FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
私の脳は書いたり読んだりすることで研ぎ澄まされると思っています。

自然探索で考えたことー曲線と直線ー

2017-06-30 15:28:21 | コラム
自然探索で考えたことー曲線と直線の世界ー
 山野や、公園を散歩していると、道端の片隅に咲いている小さな花が目にとまる。自分はあまり目立ちたがらないのか、ひっそりと咲いている。
カタバミ、ドクダミ、オオイヌノフグリ、オニノゲシなどなどだ。地球の仲間の小さな星たちだ。中には、サクラやバラのようによく知られていて、開花の季節には多くの人で賑わってもらえる花もある。
 それにしても、花をつけるつけないは別として、植物の偉大さは、気象の変動があっても、きちんと季節になったら咲くことだ。しかも、その花たちは、けなげに自己主張をしているように見える。それは有名なバラやサクラ、ツバキのような花から、道端や野原にひっそりと咲いている花までもである。やがて花たちは咲き終わり、また次に咲くまでせっせと次の準備に余念がない。
 しかもこの植物たちの世界は、古来万葉の時代、古今集の時代、いやもっと前の時代からずっと繰り返されている。そこには確かに厳しい自然ではあるが、美しく心のなごむ自然があったであろう。
 こう書いていると、ふと思い出したことがある。ふと思い出す、そこが人間のおもしろいところだ。思い出したのは、本川達雄氏が「生物的文明論」・新潮新書で述べている、自然の造形物に四角や三角はないということである。(そこで、タイトルに曲線と直線を付け加えた次第)
 そう言われれば、植物に直線を表現しているものはない。そこにあるのは、美しい曲線である。それは、人間も含む動物たちもである。みなさんは、曲線美というのはとても素敵だと思うだろう。わたしもそう実感する人間の一人だ。
 そもそも、直線というのは、人間が考え出したものであり、本来が人工物なのだ。数学に出てくる直線とは点Aから点Bへ向かう最短距離のことだ。多分昔の人が、土地の測量で使ったのだろう。
 もっとも、人工物である直線で構成されたものへの美の追求も、絵画やデザイン、写真で表現しようとしている方々もいるだろう、それを否定はしない。
 しかし考えてみれば、私たちが山野や公園や庭園を散歩するとき、直線的に歩いてはいない。そんなことをしたら、肝心の美しい風景や花に出会うことはない。そういう意味では、現前の存在への出会いは、曲線的な行動によって、大きな意味を持つということなのだろう。つまり新たな出会いがそこにまっているということだ。
 直線に囲まれた人工物が多く立ち並ぶ空間のなかにいると、なんだか、世の中が直線によって支配され動かされているという錯覚におちいることがある。先に述べた直線の構成空間を追求する芸術家の心の中には、ある意味現実を見据え、その支配にたいする一種の抵抗を試みているのかもしれない。「毒をもって毒を征する」のたとえのように。
 ところで、私もふくめて最短距離をねらって、存在の探索をおこたり、目的の存在めがけて突進していることがよくある光景だ。つまり、直線の奴隷になってしまってはいないか。そうではなく「急がば回れ」のたとえのように、もっとゆっくりと生活を楽しみたいものだ。
 本来なら、心が豊かになるのは曲線で構成されている空間のはずが、それが失われようとしている。山野や公園などに咲いている花たち植物はもちろん、動物や私たち人間の心の空間までもが破壊されようとしている。少なくても、今ある曲線の空間を残していきたいものである。なぜなら、昔遊び回ったふるさとの原風景がそこに宿っているからだ。


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