ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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ユダヤ10~律法・戒律・自由意思

2017-02-08 10:25:46 | ユダヤ的価値観
律法

 上記のような実在観、世界観、人間観を持つユダヤ教において、教義の中心となっているのは、律法である。律法は、神ヤーウェが決め、モーセに与えられたものを主とする。
 モーセが受けた律法を十戒という。十戒は、神からユダヤ民族に一方的に下された命令である。神がシナイ山でモーセに石板二面に書いて示したとされる。神は、エジプトで奴隷になっていた古代イスラエルの民を救い出した。だから、神に全面服従しなければならないとする。もし守らなければ、人間は神の怒りに触れて、たちまち滅ぼされてしまうというのが、ユダヤ教の考え方である。
 十戒は、『出エジプト記』20章と『申命記』5章に記されている。大意は次の通りである。

(1)あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
(2)あなたはいかなる像も造ってはならない。
(3)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
(4)安息日を心に留め、これを聖別せよ。
(5)あなたの父母を敬え。
(6)殺してはならない。
(7)姦淫してはならない。
(8)盗んではならない。
(9)隣人に関して偽証してはならない。
(10)隣人のものを欲してはならない。

 前半は宗教的な規定であり、後半は道徳的な規定である。これらのうち、(1)(2)は、ユダヤ教の排他的一神教と偶像崇拝の禁止という特徴を示す。それらを神の命令としているところに強い拘束性がある。対照的に(5)(6)(7)(8)は、ユダヤ教徒に限らず、普遍性の高い規範である。
 注意すべきは、(6)の「殺してはならない。」は、異教徒を対象としていないことである。また人殺しを禁じるものであって、一切の生き物を殺すなとは言っていない。また、(9)は嘘をつくなと命令するものではなく、裁判の時に偽証をするな、と言っているだけである。

●戒律
 
 ユダヤ教では、律法以外に、細かい戒律が定められている。紀元前5世紀から約1000年の間に、律法学者(ラビ)がユダヤ教を発展させた。彼らが形成したユダヤ教を「ラビのユダヤ教」という。「ラビのユダヤ教」は、613の戒律を定める。戒律には、「~してはならない」という禁忌戒律と「~すべき」という義務戒律がある。禁止戒律は365戒、義務戒律は248戒あり、計613である。
 これらの戒律は、狭義の宗教的戒律のほかに、倫理的戒律と生活的戒律を含む。戒律遵守の生活が、ユダヤ人の民族的一体性を守り抜く基盤となった。ユダヤ教は宗教的・民族的共同体の生き方そのものが宗教になったものであり、多数の戒律の存在はその特徴をよく表している。
 特筆すべきは、613の戒律のうち120以上が、人が生活の糧を得る方法や貨幣を倹約し、貯蓄し、それを使用する仕方について規定していることである。こうした経済的な生活規範が、ユダヤ的価値観における経済的な価値観の根底に存在する。

●律法・戒律と人間の自由意志

 ユダヤ教において、律法に従い、戒律を守るかどうかは、人間の自由意志による。
人間創造及び原罪と楽園追放の項目にユダヤ教の人間観について書いた。ユダヤ教では、人間は神の似像として創造され、それゆえに意志の自由が与えられているとする。人間に自由意思がなければ、律法や戒律は必要ない。行為は動物と同じく本能的な行動の反復に過ぎないからである。自由意思があるからこそ、それへの規制が定められている。
 ユダヤ教では、人間は自由意志により神の命令を守ることができるとし、律法や戒律を実践し、よいことをすることができると考える。この考え方は、因果律に基づく。律法と戒律の遵守を義務とし、それを実行すればよい結果が、実行しなければ悪い結果が現れるというする倫理的応報主義である。また、ここには、神の絶対性と人間の自由意思は矛盾しないという考え方がある。
 ユダヤ教から現れたイエスは、律法主義・戒律主義を乗り越えようとして、神に対する愛と隣人に対する愛を強調した。律法・戒律の形式的な遵守より、愛の実践を説いた。イエスの教えに基づくキリスト教では、ユダヤ教の戒律を重視しない。
 キリスト教において、ローマ・カトリック教会は、人間の自由意思を認め、善行や功徳を積むことを奨励する。東方正教会も同様である。だが、西方キリストでは、教父アウレリウス・アウグスティヌスやマルティン・ルターが神の絶対性を強調することにより、人間の自由意思を否定し、救済は人間の善行・功徳によって得られるのではなく、全く神の意思によるとした。この考え方のもとには、パウロ以来の神による救いと滅びは予め定められているという予定説がある。この説を徹底したジャン・カルヴァンは、救いと滅びは堕罪前から定められているという二重予定説を説いた。これに対して、ヤーコブス・アルミニウスは、人間は自らの意志で神の救いを受けることも、拒絶することもできると説いた。その説の影響のもとに、すべての人間の自由意思による救済を説く教派や、さらにすべての者が例外なく救われるとする万人救済説を主張する教派もある。
 これに比し、ユダヤ教は、神の絶対性を強調しつつ、人間の自由意思を肯定する。そして、自由意思は、律法・戒律を前提とし、律法に従い、戒律を守ることを自らの意思で実践するために、発揮すべきものとされる。
 自由意思の肯定は、人間における悪の問題を生じる。自由は、人間における神に似た要素として最も価値あるものであるとともに、また神への背反の原因ともなりうるものである。そのことが、原罪と楽園追放の思想によって示されている。ユダヤ教によれば、神の似像として創造されたものとして、人間は神のように恵み深く、憐れみに富み、正しく完全でなければならない。人生の目的は、今も進行中の神の創造の業に参加し、これを完成して創造主に栄光を帰すことである。しかし、エバが禁断の知恵の実を食べて楽園から追放されたように、人間の本性には悪の衝動が含まれている。ユダヤ教は、悪の衝動を抑えて神の創造の業に参加することは、各人が自由意志に基づいて決定しなければならないと教える。

 次回に続く。