FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
私の脳は書いたり読んだりすることで研ぎ澄まされると思っています。

空間の破壊とその再構築

2016-10-08 14:54:49 | コラム

   先にこのノートで、空間の効用について述べた。今回はその続編である。
 近代科学は、私たちに負の遺産を残してしまった。それは心地よい空間を破壊してしまったということだ。 
 原発事故による空間のよごれ、地球という空間の急速な変容、異常気象、とめどもなく続く開発の波、その結末が空間の破壊である。
 おまけに、新自由主義とグローバル化がいっそうそれに拍車をかけている。格差の問題から絶対的貧困が目につくようになってきた。まさにこれも社会という空間の破壊の一つでる。
 一方で、空間の間の境界線の欠落も目立ち始めている。里と山の境界線の欠落は、里にやってくる熊、鹿、猪などの動物たちをさ迷わせる結果となっている。それが人間にとっての被害となって現れている。
 境界線の欠落は、のっぺらぼう空間となって、私たちを困らせている。遠くと近くの逆転(例えば、隣の住人より遠くのメル友)、砂粒化した人間がその境界線のない空間をさ迷っている。共同体(空間)は欠落し、新たな共同体(ここちよい空間)を求めてさまよう人々でいっぱいだ。
 かつての近所との交流は少なくなり、その受け皿を求めて、たとえば、高齢者はカルチャーに共同体意識(ここちよい空間)をもとめているし、子育て中のママさんも、安心できる共同体をもとめて集う。ペット仲間の共同体も生まれる。そういう例は他にもいろいろある。しかし、貧困層は、そいう共同体(ここちよい空間)に入り込む余裕などあるはずがない。
 IT革命という現代科学の寵児は、陰陽のない空間をつくり、画一化現象を引き起こしている。炎上現象に右往左往している。心が入り込む空間も急激に質的変容を起こしている。現実的なものや自然からの乖離も進んでいる。
 最近のTV番組で放映される作品(芸能、音楽など)も、陰陽のないものが増えている。ここちよい空間を感じることのできないものが結構ある。文学作品にもである。
 一方、耐用年数が過ぎた建物や橋、トンネルなど、また地方の土地空間も、過疎化にともなうシャッター街や空き家の増加、荒廃した土地や森林など、がらくた空間が目立つ。このがらくたをどう始末をつけるのかが課題となっている。
 がらくたを片づけ(修復や改築など)もせずに、景気回復の名のもとに、もう飽和状態にある空間に、道路や鉄道、建物の建設をしようとしている。東京五輪を口実に、施設の新築を進めている。今ある施設を使うか、問題があれば手直しして使うことをもっと考えてもいいのではないか。五輪も一国・都市で受け持つには、もう限界にきていると思う。ロンドン五輪にしても、リオ五輪にしても、そうとう無理をしての開催ではなっかたのか。国民の大きな負担になっていたのではないか。成長時代とは違い、もうあのような形の五輪は限界にきているように思う。
 また、企業は各種付加価値をつけた製品を製造して人々に売りつけることに躍起になっている。また、コストパフォーマンスの名の下に、人件費の節約が行われ、それが貧困を引き起こしている。
 思い起こしてほしい、私たちは戦後何もないところからスタートした。そして、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、はては車までも手に入れた。山里の道路はくまなく舗装された。ダムを無駄だと思っても造ってきた。もう国土は満杯で、開発する空間などありはしない。おまけに、いくら付加価値があるからと言っても、それをどんどん購入するほど懐は豊かではなし、だいたい物はそろっている。国も国民ももう豊かではないのだ。
 一例を上げよう。無人で運転できる自動車の開発にメーカーは躍起である。これとて多くの問題を抱えている。一例を上げれば、もし実用化できたとして、この車売れるだろうか。車好きの人は、自分が運転することに喜びをもっているのであり、そんなに売れるとは思えない。それだったら、使うときにレンタルで良いと思うかもしれない。第一車だって、もう飽和状態で、付加価値云々といわれても、そう簡単に買え変えることはないだろう。そのほか、法律上の問題や、公道を通る場合に予想だにしなかった問題も出てこよう。コンピュータは、考えられるケースを今までのデータを分析して、対処しようとするが、考えてはいなかったケースに対処はできないはずだ。日常、考えられないようなケースが起こることはよくあることだ。そんなにユートピアな世界は考えにくい。
 地球上どの国(特に成熟社会の国)も、かつての成長を求めても、それを望めようもない時代になってきている。それよりも、空間の再構築を考えなければならない時なのであろう。ここちよい空間の広がりをつくるにはどうしたら良いのかを考えることが要求されているのだ。
 そのためには、存在との関わりで得られる経験、実感を復権させることが必要なのだと思う。自然の上に文化がある。この自然と文化の間にここちよい空間をつくることが求められているのであろう。消費社会に惑わされるのではなく、みんなが自分の存在に向き合い、そこに心地よい空間を見いだすことこそ大事なのであろう。そういう「ここちよい空間」を都会(都会にも破壊された空間は結構多い)と地方にどう作り出すかが求められている。それは観光やイベントなどという小手先の方法ではなく、文化が大地に足をおろす、そいう空間の創造だ。
 農業や漁業、林業、商工業などに携わりながら、文化(演劇、音楽、舞踊、民芸品作成、絵画など)を楽しむような空間の構築が求められているのではないか。そうすると、若い人たちも地方にやってきて、一つの共同体(ここちよい空間)を形成できるのではないか。
 それこそ、物から人への転換、新しい人間復活である。物を持つことの豊かさを求めるのではなく、心の豊かさを求める時がきているのである。お金は裕福でも心が豊かでない人も結構いる。だから、そんなにお金儲けてどうするのといいたい。
 それにしても、当然心に余裕をもって生活できる最低限の資金は必要である。介護施設の充実(介護士の待遇改善も)、保育の充実(保育士の待遇改善も)、貧困層からの脱出のための援助(資金や就職支援など)、授業料の無料化などに目を向けること、そして地方再生に本腰で取り組むことによって、みんなが文化的空間の中にいるような社会を目指すことが、結果的に豊かな社会になる礎となるのではないかと思う。
 その結果、ある程度消費は拡大し、ささやかだが景気は回復に向かうのではないか。ばくばく儲かるほど地球空間は豊かではないのだ。

ジャンル:
きいて!きいて!
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« バイオテクノロジーの抱える問題 | トップ | 一般と特殊について »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

コラム」カテゴリの最新記事