12月28日21時26分
祖父が88歳で他界した。
あと約2週間で89歳だった。
29日に枕経と通夜。
通夜といっても式があるわけではない。
組の人が葬儀について相談に集まってくださり、
縁ある人がお悔やみに来てくださった。
30日に出棺、火葬、告別式。
10年前脳梗塞で倒れ身体は不自由だったが
薬もほとんど飲んでいなかった。
骨はしっかりと残っていた。
見上げると抜けるような青空。
祖母の葬儀の日と同じ。
なぜかそうあるべきなのだという気がしてしまう。
秋に熱を出し入院して以来、
熱が下がっても食べることを拒否してきた祖父。
祖父はこの日を選んだのだと私は勝手にそう思った。
身体の動く限り働き通してきた祖父。
穏やかで決して怒ることはなかったが、
物を粗末にすることを静かにたしなめた祖父。
原付の荷台に私を乗せアケビをとりに連れて行ってくれた祖父。
いつも静かに感謝を示していた祖父。
老衰で眠るように亡くなった。
近くにいながら私は最期に立ち会えなかった。
深夜、実家で何年かぶりに自宅に帰った祖父を迎えた。
身体はまだ温かい祖父に会えて少しほっとした。
4年前、93歳で祖母が亡くなった時、
私が祖父に伝えに行った。
祖父は声をあげ涙を流した。
「おばあさんが、逝ってしまったか・・・」
とても仲のいい夫婦だった。
また二人の時間が始まったと思う。
身の周りのあるだけのものでこれ以上ないほど、
始末に暮らしている夫婦だった。
ありとあるものをすべて「有難い」と
受け容れている夫婦だった。
小学校4年生の夏の朝、
4時半には起き、5時には畑に出る祖父母を知った。
私は祖父のような人になりたい、
祖母のような人になりたいと思った。
記憶が遠くなってきても、
ずっと呼び続けていた私と妹の名前。
いつしか忘れられてしまったけれど、
なぜか曾孫にあたる息子の名前だけは覚えていてくれた。
何より何より嬉しかった。
今でも私は祖父のような人になりたい。
祖母のような人になりたい。
私の原風景をつくってくれた人たち。
私たちをずっと大切に守ってきてくれた祖父母のように、
丁寧に暮らしを重ね紡いでいける自分になりたいと願う。
次の世代、また次の世代に恩返しをしていけるように、
少しずつしぶとく優しくなっていきたいと願う。
おじいちゃん、
ありがとう。
おばあちゃん、
ありがとう。
頑張るよ。
頑張るよ。
祖父が88歳で他界した。
あと約2週間で89歳だった。
29日に枕経と通夜。
通夜といっても式があるわけではない。
組の人が葬儀について相談に集まってくださり、
縁ある人がお悔やみに来てくださった。
30日に出棺、火葬、告別式。
10年前脳梗塞で倒れ身体は不自由だったが
薬もほとんど飲んでいなかった。
骨はしっかりと残っていた。
見上げると抜けるような青空。
祖母の葬儀の日と同じ。
なぜかそうあるべきなのだという気がしてしまう。
秋に熱を出し入院して以来、
熱が下がっても食べることを拒否してきた祖父。
祖父はこの日を選んだのだと私は勝手にそう思った。
身体の動く限り働き通してきた祖父。
穏やかで決して怒ることはなかったが、
物を粗末にすることを静かにたしなめた祖父。
原付の荷台に私を乗せアケビをとりに連れて行ってくれた祖父。
いつも静かに感謝を示していた祖父。
老衰で眠るように亡くなった。
近くにいながら私は最期に立ち会えなかった。
深夜、実家で何年かぶりに自宅に帰った祖父を迎えた。
身体はまだ温かい祖父に会えて少しほっとした。
4年前、93歳で祖母が亡くなった時、
私が祖父に伝えに行った。
祖父は声をあげ涙を流した。
「おばあさんが、逝ってしまったか・・・」
とても仲のいい夫婦だった。
また二人の時間が始まったと思う。
身の周りのあるだけのものでこれ以上ないほど、
始末に暮らしている夫婦だった。
ありとあるものをすべて「有難い」と
受け容れている夫婦だった。
小学校4年生の夏の朝、
4時半には起き、5時には畑に出る祖父母を知った。
私は祖父のような人になりたい、
祖母のような人になりたいと思った。
記憶が遠くなってきても、
ずっと呼び続けていた私と妹の名前。
いつしか忘れられてしまったけれど、
なぜか曾孫にあたる息子の名前だけは覚えていてくれた。
何より何より嬉しかった。
今でも私は祖父のような人になりたい。
祖母のような人になりたい。
私の原風景をつくってくれた人たち。
私たちをずっと大切に守ってきてくれた祖父母のように、
丁寧に暮らしを重ね紡いでいける自分になりたいと願う。
次の世代、また次の世代に恩返しをしていけるように、
少しずつしぶとく優しくなっていきたいと願う。
おじいちゃん、
ありがとう。
おばあちゃん、
ありがとう。
頑張るよ。
頑張るよ。