#578: パパ・ジョーの悲劇

2013-11-27 | Weblog
ジョナサン・デヴィッド・サミュエル・ジョーンズ(1911-1985)は、シカゴ生まれで、本名の頭と尻を取って、ジョー・ジョーンズと名乗るようになった。
彼は本業のドラムスのほかいろいろな楽器をたしなみ、タップ・ダンスもマスターしながらキャリアを積んでいった。
やがてドラマーとしてベース奏者のウォルター・ペイジのバンド“ブルー・デヴィルズ”に参加したが、このバンドはそのままカウント・ベイシーのバンドに引き継がれた。

バンド・リーダーでピアノのカウント・ベイシー、ギターのフレディ・グリーン、ベースのウォルターペイジ、それにドラムスのジョー・ジョーンズの4人は、初期カウント・ベイシー楽団の屋台骨を支えたリズム・セクションであり、その素晴らしい演奏に“All American Rhythm Section”という敬称がつけられるようになる。
彼らはアメリカにおける音楽上の歴史的遺産ともいうべき伝説的な存在になり、ジョー・ジョーンズも、スイング・ジャズ時代を代表する名ドラマーになったのである。
冒頭画像の彼のバスドラムに“CB”の文字が見えるが、これは当然“カウント・ベイシー”の頭文字である。


後年、50年代にマイルス・デイヴィスが率いた「黄金クインテット」のリズム隊、ピアノのレッド・ガーランド、ベースのポール・チェンバース、ドラムスのフィリー・ジョー・ジョーンズの3人も“All American Rhythm Section”と呼ばれるようになり、フィリー・ジョーがモダン派ドラマーとして活躍するようになると、ジョー・ジョーンズは混同されるようになる。
そこで、音楽仲間はフィリー・ジョーと区別するため、大先輩のジョーの方を“パパ”の愛称で呼ぶようになった。
もちろん年長者ということだけではなく、ドラミングの『父』というリスペクトも込められていたのであろう。

パパ・ジョーのドラミングは正確無比で、シンプル、いつも笑顔を絶やさずニコニコしながらプレイをするので、ベイシー楽団の顔と言われる存在であった。
まずは、そのパパ・ジョーの楽しい至芸のドラム・ソロの一端をこちら(パート1)とこちら(パート2)で楽しんでいただきたい。

♪ ♪

ジャズ・ドラムにブラッシュ奏法というものがある。
スティックの替わりにブラッシュ(ブラシ)を使うのだが、ジャズ以外の音楽ジャンルではあまり使われることはない。
ジャズでは必須の技法であるが、繊細さとテクニックが必要である。
ブラッシュワークをうまくこなせればとりあえずはジャズ・ドラマーとして一人前であろう。
スロー・ナンバーでは、打面を円を描くようにこすりながら演奏をするし、早いテンポではスインギーに素早く叩く。
トコトコ、ガサガサ、シャカシャカ、ワサワサとブラッシュと革やシンバルがこすれる音が面白い効果をあげる。

パパ・ジョーは、タイムキープの役割をバスドラムからハイハットに担わせるようにし、ブラッシュ奏法を革新して積極的に使うようにしたドラマーで、ブラッシュワークの名手でもあった。
彼のブラッシュ奏法を堪能できるアルバムが“JO JONES TRIO”である。
レイ・ブライアントのピアノ、トミー・ブライアントのベースというブライアント兄弟を従えてパパ・ジョーがブラッシュでグイグイ引っ張っていく。
“EVEREST”という弱小レーベルに録音され、ほぼ幻の録音となっていたものの復刻アルバムで、蚤助の学生時代(もうかれこれ40年ほど前)に確か千円前後の廉価盤シリーズとしてリリースされたものを嬉々として入手したものだった。

ここでのパパ・ジョーのブラッシュは音楽というよりも人間が生み出す生命力、躍動感というようなものを感じさせるが、それはどこかスポーツ観戦などでスーパープレイを目の当たりにした時の感動に近いものがある。


