ほそかわ・かずひこの BLOG

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人権339~ヌスバウムはケイパビリティによるグローバル正義を構想(続き1)

2016-08-14 08:44:53 | 人権
●ヌスバウムはケイパビリティによるグローバル正義を構想(続き)

 ヌスバウムの思想の支柱には、ロールズ以外にアリストテレスとカントがある。彼女は、もともとアリストテレスの研究者だった。ヌスバウムの人間観は、第一にアリストテレスに多くを負っている。例えば、次のように言う。
 「アリストテレスの構想は、『政治的動物』として人間を見る。すなわち、それは、道徳的政治的存在であるだけでなく、動物的肉体を持ち、そして人間の尊厳はその動物的本性に対立するものよりはむしろそれに本来備わっており、そしてその時間の経過と軌道において備わっている。人間は愛情を必要とする赤ん坊として始まり、ゆっくり成長し、そして成長するにつれ多くの世話を必要とする」
 「ケイパビリティ・アプローチは、『独立』としたものとして人々をイメージしない。人々は政治的動物であるため、その関心はその生活全般にわたり他者の関心と結び付けられている。その目標は共有された目標である。また生活の局面をとおして非対称的に他者に依存し、そしてある者はその生活全般にわたって非対称的に依存する状況にある」と。
 このようにヌスバウムは、アリストテレスの人間観を継承している。ただし、サンデルのように、正義を認定する論拠はそれが促進する目的や目標の道徳的重要性にあるというアリストテレスの目的論的な考えを明示的には支持していない。この特徴は、次のカントの理解とも関係する。
 ヌスバウムの思想における第二の支柱は、カントである。ケイパビリティ・アプローチはカントの「目的の国」の理念を具現化するものだ、とヌスバウムはいう。そして、次のように大意述べている。
 「ケイパビリティは、あらゆる国において、一人ひとり、そしてすべての人のために追及されるべきであり、一人ひとりを目的として扱い、そして誰も他者の目的の単なる道具として扱われてはならない。『一人一人を目的とする原理』に基づくものが、ケイパビリティである」と。
 ヌスバウムは、政治的動物である人間が一人ひとりを目的とする社会を目指すならば、女性、障害者、外国人のケイパビリティを拡大する取り組みを行うことになる、と考える。ヌスバウムは、コスモポリタンの特徴として国民国家の役割を否定するから、現実の国際社会では急進的で観念的な仕方で制度の改革を唱える論者となっている。
 だが、私見を述べると、ヌスバウムの思想には矛盾がある。まずアリストテレスの政治的動物は、ポリスというコミュニティにおける人間のあり方をいうものである。アリストテレス的な共同体は、支配集団に関する限り、親子・夫婦・祖孫等の家族的血縁的なつながり、集団における生命の共有と共同性に基づく社会である。そのような共同体においてこそ、共同体の防衛とともに、その構成員である子ども・女性・老人・障害者の支援ができる。古代ギリシャのポリスを近代西欧の国民国家と比較することはできても、現代世界のコスモポリタンの集合体の範例とすることはできない。コスモポリタニズムは、ポリスで参政権を与えられなかった異邦人の思想に源流を持つものであって、アリストテレスの政治倫理思想とは相容れない。
 次に、ヌスバウムは、カントに基づいて「一人一人を目的とする社会」の実現を説くが、ある社会が「目的の国」を目指し得るとすれば、その社会は家族的生命的な基礎を持つ共同体であって、コスモポリタンの集合体ではあり得ない。現代においてそうした共同体があり得るとすれば、歴史的・社会的・文化的に形成され、正義の体系としての法を持ち、人々が権利義務の関係の中で自らの役割を果たしている社会、即ち国民国家以外にはない。
 カントの永遠平和論にコスモポリタン的な側面があるのは確かであるけれども、カントは近代国家を否定していない。永遠平和の構想においても、「法の支配」が行われている自由な諸国家による国家連合を提唱している。それゆえ、カントについても、ヌスバウムの思想は矛盾を呈している。
 ここで「人間の尊厳」と「目的の国」について補足すると、カントは、人間は、個人個人が尊厳を備えていると説いている。個人は、何かの目的を実現するために、単に手段とされてはならない。その実現すべき目的そのものでなければならない。だが、また単に目的とされるのではなく、互いがその目的を実現する手段となって、協力し合わなければならない。カントは、すべての人が人格的存在として尊敬され、単に手段ではなく、目的とされる社会を「目的の国」と名付けた。「目的の国」は、自由で自律的な人格の共同体であり、市民社会のあるべき姿である。そしてカントは、「目的の国」を地上に建設するため、人々に理性に従って普遍的な道徳法則と一致するように実践するように説いた。カントにおける人間は、感性的であると同時に超感性的であり、市民社会の一員であると同時に、霊的共同体の構成員である。「目的の国」は、感性界・現象界で完結するものではなく、超感性界・叡智界につながっている社会である。現代の世俗化された福祉国家、物質中心に偏った文明が、そのままでカント的な「目的の国」を目指し得ると考えるのは、カントに対する大きな誤解だろう。

 次回に続く。

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