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METライブビューイング「エフゲニ・オネーギン」を観て――これは「新しい音楽が生まれる軋み」なのか「勘違いの駄演」なのか

2017年05月24日 17時50分33秒 | エッセイ(クラシック音楽)

 先日、東京・東銀座の「東劇」で「METライブビューイング」の新作、チャイコフスキー『エフゲニ・オネーギン』を観た。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で4月22日に公演されたばかりのもので、キャスト・スタッフは以下のとおり。

 

オネーギン:ペーター・マッティ

タチヤーナ:アンナ・ネトレプコ

レンスキー:アレクセイ・ドルゴフ

オリガ:エレーナ・マクシモア ほか

  ~~~~~~~~

指揮/ロビン・ティチアーティ

演出/デボラ・ワーナー

 

 オネーギン役が、当初に予定していたホヴォロストフスキーから、この役を歌い込んでいることで知られるペーター・マッティに交代しての上演だったが、メトでは初となるネトレプコのタチヤーナが、ひときわ話題になった公演である。ネトレプコは確か2年ほど前から、この役に取り組んでいたと思うが、私は初めて聴いた。指揮は若手のティチアーティで、最近、グラインドボーンの指揮者に就任したという。

 公演の仕上がりとしては、演出も、舞台装置、衣装もそれなりにオーソドックスでまずまずのものだが、私としては、愛蔵盤レーザー・ディスクのシカゴ・リリック・オペラの1984年の記録の壮麗な舞台に及ぶものではないと感じた。そして、肝心の、音楽の仕上がりに、今回のメトの公演には、大いに疑問が生まれた。

 もともと私は、前述のシカゴ・リリック・オペラにおけるフレーニ、ドヴォルスキー、ギャーロウというベストと言ってよいキャストを得てバルトレッティの指揮する音楽が、このチャイコフスキーの特異なオペラ世界を見事に伝えてくれていると思っていたので、少々、勝手が違った、というのが正直なところだ。

 私は、『エフゲニ・オネーギン』は、オペラ作家としてのチャイコフスキーにとって、いわば、習作というか、試作品の類だと思っているのだ。すなわち、チャイコフスキーの〈本格的なオペラづくり〉は、これに続く『オルレアンの少女』を経て『スペードの女王』で開花し、次の『イオランタ』で、完全にチャイコフスキー流のオペラ書法が完成した、ということだ。それは、ちょうどバレエ音楽が『白鳥の湖』ではパリ伝統のバレエ音楽の書法からかなり逸脱した奇形さをともなっていたのに対して、『くるみ割り人形』や『眠れる森の美女』では、ずっとバレエ音楽の書法がこなれてきたのに似ている。チャイコフスキーは、オペラもバレエも、最初は劇音楽としては奇異なくらいに変則的な、シンフォニックな音楽として書き始めている。

 じじつ、チャイコフスキー自身も、『エフゲニ・オネーギン』を「オペラ」と呼ぶことに疑問を感じたのか、「叙情的シーン(場面/情景)」と名付けている。このオペラを観る者は、このことを忘れてはならない。

 バルトレッティの指揮するオーケストラの響きを聴いてみて欲しい。そこでは旋律がこだまのように響き合い、歌手たちのアンサンブルが溶け合っている。この対話の多いオペラが、声とオーケストラの響き全体の中から生まれ出てくることが、第一幕冒頭のタチヤーナとオルガの対話、夫人と乳母の対話から、すぐに、「それ」と伝わってくる。だから、各幕がそれぞれ、ひとつながりの抒情詩のようにしみ込んでいるチャイコフスキー音楽の特徴が生きてくるのだ。

 こうした演奏スタイルは、おそらく、それなりの歴史を持っているはずだ。1958年にヴィシネフスカヤをヒロインに得て巨匠ボリス・ハイキン指揮ボリショイ歌劇場管で録音されたものは、私自身はもう50年近く昔に抜粋版のメロディアのLPレコードで聴いたのが最初だが、レーザー時代の到来で、「オペラ映画版」で全曲を手に入れたのは、ずいぶん後のことだった。そして、同じ時期には、名盤として名高いショルティ指揮コヴェントガーデン歌劇場の録音も、同様に音源の転用による映画版が発売されている。シカゴ・リリック・オペラのものは、初の公演ライブ収録版だったと思う。だが、いずれの演奏も、私が指摘する特徴を、大なり小なりとも持っている。おそらく、それが、この曲(オペラ)演奏のコンセンサスだったと思う。つまり、「わかっている人」は、皆、そうしていた――のではないだろうか? 念のため、1988年のトモワ・シントウが歌うエミール・チャカロフ指揮ソフィア音楽祭の録音も引っぱり出したが、いささか乱暴ではあっても、傾向は同じだ。

 だから、私の知る限り、今回のメトの音楽づくりは、かなり異質なものだと言ってよい。それが、率直な感想である。

 当日の私のメモには、こんな言葉が踊っている。

――それぞれの歌声が溶け合わず、それぞれの個人のキャラが立っている

――チャイコフスキーの、この曲の特徴が生かされていない

――グランド・オペラに近づけてしまった?