(Jo Jones/Jo Jones Trio)

[Side A] 1. Sweet Georgia Brown / 2. My Blue Heaven / 3. Jive At Five / 4. Green nsleeves / 5. When Lover Has Gone / 6. Philadelphia Bound
[Side B] 1. Close Your Eyes / 2. I Got Rhythm I / 3. I Got Rhythm II / 4. Embraceable You / 5. Bebop Irishman / 6. Little Susie

パパ・ジョーの変幻自在なリズムと、優しいビート…そう、それである。
スウィングがモダン・ジャズと大きく違うのは、この「優しいビート」であろう、リスナーを楽しませ踊らせてナンボ、という世界で生きてきた音楽である。

このアルバムの録音は1959年3月、スウィング時代はとうに歴史の彼方、ジャズの世界ではすでにビバップからハードバップへと移り、モードジャズに突入するあたりなのだが、パパ・ジョーは30年代のスウイング感覚でパーカッシヴなリズムの万華鏡を披露し、そこにモダン・フィーリング一杯のレイ・ブライアントが絶妙に対応するという仕掛けになっている。

アルバム冒頭の“Sweet Georgia Brown”からして強烈である。
ドラムスとピアノのシンプルなテーマ部分からスタートし、アドリブ部分になるとパパ・ジョーのブラッシュワークが炸裂する。
ドラムセットのあらゆる部分を駆使、一人のドラマーが叩いているとは思えないようなプレイである。

また“Jive At Five”は、ベイシーとハリー“スウィーツ”エディソン共作の名曲だが、これを聴いて身体が揺れてこない人はいないだろう。
パパ・ジョーのブラッシュは控えめで絶妙、レイのピアノは音符の数が多いベイシー・スタイル(笑)、トミーの刻むベースも心地よい。

さらに“Philadelphia Bound”は、筆舌に尽くしがたい。
パパ・ジョーのブラッシュはスウィンギーでドライヴ感にあふれ、凄まじいほどの疾走感だ。
ブラッシュ奏法による一曲と言われたら、蚤助はこのナンバーをイチオシにしたい、それほど強烈で痛快な演奏である。

そして“I Got Rhythm II”もアクセル全開の演奏である。
パパ・ジョーのドラミングに鼓舞されてレイのピアノは冗舌なカウント・ベイシーという感じである。

♪ ♪ ♪

パパ・ジョーの妙技が聴けるアルバムをもう一枚挙げよう。
かつてのベイシー・バンドでの盟友レスター・ヤングと共演した“Pres And Teddy”(1956)である。
ベイシー・バンド時代のインスピレーションはすでに失われたとみられていたレスター・ヤングが、その晩年にみせた最後の名演が記録されている名盤である。
スウィングの優しさとアドリブの創造性が見事に発揮された感動のアルバムである。
おそらくテディ・ウィルソンのピアノがレスターに刺激を与えたのであろう。
二人の呼吸はピッタリで、パパ・ジョーのブラッシュワークも美しい。
パパ・ジョーは全てのナンバーでブラッシュを使い、プレイは控えめだが、絶妙なスウィングビートを生み出している。
「円熟」とはこのアルバムにこそふさわしい言葉であろう。
このアルバムからガーシュウィンの遺作“Our Love Is Here To Stay”をどうぞ。

♪ ♪ ♪ ♪

パパ・ジョーは1985年に亡くなったが、晩年は自分の音楽的功績が正当に評価されないことに随分悲嘆にくれていたそうだ。

で、ここからが本稿のテーマ“パパ・ジョーの悲劇”のオハナシの始まり…

大木トオルといえば、現在ではむしろ高齢者や障がい者に対するセラピー犬の普及活動の方が有名になっているが、元々はブルース・シンガーである。
鞄一つと古いギターを抱えて単身渡米して、ハーレムに居を据え、日本人として黒人社会の中でブルースの魂に触れようと苦闘した様子を自著「伝説のイエロー・ブルース」(講談社文庫)に記している。
この本、次々と出て来るミュージシャンをはじめとした人物名に誤記と思われる部分が散見され、蚤助はとても気になってしまったのだが、それはそれとしても内容の方はなかなか興味深く読ませてもらった。


