伊達だより 再会した2人が第二の故郷伊達に移住して 第二の人生を歩む

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戦争の悲惨昨日のようによみがえる・・・・・許すまじ

2015-08-10 05:33:40 | 樺太
 樺太引揚者の私たち一家


   父は寡黙で何も語らず


   ただ兄が自衛隊に入りたい・・・と言った時は


   烈火の如く怒り恐かった。



   今年も終戦記念日がやってくる


   最近はマスコミも戦争関係の記事が多い



   先日も従軍看護婦の「レットクロス」というドラマを観て

   泣いた・・・・。



    満州の荒野をさまよう少年たちが自分の幼き日と重なり

    胸が詰まった。






  過去のカテゴリー樺太のブログより


 昭和23年私たちは最後の時期の引揚で函館に降りた。

 
    その時のことをちっこかった私が8歳上の姉よりも

    鮮明に憶えていたのだから驚きだ・・・。



    函館の駅から小学校の体育館まで


    母に手を引かれ





    延々とあの直線

    コースを歩いた遠い記憶・・・


    長かった。



    その引揚者の長い列を函館の人々が

    見物していたなんてちっとも知らなかった。




    その時の光景を見ていた函館在住の人が


    20年ほど前新聞に投稿したエッセイを


    読んだ時は泣けた・・・・。



    「ぼろぼろの服を着てやつれていて同じ日本人とは思えず

      気の毒だった」って・・・


    その列の中に私も居たんだぞー


     迷子になりながらも頑張って来たんだぞぉー





   カテゴリー樺太のブログより


 私は戦中の樺太留多香郡多欄内村で

 四男二女の末っ子として生まれた。

 父は仙台母は秋田出身で家は林業を
 営みまずまずの暮らし振りだった。


 昭和20年、私の3才の時ソ連軍の進攻で
 樺太は大混乱の中に投げ出され、空から
 何度も攻撃され、そのつど家族全員が山
 に隠れ野宿するという日が続いた。



 まもなく終戦になると男たちは銃を持った
 ソ連兵に殺されると言ううわさが流れた。

 たちまち私たちの村にも銃を持ったロシア
 兵が溢れた。
 手向かった人達が命を失った・・・・。

 大人達は誰もが最悪の事態を覚悟してい
 た。ある者は山に隠れ、年寄りや小さな子供
 達を抱えた家族はただじつと恐怖に耐えなが
 ら息を殺して自分達の運命を待っていた。





 そんな時、大人の恐怖にもみくちゃにされ小さ
 いながら大人の恐怖を何倍にも増幅させ受け
 とめていた私は、毎夜恐ろしい夢を見ていた。

 きまってそれはロシア兵に連れて行かれ、な
 みなみと血が溢れた洗面器の中に頭を押し込
 まれる夢だった。

 恐怖で心臓が氷りついた。

 「私は死ぬのだ・・・」

 どんなにもがいても抗いようもない力に捕えら
 れ、どんなに泣き叫んでも誰も助けに来てくれ
 ないのは分かっていた。

 たった一人で死んで行かねばならなかった。

 みんながこうして死んでいくのだと幼いながら
 自分に納得させていた。

 小さいながら

 必死で

 自分の運命と妥協することによって楽に生きる
 術を悟ったのだった・・・・。

 みんなそうなのだ

 みんなこうして死んでいくのだ・・・・。

 

 目を醒ますと、髪までぐっしよりと濡れ、
 心臓は飛び出さんばかりだった。

 夢は何度も襲ってきた。

 今度見たら「これは夢だ・・・」と叫ぼうとするの
 だが、なかなかうまく行かなかった・・・。






 この3才の時の恐怖の体験は

 いまだに私の脳裏から離れず

 時として頭をもたげ

 深い恐怖と悲しみにうちひしがれる時がある・・・・。



 今までどんな大きな試練があっても

 耐えてこられたのは

 あの苦しみを乗り越えてきたからかも

 しれない・・・。



 でも戦争はやだ・・・

 戦争は人間を悪魔にする・・・。






   カテゴリー樺太のブログより

  
  いよいよ昭和23年の夏

 引き揚げ船に乗ることになった。

 引き揚げの時私は2回迷子になっている。


 一度目は大泊の港までは数十キロもある
 ため親はちっこかった私を知人の
 馬車に頼んで乗せた・・・。

 背中には子供用の母が綿糸で編んでくれ
 たリュックを背負っていた。

 どんなに心細かったことか・・・・

 どこを見ても人の波で知らないとこに

 1人放り込まれ私の心は恐怖で震えて
 いた・・・・・。

 小さいながら異常事態を察し・・・・
 わがままなど言えなかった。

 大泊に着いた時

 知人に

 「ここにいなさい・・・・」と大混乱の人ごみ
 の中に置き去りにされた。

 私は1人身も世もなく大泣きに泣いていた。

 何時間かして母が見つけてくれた時は涙も
 枯れはてていた・・・・。


 (大泊港)

 


 船の中では何度も迷子になっている。

 嬉しくてデッキに出て遊んでいるうちに迷子
 になりそのたびに白い服の若い船員さんに

 自分の家族の居る船底に連れて行かれた。

 服の胸にはがっちりと本籍や生年月日、
 保護者名などが書かれた布が縫いつけられ
 ていたので何度迷子になっても心配なかつ
 た。

 あの暗い幼少期の唯一の憧れは船員さん
 だった・・・・。

 今まで目にしたことのない真っ白な船員服
 と優しく凛々しかった彼の姿は

 数十年経った今も美しい光景となって

 私の内に蘇る・・・・。


 函館に下船した私達は

 父の従兄弟を頼り伊達の地に降り立った。

 迎えの馬車に乗り足をブラブラさせ

 穏やかな日ざしの中、石けりなどをして
 遊んでいる子供たちののどかな風景に

 幼い私は

 今まで味わったことのなかった

 普通に生きているということの幸せを

 強く感じていた・・・・。




 

(大泊の連絡船)




 その後伊達を離れて数十年


 伊達時代に出会った夫と7年前に

 またこの地に帰って来た。

 今、あの幼い日伊達に辿り着いた時の

 安堵と安らぎをじっくり味わっている・・・・。





  過去の記事を悪戦苦闘して三つコピーすることに成功したが


  途中「翻訳」しますとか訳の分からない表示が出たりして


  困惑した・・・。




   またまた朝になってしもうた・・・


   ここまでお付き合いしてくださりありがとうございます。


   まだまだ書き足りないことが沢山あります


   カテゴリー「樺太」をぽちっとしていただければ幸いです。




 





 小学三年の私と母と姉


   この頃は大滝に転居して


   父も林業で生活も徐々に安定していく。























  


     





   


 

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