――グランド・オペラ風な転換にはムリがある

――1幕2場のネトレプコの絶唱は凄いが、シンフォニックなつながりが途絶える

――指揮者が、個人プレイの歌手たちを御し切れていないのか?

 じつを言うと、このメモ断片の終わりの2行あたりから解き明かしていこうと、昨日の夕刻までは考えていたのだ。だが、「ひょっとすると、これは、あたらしい『エフゲニ・オネーギン』が生まれるための軋みなのかもしれない」と思うようになったのは、ベテランのマッティが幕間のインタビューで洩らしたひと言が気になっていたからだ。このオネーギン役を何度もこなして当たり役としているマッティが、代役に刈りだされて初めて組んだネトレプコのことを、「彼女がグイグイ押してくるので、自分の音楽が変わった」というようなことを言っていたのだ。

 だから、一晩の間に私のなかに大きな「?」が育ってしまったのだ。

 このチェイコフスキーの〈習作〉〈試験的作品〉であるはずの『エフゲニ・オネーギン』から、その底に眠っているものを抉り出そうと、ネトレプコや若い指揮者がチャレンジしていると見るか、あるいは、わかっていない歌手のわがままと、それを抑え切れなかった未熟な指揮者とによる破綻と見るか、ということだ。

 これは、この音楽の最近の演奏をたくさん探し出すと同時に、おそらく来年になってから「WOWOU」でオンエアされるはずの今年のメト公演を、何度も鑑賞して確かめるしかあるまい。

 

 (じつは、先日「WOWOW」で再放送された『メリー・ウィドウ』を見て、最初の印象とかなり違っていることに気付いて、ちょっと反省し、弱気になったことが関係している。これについては、いずれ、別の機会に。何はともあれ、私は、やはり、「繰り返し視聴」の〈音盤派〉なのだと、そして、「聞き比べ」の〈推敲派〉なのだと思い知った。第一印象だけに頼ってはいけないのだ。)

 

 

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このごろ思っていること。「METライブビューイング」のこと、「映像オペラ鑑賞会」のことなど。

2017年05月23日 15時04分34秒 | エッセイ(クラシック音楽)

 この「竹内貴久雄の音楽室」でも、数年前から時折、「METライブビューイング」を話題にしているが、じつは、3,4年ほど前に映画評論をしている友人に声を掛けてもらって以来、ほぼ毎回、観るようになっている。「METライブビューイング」とは、ご承知のように、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の公演を映像収録して、いち早く全世界いたるところの映画館の大スクリーンで鑑賞するという主旨のもので、私自身の「鑑賞日記」としても意味のあることだと思っていたから、最初の内は何とか時間をつくってこの欄にも載せるようにしていた。だが、『唱歌・童謡120の真実』の執筆に気をとられて中々はかどらないまま、いつの間にか、書きたかったことのメモばかり、もう10本以上も溜まってしまった。

 ひとつには、なるべくなら推敲に推敲を重ねてから公けにしたいという生来の編集者癖から、かんたんにブログにUPできないということもあるが、「演奏史」「音盤史」の視点を明確にしたいという欲求が出てきて、手間のかかる方向にはまり込んでしまったのが一番の理由だ。その日に聴いたものをアップデートで感想として書くことを躊躇するのは、「音楽文化史家」などと名乗ってしまったからでもあるが、実際、どれを聴いても(観ても)、目の前の演奏(公演)に至る歴史のプロセスが見え隠れしてしまって、熟考してから発言したいと思うようになったことも事実なのだ。もう20年以上前に出版した『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』(洋泉社)の「はしがき」で、様々の同曲異演が「点から線になり、面が見えてきた」と書いていることが、ますます実感となってきている。

