FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
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美意識について考える

2017-07-14 15:13:55 | コラム
美意識について考える
 私たちにとって、美を感じるということはどういうことか。考えてみようと思う。福田恒存が言うように、我々が美を感じるのは、博物学ではなく生きた花にである。
 私たちの周りには、にわか博物学者が氾濫していて、いろいろと講釈をする人々でいっぱいだ。その講釈に誘われて、例えば注目されている食堂などは、長蛇の列だ。本来なら、生きたその料理を見、味わってこそ実感としての美を発見するはずだ。そいう意味で、福田の言う「博物学ではなく生きた花」が問題なのだ。
 「生きた花」とは象徴的に言っているのであって、それは人間も含めた動物、もちろん植物全般も含めての話なのだ。そこの「生きた花」は曲線で構成されている。
 この曲線美というのが、いい知れない心地良さをわたしたちに与えてくれる。私のような男からみれば、女体のもつやわらかでふんわりした曲線美は魅力的である。多分女性からすると、筋肉隆々たる体の持ち主の男性はたまらないかもしれない。当然それはどうかは、私は男なので知る由もないから予想にすぎないのだが。それにしても曲線美に魅せられるのに男女の差はないだろう。
 曲線と言えば、数学で記憶があると思うのだが、二次関数や三次関数のグラフ(曲線)、三角関数のグラフ(周期的波の曲線)などは、均整のとれた曲線である。しかし、自然の作り出す曲線は、はるかに複雑で、より一層優れた美意識を醸しだしてくれる。
 ところが、この美意識なるものが今あやしくなってきているように思える。この間、家内たち友人がレストランでソフトクリームを頼んだそうだ。その中身たるや、アズキアン、白玉団子、わらび餅、コーンフレークなどが入っており、まるで「がらくたソフトクリーム」あるいは「ゴミ屋敷ソフトクリーム」と言ってもよいよなしろのだったそうだ。食べてみてそこには美意識(心地よい風味、心地よい肌触りなど)を感じる余裕などなかったようだ。
 こういう現象は食べものだけに限ったことではない。すべての分野で美意識にとって大切な適度なシンプルさがなくなってきている。適度のシンプルさは美意識にとって大きな役割を果たす。実際自然界の現前の存在は、シンプルな曲線の組み合わせで出来ているものだ。しかも、そこにはハーモニーがありリズムもある。
 先のエッセイで述べたTVドラマの「がらくたドラマ」も、そこには適度なシンプルさがかけていた。だから、視聴者にじっくりと考える余地を与えることがなかったし、美意識も醸し出すこともなかった。
 どうも、情報の氾濫が世の中すべてに影響を与えているように思えてならない。だから、話題になりネットや会話で取り上げる何か奇抜なものはないものかという風潮が、このような「がらくた」文化を生み出しているのかもしれない。樹木や水族館のライトアップも度を超すと、それは落書きになってしまう。
企業のコマーシャルもそうだが、それに劣らず政治家のスローガンなどは、何か奇抜なことを表現するとみんなが気を引くと思い、いろいろなアドバルンをあげる。アベノミクス、地方創世、一億総括役社会、人づくり革命などなど、まあよく次から次と出てくるものだ。アドバルンも多すぎると全体の調和がおかしくなる。おかしくなるからまたあげる。がらくたいっぱいの空間となる。だからだんだん見通しが悪くなる。しかも、アドバルンのインフレは、アドバルンの価値の低下につながる。言っている言葉が軽くなり、そこに重みも美も哲学も感じない。
 せっかくの曲線美に落書きのようにぎざぎざやぴかぴかを入れて、めちゃめちゃにしてしまっているのが現代社会のようだ。この落書きにだまされることなく、真の曲線美を見つけにいこうではないか。


 
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