何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

宝山寺-(2) (生駒)

2017年09月20日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・生駒市】延宝六年(1678)の湛海による再興が開山とみられる。 湛海は貞享三年(1686)に聖天堂に歓喜天を祀って鎮守とし、2年後に本堂を完成、その後に宝山寺に改めた。
歓喜天に対する修法に優れた湛海は正保三年(1646)に江戸永代寺に入り、江戸の大火で焼失した永代寺八幡宮の復興、郡山藩水野家からの祈雨、徳川家宣(第6代将軍)からの世継ぎ安泰祈祷などに成果を上げた。

線香場近くにある西門をくぐって山中に広がる境内への石段を上る。 石段途中にある文殊堂に参拝して観音堂へ....観音堂に近づくにつれ、修験道の聖地とされる「般若窟」に鎮座する弥勒菩薩像の姿と朱塗りの社がハッキリと分かる。 観音堂の脇に「般若窟」への急峻な石段があるが、落石の危険があるとのことで通行禁止....石段下の遥拝所で合掌。 遥拝所から多宝塔に向かう。
山腹に建つ朱塗りの多宝塔は約60年前に建立されたものだが、和様建築様式でなかなか趣がある。 多宝塔から杉木立の中に、厳かな空気に包まれた奥之院への参道が続いている。
ひんやりとした空気が漂い、風情のある石畳の参道の両側には地蔵尊や不動明王などの石仏がズラリと並び、奥之院参詣者を迎えている。 石畳の参道の途中にある弘法大師を祀った大師堂で参拝....苔生した不動三尊像などの石仏に見守られて奥之院に着く。
 
線香場近くの上の境内への西門は切妻造本瓦葺..大棟両端に鯱が乗り、大棟と隅降棟の先端に鬼瓦

西門をくぐって直ぐ上の石段参道に建つ文殊堂..昭和五十三年(1978)建立
 
露盤火焔宝珠を乗せた宝形造銅板葺の文殊堂..唐破風の向拝/文殊堂からの石段を上り詰めると左に常楽殿、正面奥は観音堂

寄棟造桟瓦葺の常楽殿

露盤火焔宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の観音堂..前身の建物は天和四年(1684)建立..本尊虚空蔵菩薩などを祀る
  
伽藍の背後にそそり立つ大岩壁の「般若窟」..役小角が般若経を納めて修行、また空海も修行した/「般若窟」に鎮座する挙身光(古舟形光)を背負う弥勒菩薩坐像..天和元年(1681)造立で院達作とされる/荒神井天柱の社
 
入母屋造銅板葺の拝所,,右手に「般若窟」への険しい道がある/遥拝所から「般若窟」への石段..落石の危険があるため一般の立ち入りが禁止されている
 
切妻造銅板葺で鳥枢沙摩明王を祀る社/鳥枢沙摩明王像..鳥枢沙摩明王は不動明王を中心にした五大明王の一尊..不浄を清める功徳を持つ
 
鳥枢沙摩明王を祀る社の手前左に水神が鎮座/「水神」の額が掲げられた明神鳥居と水神の祠
  
遥拝所境内に鎮座する「水神」と石仏・石搭               「福徳大神」の石碑

本瓦葺の多宝塔..昭和三十二年(1957)建立..堂内本尊は愛染明王像
 
板唐戸、連子窓、中備に蟇股は和様建築様式/周囲に擬宝珠高欄の切目縁を巡らす
 
多宝塔から奥之院への石段と石畳の坂道が杉木立の中に続く..左右に整然と鎮座する地蔵尊や不動明王などの石仏群(推定300体以上とか)

石畳の参道の途中に鎮座する五所明神

五社明神..いずれも中興草創のみぎり湛海律師を助けた寺の地神
 
露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の大師堂..昭和四十二年(1967)建立/大師堂境内の入口右手に鎮座する弘法大師像

杉の樹林の中に鎮座する大師堂
 
奥之院への木立の中の石段参道脇に鎮座する不動三尊像/羂索と宝剣を持つ火焔光背の不動明王像
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宝山寺-(1) (生駒)

2017年09月16日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・生駒市】宝山寺が鎮座する生駒山は古くから神聖な山として崇められ、斉明天皇元年(655)に役行者が開いたとされる修験道場で、役行者は梵文般若経を書写して般若窟に納めたと伝える。 弘法大師もこの地で修行したとの伝承もある。 当時は都史陀山大聖無動寺という名であったという。
江戸時代の延宝六年(1678)、生駒山に入った江戸前期の真言宗の僧・仏師の湛海が般若窟に弥勒菩薩を祀り、仮本堂を建てて再興した。 真言律宗大本山で、本尊は不動明王像。 鎮守神として歓喜天(聖天)を祀る。 真言律宗十八本山十三番、仏塔古寺十八尊第十五番。

日本で最初に運行されたケーブルカーである生駒ケーブルに揺られ、急こう配をゆっくり上って宝山駅に着く。 料理旅館や土産物店等が立ち並ぶ坂と石段の聖天通りを過ぎると、杉並木の中に、両脇に石燈籠がびっしりと並ぶ石段が真っ直ぐに延びている。
どこか神秘的な雰囲気が漂う石畳の参道を上り詰めると「歓喜天」の額が掲げられた大鳥居があり、その先の石段の上に「般若窟」の扁額が掛かる惣門が見える。
惣門をくぐり、更に続く石段の左右に鎮座する諸仏の石像に迎えられながら中門に着く。 中門を入るとまずゴツゴツした岩肌が剥き出しの切り立った大岩壁に目を奪われる。 「般若窟」と呼ばれる大岩壁を背にして伽藍境内が広がるが、その息を呑む壮大な景色を目の当たりにして足の疲れがいっぺんに吹き飛んだ。
「般若窟」を背に重層の本堂、檜皮葺きの聖天堂、多宝塔、観音堂、常楽殿などの堂宇が軒を接して連ねているが、ひときは目を引くのが聖天堂。 聖天堂は八つ棟造りといわれる建物で、幾つかの棟や破風が重なる構造は美しく荘厳だ。 また、聖天堂向拝の右脇に賽銭箱が置かれているが、木彫りの巾着形で珍しく面白い。

杉並木の左右に石燈籠が列をなし、神秘さが漂う雰囲気の石畳の石段参道

「歓喜天」の額が掲げられた大きな石造明神鳥居..まさに宝山寺の入り口だ!

