FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
私の脳は書いたり読んだりすることで研ぎ澄まされると思っています。

改訂「自分を高めよう!」!

2016-12-07 18:01:35 | コラム
改訂「自分自身を高めよう!」
 電車の中で、多くの若者がスマフォに熱中している。その情景をみていると異様な感じがする。最近は中年層にも広がっている。そんな中で、読書にいそしんでいる人に出会うとほっとする。
 ひっきりなしに情報とのやりとりに余念がない。インタネットの誕生によって、情報は一方交通の時代から双方向の時代になったということが言われて久しいのだが、皮肉なことにそれが我々人間のあり方に大きな影響を与えてしまった。独りで何かをするということが、できないようになってしまった。つねに何らかの情報(ニュース、検索、ゲーム、メール、音楽などなど)とつながっていなければいられないという状況になっている。まるで、情報依存症である。
 これでは、考えたり、何かを発見したりする暇はなくなり、ただ情報の奴隷となってしまっていることになる。物事を考えたり、発見したり、感性をときめかしたりできなくなってしまっている。
 私たちは、周囲にあるいろいろな存在(私たちの目にとまった存在)に向き合うことによって、想像力や感性を磨くことができる。その存在とは、自然であったり、人や動植物であったり、絵画、音楽、演劇だったり、本であったりする。しかも、それらは基本的には独りで行う作業(読書、鑑賞、観察なども含めて)なのだろう。
 独りの行う作業の中に、読書がる。活字離れによって、本物の情報に基づいて自分の考えをもつ人々が、だんだん減ってきている。これは非常に問題なのだ。長文を読めない層が大多数になりつつあるのも問題だ。
 スマフォに登場する情報は、自分が知りたいと思う情報しか得ることはできないし、場合によっては、仲間内の限られた情報しか得ることは出ない。そして不特定多数の情報がいきかい、時には炎上現象をおこすととなる。いろいろな問題を引き起こしている。
 一方マスコミの報道は、どこまでが真実なのかわからない場合が多い。理由は何らかの気兼ねがあってのことであろう。たぶん言えないことがたくさんあるのだろう。ところが、書物(哲学書、思想書、文学など)は一般に、個人が自分の考えを、自分が得た情報(先人の言葉、歴史、他の人の考えたこと、自然の姿、社会現象など)をもとに自分の構築した論理で述べている、しかも、それらは他人に気兼がないから、いろいろと自分の考えを述べてくれる。
 もっとも、マスコミだけでなく、知識人と言われる専門家集団も、世間の気兼ねがあって、はっきりともの申すことはまずない。政治家もそうだ。ただたんに「きれいごと」をいっていればそれでよいよと考えている。そこには哲学や確固とした自分の理念がない。
 それが、残念なことに、文学の世界でも、何か賞でもとったものなら、またくまに炎上現象を引き起こし、その作者の個性がふっとんでしまう。
それは、政治家が圧倒的多数の表を得て、有頂天になっている姿と重なる。
 以前、遠藤周作がどこかで言っていたのを思い出す。小説家は書けなくなると、政治家に転身するそうだ。そして、小説ならず、大演説をぶつらしい。書けなくなった小説家ならずとも、世の政治家は人間の持っている陰と陽の世界を語らず(文学や哲学を語らず)、バラ色世界の実現を国民に語る。実現しようと考えてもいないくせに。
 世界では、今の世の中に不満を抱く大衆が、大きなうねりとなって動き出している。そこへ、トランプ氏のように、歯に衣を着せずにもの申す政治家(素人の政治家)があらわれ、政権を獲得してしまった。その言動の善し悪しはべつとしてである。世界に広がったグローバリズムの波が、もろにアメリカに降りかかった結果だと思われる。それと、自分たちの自由と民主主義を他の国々(とくに中東の国々)におしつけようとしたことも、彼ら米国人のジレンマなのかもしれない。報復の連鎖は、このような中で起きているのである。近代主義は、欧米で生まれた考えで、日本で生まれた思想ではない。もちろん中東で生まれた思想ではない。ただ日本人は自分たちも自由と民主主義の国だと思いこんでいるだけだ。そして欧米諸国に同調している。それについては、述べたいことがあるのだが、またの機会にしたい。
