FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
私の脳は書いたり読んだりすることで研ぎ澄まされると思っています。

哲学や人文科学を学ぶ意義

2017-01-04 12:54:49 | コラム
 先に掲載した「存在を考え、語ること」を、改訂しまして発信することにしました。二〇一七年がスタートしました。今年はいつになく不確実性の高い世界情勢になりそうです。それをみつめるのは、知性が必要です。とくに、反知性主義にどっぷりと浸かっている社会では、哲学を含めて人文科学が必要なのです。

哲学や人文科学を学ぶ意義
 いつも述べていることだが、私たちの回りにはいろいろなものが存在している。それは、自然であったり、社会や人であったり、芸術やスポーツ、科学、哲学、文学や詩集、学術書などの書物などであったり、私たちを取り巻くものを、私は存在と考えている。
 私たちが生きていくためには、その存在と交流することとなる。その場合必要なのは、限定され、固定化された視点で存在を見つめるのではなく、その存在の持っている遠近感や陰影などによる違い、それに時間の経過による変化そのものを存在に語らせることが必要なのであろう。
 つまり、その存在が何であるかではなく、存在そのものの姿をイメージすること(違いや変化をイメージすること)が、より重要となる。
 そこに美しいと言われている紅葉があるから見に行くのではなく、紅葉の風景そのものの中に変化や個々の違いを見いだすことで、自分自身が美に到達することが必要なのであろう。
 例えば哲学書や文学書、学術書にしても、糸巻きの糸をほぐしていく中で、その糸に含まれる変化や差異に気付いたり、発見したりして、自分のコトバとして表現する(それを他者に言う言わないは別として)ことが読者には要求される。
 音楽もそうだ。時の流れの中で、音は奏でられる。そこに変化や差異を見出し、その存在の姿をイメージすることになるのであろう。そこで、喜怒哀楽を感じ、風を感じ、風景をイメージすることとなのであろう。
 数学の公式にしても、それはそこで止まっているわけではない。それが長い時の流れのなかで、存在は大きく関わり、それ自体が大きく進化し、
空間を拡張していく。数概念(負数、無理数、虚数など)のさらなる拡張がそれに拍車をけける。
 限定され、固定化された言葉ではなく、存在(私の存在)の移りゆく変化のなかで、コトバとして表現することが大事なのだ。公式や法則を固定化された言葉ではなく、自分のコトバで、表現しなければならない。
 私たちはややもすると、存在に対して言葉というラベルをつけて、それで理解したと思いこんでいる。公式や原理、法則は、言葉として記憶するのではなく、自分のコトバに翻訳し、自分の情念として納得したときに、真の意味を持つ。
 椿という言葉で、一般の椿を連想して、それでおしまいにしてしまうという事が多く見られる。しかし、実際に私たちの見つめる椿は、一般の椿ではなく、そこに存在している椿が、私に語りかけ、言葉はコトバとなるのである。(私は、井筒氏にならい、概念としての言葉と、情念としてのコトバを区別して考えている。「意識と本質・(井筒俊彦著・岩波文庫)参照」
 つまり、存在というのは、絶対に固定化されているものではなく、常に変化しているのだ。文学ひとつとっても、若い時読んだものを今読み返してみると、またちがったところが見えてくる。ちょっと前に行ってきた庭園の紅葉を、また後から行ってみると、ちがったすばらしい姿に出会う。みなさんは、もう季節は終わったというのだが・・・。
 私たちは、ややもすると見えるもの(そこに存在する椿なる花)と口にするもの(概念としての椿)との間、あるいは感覚的なものと知性的なものとの間に、直接的なつながりをつけてしまう。そして、あたかも世界が通常言語に、そして我々全員が共有している経験に、簡単に翻訳できるかのように語る。
「あの文学読んだよ。」「あの誰々の曲聴いたよ。」「あの文化遺産に行ってきたよ。」などなど、よく聞く言葉である。そして、それにつられて炎上現象が起こる。
 およそ存在そのものに価値があるというより、そこには現実があるだけだ。ルノアールの風景画には、天を突き抜けるような動きや差異や変化を感じる。その先が見えてくる。見ないではいられなくなる。それだけ私たちを引きつけるものを持っている。ただそれも見えない人には見えないだろう。それは存在そのもの(あるいはルノアールという画家)に価値があるとの思いこみが先に立つからである。
 私たちの存在を理解するためには、そこにいつもあるもの(例えばもみじの木)に目を向けるのではなく、そこで行われている存在自体(もみじの木)が表現している創造活動に目を向けるべきなのだ。それは、自然だけでなく絵画、音楽、演劇などの芸術はもちろん、哲学書や学術書などを読む時、政治や経済を見つめる時にも、そこで表現されている創造活動に心が向き合うことが必要なのだ。そして、自分の情念をコトバで表現しなければならない。
 存在自体の創造活動と言うとき、それはいつもプラスのイメージとは限らない。現在社会の抱えている問題などは、負のイメージというべきものであふれている。その変化や動きに目をむけ、いろいろと考えなければならない。哲学はその考え方の方法を指し示してくれる。人文科学はその対策のヒントを与えてくれる。
 ところが、世間では誤解があって、哲学というものは、幸福論や人生論や訓話を語ることだと思っている。しかし、それは違う。哲学は、存在に立ち向かう方法を指し示してくれる。人文科学は現実に私達の前に存在するものにたいして、その変化を捉えたり、陰影を感じ取ったり、遠近感を捉えるためのものである。今、問題になっている差別、暴力、格差社会、貧困層の増大などをどう考え、それはどこに原因があるのか、どう対処するのかを考えさせてくれる。だから、先人や現に活躍している哲学者や人文科学者と著書を通じて出会い対話をかわすことはとても必要なことだ。
 言葉が反乱しすぎ、あるときは炎上現象を引き起こす今の世の中、もう一度、存在に立ち向かって哲学をはじめとする人文科学にふれる意義を吟味してみる必要を痛切に感じる今日このごろである。
 このエッセイーを書くきっかけを与えたくれたのは、現代思想ガイドブックの中の「ジル・ドゥルーズ」(クレア・コールブルック著・国分功一郎訳・青土社)この書物に出会ったことに感謝!


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