ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

2・7は北方領土の日1

2012-02-07 08:55:34 | 時事
●北方領土問題はどうして起こったのか?

 本日は「北方領土の日」です。昨年のこの日から本日まで、領土返還に前進は見られませんでした。ロシアでは3月に大統領選挙がありますが、当選が確実視されるプーチン現首相は、わが国の北方領土への実効支配を強めており、既成事実化が進められています。わが国の政治は混迷を深め、外交交渉力が低下しており、解決への道は、なお長く困難な道となりそうです。
 そもそも北方領土問題の発端は何だったのでしょうか。
 大東亜戦争の終戦間近、アメリカの原爆投下で日本が決定的に弱まったとき、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、対日参戦しました。昭和20年8月9日のことです。それは背後から袈裟懸けに斬りつけてくるような不意打ちでした。ソ連は満州・南樺太に侵攻し、略奪の限りを尽しました。日本は、8月15日に「ポツダム宣言」を受け入れて、条件つき降伏をしました。すると、ソ連はその3日後の8月18日から、千島列島に攻め込んできました。
 ソ連が列島北端の占守島に上陸し始めたとき、日本軍はこれに応戦し、激しい戦いを繰り広げました。しかし、日本軍は北部方面司令官の命令で23日に局地停戦協定を結び、降伏しました。アメリカが侵攻してきていないことを確認したソ連軍は、8月28日に択捉島、9月1日に国後島、色丹島、9月3日に歯舞群島に上陸し、9月4日には全四島を占拠し終えました。
 当時四島にはロシア人は一人もおらず、日本人は四島全体で約1万7千人が住んでいました。島で生活していた人々の中には、着の身着のまま逃げてきた人もいます。住み慣れた土地を離れられなかった人々も、昭和22年にはソ連軍によって強制的に日本へ送還されました。以後、旧ソ連及びロシアは、北方四島をそのまま不法占拠し続けているのです。

●北方四島は、歴史的にも条約上も日本領

 北方四島がわが国固有の領土であることは、歴史的に明らかなことです。北方領土は、歴史的に、一度も外国の領土になったことがないわが国固有の領土であり、また、国際的諸取決めからみても、わが国に帰属すべき領土であることは疑う余地もありません。
 幕末の1854年2月7日に、日本はロシアを「日露和親条約」を結び、千島列島は択捉島とウルップ島の間を国境とし、樺太は両国民混住の地と決められました。明治維新後、わが国は、1875年に、千島列島をロシアから譲り受ける代わりに、樺太全島の権利を放棄する「千島樺太交換条約」を結びました。この条約では、譲り受ける千島列島として、シュムシュ島からウルップ島迄の18の島があげられています。その中に国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島は入っておらず、これらの島々が日本領であることを物語っています。北方4島は、福岡県の面積にほぼ等しい総面積を持っています。千島列島とともに世界三大漁場の一つにあり、豊かな資源に恵まれています。
 こうしたわが国固有の領土である北方四島が、大戦後、現在もなお、ロシアの不法占拠の下に置かれています。北方四島の返還を一日も早く実現することは、まさに国家の主権にかかわる重大な課題です。
 ソ連の行為は、連合国の第二次大戦の処理方針である「領土不拡大の原則」に反しています。
 連合国は、「領土不拡大の原則」を度々宣言しています。昭和16年(1941)の英米共同宣言(大西洋憲章)や、昭和18年(1943)、アメリカ・中華民国・イギリスの指導者が集まって協定を発表したカイロ宣言もそうでした。カイロ宣言では、「われわれは、日本の侵略をやめさせるために戦争をしているのであって、自国の領土を拡大する意図はない。日本が、暴力(戦争)でとった領土は返される」と述べています。「領土不拡大の原則」は、日本が受諾し、降伏のきっかけとなったポツダム宣言のなかにも引き継がれています。
 この原則に照らすならば、わが国固有の領土である北方領土の放棄を求められる筋合いはありません。またそのような法的効果を持つ国際的な取り決めも存在しません。

●ヤルタ密約とスターリンの野望

 ソ連が北方領土の領有を主張する最も有力な根拠としているのが、ヤルタ協定です。この協定は、昭和20年(1945)2月、アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン元帥が、クリミヤ半島にある保養地ヤルタに集まって取り決めた秘密協定です。その内容は、「ソ連が、日本に対する戦争に参加すること。日本の敗戦において、樺太の南部とこれに隣接するいっさいの諸島はソ連に返還され、千島列島はソ連に引き渡される」というものでした。
 しかし、ヤルタ協定は、米英ソ三国間の密約にすぎず、わが国が批准した国際条約ではありません。わが国はそれに拘束される国際法的な根拠は何もありません。ヤルタ協定の当事国である米国は、昭和31年(1956)、「ヤルタ協定はただそれを署名した国の首脳が共通の目的を述べたにすぎない」と認め、「その当事国によるいかなる最終的決定をなすものではなく、また領土を移転するいかなる法律的な効果を持つものではない」という見解を明らかにしています。
 平成9年10月に米国立公文書館で「米ソ密約地図」が発見されました。それによると、米ソ両国が対日戦における軍事行動の範囲を定めた秘密合意では、千島列島のソ連軍占領地域を北千島四島に限定、北方領土を含む残りの千島中・南部は米軍の占領地域と指定しており、ソ連軍の全千島占領は、米ソの密約に反して行われた事実が、明らかになりました。北方四島の占拠は、米との合意を破ったソ連の膨張主義的軍事行動だったのです。
 スターリンのねらいは、全千島だけではなく、北海道を武力制圧することにありました。米軍がこれを察知し、すばやく対処したために、すんでのところで北海道は守られ、北方四島だけで収まったというわけです。

 次回に続く。
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