 それはそれとして、日本の世論は、何か別世界に住んでいるという状況にある。こういう時にこそ、知的資源は最も必要なのに、今や枯渇寸前にあるようだ。知的資源をたくさん得ることを求めている学生は今や、風前の灯火である。学生だけの問題ではないことは先に述べた通りだ。
 それにしても、日本の学生は諸外国に比べて格段に劣っている。外国からの留学生も含めて、外国の学生たちは結構勉強にいそしんでいるそうだ。彼らは、そこで何かを学び、自分の力を蓄え、自分のために、家族のために、国のために尽くしたいと考えているのであろう。
 だから、米国の大統領戦におけるサンダース候補の善戦が目立つが、学生の果たした役割は大きい。英国においても、学生は大きな影響力を持っている。
 ところが、日本の学生はどうだろうか。まったく政治や経済、文化や科学、芸術にあまり関心を示さない。ただ、私が読む本の著者の中には、若い人(三十代や四十代)も結構いる。彼らに出会って頼もしく思う。しかし、それは少数派のようだ。
 先行き不安な世の中、世界の急激な変化、少子高齢化、グローバリズムや新自由主義政策による格差の拡大、一向にそこに目がいかず、何も問題を感じていないようだ。まして、遠い国で起こっている報復の連鎖(テロ事件など)にはまったく意に介していない。まったくおめでたいとしか言いようがない。
 ぬるま湯だらけの世界に浸かって、空気を読み、仲間はずれをおそれ、ただ、刻々と過ぎ去る時間の波間を延々とプランクトンのように浮遊している。
 カントの「啓蒙とは何か」(岩波文庫「啓蒙とは何か」カント著・篠田英雄訳)という論文の最初は、次のようなくだりから始まっている。
「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである、ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある、というのは、この状態にある原因は、悟性がかけているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。」と述べた後、「『自分自身の悟性を使用する勇気をもて!』これがすなわち啓蒙の標語である。」と述べている。
 本来、学生というものは、大学で得た知識をもとに、自分を高めるために存在している。そしてそれは、自分で考え、独りで判断する力をつけることによって可能なのだが、そうなっていないのが現状であることは、先にいろいろと述べた通りだ。
 もう一つ付け加えておきたいのは、現在の研究者や政治家、官僚の教養不足である。現在の学問が、あまりにも特殊化しすぎて、研究者自身が、他の分野についての識見を持ち得ていず、また持とうともしていないという現実があるということだ。言ってみれば、一つの分野に特化したものが、それぞれ世界を浮遊して、その間のつながりがどこかに行ってしまっている。
 また、先にも述べたが、政治家は票を獲得すべく、きれいごとで国民をだましている。彼らは、世界の陰影の世界に目を向けようとせず、光だけをひたすら語り、バラ色世界を、夢見る夢太郎のように述べているだけだ。よく哲学がないと言われる所以である。それが、人間不在になったり、人間の抱えている問題の欠落となって現れている。
 科学が高度に発達すればするほど、その行き着く先に、多くの課題がのしかかってくる。そして、それは、その分野を飛び越えた課題となることが多い。例えば、原子力の抱える問題を上げるだけで、おわかりいただけるだろう。そのほかにも生命科学にかんするものもも例とし、いろいろ浮かんでこよう。それなのに、専門分野は、それぞれ一人歩きをしてしまう、そこが問題なのだ。
 こういう状況だから、反知性主義に立ち向かうなどできるわけがないのだ。学生だけでなく、研究者と言われる知識人、官僚、政治家だけでなく、私も含めて国民全体が、もっと知性とは何か、教養とは何かを(カントの言う啓蒙とは何かも含めて)もう一度考え直さなくてはならない時代にきていると思う。そしてそれは、自分自身が、自分を新しく創り出していくことによって可能なのだということを再確認しなければならない。
 たんなる流行の「自分探し」ではなく、自分をより高めることに、自分エネルギーを注がなければならないのだ。それは、若者ばかりでなく、われわれ全体に言えることなのだろう。
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