大鳥居の先の石段の上に建つ切妻造本瓦葺の惣門..棟に鯱を乗せている
 
惣門前の寺号標石には「歓喜天根本霊場 生駒山 宝山寺」の刻..「般若窟」の扁額が掛かる/惣門は薬医門式で、本瓦葺の袖塀に通用口

石段脇に建つ切妻造銅板葺の地蔵堂

地蔵堂に鎮座する石仏は地蔵尊像などの諸仏
 
石段を挟み地蔵堂の反対側の覆屋に鎮座する七福神像、そして大日如来坐像と延命地蔵尊像
 
中門前にある切妻造本瓦葺の鐘楼/鐘楼越しに眺めた獅子閣..明治初期建立の擬洋風建築(近年修復)

伽藍境内への中門..切妻造本瓦葺で棟に鯱が乗る

中門から眺めた伽藍境内..山の中腹の樹林の中に朱塗りの多宝塔が建つ
 
中門を入った直ぐ左にある唐破風銅板葺の水屋..見事な装飾彫刻が施されている/中門を入った直ぐ右の所に立つ五重層塔の朝日宝塔..多数の宝鐸を付けた銅塔

主要伽藍の全景..本殿、聖天堂、線香場、客殿、常楽殿と観音堂の屋根が連なる

本堂(右)と聖天堂(左)..伽藍の背後に「般若窟」と呼ばれる大岩壁がそそり立つ

寄棟造本瓦葺で重層の本堂..江戸時代貞享五年(1688)建立

五間四面で護摩堂様式の本堂は宝山寺の根本中堂で、創建当時の面影を残す唯一の建造物
 
向拝に3つの鰐口や釣り灯籠などが下がる..本堂には江戸初期の僧で開祖の湛海律師作の本尊不動明王像を祀る
 
本堂前に鎮座する古舟形の挙身光を背負う十一面観音菩薩像と菅原道真を祀る天神社/流造檜皮葺で精巧な造りの天神社..周囲や縁に牛の置物が並んでいる
 
本堂左脇間傍に鎮座する十六羅漢第一尊者の賓頭盧尊者像/本堂の右手に露座する不動三尊像

本堂の左側に隣接するのが荘厳な聖天堂で、八つ棟造りといわれ棟や破風の数が多いのが特徴

聖天堂の外拝殿..擬宝珠勾欄を巡らし正面の縁に金色の釣灯籠を下がる..向拝右手に珍しい木彫りの巾着形の賽銭箱が置かれている
 
手前が外拝殿、後方の大きな屋根が中拝殿そして一番奥に聖天堂が並ぶ..檜皮葺きの唐破風と獅子口を乗せた2つの千鳥破風が重なる

一番奥の露盤と火焔宝珠を乗せた宝形造檜皮葺が聖天堂..貞享三年(1686)建立で、大聖歓喜天(聖天)像を祀る

緑色の八角燈籠と獅子の狛犬をしたがえ、「歓喜天」の額が掛かる明神鳥居が聖天堂と直角に立つ

明神鳥居傍の入母屋造銅板葺の線香場..煤で真っ黒だ!
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薬王寺 (鎌倉)

2017年09月12日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】薬王寺はもともとは梅嶺山夜光寺という真言宗の寺院だったが、鎌倉時代の永仁元年(1293)、荒行を終えて療養場所としてこの寺に滞在した日蓮上人の弟子・日像が時の住持と数日間宗教論議・論争を行った末、日蓮宗に改宗した。
寛永年間(1624~1644)、駿河大納言徳川忠長公の妻・松壽院殿の援助で僧日達上人が中興開山し、大乗山薬王寺と改称した。 駿河大納言徳川忠長公は徳川三大将軍家光の弟で、幕命により配流地の高崎で自刃した。
松壽院殿はこの寺に忠長公の供養塔(五重塔)を建て、永久追善菩提のために多額の金子と広大な土地を寄進した。 享保五年(1720)の火災により、三千坪の広大な境内に建つ五重塔や諸堂を焼失した。 その後再興されたが、明治維新の神仏分離令による廃仏稀釈の嵐に遭って荒廃し、無住持時代が50年以上続いた。 大正三年(1914)から第50世と第51世の二代の住持による70年の尽力で復興した。 日蓮宗で、本尊は久遠本師釈迦牟尼仏。

「薬王寺」と刻まれた門柱から境内を眺めるが、徳川家ゆかりの格式高い寺だったというイメージは懐けない。 正面奥に白壁の本堂が建ち、引き戸の脇間の白壁に設けた花頭窓がいい。 本堂前の左右に2基の層塔が立つが、左側の緑色で円形の笠を積み上げた九重層塔はまるで相輪を表すような珍しい形をしている。
境内に入って直ぐ右手に低い石柵で囲まれた駿河大納言徳川忠長公の供養塔が立つが、笠上の露盤部に三葉葵の紋が彫られていて徳川家ゆかりのお寺であることが分かる。
本堂左手の石段脇から上が墓所になっていて、石段を上りつめた正面に岩崖を背にして観音堂が建つ。 観音堂の右手に墓所が広がり、多くの石仏・石造物が鎮座する台座を敷き詰めた大きな「やぐら」、崖の岩壁にくっつくように建てられた熱田稲荷社、徳川家康の孫である蒲生忠知公の妻と娘の墓碑の大きな宝篋印塔がある。 石柵に囲まれた宝篋印塔は二重塔式で高さ約3メートル、相輪をなす請花・反花から笠にかけて題目が、また塔身にはそれぞれ院号と造立年号が刻まれている。 ちなみに、娘の梅嶺院はわずか12歳で他界したとのこと....合掌。
 
