FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
私の脳は書いたり読んだりすることで研ぎ澄まされると思っています。

表現することの意味

2016-12-12 16:21:52 | コラム
表現するということ
 私たちの回りにはいろいろなものが存在している。(自然、社会、人、芸術、スポーツ、科学、哲学、文学や詩集、学術書などの書物など、諸々の私たちを取り巻くものを、私は存在と考えている。)
 およそ存在そのものに価値があるというより、そこには現実があるだけだ。ただそこには光や影が描き出す姿があり、その姿にすばらしさを感受することはできる。そいう体験を重ねることが、自分を高めることになるのではないか。自分を表現することになるのではないか。
 その場合、全体をめがけてすべてを照らす光ではなく、斜光こそがそこで大きな意味をもつ。斜光(逆光も含めて)のもたらす空間は、存在の選択を可能にして、他の存在を無視することを可能にする。そして、存在そのものの僅かな部分に意味を持つこととなる。
 目の前の存在は、決して隠されているわけではないのだが、即座に見えるものではない。よく光を観察し、見方を切り開いていかなければ、見えるものも見えなくなり、かえって全体が見えなくなってしまうのである。
 私たちのまわりに展開される存在は、いろいろなものが見えるように思われているが、実際はわずかなところだけに目がいき、それがわたしたちに驚きをもたらすものなのだ。そして、それが見えるということ、つまり表現するということだ。表現を生み出すためには少しも独創性はいらない。表現するということは、いつも存在(私の存在)につき会い光(影)を捉えるという態度が重要な役割をもつ。
 ところで、多くの存在は、頭だけで表現するのではなく、能動と受動、あるいは行動と静止の競演、つまり身体活動も重要な役割を持ってくる。その力をもって光を捉え、これぞというものを表現することとなる。つまり、歩き回り、動き回り、小躍りし、リズムをとるなど、体で感情を表現することも、大事なことだ。
 もう一つ付け加えさせてもらえば、知性や感性を働かせるには、表現させてくれる存在(私の存在)とそれを感受する私(私という存在)との空間が必要であるということだ。それがなければ、感じることは無論のこと身体活動も不可能だ。べったりくっつかれては、動きようもない。強い風に吹き飛ばされるだけだ。ダイレクトの強い光で、お先真っ暗になってしまうだけだ。
 空間の存在があって初めて、一瞬一瞬の吹く風、お互いの言葉のやりとり、光のきらめきを感じ取ったり、一つの響きを感じたりすることができるのである。空間があるから、見えないものが見えてくるのだ。しかし、空間を感じ得ない人、感じようとしない人には決して見えるものも見えてこないであろう。当然見えなかったことも見えてくることもないだろう。
 蛇足になるが、現代社会はこの空間が狭まってしまっているのである。
また、光もまんべんなくあたり、ここぞという光(斜光や逆光)を捉えることが面倒な社会になっていることも気になるところだ。


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