私的なメモ帳

メモ帳がわりにペタペタ貼ります

世界チャンピオン・西岡利晃の軌跡

2011年09月03日 | ボクシング
(1)天才少年の挫折 デビュー2戦目で痛い黒星 辰吉らとの合同合宿で刺激
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/text/201109030005-spnavi.html
スポーツナビ 2011年9月3日

 日本時間の10月2日、米国ネバダ州ラスベガスのMGMグランド ホテル&カジノでWBC世界スーパー・バンタム級王者、西岡利晃(35=帝拳)の7度目の防衛戦が行われる。挑戦者はバンタム級とスーパー・バンタム級を制した実績を持つ世界的ビッグネーム、ラファエル・マルケス(36=メキシコ)だ。
「世界的なスーパーファイトが行われるボクシングの聖地でマルケスと戦えるので、いまからワクワクしている」と西岡は腕を撫している。勝てば日本人初のラスベガスでの防衛となるだけでなく、これまた日本初の2度目の海外防衛成功となる。

 そんな大一番に向け、3回連続で西岡利晃の起伏に富んだ足跡を紹介しよう。

■「スーパールーキー」の初戦は1回KO勝ち

「関西にとんでもない天才少年がいる」――そんなうわさが風に乗って東上したのは90年代の初頭だった。その強さ、巧さは現役の日本ランカーを寄せつけないほどだと伝えられた。
「将来の世界チャンピオン間違いなしですわ。いずれ具志堅(用高)さんの防衛記録(13度)も抜くんとちゃいまっか?」気の早い関係者は、少年の戴冠ばかりか防衛記録樹立まで予想したほどだった。
 そんなスーパールーキー、西岡利晃が12戦(10勝2敗)のアマチュア経験後、プロデビューしたのは94年12月のことだった。高校3年生だった西岡は1回KO勝ちで初陣を飾っている。

 ところが2戦目で手痛いプロの洗礼を受けることになる。のちの東洋太平洋チャンピオン、中村正彦(角海老宝石)の体力に押されてリズムを崩し、失点を重ねたあげく4回KO負けを喫したのである。担架でリングを降りるほどの痛烈なKOだった。

■挫折を越え、2000年に初世界戦に挑む

 その後、エントリーした95年の西日本新人王戦は勝ち上がったものの、西部代表との対抗戦で僅差の6回判定負け。こうして1年の間にふたつの黒星が記録されてしまった。“天才少年”は20歳の誕生日を前に早々と大きな挫折を経験させられたことになる。

 沖縄、神戸、姫路、大阪、横浜、高砂と試合場所を変えながら西岡は自身のボクシングを再構築していった。徐々に総合力はアップし、21歳のころには日本タイトルを視野に捉えるところまで成長していた。辰吉丈一郎、飯田覚士、越本隆志らと合同キャンプで走り込んだのもこの頃のことだ。大いに刺激を受けたはずだ。

 98年12月、西岡は渡辺純一との王座決定戦を2回KOで制して日本バンタム級チャンピオンとなった。鳴り物入りのデビューから4年が経っていた。
 その後、日本タイトルを2度防衛した西岡は2000年6月、ウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)の持つWBC世界バンタム級タイトルに挑むチャンスをつかんだ。


世界チャンピオン・西岡利晃の軌跡(2)
4度の世界挑戦失敗、アキレス腱断裂……どん底を経験
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/text/201109090008-spnavi.html
スポーツナビ 2011年9月10日

 2000年6月、23歳の西岡はウィラポン・ナコルアンプロモーション(タイ)の持つWBC世界バンタム級タイトルに挑戦したが、持ち味を発揮できないまま判定で敗れた。この直後、転機が訪れる。帝拳ジムへ移籍したのである。新たな環境でヘラルド・マルチネス、サミー・ベンチューラというメキシコの曲者を屠った西岡は、01年9月に再度ウィラポンに挑戦。今度は中盤に王者をダウン寸前に追い込む健闘をみせたが、引き分けという無情な結果に終わった。

 決着をつけるべく翌年3月には両者の3度目の対決がセットされた。しかし、西岡はトレーニング中に左アキレス腱断裂という大ケガを負ってしまう。試合がキャンセルされただけでなく、選手生命も危ぶまれたほどのケガだった。「ショックは大きかったけれど、起こったことは仕方ない……完全に治して、それからまた頑張ろうという心境でした」と西岡は当時を回顧している。