門柱から眺めた境内..薬王寺は岩崖と樹林を背にしてひっそりとある

入母屋造桟瓦葺の本堂..享保十二年(1727)建立で近年の再建か

向拝の屋根に獅子と花の留蓋瓦が乗っている..本堂中央に鎮座する日蓮聖人座像は徳川第11代将軍家斎の命により造立
  
本堂前の左に立つ緑色の九重層塔..9つの円形の笠なので相輪のようだ/正面扉は寺紋が入ったガラスの引き戸..「大乗山」の扁額が掲げられている/本堂前の右に立つ十三重層塔..初層軸部に「宗祖日蓮大聖人 七百遠忌報恩」の刻

入母屋造桟瓦葺の鐘楼
 
鐘楼に下がる梵鐘
 
山門を入った直ぐ右手にある徳川三代将軍家光公の弟駿河大納言徳川忠長公の供養塔..笠上の露盤部に三葉葵の紋..右の板碑は不詳/供養塔には、建立した松孝院殿自身の法号の他、夫忠長公・両親・兄弟の法号などが刻まれている

墓所の岩崖を背にして建つ露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の観音堂..元は釈迦堂だったが観音菩薩像を安置してから観音堂に改称
 
周囲に切目縁を巡らし、正面脇間に長めの花頭窓/向拝の虹梁に大きな蟇股を乗せ、鰐口が下がる
 
観音堂には観音菩薩像が祀られている..以前の釈迦如来像も安置されていると思うが/観音堂の右後方の岩崖にある大きな「やぐら」

「久遠廟」の石柱が立つ「やぐら」..台座の上に釈迦如来坐像を中心に多くの墓碑(石仏・石造物など)が整然と並ぶ
  
合掌する釈迦如来坐像/舟型観音石仏、板碑型、箱型、宝篋印塔などの墓碑群/「やぐら」入口左右に合掌する舟形光背四菩薩像が鎮座..摩滅が激しいが十一面観音像とみられる

観音堂の右手の墓所の崖裾に、笠を乗せた歴代住持の墓碑が並ぶ

四国松山城主蒲生忠知公(徳川家康の孫)の妻松壽院(左)と娘梅嶺院の墓碑..見事な相輪を乗せた高さ約3mの多層式宝篋印塔で、相輪(請花反花)から笠にかけて題目が刻
 
左は元禄十三年(1700)造立で塔身に「松壽院殿」、右は正保二年(1645)造立で塔身に「梅嶺院殿」と刻/一段下の乳母の宝篋印塔越しに眺めた妻と娘の宝篋印塔..松壽院は899歳、梅嶺院は僅か12歳で他界
 
墓碑の宝篋印塔..搭身側面に髭題目が刻まれている/崖の岩壁に建てられ前垂注連が掲げられた熱田大明神を祀る熱田稲荷社
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海蔵寺 (鎌倉)

2017年09月08日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】鎌倉時代の建長五年(1253)、鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって藤原仲能(道知禅師)が七堂伽藍の真言宗の寺を創建したが、鎌倉幕府滅亡時に焼失した。
室町時代の応永元年(1394)、第2代鎌倉公方(関東管領)足利氏満の命で、執事(鎌倉公方補佐)の上杉氏定が寺跡地に再興。 心昭空外(源翁禅師)を開山に迎えて菩提寺とした。 臨済宗建長寺派で、本尊は胎内仏を納めた薬師如来坐像。 薬師如来坐像は、啼薬師あるいは児護薬師と呼ばれ、胸のあたりに扉があり、胎内仏は60年に一度だけ開扉される。

閑静な住宅地を進むと、つきあたりの石段の上に山門がある。 門前の道脇に鎌倉十井のひとつ「底脱ノ井」があり、傍に井の由来を示す千代能の歌碑が立つ。
「扇谷山」の扁額が掲げられた山門をくぐると、手入れが行き届いた境内が広がり、直ぐ右に鐘楼、正面奥に本堂、右手に身舎に裳腰を設けた茅葺の庫裡、左手に胎内仏を納めた薬師如来坐像を祀る仏殿(薬師堂)が建つ。 紅葉に飾られた鐘楼の傍にはカメラや携帯を持った多くの方がいて、鮮やかな紅色に染まった紅葉を撮っていた。
約370年前に建てられた小棟造りの仏殿に....脇間に花頭窓がある禅宗様式のお堂で、簡素だが趣がある。 仏殿の桟唐戸が大きく開けられ、外気が直接仏像に触れる状態になっていて、しかも撮影が自由なのには驚いた。 貴重な薬師如来坐像等を撮らせて頂いたが、開放的な拝観に驚くと同時に、仏像を身近に感じさせてくれるお寺の配慮に感謝した。
本堂左脇に多くの石塔が安置された4つのやぐらがあり、さらに本堂背後の緩い傾斜地には、山肌から湧き出る清水が流れ込む池を中心とした庭園が広がっている。 庭園は非公開のため本堂脇のやぐら前から拝観。
境内左手奥にあるやぐらの中に、鎌倉時代に掘られた「十六ノ井」と呼ばれる井戸があり、今でも清水が湧いている。 「十六ノ井」にある縦横4つ計16の穴は納骨のためのものとの説もあり、やぐらの岩壁の仏龕に鎮座する聖観音菩薩像がひっそりと見守っている。

落ち着いた雰囲気が漂い、趣きがある門前
  
門前に石塔が立ち鎌倉十井のひとつ「底脱ノ井」がある/「底脱ノ井」の由来を示す中世の武将安達泰盛の娘・千代能の歌碑が立つ/2段の石垣に挟まれたような石段の上に飾り気のない山門が建つ

