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フレイタス・ブランコの放送録音/1949年のカラヤン/夭折の天才ピアニスト、アンドレイ・ニコルスキー

2009年04月14日 18時03分46秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)





 本日の私のブログ・カテゴリー「新譜CD雑感」は、すべて、10年以上前から半年ごとに詩誌『孔雀船』に掲載を続けている「新譜CD評」の遡り再掲載です。本日は、1998年7月発行号分の再掲載です。ほぼ1998年の前半に発売された新譜が対象でした。
 後半、いつもの2コマ分を費やして書いた「アンドレイ・ニコルスキー」についての小文は、この短命に終わったピアニストについて書かれた唯一の日本語文献だろうと思います。書いたとおりの、すばらしいピアニストです。 

《詩誌『孔雀船』リスニングルーム 1998年7月発売号掲載分》

■ポルトガル出身の幻の指揮者、フレイタス=ブランコ
 ラヴェルの『ピアノ協奏曲』の1932年4月に録音されたこの曲の初レコードは、マルグリット・ロンのピアノ、オーケストラは録音用の臨時編成、指揮はモーリス・ラヴェル自身と記載されて発売されたが、最近になって、実は、実際にオーケストラの前で指揮をしていたのは、まだ30歳代半ばだったポルトガル出身の指揮者、ペドロ・デ・フレイタス=ブランコという人物だったということが明るみに出た。ラヴェル自身は、録音エンジニアの横で演奏の仕上りを聴き、そして、レコード会社の営業上の理由で      「ラヴェル指揮」として発売することに同意した、という。
 ラヴェルとF=ブランコの交友がどの程度のものだったのか、詳しいことがわからないが、ラヴェルの晩年(30年代)にパリで活躍していた劇場指揮者のひとりだから、ラヴェルの時代の音楽のスタイルを吸収していたことは間違いないだろう。このF=ブランコのラヴェル作品の録音には、もう40年程の長い間、廃盤のままのLPがあって、マニアのコレクターズ・アイテムだった。ところが最近、ポルトガル放送局の録音が、全12枚のCDで一挙に発売された。極端に録音が少なかったこの指揮者の様々な面が聴けるということで、画期的なことだ。ラヴェルの作品はもちろん、得意のファリャや、そのほか、ポルトガルの作曲家のめずらしい作品も収録されている。リヒャルト・シュトラウスのオペラからの管弦楽曲の演奏にも、同時代の劇場指揮者の感覚が聴けておもしろい。CD番号は[ポルトガルSTRAUSS-PORTUGALSOM:SP4110]他、分売あり。

■情熱の有効性が信じられていた時代のカラヤン
 カラヤンは、第2次世界大戦後、ロマン派音楽の演奏がメッセージを失いはじめたことに、誰よりも危機感を感じていた音楽家のひとりだったと思う。カラヤンは、響きのヴィルトゥオーゾとして、突出した部分をそぎ落とし、口当りのなめらかな音楽へと、全世界の音楽ファンを引きずり込んだが、それは、情熱、熱血……、そうした戦中派的なものを喪失した戦後の高度成長社会のなかで、ロマン派の音楽が有効性を持ちつつ、生きながらえてゆくための方便として、戦中派のカラヤンが選びとった方法だった。それが、70年代以降の奇妙に微温的な社会状況に連なっていったのだと思う。
 来たるべき二十一世紀に向けて、やっと、新たな抒情精神の復活の兆しが若い演奏家の中から聞こえてきたように思うが、そんな中、長い間廃盤だった一九四九年録音のカラヤンのベートーヴェン『運命』が、始めてCD化された。この演奏には音楽演奏における「情熱」の有効性に対する信頼がある。オーケストラはウィーン・フィル。ひた押しな音楽が、グイグイと前進し続ける。響きのバランス、リズムの切れの良さ、豊かな表情など、いずれも、既に完全に完成された音楽として成立している。この時点で、カラヤンは、やるべきことを全てやり終えてしまったかのようだ。CD番号は[英EMI:CDM5-66391-2]

■アンドレイ・ニコルスキーの遺産を聴く
 一九五九年に旧ソ連のモスクワに生まれ、九五年二月三日に、自動車事故によって、35歳の若さで世を去ったピアニスト、アンドレイ・ニコルスキーは、今や、ほとんど忘れられたピアニストだが、昨秋、廉価盤レーベル「アルテ・ノヴァ」から、ニコルスキーの録音が3枚発売された。24歳の時に、当時の西ドイツに亡命した彼は、87年のエリーザベト王妃国際コンクールで、審査員全員を圧倒したと伝えられる伝説的演奏で優勝の栄冠を勝ち取り、世界中に名前を知られるようになったが、現代のビジネス社会では、どうしても他人とのコミュニケーションがうまくとれなかったニコルスキーは、コンクール優勝後の、世界中からのコンサートやレコーディングの依頼も、再三にわたるマネージメント会社とのトラブル、変更によって、なかなか実を結ばず、伝説的な「エリーザベト王妃コンクール」のライヴ録音以外には、一枚もCDが作られることなく数年が過ぎてしまった。ニコルスキーの演奏は、現代では極めてまれなほど、自己の世界を、深く、激しく見つめる強靱な意志に貫かれたものだった。それは、聴く者の心に、重く、鋭く突きささり、出口のない闇へと、ひきずり込まずにはいられない世界だった。人前では無口で、なかなか他人を寄せ付けない、一見、はにかみと気弱さを感じさせたニコルスキーは、その印象のかげで、ひとたびピアノに向かうと、ひたすらに純粋で、感情の振幅の大きい演奏の世界に入りこみ、あたりの空気を張り詰めさせ、飲み込んでしまう、そういうピアニストだった。ニコルスキーの4度目の来日、死の半年ほど前の一九九四年夏のコンサートは、会場を
真っ暗にしての、異様な雰囲気の中で行われたと言われている。
 そんなニコルスキーの演奏に深い感銘を受けた日本のクラウン・レコードの一ディレクターの熱心な働きかけによって、ようやく一九九〇年一月にムソルグスキーの「展覧会の絵」とチャイコフスキーの「四季」の二曲を収めたCDが録音された。コンクール優勝後3年も経過してからの、遅過ぎるCDデビューだった。そして、続けて90年三月に、同じくクラウンで、「リスト、ピアノ作品集」を録音したが、この二枚が、ニコルスキーの録音として最初に知られたものだった。その後、ドイツのマイナー・レーベルに、プロコフィエフ「束の間の幻影」、ストラヴィンスキー「ペトルーシュカからの3章」ほかを録音、発売したと聞いている。たった4枚のCDを残しただけで、わずか35年の生涯を終えてしまったというのが、これまでのニコルスキーに関する情報だった。アルテ・ノヴァから発売されたのはショパンの前奏曲集、ラフマニノフの前奏曲と第2ソナタ、プロコフィエフのソナタ5、7、8番の三点。いずれも、おそらく放送録音からのCD化と思われ、必ずしもベスト・コンディションではないが、それでも、ニコルスキーが聴けるだけで、うれしい。
 ところで、ニコルスキーの死の原因となった交通事故とは、仕事の打ち合せで秘書の家に立ち寄り、深夜になってのクルマでの帰宅途中の山道でのこと。急に目の前に現われた小さな動物をよけるためにハンドルを切り損ね、崖下に転落しての即死だったと言われている。ニコルスキーは、日ごろから、こよなく動物たちを愛し、優しく接していたという。そうしたニコルスキーらしい、生涯の終わりだったのかも知れない。




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