 じつは、昨年から、知人を介して知った「オペラ映像」の鑑賞サークルで、年に4回ほど、解説をするようになった。月に一度の会に150人ほどが参集する本格的な団体で、登録会員は200名近いという。そこで配布する「手引き」も執筆しているが、必ず「音盤史」を掲載することにしている。これまでにラヴェル『スペインの時』『こどもと魔法』、ウエーバー『魔弾の射手』、ヤナーチェク『イェーファ』などを鑑賞したが、今後の予定は、『サムソンとデリラ』(サン=サーンス)、『ファウスト』(グノー)、『ラ・ボエーム』(プッチーニ)、『愛の妙薬』(ドニゼッティ)、『ノルマ』(ベルリーニ)、『ワルキューレ』(ワーグナー)と続く予定。3ヶ月に一度くらいのペースだが、もう下調べを始めている。既に終了した分については、当ブログへの掲載も考えているし、それを中心に、「ライブビューイング」の短評も交えて、また1冊、まとめたいと思っている。もっとも、その前に、ヤマハミュージックメディア(4月から「ヤマハミュージックホールディングス」だったかに社名が変わったらしいが)さんと、私がライフワークと決めた「日本人の西洋音楽受容史」三部作の2冊目(1冊目は『ギターと出会った日本人たち』として既刊)を来年春までに完成させるとお約束しているので、もちろん、それが終わってからになるが、少しずつ、オペラの音盤史を書き溜めて行きたいと思っている。

 きょう、こんなことを話題にしているのは、昨晩もライブビューイングで『エフゲニ・オネーギン』を観たからなのだ。増え続けるメモを前にして、これは何とかしなければ、と決心した次第。こうして公けにすれば書き始めるだろう、と自分の怠け心を叱咤激励するつもりでの公言である。黙って書きはじめれば良いものを、こんな風に敢えて書くのも、編集者時代からの「自註癖」。ご寛容いただきたい。

 ――さて、本日は、ここまで。明日はまず、『エフゲニ・オネーギン』。音盤史としては、1958年のボリス・ハイキン指揮ボリショイ劇場、ヴィシネフスカヤの名唱、1974年のショルティ/コヴェントガーデンあたりから。久しぶりにひっぱり出したのは、夕べ帰宅した深夜。それは、昨晩のメトに感動したから? 不満だったから? それは明日、お伝えする。一晩、熟考。

 

 

 

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『唱歌・童謡120の真実』がまもなく発刊されます。

2017年02月03日 13時25分31秒 | 「大正・昭和初期研究」関連

 

 

 「やっと」と言うべきでしょう。2014年9月17日付けの当ブログでご報告した『唱歌・童謡100の真実』の増補、新版が、結局、2年以上の歳月を経てしまいましたが、まもなく発刊されます。下記の20曲を加えて、取り扱い曲は100曲から120曲へと膨らみましたので、48ページも増えて総ページ280ページの大作になりました。出版元のヤマハミュージックメディアさんの踏ん張り(?)で、定価1800円(税別)は据え置きです。

[01]「みどりのそよ風」

[02]「お誕生日の歌」

[03]「ろばのパン屋さん」

[04]「エンゼルはいつでも」

[05]「少年探偵団のうた」

[06]「ヤン坊ニン坊トン坊」

[07]「赤胴鈴之助」

[08]「月光仮面は誰でしょう」

[09]「ちょっときてママ」

[10]「鉄腕アトム」

[11]「ふしぎなポケット」

[12]「とんぼのめがね」

[13]「いぬのおまわりさん」

[14]「サッちゃん」

[15]「ちいさい秋みつけた」

[16]「アイスクリームのうた」

[17]「ドレミの歌」

[18]「手のひらを太陽に」

[19]「おもちゃのチャチャチャ」

[20]「おもいでのアルバム」

 

 もちろん、これまでの100曲については誤りを訂正し、また、いくつかの曲については、全面的に書き直しましたが、私としては、従来の4つの章の流れは完成されていると思っていましたので、途中に曲を加えるということを一切せずに、そのままにして置きたかったので、上記の20曲を、従来の年代順に並べた第1章から第4章までの後に、「付章/さまざまなメデイアと子どもの歌」として加えました。

 単に「20曲増やしました」というものではないのです。この「付章」の扉のリードとして、以下の文章を添えました。

       *

前章でも見てきたように、「戦後」とは、言うまでもなく、それまでの十数年に対する大きな反省の上に立った「民主化」の歩みであった。それは、メディアの多様化の促進にも現われている。多くの雑誌が創刊され、民間放送局が誕生し、それがさらに、ラジオからテレビへと広がっていった。様々のメディアが大正デモクラシーの時代以上の活気を取り戻したのだ。そうした戦後社会のダイナミックな変化を、「メディア」をキーワードにもう一度見直したのが本章である。前章と時代が重なり合っているように見えるかも知れないが、その内実は「戦中派」と「戦後派」の違いほどに大きい。

       