切妻造銅板葺の山門は四脚門..「扇谷山」の額が掲げられている

山門から眺めた境内..正面奥に本堂、左に仏殿(薬師堂)、右に庫裡が建つ
  
境内の右手に鐘楼が建つ/紅葉に飾られた鐘楼..多くの参詣者が紅葉を撮っていた

入母屋造銅板葺の鐘楼..方柱傍に頭貫を支える支柱を設けている
 
鐘楼に下がる梵鐘

小棟造りの寄棟造銅板葺の本堂..本堂は「龍護殿」と呼ばれる
 
本堂正面や向拝は古民家風で質素な造りだ/開山・心昭空外坐像を祀る内陣が衾で仕切られ、欄間に「龍護殿」の額が掲げられている
 
本堂内の衝立越しに背後の庭園と茶室とみられる建物を眺める/仏殿前から眺めた本堂と庫裡

仏殿(薬師堂)..安永六年(1777)に浄智寺の仏殿が移築されたもの

小棟造りの寄棟造桟瓦葺の仏殿..慶安二年(1649)建立と推定されている

一軒で三間四方の仏殿..正面は桟唐戸と脇間に花頭窓、詰組(平三斗)など禅宗様式

仏殿(薬師堂)の中央に鎮座する薬師三尊像..左右に6体の十二神将像、前で椅子に座るのは閻魔王像と奪衣婆像(と思う)
 
二重円光の古舟形光背を背負う薬師如来像..胸のあたりに扉があり中に胎内仏を安置..60年に1度だけ開扉される/仏殿前の植木の中に佇む石造十一面観音菩薩像

堂内右手に安置されている仏像は、像容から伽藍神、十王像などとみられる

寄棟造茅葺で妻入の庫裏..天明五年(1785)建立で、東南面の銅板葺屋根の裳腰は後補で増築されたもの

鎌倉の寺院の庫裏建築を代表するもので歴史的価値が高い
 
本堂左手に4つのやぐらあり、宝篋印塔、五輪塔、無縫塔などの墓碑が安置されている/蓮華座に鎮座する宝髻を結んだ聖観音菩薩坐像
 
明神鳥居が立つやぐらは「雨宝殿」と呼ばれ、体に蛇が巻き付いた姿の宇賀神像を安置/やぐら内の墓碑群(宝篋印塔、五輪塔など)

本堂の背後に広がる手入れが行き届いた池泉庭園

心字池には山肌から湧き出る清水が注ぎ込んでいる..庭を見守るように五重層塔が立つ
 
鎌倉時代に掘られた「十六ノ井」..今も清水が湧く井戸だが、本来は納骨のための穴との説がある/「納骨穴位」の穴が縦横四つ、計十六規則正しく並ぶ..正面岩壁の仏龕に鎮座する聖観音菩薩像そして弘法大師像

庫裏側入口に建つ切妻造桟瓦葺の簡素な通用門..門から鐘楼と庫裡が見える

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浄光明寺 (鎌倉)

2017年09月04日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】鎌倉時代の建長三年(1251)、鎌倉幕府六代執権の北条長時が真阿(真聖国師)を開山として迎えて創建した。
元弘三年(1333)に後醍醐天皇(第96代)の勅願所となる一方、浄土(諸行本願義)・真言・天台・禅の四宗兼学の学問道場としての基礎を築いた。 後醍醐天皇の朝廷軍に勝利し、建武三年(1336)に京都に武家政権の室町幕府を築いた足利尊氏と弟直義の帰依が厚く、尊氏が寺領を直義が仏舎利をそれぞれ寄進した。 真言宗泉涌寺派で、本尊の阿弥陀三尊像は鎌倉後期正安元年(1299)の作。
鎌倉三十三観音霊場第25番札所、鎌倉地蔵尊霊場 第16番・第17番札所等。

住宅街の道角に寺号標石が立ち、その先の参道の奥に紅葉が引き立てているような山門がある。 参道手前の築地塀は5本の筋が入った筋塀だ。
山門をくぐると深緑を背にして静寂な境内が広がり、正面には本堂と間違えそうな大きな客殿、右手の手入れされた庭の中に鐘楼と不動堂、そして左手奥に庫裡がある。
真っ赤な紅葉に飾られた客殿右脇の参道を進み、客殿裏手の階を上って一段高くなった阿弥陀堂と収蔵庫がある境内に....しかし、2本の槇の巨木が聳える境内は通行止めだ。 中世寺院の景観がよく保存されている境内には、大きく広げた槇の枝に隠れるように本堂の阿弥陀堂がひっそりと建っている。 阿弥陀堂は三間四方の禅宗様建築で、正面は連子付き桟唐戸で脇間に花頭窓がある。
客殿右手の庭園内に切目縁を巡らせた宝形造りの不動堂と鐘楼があるが、訪問時、ちょうど二人の庭師の方が鐘楼前の見事な枝振りの松の手入れをされていた。
 
門前参道の角に立つ寺号標石/築地塀は5本の筋が入った筋塀..山門はもと英勝寺の惣門を移築したもの

切妻造本瓦葺の山門(四脚門だったか)..英勝寺創建の寛永年間の作と推定されている

山門から眺めた境内..正面に客殿、左手に庫裡、右手に不動堂と鐘楼が建つ..敷石参道奥の一段高い境内に阿弥陀堂と収蔵庫がある

周囲に切目縁を巡らした本堂のような大きな唐様建築の客殿

入母屋造桟瓦葺の客殿
 
向拝の軒先からが鎖樋が下がるが天水桶はない
 
客殿前の覆屋に鎮座する楊貴妃観音像/客殿左手に建つ庫裡は切妻造桟瓦葺で妻入り

不動堂の庭に立つ十三重層塔..左の石段の上の境内に阿弥陀堂と収蔵庫が建つ

不動堂がある庭の美しい紅葉

光を透かした鮮やかな紅葉越しに眺めた客殿

石の基壇の上に建つ寄棟造銅板葺の本堂の阿弥陀堂..寛文八年(1669)建立の唐様建築で、源頼朝創建の永福寺からの移設とされる
 
阿弥陀堂前に聳える創建時に植えられたものとされる槇の巨木(推定樹齢約750年)/中世の古材を用いた唐様建築で三間四方の阿弥陀堂..正面に上部に連子がある桟唐戸、脇間に花頭窓を配す

阿弥陀堂の左手の収蔵庫に本尊阿弥陀三尊像を安置..堂内の須弥壇は応仁二年(1468)作

阿弥陀堂境内から眺めた客殿

庭園内から眺めた不動堂と奥に客殿..不動堂には不動明王坐像が鎮座

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の不動堂..延享二年 (1745)建立(推)で、天明三年(1783)再建

