ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権369~人権は近代西欧的理性で基礎づけ得るか

2016-10-29 09:24:17 | 人権
●人権は近代西欧的理性で基礎づけ得るか

 人権の基礎づけは、近代西欧的理性をもって、なし得ることだろうか。
 後期ロールズは、人間や社会について、「道理を理解する」とか「良識ある」という形容を行った。ロールズの項目に書いたが、「道理を理解する」は reasonable の訳語であり、「穏当な」「筋が通っている」等とも訳す。「理性」と訳される reason から派生した語である。ロールズは、また非西洋文明の諸社会について、「良識ある社会」とそうでない社会を分ける。「良識ある」は、decent の訳語である。「まともな」等とも訳す。「良識ある社会」とは、「自由ではないが、政治的な正しさや正義に関する一定の条件を満たす基本的諸制度は有しており、諸国民衆の社会に関する相当程度に正義に適った法を尊重するべくその市民たちを導いていくような社会」であるとロールズはいう。ここには、このような社会が、decent だというロールズの価値観が表れている。逆に、こうしたロールズの価値観から見ると、decent でない、まともでない社会とその社会の人々がいることになる。それは、近代西洋文明諸国の市民のような理性的思考をしない人々ということになるだろう。だが、その人々が、必ずしも理性を欠いた人々とは言えない。文化的な土壌は異なるが、論理的な思考力や善悪への判断力は、人類に広く認められる。また近代西洋文明諸国の市民の理性的思考には、必ずしもまともだとは言えないところがある。そのうえ、今日、近代西欧的な理性に対する反省が世界的に求められている。
 ともにユダヤ人の哲学者・社会学者であるマックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノは、近代化・合理化の進む西欧において、合理化が生み出す非合理性を見た。ナチスによるユダヤ人虐殺や世界大戦の勃発である。彼らは、『啓蒙の弁証法』(1949年)で、「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」と問うた。そして、近代西欧の理性は、近代の初めに持っていた神的意味を失って、目的を実現する手段に変じ、「道具的理性」となっていると批判した。さらに、彼らは西洋文明の発生にまでさかのぼって、合理化について検討した。18世紀の啓蒙主義に関して使われた「啓蒙」という概念の意味を拡大し、「啓蒙」つまり「文明」について検討した。彼らによると、「啓蒙」とは、「呪術の追放」によってアニミズムを否定することであり、自然との一体性を失い、自然から分離することである。神話は、ものに名をつけ、起源を語り、説明しようとする。ホルクハイマーとアドルノは、そこに「啓蒙」が発生したとし、「神話は啓蒙である」と述べた。そして、神話に表れた自然の克服の形式は、近代の啓蒙の限界と暗転を示しており、「啓蒙」の中に自己崩壊の芽があったと断じた。
 近代西洋文明における「啓蒙」は、人間の自己保存のために、自然を支配する力となり、強者が弱者を支配するものとなった。その結果、「啓蒙」は、ナチスによるユダヤ人虐殺や世界大戦などの野蛮に転じた。この逆説を彼らは「余すところなく啓蒙されたこの地球は、災禍が勝利を誇る場となってしまった」と指摘した。そして、啓蒙の自己崩壊を仮借なく批判できるものもまた、理性の自己批判能力以外にないと論じた。
 哲学者のユルゲン・ハーバーマスは、ホルクハイマー、アドルノの問題意識を継承した。マックス・ウェーバー以降、合理性を目的合理性としてのみとらえてきた結果、後期ウェーバーやホルクハイマー、アドルノは近代合理性に対して悲観主義に陥ることになった、とハーバーマスはいう。そして、ウェーバー以後の合理化論は、合理化を「目的合理性の制度化」としてのみとらえていると批判した。ハーバーマスは、そのような「組織・体制的(システム的)な合理化」は近代の一面にすぎず、「生活世界の合理化」を近代の偉大な達成として認めるべきであると指摘する。そして、彼は、近代化はコミュニケーション的な合理性もまた拡大したと評価する。コミュニケーション的合理性とは、対話と意思疎通によって了解をつくっていくという合理性である。ハーバーマスは、近代の合理主義・啓蒙主義を全否定するのではなく、合理性の別の面に光を当て、これを取り出して、現代社会に生かそうと試みている。この発想は、ロールズの「重なり合う合意」に通じるものである。
 人類存亡の危機にある現代人にとって、ホルクハイマー、アドルノのいう理性の持つ自己批判能力や、ハーバーマスのいう対話による相互了解能力を高めることは、必要不可欠のことである。人間に理性がある以上、理性による自己批判や相互了解に、われわれは努力を尽くさねばならない。しかし、近代西洋文明の理性中心の思考では、理性以外の人間の能力について、あまりよく考慮できていない。そのため、人間の能力の全体を見失いないがちになっている。そのため、私は、近代西欧的な理性を以てしては、人権の基礎づけは為し得ないと考える。

 次回に続く。
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