(大木トオル/伝説のイエロー・ブルース)

この本の中に、後期オスカー・ピーターソン・トリオのドラマーだったルイス・ヘイズに紹介されて、パパ・ジョーのアパートを訪ねるくだりが出てくる。
少し長いが引用させてもらう(同書283~5頁)。

 アパートは、64丁目の古ぼけたビルにあった。4階Aが彼の部屋番号で、階段をのぼるとき、薄汚れた天井を見上げて何となく不安な予感がした。
 ドアをあけ――いや、ドアに鍵はかかっていないから、だれでも自由に入れるのだが――紹介されて私が自分の名前を名乗ると、無精ヒゲを生やした白髪まじりの老人がベッドからよろよろと起き上ってきた。汚れたナイトガウンにプンと鼻をつくアルコールの匂い…。昼間から老人は酒をあおっているのだった。眼はどんよりと黄色く濁って、久しくシャワーをあびていないのか、黒人特有の体臭が匂った。
 私は自分の予感が正しかったのを知った。これがあの名ドラマー、ジョー・ジョーンズの成れの果てなのか。ワンルームにベッド一つ、こわれた白黒テレビ、小さなラジオ。それだけが“パパ”ジョー・ジョーンズの所帯道具である。


大木氏でなくとも目を疑いたくなる光景である。

私はこの“生きているジャズの歴史”に関心を抱いて、その後、暇をみつけてはジョー・ジョーンズのアパートを訪ねた。かつての名ドラマーがなぜこんな貧しい生活に甘んじているのかが、気がかりでならなかったからだ。“パパ”ジョーのレコードは、いまもレコード店にならび、そのアルバムはロングセラーをつづけている。

大木氏の疑問にヘイズが答える。
「教育もなく、文字の書けない黒人の名ドラマーは、マネージャーやレコード会社のお偉方から一時金やピカピカ光るキャデラックをあてがわれて、印税契約をしなかった。そのために、彼のレコードの売り上げはすべて会社のものになり、いまでも1セントたりとも彼の懐に入ることはない」のだと。

 私に自慢するためか、あるとき訪ねてみると、レスター・ヤングとの共演レコードが棚に飾られていたことがある。「どうしたんですか」と私が訊ねると、「これがオレなんだよ」とジャケットに写った黒人の若いドラマーを指さした。
 だが、レコードを買ったとしても、それを聴くステレオが部屋にはない。生活保護のわずかな金のなかから、1ドル59セントでセールの自分のレコードを買い、じっとそれを見つめる黒人の元ドラマー―――。背後に立っていて、私は何ともやり切れない想いに駆られた。この老いた黒人はその無知につけこまれ、搾取され、差別され、そして捨てられたのだ。


ハーレムに入り込んで暮らしはじめ、ミュージシャン仲間から信頼されるようになった一人の日本人が遭遇したあまりにも悲しい事実に愕然とさせられた。
おそらくパパ・ジョーが亡くなる数年前のことなのであろう。
「黒人が創造し白人が売る」というのはアメリカの音楽界の常識である。
だがこんな悲劇を知ると、哀しすぎて怒りを覚えるほどである。

 ジョー・ジョーンズの目がうるんでいた。ノロノロと身体を動かし、ベッドカバーの下からドラムをたたく二本のブラシを取り出した。手が自由に動かないいまとなっても、このブラシだけは手放せないのだろう。 
「お前さんは何もわかっちゃいない」
 刻み込まれた深い皺をつたわって、涙が頬に流れた。“パパ”ジョー・ジョーンズは私の存在を忘れて、子供のように泣きじゃくっていた。そして二本のブラシを握りしめながら、コブシで涙をぬぐった。私は何もいえずに、突っ立ったままだった。


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パパジョーの悲劇セピア色のドラマ (蚤助)




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