客殿境内の右手の庭園内に建つ不動堂..正面は桟唐戸と脇間は引き戸式の舞良戸

昭和六十一年(1986)建立の切妻造本瓦葺の鐘楼
 
鐘楼と梵鐘はいずれも近年のもの
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英勝寺 (鎌倉)

2017年08月30日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】江戸時代初期の寛永十三年(1636)、英勝院が徳川三大将軍家光から祖先太田道灌の屋敷跡をうけ、水戸家初代の息女・玉峯清因を開山に迎えて創建した。
英勝院は太田道灌から数えて四代目の康資の娘お勝の方で、徳川家康に仕え(側室)、家康の死後出家し英勝院と号した。 創建以来一度も火災などに遭っていないので、堂宇(仏殿・祠堂・唐門・鐘楼など)は創建当時のままの姿を今に伝えている。 現在鎌倉に残されているただひとつの尼寺。 宗派は浄土宗で、本尊は阿弥陀如来像。

訪問した約9年前はちょうど山門が復興工事中だった。
筋塀の築地塀に設けられた通用口から境内に入り、入山受付を済ませた後、仏殿に向かう。 仏殿は江戸初期の建立で、中備は詰組、身舎に裳腰を設けた五間四方に桟唐戸と花頭窓を配した禅宗様建築で、風格があり荘厳さが漂う。
仏殿前庭の直ぐ左に祠堂への唐門があり、軒下の牡丹の透かし彫りが見事だ。 唐門をくぐると覆屋が建ち、ガラス越しに中を覗くと、その中に極彩色に彩られた祠堂が鎮座している。 英勝院を祀るこの祠堂は、かの有名な水戸黄門が寄進したものとのことで感慨深いものを感じた。
仏殿前庭の先に山門の礎盤が残る基壇があり、ちょうど復興工事が始まって間もなくだった。 道路に面した惣門の傍に組高欄を巡らせた袴腰付き鐘楼があるが、この袴腰付き鐘楼は鎌倉で唯一のものだそうで意外だった。
境内に幾つかある石造物の中に葵巴の紋が刻まれた手水鉢があり、徳川家とゆかりのある寺であることを主張しているかのようだった。

総門が開くのは英勝院の命日のみで、通常は5本の筋が入った白い築地塀がある通用門を使う

小棟造りの寄棟造本瓦葺風銅板葺で裳腰を設けた本堂の仏殿..寛永十三年(1636)建立

屋根よりも傾斜が緩い裳腰部は五間四方で禅宗様式が見られる仏殿..側面と後面は一間の桟唐戸と脇間四間にそれぞれに花頭窓

仏殿の正面は三間が桟唐戸、脇間に花頭窓..中備は詰組で、組物傍に「寶珠殿」の扁額が掲げられられている
 
簡素な美しさを見せる仏殿の正面と側面..殿内に徳川家寄進の運慶作の阿弥陀如来三尊立像と法然大師像を安置

仏殿前の寛永二十一年(1644)造立の2基の石燈籠が立つ
  
鬼板と鳥衾、軒丸瓦に葵の紋が入っている/唐門側の石燈籠/仏殿前庭から眺めた唐門..側面に唐破風がある平唐門様式

切妻造本瓦葺の唐門(重文)..寛永二十年(1643)頃の建立..奥の覆屋に祠堂(御霊夜)がある
 
仏殿左手に立つ祠堂の唐門の両面に見事な牡丹の花の透かし彫りがある/祠堂境内の唐門傍に佇む石燈籠と球状の手水鉢
  
覆屋の中の祠堂に寛永十九年(1642)に没した英勝院を祀る/極彩色に彩られた祠堂は水戸黄門こと徳川光圀の寄進
 
祠堂裏に2基の笠付墓碑があり、岩壁のやぐらに2基の小さな墓碑と3体の石仏が鎮座
 
祠堂前から眺めた仏殿/12個の礎盤が残る山門の跡地(2008年当時は復興計画中)..徳川光圀の兄(讃岐高松藩主・松平頼重)による建立
 
切妻造本瓦葺風堂板葺の総門..英勝院の命日以外は閉門だが、山門復興作業中のため開けられている..中の建物に山門の古材が保管されている/総門の傍に建つ鐘楼
 
入母屋造本瓦風銅板葺の袴腰付鐘楼..袴腰付鐘楼は鎌倉で唯一のもの/和様の組高欄を巡らしている
 
境内奥にある竹林の入口の門..竹林は代々の姫君の姫御殿跡らしい/竹林には遊歩道が整備

入母屋造桟瓦葺の書院..左側に白藤の藤棚がある
 
境内に幾つかの石造物が点在..楕円の手水鉢に葵巴の紋が刻まれている/初層軸部の正面に仏像が掘られている五重層塔
  
側面を2区に分けて格狭間を設けた手水鉢/笠石(火輪)の四方に種子が刻まれた五輪塔/後補とみられる地輪以外に種子が刻まれた五輪塔

英勝寺前の道路脇に立てかけられた「山門復興事業」の看板..復元される山門は三間一戸の入母屋造本瓦風銅板葺の二重屋根門だと分かる
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壽福寺 (鎌倉)

2017年08月27日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】鎌倉時代の正治二年(1200)、源頼朝が没した翌年に妻の北条政子が明庵栄西禅師を開山に招いて創建した。 正式には亀谷山壽福金剛禅寺という。
寺がある一帯は源頼朝の父・義朝の屋敷跡とされる。 頼朝は鎌倉入りしたさいこの地に館(幕府)を建てようとしたが、亡き父の御堂があったことや間の用地としては狭すぎるため断念し、大蔵に幕府を開いたとされる。 壽福寺は当初、天台・真言・禅の三宗兼学で、禅宗の専門道場ではなかった。
比叡山で天台密教を学んだ栄西は、二度入宋して禅を学び、帰国後、博多に聖福寺、京都に建仁寺そして鎌倉に壽福寺を建立して禅をひろげた。 臨済宗建長寺派の大本山で鎌倉五山の第三位、本尊は宝冠釈迦如来像。

