私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。吉備の国の中心地でもある吉備津からその歴史などをお届けします

「日韓古史断」では、当時の日韓関係を如何に・・・・

2016-10-29 08:07:57 | 日記

「文献通考」に、雄略帝の時代(480年頃)の中国への航路は、百済から遼東を経由したものだったと、昨日、書いたのですが、その参考資料として使ったのが、私の持っている自慢の古書、明治44年に出版された吉田東吾の「日韓古史断」です。その中に

                            

  “・・・・多くは百済に出でゝ西航し、其の筑紫より知訶島を経て直渡呉越を指せるにはあらず、隋・唐に及び朝遣使の発送あるに至り、初めて直に知訶の美弥良久崎より西渡したりと云う・・」

と書いてあります。
 九州から直接中国に渡ったのではなく、まず、百済に行き、さらに、海岸沿いに遼東半島付近を経由して中国本土に到着する航路です。 この航路を通ると、どうしても、当時、朝鮮北部から満州辺りまでをその勢力範囲にして強大な力を保持していた「高句麗」を経由しなくてはならないのです。当時、その「高句麗」と我が国「倭国」との関係は、391年の好太王碑に書かれている事件でもわかるように、両国は戦争状態だったことが伺われます。それが、宋書に云う

             “句驪無道図見吞掠抄辺隷”

です。、
 此の中に見られるように、あたかも、現在、あれほどの国際世論を無視して核実験などを強行している北朝鮮と全く同じような“句驪無道”???な政治を高句麗も行っていたというのですが、800字を越えましたので、それについては、また、明日に。

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