仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

アニミズムとアニメート:『もののけ姫』シンポ終わる

2010-10-10 04:53:16 | 議論の豹韜
ずいぶん更新が滞ってしまった。この間、書くべきことはたくさんあったのだが、とにかく忙しくて余裕も何もない毎日だった。秋学期の授業も始まったが、こんなに消耗した状態で来年まで保つのか不安になる。週の3分の2くらいは2時間睡眠程度で頑張っているが、仕事は山積するばかりでなかなか片付かず、そういうときに限って論文の校正などが送られてくるのでげんなりしてしまう。「北條君は勉強のしすぎだよ」などと知人や同僚から声をかけられても、実際は研究する時間など全くないに等しいのでストレスを感じるばかり。しかしとりあえず、『藤氏家伝』論文集と『諏訪市博物館紀要』の校正は終了し、『もののけ姫』シンポの報告も終えた。今月はまだ立教の環境シンポがあるし、11月には明治大学での講演と儀礼研究会・上智史学会での報告、12月には古事記学会での報告がある。原稿も山ほど残っているが、とにかく、校務の合間合間に何とか準備を進めるしかあるまい。

『もののけ姫』シンポは、そんな消耗する毎日のなかでも、なかなかに楽しめた1日だった。コーディネーターの野田研一さんに感謝するばかりである。
一緒に報告をさせていただいたのは、以前にも書いたが、ぼくにとってはキラ星のように輝く先輩たちばかりである。野田さんはもはや書くまでもないが、ネイチャー・ライティングの第一人者で、最近はハルオ・シラネ氏の二次的自然の概念を参照しつつ、分節化以前の野生(wilderness/wildness)に迫る論考を発表されている。今回のご報告も、『もののけ姫』が日本作品にしては珍しくwildernessを扱っている点に注目されたものだった。ちょっと古いところでは戸川幸夫氏、最近では熊谷達也氏などが、日本人にとっての野生の問題を鋭く捉えた文学作品を発表している。戸川氏のそれは恐らくジャック・ロンドンの影響だろうが、そういう意味では英米文学の視点から捉え直された〈野生〉が描かれているのかも知れない。熊谷氏のバックボーンについてはよく知らないが、二次的自然に馴れきったこちらの価値観をかき乱す荒々しさがある。それらの試みをどう捉えるか、今度野田さんに伺ってみたい。
小峯和明さんも、いわずもがなの中世文学の権威である。今回は、中世の思想的宇宙へ『もののけ姫』を「開く」ご報告だった。とくに中世神話の観点から、『もののけ姫』に描かれる神々は排除されてゆく「実者」と共通性を持っている、というご指摘は印象に残った。中世神話の研究者のなかでは山本ひろ子氏が、公開当時、その「近代主義」や「神話性の喪失」を批判した論考を発表している。ぼくらの編纂した『環境と心性の文化史』でも、斎藤英喜さんが同じ立場から『もののけ姫』批判を書いていた。ぼくもそれらに近い見方をしていたのだが、今回あらためて『もののけ姫』をみなおしてみて、小峯さんの語るようにもっと多様な読み方ができる作品であることを再確認した。
田中治彦さんは開発教育の専門家で、以前、『もののけ姫』を扱った氏のホームページを拝見し、自分の読み方と共通する点の多いことに驚いた記憶があった。今回は作品内部/外部の様々な対立/共生の図式を整理し、その構造自体が、二項対立を乗り越える弁証法的ベクトルを持つことを明らかにされていた。以前ぼくも、『環境と心性の文化史』のなかで、ものごとを二項対立的に把握することの問題点を指摘したことがある。すでにマルクスが述べているが、AとBが対立しているとしてもそれは見せかけのものにすぎず、AはBがあるからこそAに、BはAがあるからこそBになるという根源的関係態が実相なのだ。これを動物神と人間の関係に置き換えれば、また違った『もののけ姫』の世界が浮かび上がってくるかも知れない。なお、田中さんは以前、『エヴァンゲリオン』に関するシンポジウムも開催されたことがあるのだという。
上田信さんは、環境史を研究している人間にとっては一種のアイドルでもあろう(というのは失礼か)。今回は、ご自身ジブリを訪ねて『ナウシカ2』の企画書を持ち込んだという恐ろしい告白をされ、そのお人柄と共に非常に強烈な印象を残された。ご報告は『ナウシカ』の諸要素と『もののけ姫』の諸要素が符合する点を指摘され、宮崎駿が作品の断片を様々に変換・置換しながら物語を紡いでゆく、その創作作法(まさにブリコラージュ)を明らかにされるものだった。上田さんは「宮崎駿の語り」は後付けであり資料としては使用できないと断言されていたが、その点はもっと議論ができるところだろう。ぼくは、『もののけ姫』『千と千尋』『ポニョ』といった作品には企画書、製作過程を追ったドキュメンタリー、完成後のインタビューが存在し、それらがほぼ論理的一貫性をもって成立していること、思想家や文学者との白熱した討論のなかにも同じモチーフが表れること、アニメの製作体制はあくまで集団的なものであり常に演出意図の周知が求められることなどから、上記の「語り」は充分読み込む意味があると考えている(「後付け」でないことは立証できるのだ)。しかし、『もののけ姫』から『ポニョ』への展開のなかで論理から感性への移行はあり、それに連れて宮崎駿の創作態度も、周囲との議論を繰り返すものから、個人の内面に閉じて達成するもの(岬籠もりとか)へ変異してきたように思われる。
ぼくの報告は、アニミズム表現の変化を基軸として、上記のような『もののけ姫』から『ポニョ』への感性への傾倒、野生の思考への接近を跡づけるものだった。しかし、今回とくに重視して論究したのは、アニミズム的思考とアニメートという実践との関わりについてである。あらゆるものが生命を持ったように動き出すアニメーションの世界は、語源を同じくするだけでなくアニミズムと強い親和性を持っている。また、絵に動きを与えるアニメートは、描き手の身体に記憶された自然環境との関係によって支えられている。『もののけ姫』以降のジブリの現場では、若いアニメーターの進出が二次自然ならぬ二次アニメーションをもたらし(すなわち自然の動きではなくアニメの動きをアニメートしてしまっている)、問題化することがしばしばあった。その桎梏と葛藤が、宮崎駿単独での全手描き原画からなるアニミズム映画『ポニョ』へ結びついてゆくのだろうが、自然環境との関係からアニメーターのプラチックについて考察する意味は大きいはずなのだ。
相変わらずうまく時間配分ができず、報告の内容も赤面ものだったが、何とか一定の役割を果たすことはできたようだ。時間的に短くなってしまった会場からの質問にもいくつか答えたが、ぼくのパネリストとしての扱いがなぜか「アニメの専門家」になっていて、本来答えるべき(ぼくの専門は心性史・環境文化史です)日本史の環境問題、災害などの質問が、他の先生方へ回されてゆくのは面白かった。なお、立教の院生の方が質問して下さった神とコトバの問題は、そのときには至上神と人間とのディスコミュニケーションとして回答したが、言語と世界構成との関連から考えると、「人間と他の動物神とは同じレベルの世界に住んでいるが、シシ神は別の位相を生きているのだ」という答え方もできたことに後で気付いた。その方が、議論としては面白かったかも知れない。
いずれにしろ、野田先生をはじめとするパネリストの先生方、照沼麻衣子さんをはじめとするスタッフの方々には大変お世話になった。心から御礼を申し上げます。