落ち着いた雰囲気が漂う丹塗の総門の前に立つと、門を通して樹木に覆われた参道の奥に中門が見える。 総門から真っ直ぐに続く石畳の参道は、静謐な空気が満ちている。
堂宇境内の中門に着く....仏殿のある境内は非公開なので、中門から風格が漂う禅宗様式の仏殿を拝観する。 仏殿前に聳える柏槇の古木が仏殿を隠すかのように枝を広げている。
仏殿裏の墓域に北条実朝と政子のものといわれる五輪塔を安置したやぐらがあるとのことで向かった。 正規の参道は落石の危険があるとのことで迂回して探したが、北条実朝の五輪塔は分からずだった。 政子の五輪塔は方形に削り掘られたやぐらの中にひっそりと立っている。

落ち着いた雰囲気の総門(外門)の前に立つ「壽福金剛禅寺」の寺号標石と珍しい形の石塔

切妻造銅板葺の総門は袖塀のある四脚門..「亀谷山」の扁額が掲げられている
 
五輪塔等のパーツを積み重ねたとものとみられる石塔/総門から中門に至る参道の敷石は美しく鎌倉随一といわれる

樹林に覆われた鬱蒼とした参道は幽玄な雰囲気が漂う

切妻造桟瓦葺の中門(四脚門)

小さな袖塀がある中門に「寿福金剛禅寺」の扁額が掲げられている
 
塀は苔生した石垣の上に竹を立て並べた竹塀

中門を通して眺めた境内..正面は本堂の仏殿で、柏槇の古木が聳える前庭(境内)は非公開

小棟造りの寄棟造桟瓦葺の仏殿..本尊の宝冠釈迦如来像を安置する
 
質素な禅宗様建築の本堂..正面は三間の桟唐戸と脇間に花頭窓

本堂右手に建つ庫裡

竹塀傍の乱石積の上に立つ切妻造桟瓦葺の鐘楼
 
頭貫を支える補強として四隅の主柱に各2本の支柱がある
 
墓域にある高貴な方か住持の墓碑とみられる五輪塔/塔身(水輪)に戒名が刻まれた珍しい五輪塔

本堂裏の墓域にある「実朝・政子之墓」の案内板

やぐらの中に北条政子(源頼朝の妻)の墓の五輪塔
 
北条政子の五輪塔             幾つかのやぐらには数基の小さな五輪塔が安置されている
 
やぐらに様々な形の墓石や石仏が安置されている

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遊行寺-(3) (藤沢)

2017年08月25日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・藤沢市】安土桃山時代の天正十九年(1591)、32代遊行上人他阿普光が常陸国の佐竹義宣に招かれ、水戸に水戸藤沢道場を建立して時宗の本拠とした。 普光は一蓮寺の天順を清浄光寺貫首とし、天順は江戸時代慶長十二年(1607)に藤沢に清浄光寺を再興した。
寛永八年(1631)、江戸幕府寺社奉行から諸宗本山へ出された命により、清浄光寺から「時宗藤沢遊行寺末寺帳」が提出され、幕府から時宗274寺の総本山と認められた。 現在、東海道随一と謳われる木造本堂をはじめとした伽藍や樹齢700年と推定される大銀杏などを有する修行道場となっている。

本堂左の万葉園との間の参道を進み、裏山に鎮座する宇賀神社に着く。 宇賀弁財天を祀る社殿は小ぶりながら優美な建築で、軒唐破風の向拝天井に荒々しい豪快な龍、そして踏ん張って唐破風の桁を支える邪鬼の姿があり、興味を引いた。 宇賀神社から参道を戻ると右手に緑に覆われた万葉園があり、園内に太鼓堂、石燈籠、五重層塔、歌碑、墓碑などがひっそりと点在している。
壁に花頭窓をあしらった銅板葺塀を巡らせた中に、御番方境内への中雀門と黒門とが並んでいる。 獅子口と破風板の金色の菊の御紋がやけに目立つ中雀門は、荘厳で風格があり、鳳凰などの精緻な装飾彫刻群が素晴らしい。 また、大瓶束の下端で虹梁を噛む鬼面の結綿が面白い。 黒門をくぐって御番方の境内へ....石燈籠1基が立つ庭園の奥に、小さな軒唐破風の向拝がある御番方が建ち、その左に社務所、右手には大きな放生池がある。
御番方右の渡り廊下に「菖蒲園入口」の立札がある入口から、菖蒲園に向かう。 案内表記に従って御番方後方にある大書院と小書院とを結ぶ渡り廊下に....廊下に置かれた腰掛に座って菖蒲園を眺めると、こじんまりした菖蒲園に黄と紫の菖蒲が咲き誇っていた。