 そして、追加の20曲の後に以下の「追記」を入れました。

       *

■永遠につづく〈戦後〉のために――付章の「追記」として

 本書は、最初の構想では第一章から第四章までの一〇〇曲で完結していた。それが、さらに二〇曲について言及する「付章」を加えることになったのは、いったん書き終えた私の中に、ひとつの釈然としない思いが残っていたからでもあった。「付章」の扉でも触れているように、戦後の動きを追った第四章は、第三章に描かれているような戦時体制下で、抑圧され、耐えに耐えていた童謡の担い手たちの熱い想いが弾け飛んだといった趣が強くなっている。だが、ほんとうの「戦後」は、もっと違うところにあるはずだし、それは、昭和三〇年代に、まだ小学生だった「団塊の世代」のひとりである私自身の幼少期の音楽体験とも、微妙にずれていると感じていた。言わば、戦争を知らずに育った私たちの世代の、まっさらな「戦後」を見て行こうという、「戦後童謡」の再説が必要だったのかも知れない。

 こうして新たに選択された「付章」の二〇曲は私にとって、ほぼ「同時代の[コンテンポラリー]音楽」そのものである。少年時代の私自身が、それぞれの歌の中にいる。本文では触れなかったが、冒頭の「みどりのそよ風」は、妹の手を引いてしばしば行った江戸川の土手の記憶と重なり合っている。そのほかにも、いくつかの曲で、私自身の思い出が顔をのぞかせてしまっているが、ご寛容いただきたい。二〇曲の選に漏れた曲は数知れないが、私としてはこの時代の様々な特徴がコンパクトに収まるように工夫したつもりである。

 この二〇曲が生まれた背景の調査は、予想以上に困難だった。時代が現在に近接していることから、関係者が存命で、それぞれの事情によって必ずしも真実を語っていない、ということもあったが、戦後の混乱期、勃興期の放送界の混乱、レコード会社の担当者の世代交代による混乱など、様々の要因がある。だが、かろうじて見えてきた事柄から、「核」になる人物や集団が浮かび上がってきたのは、相も変わらず「歴史」という大きなドラマの神秘でもあった。

 調査した昭和二〇年代初頭から三〇年代半ば過ぎまでのわずか十五年間に、どれほど凝縮された時間が流れていたか。そのなかで、特定の人々が、それこそ八面六臂の大活躍をしていたことを、私は改めて確認した。お読みいただければわかることだが、このわずかの時間に、増子とし、長田暁二、そして、ろばの会に参加していたサトウハチロー、佐藤義美、中田喜直、大中恩らの面々の残した仕事は大きい。また、ラジオからは、これまでの「レコード童謡」にはない、まったく新しい発想の音楽が生まれ、黎明期のテレビからは、鬼才・三木鶏郎の工房に直接・間接に関わった若い才能が次々に巣立って行った。

 こうした、少年時代に私が口ずさんだ歌のひとつひとつが、先の戦争に突き進んでいったこの国の文化のあり方に対する反省の産物だったのだということに、いくつかについては、この歳になってやっと気づいたということを、私は告白しなければならない。昭和三〇年代の子どもたちのヒーローが皆、一様に「正義の味方」を標榜していたのは、理由のあることだった。「戦後」という言葉は、戦争が終わったままだからこそ、言われ続け、使われ続ける。私たちの時代が、永遠に「戦後」と呼ばれることを、誰もが望んでいるはずだ。

 なお、「付章」が今日に近接した時代だったこともあって、ここでは、ことさらに私の推論が多かったと思うが、本書全般について、それはいくつか言えることでもある。これらについて、推論は、あくまでも私の推論であって、出典を明示できるようなものではないことをお許しいただきたい。出典を明示して列記するばかりが研究ではないはずだ。たとえ「推論に過ぎない」と打ち捨てられても、最初に声を挙げなければならないほどに確信のある推論もあるということをご理解いただきたい。むしろ、こうして公刊された後、多くの方々からの異論や、私の誤りへの指摘が出てくることをお待ちしている。それが「同時代」の活発さであることを、私たちの「戦後」は、皆、理解したはずなのだ。

            * 