 1年3カ月後にラスベガスで戦線復帰を飾った西岡は03年10月、04年3月と続けて宿敵ウィラポンに挑んだが、引き分け、判定負けという結果に終わった。4度の世界挑戦で2判定負け2引き分けと、チャンピオンと同等の力量を示しながらも壁を超えることはできなかったことになる。

■「自分で自分のことを諦めたことはない」

 再びリングに戻った西岡だったが、ファンや周囲の期待は以前とは比較にならないほどに萎んでいた。そんななか若手が次から次に台頭、かつて「天才少年」と呼ばれた男を追い越し、世界の頂点を極めていった。その数は10人を超えた。西岡は夢をかなえた同輩や後輩たちを羨望の眼差しで見ているしかなかった。

「素直に『いいなぁ』とは思いましたよ。僕がなりたいと思っている世界チャンピオンになっているんですから」
 そんな複雑な感情を抱く一方で、自分自身を信じてもいたという。
「まわりが世界チャンピオンになるのを見て、なおさら自分に取れないはずがないと思いました。『絶対に俺もタイトルを取る』って。『俺はこんなもんじゃない』というプライドと自信は持ち続けていました。自分で自分のことを諦めたことはないですね」

 05年1月に結婚したこともプラス効果をもたらした。
「妻と子供ができたことで、僕ひとりの夢じゃなくなりましたからね。先の見えないなか、家族が精神的な支えになりました。家族がいなかったらボクシングを続けていなかったと思いますよ」

 しかし、雌伏の期間は04年から08年まで4年続くことになる。


世界チャンピオン・西岡利晃の軌跡(3)――5度目の挑戦で世界の頂点へ
35歳の王者は語るー「まだまだ僕は進化中」
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/text/201109150001-spnavi.html
スポーツナビ 2011年9月16日

 04年から08年にかけての雌伏の4年間、西岡は8連勝(5KO)を収めている。このなかにはフランスとラスベガスでのKO勝ちも含まれている。「結婚して子どもも生まれて、この先どうなるの?と不安がないといったらウソでした。そんな4年間でした」と回顧している。年齢は32歳になっていたが、確実に経験値と実力は上がっていた。

 08年を迎えるにあたって西岡はある決意をする。「今年、決める」――世界を取るために夫人と愛娘を兵庫の実家に預け、ひとりで東京に残ってトレーニングする道を選択したのだ。

 その年の9月、西岡は4年ぶりに巡ってきた王座決定戦のチャンスを生かし、ついに悲願のベルトを腰に巻いた。プロデビューから14年近い年月が経っていた。天才少年は努力の人に変わっていた。

■ベガスでマルケスを倒し「世界のニシオカ」へ

 その後の防衛ロードは圧巻である。しぶといヘナロ・ガルシア(メキシコ)を最終12回で屠ると、V2戦では敵地メキシコで世界的強豪ジョニー・ゴンサレスに鮮烈な3回KO勝ち。日本人世界王者として26年ぶりの海外防衛を成し遂げた。さらに元王者イバン・エルナンデス(メキシコ)のアゴを砕き、V4戦では若手のバルウェグ・バンゴヤン(フィリピン)を5回TKOで一蹴。5度目の防衛戦では指名挑戦者レンドール・ムンロー(イギリス)を寄せつけずに圧勝。今年4月には地球の裏側からやってきた新鋭マウリシオ・ムニョス(アルゼンチン)を9回KOで撃退している。6度の防衛のうち5度がKOという圧倒的な強さである。

 西岡は言う。「強くなった実感はあります。バランスがよくなったことが大きいと思います。試合ごとに体力も伸びてますから」

 20代のときと32歳を過ぎてからの西岡利晃は、どちらが強いのだろうか。そんな愚問に本人は真顔でこう答える。
「確実に30代の西岡が強いですよ。これは間違いないです! 後半につかまえると思います。でも、これからの西岡利晃はもっともっと強くなりますよ。まだまだ僕は進化中ですから。どれだけ強くなれるのか、自分でも楽しみにしているんですよ」

1年前、西岡はこんなことを話していた。
「日本の世界チャンピオンではなく、世界のニシオカになりたい。固有名詞だけで通用する選手になりたいんです。そのためにはラスベガスで名前を売ってビッグファイトに繋げたいですね。一番戦い相手ですか? ラファエル・マルケスですね」

 ラスベガスでマルケスを倒せば、「トシアキ・ニシオカ」の名は世界中に轟くはずだ。大一番まで、あとわずか。

ボクシングライター原功

最新の画像もっと見る

コメントを投稿