(2)持戒波羅蜜多
「戒」とは、してはならない事。個人に課せられる禁止項目。大乗仏教では不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の五つ。これらはもともと在家の戒ですから坊さん以外の私達も守らねばなりません。(しかし、不飲酒は難しいねえ。煙草は止めたけど)
時々新聞などに、厳格に不殺生戒を守っている人達の話が載っています。なぜか欧米の人が入っています。彼らは蚊さえ殺さんと両手で包むようにしてそっと戸外へ放すのだそうです。(もしもその蚊が感染症をまき散らしたらどうするんでしょう?)
日本の禅寺でも蚊に悩まされながら坐禅してます。冬はわざと小窓開けて小雪の舞う中坐禅するのだそうです。何であんな事するんでしょう。お釈迦さんは「苦行なんて意味ない」と言ったのに。第一、インドは普通雪降らんでしょう。
私には、弟子がさっさと追い越して行かんように師が意地悪しているようにしか思えんのですが。
釈迦は教えを得る見返りや慈悲の実践として命を投げ出すなんて事決してしません。
仏教者達はやがて「虫一匹殺さぬ為に己の命を捨てる」、などと言うひどく妄想した考えを生み出しました。
こんな発想をせず、晴れの日は晴れの日として、嵐の日は嵐の日として、有るがままにそのままに魂の心に従って意気揚々と生きる、それが仏陀です。
六波羅蜜多は本来そうなる為の修行法のはずですから、不殺生戒とは「生き物を殺そうという気持ちの全くない人間であろう」とする行のはずです。
従って「実際に生き物を殺さなければ殺意が有ってもよい」というものでは有りません。ここが刑法と違うところです。
おのれが生きて行く為に多を殺して喰う、それが生き物ですよ。ただ人間だけがその事に心を痛める、それでいて無駄な殺生をする。だからこそ心を磨かんといかん。将に「無駄な殺生、するが殺生」です。
もし、ほんまに虫一匹殺してはならんとなるとどぶ掃除一つ出来んようになります。蚊を殺してはならんがボーフラは構わん、とはならんでしょう?(犬公方はこれを命じたらしいね、あほや!)
釈迦は(意識して)生き物を殺すな、と言ったとされます。すると「生き物を一切殺さないというのは実際不可能ではないか」と或るバラモンが迫りました。釈迦はまともに相手をしませんでした。このバラモンは入り口を間違っているのです。殆どの人がそうです。だから修行者は独居し一人三昧境を歩むのです。
この世に人間にとっての害虫、害獣が居り、人々が肉食をする限り殺生は避けられない事です。
だからと言って「現実には一切の殺生を止める事は不可能なのだから、祭祀の為に生贄の動物を殺す邪魔をするな」という人を貴方はどう思いますか?
このバラモンのように本音を隠して議論を仕掛けるだけの人や、「自分達の考えや文化・習慣に合わない者は悪人であり野蛮人である」などと決めつける人達と付き合うのは無益な事です。
宗教は法律では有りません。(釈迦の仏教は宗教とは言えないでしょうが)
・法律の対象は行動。
・宗教の対象は自分の心。他人の行動や心が対象なのでは有りません。
従って、法律の文章に反に無ければ何をやっても構わんと考えたり、そんな邪な心で行動したのであれば仮令結果が良かったとしても、宗教や倫理的には非難されるべきなのです。
-続きは次号ですー
「戒」とは、してはならない事。個人に課せられる禁止項目。大乗仏教では不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の五つ。これらはもともと在家の戒ですから坊さん以外の私達も守らねばなりません。(しかし、不飲酒は難しいねえ。煙草は止めたけど)
時々新聞などに、厳格に不殺生戒を守っている人達の話が載っています。なぜか欧米の人が入っています。彼らは蚊さえ殺さんと両手で包むようにしてそっと戸外へ放すのだそうです。(もしもその蚊が感染症をまき散らしたらどうするんでしょう?)
日本の禅寺でも蚊に悩まされながら坐禅してます。冬はわざと小窓開けて小雪の舞う中坐禅するのだそうです。何であんな事するんでしょう。お釈迦さんは「苦行なんて意味ない」と言ったのに。第一、インドは普通雪降らんでしょう。
私には、弟子がさっさと追い越して行かんように師が意地悪しているようにしか思えんのですが。
釈迦は教えを得る見返りや慈悲の実践として命を投げ出すなんて事決してしません。
仏教者達はやがて「虫一匹殺さぬ為に己の命を捨てる」、などと言うひどく妄想した考えを生み出しました。
こんな発想をせず、晴れの日は晴れの日として、嵐の日は嵐の日として、有るがままにそのままに魂の心に従って意気揚々と生きる、それが仏陀です。
六波羅蜜多は本来そうなる為の修行法のはずですから、不殺生戒とは「生き物を殺そうという気持ちの全くない人間であろう」とする行のはずです。
従って「実際に生き物を殺さなければ殺意が有ってもよい」というものでは有りません。ここが刑法と違うところです。
おのれが生きて行く為に多を殺して喰う、それが生き物ですよ。ただ人間だけがその事に心を痛める、それでいて無駄な殺生をする。だからこそ心を磨かんといかん。将に「無駄な殺生、するが殺生」です。
もし、ほんまに虫一匹殺してはならんとなるとどぶ掃除一つ出来んようになります。蚊を殺してはならんがボーフラは構わん、とはならんでしょう?(犬公方はこれを命じたらしいね、あほや!)
釈迦は(意識して)生き物を殺すな、と言ったとされます。すると「生き物を一切殺さないというのは実際不可能ではないか」と或るバラモンが迫りました。釈迦はまともに相手をしませんでした。このバラモンは入り口を間違っているのです。殆どの人がそうです。だから修行者は独居し一人三昧境を歩むのです。
この世に人間にとっての害虫、害獣が居り、人々が肉食をする限り殺生は避けられない事です。
だからと言って「現実には一切の殺生を止める事は不可能なのだから、祭祀の為に生贄の動物を殺す邪魔をするな」という人を貴方はどう思いますか?
このバラモンのように本音を隠して議論を仕掛けるだけの人や、「自分達の考えや文化・習慣に合わない者は悪人であり野蛮人である」などと決めつける人達と付き合うのは無益な事です。
宗教は法律では有りません。(釈迦の仏教は宗教とは言えないでしょうが)
・法律の対象は行動。
・宗教の対象は自分の心。他人の行動や心が対象なのでは有りません。
従って、法律の文章に反に無ければ何をやっても構わんと考えたり、そんな邪な心で行動したのであれば仮令結果が良かったとしても、宗教や倫理的には非難されるべきなのです。
-続きは次号ですー