 私としては、この本は、これで完結したと考えています。今の私の心境としては、この後の時代については、私に続く世代の方が書くべきだと思っているのです。

 何はともあれ、昭和30年代に、この国で育っていった世代の方を始めとして、その世代に育てられたいわゆる「団塊ジュニア」の方々を中心に、多くの方に楽しんで読んでいただきたいと思っています。いわば「3丁目の夕日」の時代ですね。

 この時代のことに関しては、ネット上に、さまざまの誤情報、勘違い情報、ねつ造情報が飛び交っています。子ども時代の思い出の歌を語る時に、お読みいただける本となることを願っていますし、子ども時代のことを語る祖父母や両親の時代のことに、若いみなさんが少しでも関心を持ってくださることを願っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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N響の1960年世界一周公演ツアー記録のCD/カイルベルトとケルン放響/クレンペラーのドキュメンタリー

2017年02月01日 16時14分29秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)

 

半年ごとに、新譜CDの中から書いておきたいと思ったものを自由に採り上げて、詩誌『孔雀船』に掲載して、もう20年以上も経ちました。2011年までの執筆分は、私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)に収めましたが、本日は、最新の執筆分で、先週書き終えたばかりの昨年下半期分です。いつものように、詩誌主宰者のいつもながらのご好意で、このブログに先行掲載します。なお、当ブログのこのカテゴリー名称「新譜CD雑感」の部分をクリックすると、これまでのこの欄の全ての執筆分が順に読めます。

 

■伝説の「NHK交響楽団1960年海外公演」が初CD化

 日本のオーケストラによる初めての世界一周公演ツアーとして知られているN響の一九六〇年ツアーの演奏が、8枚のCDアルバムでキングインターナショナルから発売された。九月一日から十一月一日までの二ヶ月、三〇公演に及ぶものだから、もちろん「全貌」という訳ではないが、ツアー全体の様子がかなり俯瞰できるものになっている。同行の指揮者がまだ三〇歳にもならない若い岩城宏之と外山雄三、そして当時の常任指揮者ウィルヘルム・シュヒター。協奏曲のソリストとしてピアノが園田高弘、松浦豊明、そして、まだ一六歳だった中村紘子。チェロが一八歳の堤剛というメンバーだった。日本のオーケストラが本格的にクラシック音楽の演奏をするようになって、まだ数十年しか経っていない時期の記録として、このような体系的なリリースは貴重だ。このツアーのアンコール用に作曲された外山雄三『ラプソディー』が岩城、外山、シュヒターと、三人の指揮でそれぞれ収録されているのも凄い。岩城はワルシャワ、外山はローマ、シュヒターはロンドンでの公演。思わず、その三者三様を聴き比べてしまったが、改めて岩城宏之の自然で伸び伸びした音楽に感心した。だから、このアルバムの一枚目、冒頭に収められたモスクワ音楽院大ホールでの岩城が指揮するチャイコフスキー「交響曲第5番」が、まず、強く印象に残った。この曲はチャイコフスキーの交響曲の中で一番、日本人の演奏に向いていると思っているが、岩城のこの録音も、なかなかのもの。特に第二楽章のひた押しな音楽の運びには息をつかせない力がある。岩城が日本人として最初の『ベートーヴェン交響曲全集』録音を日本コロムビアにするのは、このツアーが終わって数年後、一九六七~八年のことだが、その下地が二ヵ月にわたって少しずつ固められて行く過程を聴く思いがするアルバムでもあった。岩城/N響には、一九六七年のチャイコフスキー『悲愴』のコロムビア録音もあるが、『悲愴』は、このツアーでも取り上げられていて、今回のアルバムではスイスでの公演が収録されている。『悲愴』は『第5番』以上に岩城にとって繰り返し取り上げられ録音も残されている曲目だが、その数ある岩城の『悲愴』の中で最も若い時の録音がこれだ。N響の『悲愴』には、一九五四年にカラヤンが指揮した貴重な録音もある。岩城の最後のN響定期でも『悲愴』が取り上げられていてCDが追悼盤として発売されているから、この曲で定点観測をしてみるのもおもしろいと思った。