仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

方法論懇話会例会@長野小諸

2005-09-26 18:43:48 | 議論の豹韜
方法論懇話会の例会が終わって、1週間が過ぎました。
最近、妻からも「あなたの記憶はたいてい不確かだ」と批判されているので、そろそろ感想を書かねばと思います。

すでに、メンバーの師さん野村さんのブログが公開されていますが、今回は第6クール・テーマ〈記憶〉の総括と、第7クール・テーマ〈デリダ〉の関連報告の2本立て。
1日目は後者で、師さん・稲城さん・私の報告。

師さんは、仏教学におけるデリダ研究についての紹介。一見関連なさそうな分野だけど、実はすいぶん比較研究が進んでいて、「脱構築など、すでに仏教がやっている」的な発言もあるもよう。比較という研究方法の意義について、あらためて考えさせられる。何を探求しようとして比較するのか? 今年の3月に出た「〈ケガレ〉をめぐる理論の展開」(『ケガレの文化史』)でも、「比較の効用」なんていう言葉を使った記憶があるけど、深い問題です。差異や認識自体にも関わってくるしね。

稲城さんは、柄谷行人『探究I』からみるデリダ論。柄谷は、実体論を批判するデリダこそが実体論に陥っていると批判したいらしい(?)。認識論をめぐる議論ではよくあるパターンだけど、「超越論的」という言葉に神秘主義を見出す論理展開がどうも気になる。確かに「ア・プリオリ」の絶対肯定はある意味神秘主義だけど、あまりにも日本語的解釈では?

私の報告は、言語論的転回以後の歴史学とデリダの現前性批判との関係を考えるもの。日本の歴史学界では、言語論的転回は「なかったこと」になってしまっているけど、歴史学批判の核心だったテクストと実体との関係については、なんら議論が深まらないまま。岸本さんは「個別研究への回帰」をプラグマティックに志向するけど、それこそが、理論研究と実証研究との有機的な繋がりを否定する見解に思える。自分の方法が成功しているかどうかは別として、〈史料〉を〈言説〉と捉えるだけで、ずいぶんと歴史的想像力は拡大すると思うんですけどね。
日本史の論文でも、最近はときどきデリダの名前を目にするけど、現前性批判を踏まえた内容のものはない。実体論を前提に構築されている近代歴史学とは、認識論的に対立するはずなんですけどね。まさにアメリカ流、つまみ食い的方法論。もっとも、そう考えてしまう私の思考こそが「全体性に回収」されており、「科学なんてみんなブリコラージュ」と言い放つデリダからみれば、まさしく批判の対象なんだろうけど。

長くなったので、2日目の〈記憶〉についてはまた次回。
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