ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

宗教6~大安楽往生と魂の救い

2017-03-14 09:26:57 | 心と宗教
 最終回。

8.大安楽往生と魂の救い

 大安楽往生とは、健康で寿命を全うして、死の恐怖や苦痛から解放されて安らかに亡くなり、遺体には死後硬直がなく、長時間体温が冷めず、死臭・死斑の現れない現象をいう。
 大安楽往生は、従来の宗教で救済や悟りを示す現象として位置付けられてきた。しかし、その達成は極めて困難であり、大安楽往生現象に相当するか、またはそれに近い事例は、過去の宗教ではごくまれにしか記録されていない。
 仏教においては、弘法大師空海や法然の臨終相は、死後、生きているような姿だったと伝えられている。高野山中興の祖、覚鑁は、死後32時間経過しても身体はなお温かで、生きているようで善人至極の相だったと記録されている。こうした現象は、罪障が消滅したことによって現れるとされる。道教では、葛洪が「顔色は生きているようで、体は柔軟で尸(しかばね)を挙げて棺に入れると甚だ軽く空衣のようだったので、世の人々は彼を尸解仙と言った」と伝えられている。また『高僧伝』神異編にいう保誌は、屍体が柔軟で香りがよく、顔には悦びの色が現れていたとされている。こうした現象は、過去の悪行が消滅したことによって現れるとされる。
 キリスト教においては、ルルドの泉で知られる聖ベルナデットは埋葬までの4日間死後硬直なく、皮膚はバラ色で、死臭等腐敗の兆候が見られなかったという。アッシジの聖フランシス、ローマ教皇ピオ五世も同様の例として伝えられている。東方正教会において、ロシアでは遺体の状態が列聖において極めて重要な要素とされていた。ドストエフスキ-の小説『カラマーゾフの兄弟』は、長老ゾシマの死を描く場面で、民衆が腐敗しない遺体に対する大変根強い信仰を持っていたことを記している。こうした現象は、原罪が浄化されたしるしをされる。
 現代の科学に照らして考えるならば、普通の場合、呼吸が止まり、心臓の鼓動が停止すれば、やがて肉体は腐敗を始める。大安楽往生現象において、遺体が腐敗しないということは、通常の生命現象の法則が働いていないことを意味する。腐敗が進行しなければ、腐敗に伴う死臭が発生しない。生体において体温が維持されているのは、内臓・筋肉等の活動によって熱が発生するからである。それらの活動が停止すれば、遺体は普通の物体と同じく、室温またはそれに近い温度にまで冷たくなる。大安楽往生現象において、遺体の体温が長時間冷めないということは、生命活動が停止しているにもかかわらず、体温が維持されているのであるから、通常の物理現象の法則が働いていないことを意味する。遺体の下部に死斑が表れるのは、心臓が止まって血液が循環しなくなったので、重力の法則に従って血液が下方に沈降し、皮膚の表面に血斑を生じるものである。大安楽往生現象において、心臓が停止し血液が循環しなくなったのに、死斑が表れないということは、宇宙で最も普遍的な現象である重力の法則が働いていないことを意味する。このように、大安楽往生現象は、これまでに科学が発見した法則を超えた現象であり、現代の科学が発見できていない法則の存在を示唆する現象である。
 大安楽往生現象は、宗教的には、罪障・過去の悪行・原罪等が浄化されて、魂が救済や解脱を得たしるしと考えられてきた。救済または解脱を得た魂が極楽・仙界・天国等と呼ばれる場所または次元に移る時に、現代の科学による物理や生命の法則を超えた法則または力が働くと考えられる。
 大安楽往生現象の事例は、高僧・名僧、聖者・福者といわれた者でも極くまれな現象である。今日世界的に有名な宗教家や霊能者においても、確かな記録を以って知られる例は、ほとんどない。またその極少数の事例であっても、自分一人が達成できるのがよほどよいところであり、他に多数の弟子や信者までを大安楽往生させ得たという事例は、人類の歴史に全く見られない。ところが、現代の日本では、こうした極めてまれな貴重な現象を普通の人々が多数体験しているという驚異的な事実が存在する。それは、本稿に書いた現神人・大塚寛一先生のもとで、既に70年間以上起こり続けている出来事である。大安楽往生は「崇高なる転生」ともいう。関心のある方は、次のサイトをご参照願いたい。
http://www.srk.info/library/tensei.html
 今後、世界の科学者・医学者が大安楽往生現象を研究するならば、宗教に関する認識・評価が刷新され、同時にこれまでの様々な神の概念は、一つの神の概念に収斂していくことになるだろう。

結びに

 21世紀は、宗教の価値が再認識・再評価されつつある時代である。人類が物心調和・共存共栄の新文明をこの地球に建設するためには、人間の精神的な向上が必要であり、宗教にはこれまで以上に大きな役割が期待されている。従来の宗教は既成の観念を脱却して、より高度なものへと進化すべき時を迎えていると言えよう。(了)