ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

徳川元侍従長はウソつきか3

2006-09-01 12:28:34 | 靖国問題
●食い違いは、もう一つある

 食い違いと言えば、もう一つある。
 徳川元侍従長によれば、靖国神社は元A級戦犯の合祀をしてから、11月に遅れて提出してきた。その際、「私は『一般にもわかって問題になるのではないか』と文句を言ったが、先方は『遺族にしか知らせない』『外には公にしませんから』と言っていた。やはりなにかやましいところがあったのでしょう。そうしたら翌年4月に新聞に大きく出て騒ぎになった。そりゃあ、わかってしまいますよね」と、徳川は著書で語っている。
 前回見たように、靖国神社側は、事後報告ではなく事前に、しかも宮内庁の申し出により、例年より早く名簿を提出した。また、権宮司らが宮内庁を訪れて提出したと言う。しかし、徳川は、違う。靖国神社は、勝手に合祀をして事後報告だったから、「やましいところ」があったのだろう、だから公表しなかったが、自分が懸念していたように、結局わかってしまい、騒ぎになったではないか、と言いたいようである。

 これに対し、松平宮司は、著書『誰が御霊(みたま)を汚したのか』に、次のように書いている。
 「14柱を合祀したときは、事前に外へ漏れると騒ぎがおきると予想されましたので、職員に口外を禁じました。しかし合祀後全く言わないと、これまた文句を言う人が出てくる。そこで合祀祭の翌日秋季例大祭の当日祭と、その次の日においでになったご遺族さん方に報告したわけです。
 『昨晩、新しい御霊を1766柱、御本殿に合祀申し上げました。この中に』--ここを、前の晩、ずいぶん考えたんです。『東条英機命以下‥‥』というと刺激が強すぎる。戦犯遺族で結成している『白菊会』という集りがありますので--『祀るべくして今日まで合祀申し上げなかった、白菊会に関係おありになる14柱の御霊もその中に含まれております』
 そういうご挨拶をしたんです。すると、白菊会の会長である木村兵太郎夫人が、外に出てくる私を待っていらして、『今日は寝耳に水で、私が生きているうちに合祀されるとは思わなかった』と非常に喜ばれた。
 それから半月後に、14柱のご遺族すべてに、昇殿・参拝いただきたいという通知を出し、お揃いでご参拝いただいたと、こういう経過でございます。」

 木村兵太郎は、東京裁判で「A級戦犯」として絞首刑にされた7人のうちの一人。陸軍大将だった。可縫夫人は、当時白菊会の会長として、例大祭に参列したものだろう。
 松平宮司の言うには、事前に外へ漏れると騒ぎがおきると予想されたので、職員に口外を禁じた。しかし、10月17日に合祀をした翌日、18日の例大祭の宮司挨拶で合祀したことを述べ、元A級戦犯の遺族にも報告した。
 事前に伏せておいたのは、神社としては穏やかに神事を執り行いたいという考えだろう。隠しておいて勝手に進めるということとは違う。また、例大祭の宮司挨拶で公表したのであれば、公式の発言である。祭典が終わった後に、遺族にだけ耳打ちしたのではない。

 ところが、徳川は、11月になって名簿を遅れて提出してきた際に、「私は『一般にもわかって問題になるのではないか』と文句を言ったが、先方は『遺族にしか知らせない』『外には公にしませんから』と言っていた。やはりなにかやましいところがあったのでしょう」と言う。そして、「そうしたら翌年4月に新聞に大きく出て騒ぎになった。そりゃあ、わかってしまいますよね」と語る。
 靖国神社側には「やましいところがあった」、それは事前に名簿を提出せずに合祀したからである。「やましいところがあった」から、遺族以外には合祀を伝えず、公表しなかったのだという印象を強く与える言い方を、徳川はしている。また結局、世に知られて騒ぎになったのは、靖国神社の姿勢に問題があるという印象を強く与える言い方になっている。
 ここにも食い違いがある。