ところで。その数日後(5日)の『朝日新聞』夕刊に、池澤夏樹氏による「多神教とエコロジー 世界を支配する資格」なるエッセイが載っていた。一神教を批判しアニミズムを礼讃するステレオタイプな内容で、何も勉強していないこと甚だしい。自分自身が対立構造を構築していることに気付かないのだろうか。アニミズムの問題点の指摘、その歴史化の作業は、もっと「声高」に進める必要があるかも知れない(なお余談だが、同日同紙の朝刊に掲載されていた野田正彰氏の「龍馬」表象批判にもげんなりした。史実を大事にすべきとフィクションを批判しておきながら、当然のごとくしっかしりした史料収集や史料批判に裏付けられた発言ではない。偉人にアイデンティファイした生き方も国家主義、あるいは人格の自然な統合ができないと批判するが、アジアにおいては、それが紀元前にまで遡る伝統的な歴史認識であったということも知らないのだろう。このような言説が大きく取り上げられるのをみると、いったいポストモダンとは何だったのか、やはりあらゆる思想的議論は流行として忘れ去られ、その経験はまったく後世に活かされないのかと暗鬱とした気持ちになる)。

※ 写真は、夏休み映画に行けなかったのだからどこかでこれだけは観なければ、と思っている『スープ・オペラ』と『冬の小鳥』。エントリの主題とはまったく関係ありませんが…。
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3 Comments

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池澤夏樹の朝日夕刊エッセイ (小嶋崇)
2010-10-10 20:49:42
初めまして。
池澤夏樹のエッセイがブログでどのように取り上げられているか探していて御ブログをヒットしました。
「一神教を批判しアニミズムを礼讃するステレオタイプな内容で、何も勉強していないこと甚だしい。」
私も過日ブログで取り上げましたが、やはり論としては性急な結論に聞こえてしまう、と言ったような指摘をしました。
すみませんそれ以外の部分についてはかなり門外漢ですのでコメントはこれだけです。
Unknown (只の通りすがり)
2010-10-30 14:41:46
 司馬遼太郎の描く龍馬像に違和感を感じていたせいか、自分は野田正彰氏の記事にほっとしました。あくまで精神科医としての見解でしょう。偉人にアイデンティファイした生き方もアジアに限られたことではなく、英雄を模倣する行為は人類社会どこでもみられる普遍性を帯びていると思いますが、いかがでしょう。
 野田氏が問題にしているのは年長者であるにもかかわらず、いつまでも青年でありたいという心のありようにあさましさを見いだし、危惧されたものだと察します。近代化に青年期との一体性を見いだし、警鐘を鳴らした網野善彦氏の言説を想起すれば、野田氏のインタビュー記事はポストモダンとかけ離れていません。
 
コメントありがとうございます (ほうじょう)
2010-11-01 03:57:37
コメントありがとうございます。
確かに、近代=青春期とみる司馬史観批判、という意味では近代批判なのかも知れません。しかしそれは、本当に「ポストモダンとかけ離れていない」のでしょうか。

もちろん、偉人にアイデンティファイする生き方は、アジアに限らない普遍的なものです。他者の物語は、他者によって引き継がれ、生きられてきたのですから。野田氏の見解は、それを頭ごなしに「幼稚なもの」と否定してしまいます。しかし、臨床的データも得ていない対象、しかも集合的な表象に対して、精神病理学の枠組みが有効なのでしょうか。「史実」の名のもとに、専門ではない歴史学の科学性を強調する割に、氏の見解は「科学的」にはなりえていない。ということは、精神科医云々というより、単に評論家としての個人的感想でしかありえません。

そもそも、「史実」とフィクションとの二項対立的把握、前者に優越的価値を見出しているところ自体、非常に近代科学的です。認識論的には、決してポストモダンではありえません。

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