ほそかわ・かずひこの BLOG

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人権343~ミラーはネイションを踏まえて国際的な正義を検討

2016-08-24 09:56:50 | 人権
●ミラーはネイションを踏まえて国際的な正義を検討

 イギリスの政治学者デイヴィッド・ミラーは、コミュニタリアンであり、またリベラル・ナショナリストである。もっともミラー自身はリベラル・ナショナリストと呼ばれることを好まず、「ナショナリスト」または「ソーシャル・ナショナリスト」を自称する。
 ミラーは、社会民主主義による社会正義論からナショナリズムの研究に進んだ。その研究をもとに、ネイションとしての責任という観点から、グローバルな正義を論じている。
 第6章で人権と国民国家とナショナリズムの関係に関する項目に書いたが、アーネスト・ゲルナーは、ナショナリズムとは「第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければいけないと主張する一つの政治的原理である」と定義した。ナショナリズムは、民族的な集団が政治的な集団でもあろうとし、政治的権力を獲得し、維持・拡大しようとするものである。アンソニー・スミスは、ネイションとは「歴史的領土、共通の神話や歴史的記憶、大衆、公的文化、共通する経済、構成員に対する共通する法的権利義務を共有する特定の人々」と定義した。一個の集団が、このように定義されるところのネイションを形成し、発展させようとする思想・運動が、ナショナリズムである。
 ミラーは、著書『ナショナリティについて』(1995年)で、ゲルナー、スミス等の業績を踏まえて、ネイションに関する研究を発展させた。リベラル・デモクラシーの前提であるデモクラシー、平等、個人の権利という要素を分析し、これらが実現できるのはネイションにおいてであることを明らかにした。ネイションは党派的対立を含みながらも公共の利益を追求し、また財産を社会正義のために再配分し、さらに最低限の個人の自由や権利を保障するために必要な連帯意識を提供する。それゆえに、ナショナリティつまり国民・国家・民族・国籍は肯定されるべきものであると説く。
 ミラーによると、ナショナリズムはアイデンティティを創造し、人々に自分が独自の性格と文化を持つ世代を超えた共同体の一員であることを認識させる。ナショナル・アイデンティティは、人々の自己理解のなかで発展する。ただし、ネイションの構成員の基準は変わり得るし、人種的あるいはエスニックな基準で理解される必要はない。ナショナリティは人格的アイデンティティの重要な要素だが、排他的である必要はなく、またそうあるべきでない。あるネイションに所属することは、多くの下位集団つまり郷土的・文化的・宗教的等の集団の一員であることを排除することではなく、むしろそれらによって補完される。ネイションへの所属によって人は同胞に対して特別の義務を負うが、このことは外部の人々への義務を負うことと矛盾しない。すべてのネイションは自己決定権を持つので、いかなるネイションも自決の名のもとに同様の権利を他のネイションに認めないような政策を進める権利を持たない。ネイションには他のネイションの自己決定を尊重する義務がある。相互尊重の態度から、国民国家による国際秩序が導き出される。
 ちなみに、ミラーの説くネイションにおける特別の義務は、サンデルの説く「連帯の義務」に当たる。ただし、サンデルは、家族における連帯の義務とネイションにおける連帯の義務の質的な違いを明確にしていない。ミラーのいう国民以外の人々への義務は、サンデルの説く「自然的義務」に当たる。サンデルはこの普遍的な義務を認めるが、積極的には論じていない。この点でミラーの義務論は、サンデルより具体的で優れている。
 ミラーは、グローバル化によって人間の連帯意識が低下し、ネイションの文化が後退して、福祉や教育の弱体化が生じることにより、社会的格差が拡大すると指摘する。グローバル化の中でこそナショナリティの機能を回復・強化しなければならないと主張する。この点は、伝統的な価値の回復を説く佐伯啓思に通じる。ちなみに佐伯は、ネイション重視のコミュニタリアンに近いが、自由主義への批判を徹底し、自由民主主義からの脱却と「日本的な価値」の回復を説いている。自由主義的な側面を持つリベラル・ナショナリストとは一線を画す。
 ミラーは、閉鎖的なコミュニタリアンでも、偏狭なナショナリストでもない。グローバルな貧困や不平等の問題に関心を持ち、この問題を論じるために『国際正義とは何か』(2007年、原題「ネイションとしての責任とグローバルな正義」)を著している。本書でミラーは、ネイションとしての責任という概念を基に、ナショナリズム、コスモポリタニズム、及びグローバルな正義について、詳細かつ綿密な検討を行っている。
 ミラーはこの検討に当たり、最初に三つの一般的な指針を示す。第一の指針は、「人間をつねに行為の受け手であり、また主体でもあると見なすこと」である。つまり、人間を「他人の助けなしには生存し得ない貧しく傷つきやすい存在」であるとともに、「自らの生のために選択をなし責任を取ることのできる存在」であるとして、これらの両面から見ることである。この指針は、貧困者は単に救済されるべき対象ではなく、支援することによって自立を促すべき対象であるという認識に導く。第二の指針は、正義の要請に関して「個人としての観点」に立つ個人倫理的アプローチと、「国家を含めて大規模な人間的組織への参加者としての観点」に立つ制度的アプローチの双方から理解することである。この指針は、制度的なアプローチに個人倫理的なアプローチを結びつけたグローバルな正義の理論への方向を指し示す。第三の指針は、「国内的文脈と国際的文脈との大きな違いを考慮に入れ、それゆえたんに社会正義のよく知られた原理を拡大するのではない形で、グローバルな正義を理解すること」である。この指針は、正義は一元的なものではなく多元的であり、また文脈によって決定されるという理解に基づく。
 これらの三つの指針は、どれも重要なものである。今日、国際的な正義を検討する上で、欠かせない指針と言えよう。なお、ミラーが説く「グローバルな正義」は、コスモポリタンの言う意味とは異なり、ネイションを単位とした国際社会における国際的な正義を意味する。混同しやすいので注意を要する。

 次回に続く。

■追記
 本項を含む拙稿「人権――その起源と目標」第4部は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i-4.htm

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