 独立回復後の国会において、わが国にはA級戦犯を含めて戦争犯罪人はいない、処刑された者は公務に殉じた法務死者とみなすことを決定した。その基準に変更のない限り、彼らを靖国神社に合祀するのは、いずれ実行すべき課題である。
 元B・C級戦犯は、昭和34年から合祀が行われた。国は41年の祭神名票に、元A級戦犯14柱の氏名を記載した。靖国神社は45年か46年に総代会で合祀を決定した。「時期は宮司預かり」とは言え、機関決定したことを、宮司個人の判断でいつまでも先延ばしにすることは、組織としておかしい。
 松平宮司は就任後、再度、総代会が合祀の実行を確認したのを受けて、合祀の名簿をつくった。それを宮内省に提出した上で、合祀を実行し、例大祭の宮司挨拶で公表した。
 国会の決議、政府の通知、組織の決定、合祀事務の手続き等を経て、元A級戦犯の合祀は行われたと理解するのが、適当ではないか。その公表の仕方や時期をどうするかは、靖国神社側の考えですることではないか。
 私は徳川の発言に疑問を感じる。しかも、その主張の大前提は、靖国神社は事前に上奏簿を提出せず、合祀した後の事後報告だったということにあるのである。

●徳川と朝日新聞の関係

 元A級戦犯の合祀が、一般に知られるようになったのは、翌年春、昭和54年4月19日の共同通信のスクープ報道による。徳川は「新聞に大きく出て騒ぎになった」というのが、これである。
 当時、朝日新聞は「賛否、各界に波紋」という見出しで報じたが、それほど大きな騒ぎになったわけではない。報道の2日後に、大平正芳首相が靖国神社の例大祭に参拝した。
 大平氏はこの時、「人がどう見るか、私の気持ちで行くのだから批判はその人にまかせる」と述べ、「A級戦犯あるいは大東亜戦争に対する審判は歴史が致すであろうというように、私は考えております」と明言して参拝した。自身はクリスチャンだった。

 その後も大平首相は通算3回、続く鈴木善幸首相は8回参拝し、中曽根首相にいたった。中曽根は在任中、最後の回も含めると10回参拝している。国民の間には、元A級戦犯が合祀されたことを批判する者もいたが、大多数の国民は彼らが合祀されている靖国神社に首相が参拝することに賛同するか、またはこれを許容していた。元A級戦犯の合祀は、既に行なわれたこととして定着しつつあったのである。
 徳川が「一般にもわかって問題になるのではないか」「新聞に大きく出て騒ぎになった」と言うのは、国民の大多数の反応とは異なっている。

 中国からは、この間、何の意志表示もなかった。中国が靖国神社を外交の材料にしたのは、合祀が一般に知られた6年後、昭和60年8月15日に、中曽根首相が公式参拝をした時が初めてである。それまでは、国内では大きな問題にならなかった。
 当時一番問題にしたのは、徳川が後に本を出した朝日新聞である。朝日は、中曽根の靖国参拝を前にした8月4日に「『公式参拝』には無理があるという社説を出し、11日は「『公式参拝』を強行するな」という社説を出した。朝日が問題にしたから、中国共産党が取り上げたのである。そして、このような朝日新聞社から、徳川は本を出している。このことは注目に値しよう。
 徳川は、元A級戦犯の合祀が新聞で報道されて騒ぎになったのは、靖国神社の姿勢に問題があったという印象を強く与える言い方をしている。朝日新聞社は、そういう発言の載った本を、自社から出版した。これは、自社の報道を正当化することに益しただろう。朝日の報道は、中国による靖国参拝批判を引き起こし、首相は参拝をやめた。そのことが、昭和天皇の靖国ご親拝を、遠のかせることになった。徳川は、こういう重大な事態を引き起こした朝日の報道を肯定し、支持したようなものである。

 徳川の言動について、もっと検討する必要があると思う。徳川元侍従長や宮内庁担当者の業務記録、靖国神社の業務記録や報告記録等を確認すれば、もっと事実関係が明らかになるだろう。

 次回に続く。

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2 コメント

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Unknown (日経のスクープと自動書記は紙一重)
2006-09-01 20:53:55
昭和60年8月以前、富田メモでの靖国に関する記述は如何かと