定点観測と言えば、もうひとつ、興味深いテーマがある。中村紘子のショパン『ピアノ協奏曲第一番』だ。彼女が「その曲のことを想っただけで、ふと胸がいっぱいになるような、自分の過ぎ去った日々のなかで何ものにもかえ難い価値をもって光り輝いているような、本当に特別な1曲」と表現したこの曲も、シュヒター指揮のロンドン公演で収録されている。これもまた、彼女の最初の録音である。中村は、この五年後にショパン・コンクールで同曲を弾き、その本選での伴奏者ロヴィッキ率いるワルシャワ・フィルと再会した一九七〇年の録音、更に、満を持しての一九八四年フィストラーリ指揮ロンドン響との録音がある。このツアーの記録からは、「怖いものなど何もない」といった活きのよいピアノが聞こえてくる。後年、「日本人が西洋音楽を演奏するとはどういう意味があるのか?」と自問自答する以前の中村紘子の演奏だ。私は、ふと、ケルンの放送局のライブラリーでみっちりと〈学習してしまった〉若杉弘が、そんな学習前に活き活きと日本人の感性をぶつけていたころの読響の演奏を思い出した。西洋音楽の学習は〈魔物〉なのだ。学習後の中村や岩城と、若杉の違いとは何だったのか? また、大きなテーマが生まれてしまった。


■カイルベルト/ケルン放送響の名演が4枚組で発売

 

 第二次大戦が終結して直後のヨーロッパで最もドイツ的だった指揮者というと、誰が思い浮かぶだろう。ひょっとすると、その筆頭に挙げられるのは、カイルベルトかも知れないと思うことがある。あとは、クナッパーツブッシュ、エーリッヒ・クライバーあたりだろうか? クレメンス・クラウス、ヨーゼフ・クリップス、カール・ベームといった名前は、ウィーン寄りだし、多くの人材がヒットラーの時代に国外へと散り散りになり、地歩を失っていたからでもある。そのカイルベルトの録音が、ケルン放送局(WDR)の正式なライセンスを得てWEITBLICKというレーベルから、4枚組CDアルバムで登場した。すべて最晩年一九六六年~六七年にケルン放送交響楽団を指揮したステレオ録音。東武ランドシステムから日本語解説付きで発売されている。ケルン放送局のライブラリーには多くの名演が保管されているが、今回のカイルベルトは特に音質もよいコンディションだ。曲目は、ベートーヴェン『田園』『コリオラン序曲』、ブラームス『第一』、マーラー『第四』、ドヴォルザーク『新世界』、モーツァルト『三三番』。ブラームスは、ベルリン・フィルとのテレフンケン盤をはるかに凌駕する名演で、この剛直で堂々とした音楽の歩みは貴重だ。『新世界』もそうだ。一方、この指揮者としてはめずらしいマーラーでは、この時代のマーラー解釈の限界も感じてしまったが、緩徐楽章の甘美な鳴らし方にはメンゲルベルクを思い出させるところもあって興味深い。モーツァルトがベートーヴェンのように聞こえるのも、いかにも、だ。どれも単に「往年の~」では済まされない、貴重な記録だと思う。


■クレンペラーのドキュメント映像は興味深いが――

 『クレンペラー・ドキュメンタリー』というDVD二枚、CD二枚に、かなりのページ数の書籍まで付いたセットが発売された。ドイツの「ART HAUS MUSIK」の制作だが、映像は日本語字幕が付いている。「ロング・ジャーニー~彼の生きた時代」と題されたドキュメントと、クレンペラーがニュー・フィルハーモニア管弦楽団を指揮した一九七一年のラスト・コンサートに向けてのリハーサルや楽団員たちの証言ドキュメント、いずれも秀逸の映像に、そのコンサート本番全体を収録しCDが書籍とともにパッケージされている。CDは、二〇〇八年に英テスタメントから既に発売されているものと同内容だが、今回は、独ARCHIPHONにより「丹念なリマスタリングが施されている」と表記されている。だが、このCDに大いに疑問がある。有名なEMIのフルトヴェングラー/ウィーン・フィルの「未完成」もそうだったが、最近、リマスタリングによって演奏時間一〇分ほどのものが三〇秒以上も短くなることが多いのは、どうしたものか? 私は、ひとつには、最近の経験の浅いエンジニアが、機械的にピッチを「正しく修正」してしまうからではないかと疑っている。往年の名ディレクターのレッグなどの証言では、オーケストラの調律ピッチは国によっても、時代によってもマチマチだったという。クレンペラーがそうしたピッチを要求していたとしても不思議ではない。いずれにしても、このCD、テスタメント盤では互いの音を聞き分けるかのような絶妙の間合いだった木管の受け渡しなどが、奇妙にてきぱきしている。これがクレンペラーの指揮した音楽とは、とても思えないのである。


 

