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大正区戦跡ウォーキングに参加しました。

2010年03月14日 | 行事のご案内&報告

 昨日は大正区の戦跡ウォーキングに参加。午前9時にJR大正駅に集合、『毎日新聞』にも案内記事が載っていたらしく遠方からの参加者もあって18人で出発。

 1番目のポイントは駅からすぐ近くの大正橋。川を挟んで目の前に大阪ドームが見える。大正区には第1次世界大戦で捕虜になったドイツ人たちを収容した大阪俘虜収容所があったのだが、そのドイツ人たちに因んで作られたと言われているのがこの大正橋のベートーベンの第九交響曲「歓喜の歌」の楽譜の付いた欄干だ。歩道はピアノの鍵盤、縁石がメトロノームになっている。


五線譜にト音記号から始まり音符をたどると「歓喜の歌」になる

 続いて大正橋の西詰めの「大地震両川口津波記」石碑を訪ねる。戦争とは関係ないが1854年の大地震で安治川、木津川の両川口に巨大津波が押し寄せた教訓を記す場所だ。

 大正橋の反対側を渡り戻り、駅裏界隈の沖縄関係居酒屋密集地域をくぐり抜けて八坂神社の境内に到着。八坂神社は木津川に浚渫など大阪の水利確保に尽力した中村勘助が京都祇園の分霊を祭った神社で、大阪大空襲を生き残って樹齢370年の銀杏の木がある。現在はその孫に当たる若木が成長し時代の流れを感じる。


銀杏の木を通して東を向いて遙拝した

 木の裏側には戦中の紀元2600年祭を記念して建てられた巨石を丸く穿った遙拝所がある。ガイドの説明を受けていると神社の宮司さんがやってきてさらに詳しくこの神社の歴史や昨今の神社経営についても話された。なんと2000年~3000年前の大阪は今の上町台地とこの神社のある姫嶋という場所(島だった)しか無かったということらしい。それ以外は沼地か海ばかりだったそうである。なお神社の裏に1917年建てられ、これ戦災を生き延びた中村勘助の功績をたたえる彰徳碑がある。

 八坂神社の次に向かったのは「近代紡績発祥地記念碑」の建つ三軒家公園。1883年操業開始の大阪紡績(東洋紡の前身)の発祥地だ。渋沢栄一の呼びかけに華族、財界有力者、在阪綿関係業者が出資、世界最大規模の紡績工場がここに生まれた。昼夜2交代制、大阪で初めて電灯を使うなど日本の紡績を象徴する工場だった。

 しかし労働者にとっては厳しい労働環境だった。少女・年少者を問わず徹夜業を含む12時間交代制、監視付きの不衛生な寄宿舎生活、粗悪な食事と残虐な体罰と貞操を犯すこともいとわない労務管理、前借金制度による賃金の強制天引きなど。1892年の寄宿舎全焼事故では大勢の女工たちが鍵のかけられた部屋から逃げられずに犠牲になった。


当時の大阪紡績工場

 その後大阪紡績は合併を重ね巨大化、3000近い従業員数になる(女工たちがほとんどでその多くは沖縄や奄美出身者たちだった)東洋紡三軒家工場に発展、労働組合も結成される。劣悪な労働環境や寄宿舎生活、低賃金に対する怒りは強まり、提出した要求書を拒否する会社に対する怒りが爆発、ストライキ決行へと機運が高まったが、暴力団や特高に率いられた警察隊により潰されている。

 一通りの説明の後、なぜ大正区に沖縄出身者が多いのか? この疑問に対して近在の真栄田義且さん(沖縄平和観光センター)にガイドしていただき、次の場所に向かった。

 三軒家公園を出て今度は平尾亥開公園に向かい、大阪俘虜収容所跡碑について説明を聞く。1914年、第1次大戦のドイツ軍捕虜を収容するために大阪府警察部の隔離病棟だったものを転用して作られた捕虜収容所である。1917年の閉鎖まで760人が収容されていた。捕虜に対する扱いは朝夕2回の点呼以外に労働は特になく、捕虜たちは演劇、音楽、スポーツなどを楽しんで過ごしたという。解放後日本にとどまり永住したものも多く、神戸のバームクーヘンで有名なカール・ユーハイムもその一人であった。


当時の大阪俘虜収容所


黄色のフェンスから煙突に向かっての一帯が収容所だった


収容所生活の一コマ

  続いて訪れたのは南恩加島小学校の一六地蔵尊。大阪大空襲が迫った1944年9月、大阪市立南恩加島国民学校3年生の29人が徳島県美馬郡貞光町の真光寺に集団疎開、ある夜のこと、漏電による火災で16人が犠牲になった。戦後間もなく同寺内に慰霊碑が建立され、2003年1月に小学校内に作られたのがこのモニュメントだ。校門前の説明だけで休日のため中に入れないと思っていたが、ダメもとで守衛さんにお願いすると見学させてもらうことができた。


モニュメントの壁面に犠牲となった子どもたちの銅版画が埋め込んである

 大正区南端の埋立地に作られた木津川飛行場跡を訪ねるため小雨ぱらつく木津川運河を渡る。一体は中山製鋼所の巨大工場地帯になっている。私たち以外にほとんど人の姿は無い。トラックが行き交う道路端を歩いて木津川に架かる橋の入り口となる巨大ループを過ぎた辺りに記念碑がある。1929年近代大阪の玄関口として開港、東京、福岡、四国などに就航した。しかし、交通の便の悪さや航空環境の悪さからその役割は八尾空港や伊丹空港に引き継がれ1939年に閉鎖された。


現在は工場になってるが当時の格納庫をそのまま使用したと思われる

 隣の住之江区のことであるが、関連説明の中で木津川を挟んだ川縁にあった藤永田造船所についても話が及んだ。江戸時代に船大工として創業したこの造船所は1929年海軍の指定工場になり数多くの駆逐艦を建造した。その最盛期には1万6千人の労働者を抱え、その中の約半数が朝鮮人や中国からの強制連行、さらに連合国の捕虜たちであったと言われている。

 さて、最後の訪問場所の日本ゼネラル・モータース跡地に向かうには再び木津川運河渡らねばならない。わずか1分ぐらいだが渡船に乗る。川の多い大阪の街ならではの景色である。渡ったその先すぐがその跡地であった。GM車の販売は大正時代から梁瀬自動車が行ってきたが、フォード社が横浜に工場を造ったことに対抗してできたのがこの「日本ゼネラル・モータース社」だった。各地での誘致合戦の中、大阪市の出した破格の好条件が決めてとなり、この地で1927年に操業を開始したが、太平洋戦争開始で操業は中止された。


この一帯にGM日本工場があった


当時の大正区地図にも記されている

 1929年には労働者の解雇を巡って39日間の歴史的長期争議がたたかわれている。『治安維持法とわたし 戦前編』(日本機関紙出版刊)の著者、桑原英武さんは当時18歳でこの争議の専属プリンター(闘争ニュースの印刷工)としてアジトを転々としたと回想している。

 以上、大正区戦跡巡りレポートでした。(おしまい)

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