仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

「神雄(尾)寺」出現:やはり誓約の場か?

2009-01-15 14:56:07 | 議論の豹韜
14日(水)の朝刊に、京都府木津川市の馬場南遺跡(文廻池遺跡)から、史料に記録のない「神雄寺」なる寺院の跡がみつかったという記事があった。この地域には、高麗寺や蟹満寺といった飛鳥・白鳳に遡る寺院が存在し、良弁や義淵の創建伝承を持つ寺院も数多い。橘諸兄の別業や、同氏の氏寺円提寺があったことも分かっている。藤原京や東大寺の建築資材が運ばれた流通の大動脈でもあり、聖武天皇が造営した恭仁京からも遠くない。現状とはずいぶん印象が異なるかも知れないが、7~8世紀は文化的な先進地帯だったのだ。判明した神雄寺の様相について注意されるのは、まず、本尊がを四天王を配した須弥山像らしいこと。それから至近にある人工の川の畔で、数千もの灯明を用いた何らかの儀礼が行われていたらしいことである。以前、『仏教史学研究』42-1(1999年)や『日本仏教34の鍵』(法蔵館、2003年)に、『仏説四天王経』や『提謂波利経』などに基づく、誓約の守護者としての四天王信仰について書いたことがある。飛鳥の須弥山石から国分寺までを、神仏を保証者とする王への誓約の場と位置づける考えで、定説とはずいぶん異なるがそれなりの賛同もいただいた。神雄寺は8世紀中頃の寺院らしく、各地における国分寺の造営期とも重なる。恐らくはこの頃、大仏と諸国国分寺からなる誓約のネットワークを構築した良弁が、石山寺造営のために付近を往来していただろう。水辺が儀礼空間となることについても、飛鳥の須弥山石のありようと共通している(そして、恐らくは古墳時代の導水祭祀へも遡る)。忘れかけていた自説を補強しうる事例として注目しておきたい。

ここ数日で、先達の方々より幾つもの著書を頂戴した。畏友水口幹記君からは、勉誠出版刊の『海を渡る天台文化』。昨年夏の天台山シンポジウムの記録で、本腰を入れて読み解かねばならない成果である。三田村雅子さんからは、新潮社刊の『記憶の中の源氏物語』。平安期から現代に至るまで、列島に生きてきた人々は、『源氏物語』をどのように利用してきたのか。単なる読書史・享受史というより、ナラティヴと所有との関係を問う刺激的な大著である。倉田実さんからは、世界思想社刊『端役で光る源氏物語』。端役は作者の権力が否応なしに現出する場だが、逆にその無関心によって、読者に様々な自由と想像力を保証する。そこから開けてくる、紫式部を乗り越える『源氏物語』の試みである。秋学期が始まってから、研究の方面では不振が続いているので、「ぼくも頑張らなくては」という気持ちになった。御礼申し上げます。

ところで、各所で話題になっている日本テレビの『東大落城 ~安田講堂36時間の攻防戦』。佐々淳行を正義の味方にした『突撃せよ!あさま山荘事件』よりは公平に作ってあったが、やはり警察側をよりよく描こうとする姿勢は鼻についた(ロッカーズでやんちゃしていた陣内孝則が佐々自身を演じているのも、役者としての姿勢にやや疑問を持った)。とくに、佐々本人がインタビューで、「いまの若者にはもっと怒ってほしい」と語ったのはいただけない。いいか悪いかは別として、カミソリ後藤田正晴の計略に沿って、当時の学生運動を社会から孤立させ、現在の低体温的な社会を生み出す契機を作ったのは彼ら自身であろう。もちろんすべての責任を押し付ける気はないが、他人事のように口にする言葉でもない。なお、安田講堂の学生たちの会話でいきなり飛び出した、「上智大学のバリケードは1時間と保たなかった」というセリフが印象に残った。
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