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神社

2017年01月03日 22時08分43秒 | 日本
「伊勢神社」

「延喜神名式」によると天照大御神という女神は存在せず、日本のいくつかの地域に「天照御魂神社」があり、アマテルという男神が存在する。

天照大御神は何者だろうか。あるサイトに
「外宮ー豊受大神ー天照大神ーヤーウェ、荒祭宮ー天照大神荒魂ー瀬織津姫-伊豆能売」
というのがあった。

なぜ、天照大御神が必要だったのだろう。卑弥呼があまりに有名なので、大和朝廷では神話に女神を創造して、歴史に合わせたのだろうか。3世紀、中国には大和朝廷の記述はない。あるのは卑弥呼。大和朝廷の存在を示すものはない。当然この時代には卑弥呼は歴史上有名な女帝である。無視はできない。8世紀奈良時代の記紀を書いた人物、持統天皇周辺がつくった苦肉の策か。

卑弥呼と天照大御神と年代は合わない。もともと開化天皇はじめこの時期より前には天皇はいないと考えるのが自然。

天照大御神→天忍穂耳尊(アマノオシホミミノミコト)→瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)→彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト・山幸彦)→ウガヤフキアエズ→神武天皇→(2代)→(3代)→(4代)→(5代)→(6代)→(7代)→(8代)→開化天皇→崇神天皇

崇神天皇が神武天皇との説は歴史的に有力な説となっているようだ。2代から9代開化天皇までの実在を疑う「欠史八代」説が主流となっている。
つまり倭国混乱の時代をまとめたトヨの後を治めたのが神武天皇こと崇神天皇と考えることができる。
応神天皇まで「神」のつく天皇は武天皇・崇神天皇・応神天皇で同じ天皇と見る説もある。

神話では、
三種の神器の一つ八咫鏡に「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。(『日本書紀』)」として天照大御神自身の神霊を込めたとされる。崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神(八咫鏡)と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。これが伊勢神社のはじめ元伊勢神社となる。

また、天武天皇が壬申の乱で助けてくれた海洋民族の海部氏や尾張氏のために彼らの太陽神を祭るため伊勢神社を再建した。という説がある。

この八咫鏡にはつぎのような面白いエピソードがある。
「明治時代の文部大臣であった森有礼という人は、伊勢神宮の八咫鏡の裏面にヘブライ文字で”エヘイエ アシェル エヘイエ”と書いてあるのを自分で見た。
「エヘイエ アシェル エヘイエ」を邦訳すると、「われは在りて在るものなり」となる。モーゼがシナイ山に登って神と会った時、”あなたのことを何とお呼びすれば宜(よろ)しいのでしょう”というモーゼの問いに対して、神がこう答えられたと伝えている。
だが、それを確認することは、誰にも出来ない。八咫鏡は覆いをかけられて箱の中に厳重に収められ、これを開けることはタブーとされているからである。皇室の中の誰も、今上天皇陛下でさえも、実際に見たことはないという。
明治十八年に初代文部大臣になった薩摩藩出身の森有礼は、これを見た為に不敬だと言われ、伊勢神宮の神官の甥に暗殺されてしまったのである。」


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「若狭彦神社」「若狭姫神社」

 若狭彦神社は彦火火出見尊<ヒコホホデミノミコト>(山幸彦)、若狭姫神社は豊玉姫を主祭神とする


 元伊勢神社の海部氏には、個人所有の家系図としては日本最古とされる『海部氏系図』(国宝)がある。
 海部さんによると始祖に記される名は、「彦火明命」(ヒコホアカリノミコト)<ニギハヤヒ>とのこと。

 そしてこのようにおしゃいます。
「彦火明命は、別名ニギハヤヒノミコトと言い、神武天皇の父・ニニギノミコトとは兄弟です」
これが本当なら、ニニギノミコトの子である山幸彦が神武天皇となり、豊玉姫は奥さんとなる。