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福原彰美の真価が眩しく光ったシューマン『ピアノ四重奏曲』――ハイフェッツ門下の巨匠たちとの共演で――

2016年10月11日 15時27分50秒 | エッセイ(クラシック音楽)

 

 

 一昨日、10月9日、連休中の日曜日に横浜・山手ゲーテ座ホールで行われた「第2回・樅楓舎コンサートシリーズ」を聴いた。ピアニストの福原彰美が参加するということで誘われてのもので、演奏者はヴァイオリンがピエール・アモイヤル、ヴィオラがポール・ローゼンタール、チェロがナサニエル・ローゼンという錚々たる顔ぶれに、若い福原が加わってのシューマンの傑作『ピアノ四重奏曲 変ホ長調 作品47』がメインのプログラム。これに先立って、ナサニエル・ローゼンがバッハ『無伴奏チェロ組曲 第3番』を、ポール・ローゼンタールがバッハ『無伴奏ヴァイオリン・パルティータ』から「シャコンヌ」と、ヘンデル(ハルヴォルセン編)『パッサカリア』を披露するというコンサートである。

 ご存知の方もあるかと思うが、アモイヤル、ローゼンタール、ローゼンの三人はいずれも南カリフォルニア大学で数年間、大ヴァイオリニストのヤッシャ・ハイフェッツに学んだということで、言わば同門の同窓会のようなくつろいだ雰囲気のなかで行われたコンサートに、孫娘が呼ばれて一緒に演奏するといった趣きがあった、と書くと誤解されてしまうだろうか? 久しぶりに、インティメートな暖かさが漂う幸福な音楽を味わう時間が、ゆったりと流れていった。

 しかし、誤解は解かねばならない。シューマンの四重奏曲は、すばらしい演奏だったが、何よりも私が驚嘆したのは、福原のピアノが、ともすれば四人がそれぞれの思いで熱っぽく語り出してしまうこの曲を、第1楽章冒頭から、しっかりとまとめ上げていたことだ。この曲ではピアノがことさらにペースメーカーであることは、古くはリヒテル盤やグールド盤でも証明されているが、アモイヤルと目を合わせて最初の一音を発する決然とした福原の表情が、すべてを物語っていた。数年前、福原からのメールでサンフランシスコ交響楽団の「室内楽シリーズ」にソリストとして参加したことを知った際に、現地の新聞のコンサート評が「小柄で可憐な女性としか見えなかったフクハラが、音楽が開始されると、大の男たちを自分のペースに引き付けてしまった」というような表現で好評価を与えていたと記憶しているが、そのことを思い出しながら、私は、この夜の類まれな、といってよい名演に酔いしれていた。共演者が優れた演奏を繰り広げるときの、福原の集中度、音楽への没入の深さには、並外れたものを感じる。室内楽奏者としての福原の資質、なかなかのものだと改めて思った。鳴り止まない拍手の末、アンコールで再度「四重奏曲」の第3楽章「アンダンテ・カンタービレ」が演奏されたが、思わず涙腺が緩んでしまうのを、私は禁じえなかった。

 

          *

 

 さて、ここまで書いて、私は、数ヶ月前に書きかけたままで放置してしまった文章を引きずり出さなければならない。じつは、今年の5月に行われた福原のリサイタルについての「感想」をブログにUPすると約束したまま、果たせないでいたのだ。その書きかけで放置した文章とは、下記のものである。

 

          *

 

先日、5月25日に「福原彰美ピアノリサイタル 2016」を聴きに行った。東京墨田区の「すみだトリフォニー小ホール」、15歳で単身渡米しサンフランシスコ音楽大学で研鑽を積んだ後、ジュリアード音楽院に進み、さらに思うところあって再度サンフランシスコに居を戻し、ニューヨークとサンフランシスコの双方を拠点にしていた福原が、ほぼ年一回、帰国して行っていた自主リサイタルである。

