FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
私の脳は書いたり読んだりすることで研ぎ澄まされると思っています。

断片化がものの見方を狂わせる

2017-02-13 15:08:41 | コラム
断片化がものの見方を狂わせる
 かねて、私は存在に立ち向かう時、それを言葉で感じとるのではなく、情念を持ったコトバで表現する(一つの自分自身の思考や感情として表現する)と述べたことがある。
 たとえば自然に対峙したとき、そこに桜の木が一面に花をつけているのを見て、そこに私自身の美意識がわき出てくる。確かに、あれはソメイヨシノだとか、ヤマザクラ、コヒガンザクラだとかという分類も必要だが、それをあまり問いつめると、「そこに分布している桜の種類は三種類ある。」という知識の問題に還元してしまう。それは結果的に世界がどうあるのかを持ち前の知識で説明することとなる。そうではなくて、この存在との間で行われる行為は、自然に対する一つの見方をもつことである。そこに何かを看取ることである。
 そこに何らかの理由付けをすることである。その場合、今まで知っている知識を連想して、看取るのではなく、芸術的な感性をもって看取ることと同じなのかもしれない。もちろん、これは何というサクラかという分類分析を全く否定するものではない。
 存在は絶えず変化している。そしてそれに対峙する我々も耐えず変化する。当然、今までの経験で得た看取りとは違う。そのことに気付かないために、狭い見方が我々を支配することとなる。
 その狭い見方を、D・ボームは「断片的世界観」といい、それに支配されている人間が、あらゆるところで破壊活動を行っているという趣旨のことを述べている。(彼の著書は、下に記載)
 また、理論ということについて、次のように言っている。
『「理論(theory)」という語は「劇場(theater)」と語源が同じであり、「見ること」ないし「見方を与えること」という意味のギリシャ語「テオーリア」から発している。』として、『理論とはまず第一に洞察の一形式、つまり、世界の一つの見方であり、世界が具体的にどうあるのかの知識ではない。』
 また、専門の理論物理学の立場から、その具体例を述べている。
『古代 天体が地上の物体と根本的に異なって、地上の物体は落下するが自然であるのに対し月のような天体は天空にとどまるのが自然であるという理論をもっていた。』
 それが、『月のような天体も地上の物体と同様落下するはずだという見方をもつようになった。(ニュートンの重力理論)』
 その後、『相対性理論と量子理論は、ニュートンとは異なる世界像を作った。』(原子や分子の構造、超伝導やレーザー光など、色や磁性、電気伝導性などの理論の新たな世界像への拡大)
 物理学は発展とともに、実存の世界を広げていったということなのだろう。ここで、彼のいいたいのは、理論は正しいか間違いかを問うものではなく、一定の領域の中では正しいが、その領域を越えると理論は適応されないということなのだろう。
 この例で明らかなように、彼の言う実在(私の言う存在)は、常に変容を遂げている。これからも変容し続けることだろう。事実、私たちの周りの存在も常に変容している。
 こういう例は、幾何学でも言える。平面の世界から、曲面の世界へ移行すると、論理はまったくちがったものになる。平面から球面の世界になると、三角形の内角の和は180度以上、平行線は交うということになる。(ユークリット幾何学から非ユークリット幾何学へ)
 これを私たちの日常の生活で考えるとすると、私たちの前に対峙する存在は、つねに変化していて、以前に出会った時の存在とは違う。まして、他人の出会った時の存在も変化しているし、第一本人も私とはちがう存在だし、ともに変化している存在なのだ。
 だから、前もって知っている知識によってだけで存在を見つめるのではなく、その場で、洞察し看取ることに中心を置くことなのだろう。なぜなら、この知識なるものが、以前にも述べたように、断片化された状態でわれわれに降り注いぎ、間違った考え方を生むことを助長するからである。
 本来は分割不可能なものなのにそれを分割し、分断し、それが一般に普及する。その結果、異なるものが同じものになって波及し、世の中がそれに右往左往してしまっている。政治、経済、社会、芸術すべてにわたって今はそういう状況になってしまっている。
 分断や分裂が差別となって現れ、それが世界に大きなうねりとなって、押し寄せてきている。国家の分断、人種差別、いじめ、各種の虐待、炎上現象、さては科学技術の勇み足などとなって現れている。
 ボームは、次のように言って、生物関係における分断や分析指向にたいしても警笛をならしている。これは傾聴に値する。
『生物学などの他の諸科学においては、このような(分析、分断の)確信はよりいっそう強い。生命や精神の全体がDNA分子の構造と機能についてのこれまでの研究を拡張することによって、究極的には大体機会論的に解釈できると信じている。心理学にも広まっている。
 分割も分断もできぬ流動運動の中にはたらく形成因がもっとも明瞭に経験でき、観察できるはずの生物や精神の研究分野において、実在に対する断片的かつ原子論的アプローチがもっとも強固に信じられているのである。』
 とにかく、分析に分析を重ねることが、「存在」についての真なる知識を得るという考え方の幻想から逃れることが求められていると思う。私たちはもっと考えるという意味を吟味しなければならないのではないか。
 その場合、複雑系科学の考え方も、多くのヒントを与えてくれるとも思っている。以前に少しだけふれたことがあるが、また機会があったら述べてみたいと思っている。
 参考文献「全体性と内蔵秩序」(D・ボーム・井上忠、伊藤笏康、佐野正博訳・青土社)なお、D・ボーム氏はロンドン大学理論物理学教授で量子力学の世界的権威である。 
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