天照大御神を卑弥呼として、山幸彦が神武天皇であるとする。
さらに、チャート出意人さんのブログはじめ神武天皇と崇神天皇と応神天皇が同一説は多い、であれば、つぎのような仮説が成り立つ。

(1)記紀
天照大御神→アマノオシホミミノミコト→
ニニギノミコト(妻;木花佐久夜姫)→山幸彦<神武天皇?>、
ー豊玉姫(山幸彦<神武天皇?>の妻、兄弟:海幸彦)

(2)仮説
卑弥呼  ー男の王 →
仲哀天皇(妻;神功皇后)→応神天皇<神武天皇?>     
ートヨ<豊姫>(神功皇后の妹もしくは神功皇后本人との説もある、武内宿禰の妻)

不謹慎ながら木花佐久夜姫も神功皇后も子供が他人の子ではないかという不倫の話がある。
ここで木花佐久夜姫と神功皇后がつながる。
木花佐久夜姫も神功皇后も九州にゆかりの神社が多い。

さらに神功皇后のお相手とされる武内宿禰・甘美内宿禰(うましうちのすくね)は海人族紀氏であり、海幸彦という説がある。
ということは神功皇后のお相手、武内宿禰が海幸彦だとすると、木花佐久夜姫のお相手が海幸彦(武内宿禰)だったということでしょうか。しかし、木花佐久夜姫の子が海幸彦ですね、 

神社を尋ねて、持統天皇周辺がつくった記紀は、どんな歴史上の登場人物を配役したのか推測するしかない。


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「宇美八幡宮」
 
 神功皇后が応神天皇をお産みになった所。福岡県の宇美町にある。応神天皇降誕について、日本書紀」に、「『皇后新羅』より還り給う十二月十四日誉田天皇(應神天皇)を筑紫の蚊田に生み給う時今其の産所を號(なず)けて宇瀰という。」とある。

やはり、神功皇后の活躍の地は朝鮮と九州だと思います。武内宿禰の力を借りて吉備の国に足がかりをつくったのかな。そして応神天皇(崇神天皇)が東征され、国をたてたのではないでしょうか。


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「香椎宮」

 宮は福岡市東区にあります。私は若いとき近くに住んでいました。子供を連れてよくこのお宮に遊びに行きました。子供が鳩を追いかけて遊んでいました。懐かしいお宮です。

 このお宮で武内宿禰が神託を問うと神は、「この国は今皇后の腹の中に居る御子(応神天皇)が治める国である」と答えられる、とある。応神天皇(崇神天皇)まではこの国はまだ統一されていなかったのかも。
となると、母の神功皇后と武内宿禰が基盤をつくり、応神天皇(崇神天皇)が、東を制服されて、国を統治されたのではないでしょうか。


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「新田神社」

鹿児島県薩摩川内市の神社

境内には「可愛陵社」ニニギノミコトの墓、「端陵神社」木花佐久夜姫の墓と伝わる。

「可愛陵社」(えのみささぎしゃ)
明治7年の可愛山陵指定によって創建され新田神社の境内社から、大正3年に宮内省の管轄に移管される。

「端陵神社」(はしのみささぎじんじゃ)
祭神:木花開耶姫尊(邇邇杵尊の妃神)
神亀山の頭部部分に鎮座。邇邇杵尊の妃神の御陵と伝わるため、「御前様陵(ごぜんさまのみささぎ)」とも呼ばれる。

 ニニギノミコトが神武天皇(応神天皇、山幸彦)の父というこれまでの展開した説によると、応神天皇の父とされる仲哀天皇は熊襲の征伐で亡くなる。仲哀天皇とニニギノミコトが鹿児島でつながる。

もっとも仲哀天皇架空説があったり、恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ:大阪府藤井寺市藤井寺)が仲哀天皇の墓とされていたりするので、空想の域である。