今回のリサイタルに際して福原が付けたタイトルが「ピアノに込めた想い~たくさんのありがとう」だと聞いて、少々の違和感を覚えたのは私だけだろうか? あたかも、引退を決意したピアニストのファイナル・リサイタルのようではないか? だが、じつはそうではない。これは、福原の新たな決意の表明だったようだ。思えば15歳で単身渡米する直前のリサイタルの記録である福原の最初のソロアルバムCDから、もう15年の歳月が流れている。福原は今、折り返し地点に立っているのだ。仄聞するところによれば、これからしばらくは日本での活動にウエイトを高めることになるようで、日本でのマネージメント事務所を決めたのも昨年のことだった。

福原自身も認めていることのようだが、いくつかの偶然が重なり合ってチェロのクリスティーナ・ワレフスカとの共演が実現してからの福原の音楽は、じわじわと変貌していった。私は、彼女のピアノに注目したのがワレフスカとの2010年の共演からだが、その時の彼女の、ぴったりとチェロに随いていくピアノのみずみずしい響きが、豊かで幅のある音楽を獲得していく過程を、ずっと追ってきたつもりだ。――

 

          *

 

 ――この先が書けなくなってしまい、放置してしまったものだ。

 何度か書いてきたことだが、私は、演奏家について書くということを対外的にしてきている以上、それぞれの演奏家やその周辺の人との個人的な接触を殊更に避けることを原則としてきた。いろいろお声を掛けられても、演奏後に楽屋を訪ねたりもしないで帰ってしまう失礼を多くの方にしているが、それを破ったのはギターの山下和仁と、この福原彰美だけだと言っていい。父親が舞踊家だった私が、子供のころから、舞台袖や楽屋の持っている独特の緊張感や孤独感に過敏すぎるのかも知れないが、個人的なお付き合いが筆鋒の自由さを失ってしまうことへの畏れもあると思う。

 じつは、このときも、数年前に福原を陰で支え続けているお母上が、ワレフスカとの共演を収めたCDを聴きながら「あの子が、こんなふうにピアノを弾くようになったなんて」と洩らされていたことを、ふと思い出して、思うところがあったからだ。

 さて、今回のシューマン「四重奏曲」に誘われたときには、私は福原に、以下のメールを送っている。

 

このあいだのリサイタルのこと、

何か書こうと思いながら、果たせませんでした。

ごめんなさい。

以前から気になっていた、あることが、

どうしても私のなかで解決つかず、

書きあぐねてしまいました。

じつは、最近の貴方のピアノから、

辺りのかすかな気配や、

ふと聞こえてくる小さな音の色合いの変化とでもいった、

あなただけが持ちえた美しいものが陰を潜めて、

堂々とした、恰幅のいい音楽に向かっているように感じていることを、

手放しでよろこべないでいるのです。

ですから、今度の、

室内楽でのあなたの演奏がたのしみなのです。

聴き合うこと、奏で合うこと、

その一期一会のなかで、あなたの音楽の感性が、

自在に響くことを期待しています。

音楽は、孤独なものではないはずです。

聴き合い、響き合ってこそ、

高く飛翔していくのだと思っていますし、

その相手は、高く、遠く、はるか彼方にあってこそ、

美しい時を生むのだと思っています。

抽象的な物言いで、申し訳ありません。

 

           *

 

 ことほど左様に、私は、個人的な付き合いに踏み込んでしまうと、「音楽評論」が停止してしまうのだ。とは言え、こんなことを公けにしてしまうというのも、何やら――である。願わくは、ご笑覧いただきたい。

 ただ、私が最近感じている「疑問」とは、おそらく、このところの福原のソリストとしての立ち位置が、どこかひとり合点というか、誰にも相談しないで進めてしまう、というか、何かしらの不自由さに入り込んでしまったように感じているということだと思っている。福原が最近、もうひとつ、私に言ってきたことに、何人かの恩師のひとり(そして、とても大切にしていた恩師)故・松岡三恵氏の演奏を収めたCDが、関係者の尽力でやっと制作されたのだが、それを聴いていていろいろ思うことがあったということだった。ジュリアードでの指導法に疑問を感じていたようだったのが一昨年あたりだったし、だからこそのサンフランシスコへの復学だったのだろうし、福原は、改めて自身の軸線を立て直そうとしているのかも知れない。

 ただ、間違いなく私が確信していることは、福原彰美というピアニストは、いよいよ、大きな音楽を掴みかけている、ということである。またしばらくは、目が離せない。

 

 

 

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