宇賀神社..明治十三年(1880)の類焼後に再建された

神明鳥居を従え宇賀弁財天を祀る宇賀神社..宇賀弁財天は徳川氏の祖とされる有親の守り本尊の伝

入母屋造銅板葺で妻入りの宇賀神社..向拝に軒唐破風を設けている
 
向拝の装飾彫刻群..向拝天井に荒々しい豪快な龍の彫刻/唐破風の棟木を支える力神

宇賀神社の背後に涌く清水、その前に琵琶を弾く弁才天坐像が鎮座..上に名号(と思う)が陰刻された石柱が立つ

放生池越しに眺めた緑に覆われた万葉園..太鼓堂、石燈籠、五重層塔、歌碑、墓碑などが点在する
  
露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の太鼓堂/2基の石燈籠/四脚の基礎の上に立つ五重層塔
 
放生池に架かる反った石橋      万葉園にある南部右馬茂時之墓

御番方境内への中雀門と黒門..左右には連子の花頭窓をあしらった壁の銅板葺透かし塀を巡らす
 
冠木門式の黒門/境内最古の木造建築の中雀門の前に蘇鉄と右手に「三宝の松」が聳える

妻入りで正面と背面に唐破風がある向唐門の中雀門

安政六年(1859)建立で風格のある中雀門(重文)..獅子口と破風板に菊の御紋がある

中雀門の精緻で素晴らしい鳳凰など鳥の彫刻群..大瓶束の下端に虹梁を噛む鬼面の結綿

中雀門側から眺めた御番方境内..正面が御番方、左に社務所そして僧堂が続く

寛政元年(1793)造立の石燈籠越しに眺めた御番方

入母屋造本瓦風銅板葺の御番方..大きな向拝は獅子口を乗せた入母屋造妻入りで、小さな軒唐破風を設けている
 
向拝の虹梁上に見事な装飾彫刻群がある/渡り廊下にある菖蒲園への入り口

御番方後方の渡り廊下..右手に菖蒲園、左奥に小さな枯山水の庭がある

こじんまりとした菖蒲園に咲き誇る黄と紫の菖蒲..左の建物は小書院
 
小書院前の池泉庭園..青もみじが美しい

渡り廊下の左手にある小さな枯山水の庭..傍に立つ五重層塔と石燈籠

大書院..入口廊下に「御行在所 明治天皇、皇后陛下、東宮殿下」の表示

入母屋造本瓦葺の遊行寺宝物館
  
遊行寺宝物館               明治天皇御膳水の井戸
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遊行寺-(2) (藤沢)

2017年08月22日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・藤沢市】室町時代の応永年間(1394~1428)の2度の火災に遭って堂宇が焼失したが、その都度再興された。 戦国時代の永正十年(1513)の兵火(伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦道寸・太田資康との戦い)で全山を焼失。 その際、本尊阿弥陀如来坐像は、遊行21代他阿知蓮上人が滞在していた駿河長善寺に移されて難を逃れ、七年後の永正十七年(1520)、24代遊行上人他阿不外によって甲斐一蓮寺に移された。 その後、25代遊行上人他阿仏天が本尊を一蓮寺から敦賀井川の新善光寺に移した。

「藤沢敵御方供養塔」から小栗判官の墓がある遊行寺塔頭の長生院への参道を進む。 参道の脇に、江戸初期から中期にかけて造立された六字名号やや三界萬霊塔などの石柱群、逆修六地蔵供養塔、五輪塔、阿弥陀如来坐像等の石仏そして輪郭を巻き家紋付の大きな3基の駒型墓碑など様々な石造物があり、石造物好きにはたまらない参道だ。
小高い山の中腹に建つ遊行寺塔頭の長生院に着くと、門前脇で合掌する智恵地蔵菩薩像に迎えられる。 本堂の直ぐ脇を通って背後に進むと木々に覆われた庭園があり、その中に木柵で囲まれて11基の小さな五輪塔が一列に並んでいる....小栗城落城後に毒殺された14代城主の小栗孫五郎平密重と家臣十勇士の墓だ。 近くには小栗判事の愛人だったとされる照手姫の墓の宝篋印塔や照手姫建立の3躰の厄除地蔵尊像、名馬「鬼鹿毛」の墓などがある。
長生院から参道を一気に下り、遊行寺本堂の前を通って鐘楼に向かう。 室町時代に鋳造された梵鐘がさがる鐘楼....その直ぐ傍に江戸初期造立の4基の墓碑が佇む。
鐘楼から裏山の中腹に鎮座する宇賀神社への参道を進むと、右手の石段の上に本堂と渡り廊下で繋がり大きな裳腰を付けた回向堂があり、墓所を見渡すように建っている。 墓所奥の山裾に歴代上人の墓所があり、簡素な高麗門と石塀に囲まれた樹林の中に多くの無縫塔が本堂を向いて立ち並んでいる....合掌。
 
小栗判官墓所がある遊行寺塔頭の長生院への参道/参道脇に本堂を向いて立つ六字名号や三界萬霊塔等の8基の石柱..江戸時代寛永十九年(1642)~寛政九年(1797)の造立

酒井忠重逆修六地蔵供養塔..酒井長門守忠重が万治三年(1660)に逆修のため建立
 
安政三年(1856)造立の供養塔..上に円光を背負う地蔵菩薩坐像が鎮座/寛文六年(1666)造立の重厚な酒井忠重五輪塔..各輪に種子が刻まれている

五輪塔越しにながめた壮大な本堂
 
地蔵堂の背後に鎮座する石仏群/慈悲深く穏やかなお顔の阿弥陀如来坐像

地蔵堂の後方の参道に佇む大きな3基の墓碑

輪郭を巻き、家紋らしきものが彫られた立派な駒型墓碑..左は2名の墓で寛永元年(1624)造立で寛文九年(1669)を追刻、中央は万治三年(1660)、右は延宝八年(1680)造立
 
遊行寺塔頭の長生院の遠景..本堂の屋根は入母屋造りと宝形造りを合体した造り/門柱脇で合掌する智恵地蔵菩薩坐像

「小栗堂」の扁額が掲げられた入母屋造(後方は宝形造)銅板葺で妻入りの本堂

本堂の背後にある小栗14代城主小栗判事公(小栗孫五郎平密重)と家臣十勇士の墓碑

小栗判事公と十勇士の墓の宝篋印塔が整然と鎮座
  
中央が小栗判事公、左右各5基が十勇士の宝篋印塔..小栗判事公の墓碑は基礎と塔身に輪郭を巻き、基礎を二区としているのは室町時代の形式、また相輪ではなく請花と宝珠を乗せている..十勇士のは大きさが異なり塔身が球形、基礎を二区に分けて輪郭を巻く

照手姫之墓の宝篋印塔..球状の塔身は五輪塔の水輪か?両側に舟形光背観音菩薩像(左は貞享五年(1688)造立)
  