高森明勅氏がチャンネル桜の番組で指摘されていましたが、

私が知る限りでは以下の記述が公表されていますが、全て中曽根公式参拝以後です。



昭和60年12月31日付の日記で「靖国・松平宮司への批判記述」

昭和61年7月23日付の日記で「靖国のこと、教科書問題などでお召し言上しきりである」

昭和63年5月20日のメモに「靖国のことは多く相当の者も知らぬ。長官が何らかの形でやって欲しい」



他に無いのならやはり昭和天皇が気にしておられたのは合祀では無く、中国の反応だと言えると思います。





>徳川元侍従長や宮内庁担当者の業務記録

合祀の時ではなく、富田メモの書かれた頃の記録ですが、

2ちゃんねるで調べようとした方がおられる様ですが、残念ながら成果は無かった様です。

長くなりますが貼っておきます。



285 名前:windneo(エンジョイ・コリア)[] 投稿日:2006/07/24(月) 17:13:43 ID:d1pYGbDY

宮内庁に電突した。



宮 宮内庁です。

漏 情報公開についてお聞きしたいのですが・・・・

宮 少々お待ち下さい・・・・チンチロリンチンチロリン~♪

宮 情報公開質です。

漏 情報公開についてお聞きしたいのですが・・

宮 ハイ。

漏 1988年、昭和63年4月26日から29日までの

  富田長官や天皇陛下のスケジュールや、会談スケジュール、

  謁見スケジュール等も、情報公開の対象でしょうか?  

宮 (汗)いえ・・ちょっと解りません・・・担当部署に聞いて見ないと

  解りません・・・・

  少々、お待ち下さい・・・・ちゃら~tyらりら~♪

宮 もしもし?

漏 はい。

宮 担当部署に、資料が残っているかどうか解りませんし、公開対象か

  どうかも担当部署の判断ですのでハッキリした事は解りませんが

  情報公開請求書を送って見てください。

   できるだけ、詳しく、具体的に請求書に書き込んで下さい。

漏 行政情報公開請求書でよろしいですか?

宮 はい、それでよろしいです。

漏 はい。どうもありがとうございます。

宮、はい、失礼します。

以上電突終了。

宮内庁、行政文書公開請求については、下記参照

http://www.kunaicho.go.jp/johokoukai/johokoukai01.html

ついでに、徳川侍従長のスケジュールも請求対象に含めるほうが良い。

28日に天皇陛下と謁見された人物リストも請求して見るのもヨシ  

ちなみに、情報公開には200円の手数料が取られます。



691 :windneo(エンジョイ・コリア):2006/08/22(火) 01:22:31 ID:sjOB/f65

( ・ω・)y-~~

え~

以前、宮内庁に昭和63年4月25日~30日の昭和天皇の

スケジュールと富田元宮内庁長官のスケジュールの

行政文書公開を申請した件について報告。

・・・・以下原文ママ



2決定内容

不開示



3不開示とした部分と理由

不存在(開示請求に関わる行政文書は廃棄されたため)



徳川侍従長が4月25日~30日の間に

皇居でおられたか?否か?の記録



2決定内容

 存否拒否



3存否拒否とした理由

 開示請求に関わる行政文書が存在しているか否かを答えるだけで

不開示情報を開示する事になり、行政機関の保有する情報に関する

法律第8条の規定に該当するため。



( ・ω・)y-~~

スマソ・・・文書が残っていれば、富田メモの真偽が前進すると

思ったんだがな・・

コレじゃ、新聞社も軒並み検証不可能だろ・・・

徳川の次の山本悟が証言するしか、真偽を確かめる術はないように

思われるナ・・・
返信する
re:Unknown (ほそかわ)
2006-09-02 11:29:48
>私が知る限りでは以下の記述が公表されていますが、全て中曽根公式参拝以後です。



昭和60年12月31日付の日記で「靖国・松平宮司への批判記述」

昭和61年7月23日付の日記で「靖国のこと、教科書問題などでお召し言上しきりである」

昭和63年5月20日のメモに「靖国のことは多く相当の者も知らぬ。長官が何らかの形でやって欲しい」



他に無いのならやはり昭和天皇が気にしておられたのは合祀では無く、中国の反応だと言えると思います。<



 「全て中曽根公式参拝以後」という点は、重要なご指摘だと思います。私は「昭和天皇が気にしておられたのは合祀では無く、中国の反応」のほうにあると考えています。この点は、以下に書きました。

http://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/d/20060727

 これは富田メモの3~4枚目を昭和天皇のご発言と仮定した場合の意見です。現在、私は、3枚目は午前中に天皇から伺った内容、4枚目は午後か夜に徳川が記者に語った内容でないかとも考えています。

 後者の場合、上記リンクの内容は書き直さねばならない部分がありますが、基本的に私は、昭和天皇は、突如としてわが国の慰霊・歴史・教育等に口出しをしてきた中国指導部の姿勢に不快感を持ち、内外の動向に強い関心をお持ちであっただろうと拝察しています。



>>徳川元侍従長や宮内庁担当者の業務記録<



 電話による質疑のコピペ、ありがとうございます。その方の行動力に敬意を表します。公務員の業務記録を開示できないというのは、おかしな話です。必ず事実を明らかにすべきだと思います。
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