上演の印象が消えないまま、その後、今度は、人に勧められて2001年ミラノ・スカラ座の『トゥーランドット』まで観てしまった。プレートル指揮、浅利慶太演出版だ。メータもプレートルどちらも、どうにも消化不良だったのは、音楽的にもさることながら、加えて演出のやりきれない陳腐さだ。浅利演出には、同じスカラ座での『蝶々夫人』の舞台のような潔い鋭さがなくて、何か中国的な要素への媚のごときものまで感じてしまった。その点、ブレゲンツの演出は中々のものだった。
 ある意味で、ゼフィレッリ演出は、不動のスタンダードという地位を得たのだと思う。だがそれは、いずれ、それを受け継いだ者たち自らが、乗り越えなければならないのだ。数年後のメトでの『トゥーランドット』新演出の登場を期待しよう。

       *

 ――と、演出のこと、舞台のことはさておき、今期のメトの『トゥーランドット』の音楽上のことについて。
 今期メト版『トゥーランドット』の最良の収穫は、なんといっても二人のソプラノの素晴らしさだ。まず、アニータ・ハーティッグのリュー。これは、ほんとに美しく儚[はかな]げな魅力があふれ出ていた。一途さがいたいたしいほどのか細い顔から、芯のある伸びのある声でメトの大合唱から抜け出てくる。そして、「お聞きください、王子様」の名唱――。圧巻は第三幕、リューの死に至る「氷のような姫君の心も」だ。思えば、稀代のオペラ作家プッチーニもまた、この名旋律を書いたところで息絶えたのだと思った瞬間、不覚にも涙腺が緩んでしまった。これまでに私が見、聴いた最も美しいリューの歌声だ。これだけでも、今年度の『トゥーランドット』は価値がある。
 そして、ニーナ・ステンメのトゥーランドット姫。このワーグナー作品で何度か聴いたソプラノは、この姫役に、新たな魅力をかもし出した。もともと、プッチーニの革新的な作品の極めて個性的な役柄であるこの役には、イタリアオペラにはめずらしく、ドラマチックなワーグナー歌手が合うとしばしば言われるが、今回のステンメは、それだけにとどまらず、終盤では、氷のような心の溶け出した後の屈折した心情の裏に隠れた乙女の恥じらいをも、表現し得ていた。この落差は、プッチーニが書いた音楽上の書法にも合致している。演技としての表情やしぐさだけでなく、第2幕と第3幕との音楽的な大きな違いが、くっきりと歌い分けられているのだ。
 これほどの二人の歌唱だからこそ、惜しいのがカリニャーニの指揮する全体のサウンドの平板さだ。じつは、このところヨーロッパ各地の歌劇場にしばしば登場しているというこの人、先に触れたブレゲンツ音楽祭の公演でも、ウィーン交響楽団とプラハ歌劇場合唱団を振っている。その時から感じていたことだが、カリニャーニの指揮には、いかにもイタリアオペラといった押し出しの良さはあるが、こまやかさが欠けている。分厚い絵の具を塗りたくったような響きで絢爛たる音の洪水となっているのだが、それらが細心の注意深さできめ細かく配置されている様子が、丁寧に扱われていないのだ。
 こうしたアプローチならば、音盤派の私としては、1955年録音のアルベルト・エレーデ指揮サンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団盤(英デッカ=ロンドン)を越えたものはない、と思っている。エレーデのメロディアスなオーケストラ・コントロールは超一流だし、何しろリヒャルト・シュトラウスの『サロメ』『エレクトラ』で名高いインゲ・ボルクのトゥーランドットにテバルディのリュー。とにかくよく通る声のデル・モナコのカラフと、歌手陣にも文句がないという決定盤である。

 

 ←エレーデ盤


 これを「いや、ちょっと待てよ」と思わせてくれたのが1981年のカラヤン盤だ。そして、その方向に向かって決定的に、このプッチーニ最後のオペラのイメージを修正させられたのが、マゼール指揮の1983年~84年シーズンのウィーン国立歌劇場プレミエ公演の記録である。これはCDもLD(その後DVD)も発売された。


 ←カラヤン盤

 ←マゼール盤

 

 マゼール盤の凄さは、プッチーニの『トゥーランドット』が、まぎれもない20世紀の作品であることを実感できるところにある。この作品が生まれた1924年、日本は大正から昭和に変わる時期。既に第一次世界大戦は収束し、翌1925年にドイツではアルバン・ベルクの革新的なオペラ『ヴォツェック』が初演される。プッチーニはこうした時代の流れの中、先行するワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の和声に刺激を受け、更に、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』の書法に嫉妬していたと言われている。そうした、かつての時代のイタリアオペラの限界を感じながら一作一作を慎重に書き続けていたプッチーニが、最後に目指した新しいサウンド実験が随所に刻まれていることを、マゼールの棒はつぶさに引き出している。これは、マゼール盤と同じくエヴァ・マルトンがタイトルロールを歌ったレヴァイン指揮の1987年メト盤DVDでは、やはり食い足りない。
 せっかく、ニーナ・ステンメとアニータ・ハーティッグという逸材を組み合わせて起用し成功しているメトなのだから、今度はもっと才能ある若い指揮者と演出家を大抜擢して、新しい世界を見せてくれることを期待している。

 

  

 

▲1987年にメトロポリタン歌劇場で行なわれたレヴァイン指揮によるぜフィレッリ演出のDVD。同演出初登場の年の公演。今年の公演は、2009年版に限りなく近く、この演出バージョンが年月を重ねて進化したのだということが実感できる。

 

【付記】(2016.3.23)

ハーティッグに夢中になったあまりに、マゼール盤でのリュー役のリチャレッリのことをないがしろにしてしまった。彼女のリューは、映像を離れて声を聴くだけでも、その儚げな美しさが伝わってくる名唱。か細い声の使い方が、とにかくうまい!彼女をその2年前の録音でトゥーランドット役に起用しているカラヤンは、間違っている! 何を考えていたのか、と思ってしまう。エヴァ・マルトンのタイトルロールと言い、配役は、完全にマゼールの勝ち!

 

 

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