虚構であっても木花佐久夜姫も神功皇后も九州が主な舞台であり、神武天皇(応神天皇)からが近畿に舞台が移ると考える。





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「荒脛巾神社」

宮城県多賀城市、祭神は荒脛巾神

神社へ行ったことはありませんが、
「あらはばきの神」というと縄文の神とかいろいろな説があるため何かありそうな神です。

ハバルキとはヒッタイトの鉄製品の意味もあるそうです。
縄文時代に大陸から来たヒッタイトの神でしょうか。

神武天皇の東征で負けた方の神とか、
国譲りをし東北に逃れた出雲の神でしょうか。

または、渡来人らが仏教で日本を治める以前の日本古来の神ということでしょうか。
「神道の国」である日本が「仏教の国」に変わる。
背景はやはり百済王室のクーデター、大化の改新ではなく乙巳の変。
蘇我氏とともに記紀で消された神でしょうか。

渡来人から追い出されて、東北の方へ逃げた神だとかでしょうか。


やはり「艮の金神」なのでしょうか。
そうならば、大本教がいう新しい世をつくる神なのかもしれません。


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幣立(へいたて)神宮

阿蘇にあります。

主祭神は神漏岐命・神漏美命(かむろぎのみこと・かむろみのみこと)

「この二柱の神は、古代人々が互いに争うことを天の神が心配して地上に遣わした、とされています。火の玉に乗り、幣立神宮の檜に降臨しました。」
「8月23日には五色神祭、また五年に一回行われる「五色神大祭」には、外国人も含めたくさんの人々が集まります。」太古からの祭りだそうです。

春木秀映宮司が「幣立神宮は今から1万5千年前にできた」と主張している。
不思議な神社ということで、一度だけ参拝しました。

他にご祭神は天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、大宇宙大和神(おおとのちおおかみ)、そして天照大神です。

「神武天皇の孫である健磐龍命(たけいわたつのみこと)が、この地で幣を立て宇宙から降臨された神々を祀ったことが始まり、また、「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)が境内の池の水で全国の要所を清めた、という伝説が伝わっています。」

参拝して感じたのは伊勢神宮や若狭神宮と同じ神宮と名がつくけど、少し期待はずれでした。厳かさを感じない。
1万5千年前の縄文時代にできたということにしても、7300年前に九州・屋久島近くの海中で起こった鬼界カルデラ噴火(アカホヤ噴火)で一度九州の縄文文化は全滅したはず。

何か腑に落ちない、けど「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)の話もあり、高天原の中心という話もあり、面白い。



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入鹿(いるか)神社


 藤原不比等とその一族は、不比等の父、鎌足(中臣鎌足)が入鹿を殺害した乙巳の変を日本書紀で正当化するために、入鹿を貶めた。しかし、この神社の人々は入鹿を大切に守っている。

あるネットに『境内にあった普賢寺にあった石碑に「聖徳太子」と刻まれており、ここに聖徳太子が眠っているという可能性があると言われている』そうである。

『「元興寺縁起帳」によると、大々王(物部氏出身)の子が聡耳皇子』
『「先代旧事本記」によると、宗我嶋大臣(蘇我馬子)と物部鎌姫大刀自連公の間にできた子が豊浦大臣(入鹿)と記されています。』とある。

物部鎌姫大刀自連公を大々王とし、聡耳皇子を聖徳太子とする説がある。となると入鹿が聖徳太子となる。

こんなサイトもある。

『「元興寺縁起帳」よると巷奇有明子(蘇我馬子)の子が善徳(元興寺を建てる)であると記されています。』

『580年 物部鎌姫大刀自連公、宗我嶋大臣(蘇我馬子)の妻と為りて豊浦大臣を生む。名を入鹿連公と曰ふ(旧事本紀)。』

『善徳が法興寺(元興寺)の寺司になった596年に16歳だったのですから、596年-16年=580年で、入鹿の生年580年と一致しているのです。』

『真の聖徳太子 ・蘇我善徳は十六歳で法興寺の初代管長(寺司)となったことは、日本中に聖徳太子 十六歳像として残されています。
しかしその時以来、蘇我善徳の消息は日本書紀の中からぷっつりと消え去り、代わりにいつの間にか蘇我馬子の長男が「蘇我蝦夷」へとすり変わってしまうのです。』

 
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