照手姫建立の3躰の厄除地蔵尊像/名馬「鬼鹿毛」之墓..種子の下に馬頭観世音菩薩と刻まれている/万治三年(1660)造立の石燈籠..中台とか火袋が欠落したものか

鐘楼傍の参道から眺めた本堂

切妻造銅板葺の鐘楼..右上の建物は本堂
  
鐘楼に下がる室町時代延文元年(1356)鋳造の清浄光寺銅鐘/梵鐘は総高167cm、口径92cm/鐘楼傍に佇む墓碑

鐘楼基壇の傍に佇む江戸時代初期造立の4基の墓碑
  
「圓意居士之墓」と刻まれ、自然石で造られた墓碑..造立年号不明だが江戸期のものと推/寛文三年(1663)造立の尖頭角柱形墓碑..中央に六字名号が刻/相輪を失った2基の宝篋印塔墓碑..右は承応元年(1652)、左は明歴二年(1656)の造立

本堂と回廊で繋がって墓所に建つ回向堂
 
墓所への石段の上に建つ回向堂は露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺で大きな裳腰を設けている
 
銅板葺の高麗門と石塀に囲まれた歴代上人の墓所..蓮華座に立つ無縫塔が立ち並ぶ
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遊行寺-(1) (藤沢)

2017年08月19日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・藤沢市】鎌倉時代の正中二年(1325)、俣野(現在の藤沢市、横浜市周辺)の地頭だった俣野氏の一族の俣野五郎景平が開基で、景平の弟の遊行4代他阿呑海上人が開山となって創建された。
呑海上人は、時宗総本山であった当麻道場(無量光寺)の3代智得の入寂後に入山する予定であったが、呑海遊行中に条高時の命で当麻の僧真光が住持に....そのため、廃寺となった藤沢の極楽寺を清浄光院として再興したのが開山とされる。 その後、清浄光院を清浄光寺に改称した。
清浄光寺が正式な寺号だが、遊行上人の寺ということから「遊行寺」と呼ばれている。 時宗総本山で、本尊は木造阿弥陀如来坐像で平安後期作とされる。

古刹を感じさせる雰囲気が漂う門前に着く....立派な青銅製燈籠を従えた黒い惣門に「清浄光寺」の札が掛かり、大きな台座に「時宗総本山 遊行寺」の寺号標石が立つ。 惣門をくぐると、緑のトンネルの中央が石畳になっている緩い「いろは坂」が延び、石畳の参道を進むと左右に塔頭がある。
「いろは坂」を上り詰めると急に視界が開け、緑に囲まれた堂宇境内が広がっている。 直ぐ正面には約700年前からお寺を見守ってきた銀杏の巨木が聳え、大きく枝を広げている。 銀杏の幹の周りに置かれたベンチで一息ついているとリスが現れ、直ぐ傍まで近づいてきて出迎えてくれた。
手水舎から本堂へ向かう途中のこんもりした植木の中に遊行するお姿の一遍上人銅像が佇むが、壮大な本堂に目を奪われていると見過ごしてしまいそうだ。 本堂は昭和の再建で古くないが、周囲に丹色の擬宝珠高欄を巡らした堂々たる構えの建物だ。
一遍上人像の右奥の木立の中に、創建時に敷地と大殿堂を寄進した地頭・俣野五郎景平公を大権現として祀る社殿が鎮座。 また、境内隅の駐車場傍の木立の下には、上杉禅秀の乱で戦死した敵と味方とを供養した「藤沢敵御方供養塔」など3基の供養塔がひっそりと立っている。

惣門前に立つ大きな寺号標石と2基の青銅製燈籠..門左右に小さな袖塀と石垣上に築地塀が伸びる

笠木に寺紋が入った冠木門風の黒い惣門は「黒門」と呼ばれる..門柱に「清浄光寺」の木札が下がる
 
青銅製燈籠..銘文から天保十三年(1842)造立..高さ約1.8m(石製台座含む総高3.9m)/惣門から眺めた四十八の大石段の「いろは坂」..「四十八段」とも呼ばれる(48は阿弥陀如来の本願の数)

「いろは坂」を上り詰めた所に立つ寺紋入りの太い門柱

広大な境内の中央に聳える銀杏の巨木..推定樹齢は約650~700年
 
注連縄が張られた大銀杏の垂乳根越しに眺めた本堂/大銀杏の幹の根元で遊んでいたリス..耳が短く丸いので台湾リスかな

正面の門柱から眺めた本堂..右手の木立の中に手水舎がある
 
切妻造桟瓦葺の手水舎と蓮華形の手水鉢/龍の水口で腹から水が出ている..手水鉢の台部に「明治百年記念 遊行七十一世他4阿隆宝上人御代」の銘

昭和十二年(1937)再建の入母屋造銅板葺の本堂

本堂には本尊木造阿弥陀如来坐像を祀る..像高52.5cmで平安時代後期作とされる市内屈指の古仏
 
本堂前の庭の木立の中に立つ板碑形六字名号塔/時宗の開祖・一遍上人が遊行する姿の銅像
 
三間の広い向拝..扉は桟唐戸、周囲に朱塗りの擬宝珠高欄を設けた切目縁を巡らす

向拝の虹梁や木鼻そして欄間の装飾彫刻が素晴らしい..扁額の「登霊臺」は徳川治寶筆
 
装飾彫刻が施された海老虹梁..連子付きの桟唐戸/本堂須弥壇に鎮座する阿弥陀如来坐像..平安時代後期作と伝える

本堂の妻飾りは複雑な造りだが二重虹梁大瓶束式(だと思う)
 
露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の御堂に置かれた常香炉/常香炉に寺紋が入っている

本堂の縁から眺めた地蔵堂

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の地蔵堂..日限地蔵尊像を安置..大正十二年(1923)の関東大震災で倒壊後、平成二十六年に再建

俣野大権現..遊行寺創建の呑海上人の実兄で、広大な敷地と大殿堂を寄進した地頭俣野五郎景平公を大権現として祀っている
 
切妻造銅板葺の俣野大権現の社殿          俣野大権現境内に立つ石燈籠

木立の下に佇む左から「藤沢敵御方供養塔」(角柱型石塔)、「戦没者供養塔」、「畜霊供養塔」の各搭
 
室町時代応永二十五年(1418)造立の「藤沢敵御方供養塔」..上杉禅秀の乱で戦死した敵と味方を供養..総高約150cm/同時期に死んだ家畜(軍馬など)の供養塔の「畜霊供養塔」
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