FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
私の脳は書いたり読んだりすることで研ぎ澄まされると思っています。

表現の豊かさ、貧しさ

2017-05-17 16:59:17 | コラム
表現の豊かさ、貧しさ
 先日TVで、海岸の清掃をやっているボランティアのことが、放映されていた。TV記者が、中学生ぐらいの子に、感想を聞いたら、ただ、「おもしろかった。」とう答えが返ってきた。こういう答えは、どのイベントのあとでもよく聞かされる。「おもしろかっった。」「楽しかった。」などなど。記者の聞き方もおざなりなのであろう。
 教育の現場では、授業中の「発問」も、教師の研修の対象となっている。どう児童生徒の考えや思いをひきだすかの「問いかけ」の研修である。
 それはともかく、海外番組などで、記者がこどもに訪ねると、たとえばさきの海岸の清掃の場合だと、こう答えが返ってくるだろう。「こんなにゴミが散らかっていたとはね、私たちは、もっと気をつけなければね。」
外国の人の方が遙かに豊かな表現となっている。
 上の例は、こどもの場合だが、大人の言葉も最近は、あまり豊かでない、しかも下品な言葉が反乱している。ことばの乱れはそうとうなものだ。
 そう言えば、最近歌われる歌の詩も、あまり美しく感じないのは私だけだろうか。TV番組に交わされる会話も、そうとうの乱れである。それはTVドラマにも波及している。
 もう一つ気になるのは、SNSの影響で、言葉がやたらと省略型となり、わたしにはわからないこともある。
 つまり、あまりままの存在を断片化してしまっていることによって、流麗なる美しさが、損なわれてしまっているのだ。そこにはとげとげした、ぎざぎざした、ごちゃごちゃしたゴミ屋敷の中にいるよな感じが残るだけだ。
 もう一つ、問題に思っているのは、若者の読解力のなさである。とくに
長文は、もっとも彼らの苦手とするところだ。長文は、いろいろな糸で紡ぎられていて、それを解きほぐすという作業が必要なのだが、それができない。マンガのように断片化しなければ理解できないようだ。
 そこから、文章の綴るう美しさを味あう体験不足にますます拍車がかかかり、表現の貧困化をまねくこととなっている。それを克服するためには、どうするか、それはやはり実際に長文に触れることだ。文学でもいい、哲学や評論でもいい、あるいは学術書でもよい。
 難しい表現を、自分のコトバに置き換える作業をすることだ。
 こんな事例がある。
 「オランダ語しか知らない学生に、ある書物の半分をフランス語の原文を暗証させた後、後の半分はフランス語で物語ることができるように読んでみなさいという指導をしたら、自分たちの読みとったものを、すべてについてフランス語で書くようになった。」(無知な教師ー知性の解放について・法政大学出版局・ジャック・ランシエール著・梶田裕&堀容子訳)
 この事例のようにわたしたちが取り組むとすると、幸い私たちには、日本語の書物(フランスやドイツ、アメリカなどの哲学者の翻訳書も含めて)がたくさんある。だから、外国語を暗証しなくても、自分のコトバで、物語を書き換えることは可能だ。はじめは日本語の書であっても、外国語のように思うことはままある。とくに海外の哲学者の日本語訳はそう感じることがしばしばだ。
 問題は、どうやって自分のコトバで表現するかである。流麗な表現に挑戦することである。別な言い方をすれば、このことが読書の意味、学びの意味、芸術活動の意味ではないのか。私も挑戦しているが、なかなかうまくいかないことは痛感している。
 私の存在(それが書物であれ、自然であれ、動植物であれ)を、いかに流麗な表現で表現するかが、学ぶことの意味なのかもしれない。その一つとして読書への挑戦がある。 


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