ベース弾きのひとりごと

ブルーグラスベース弾きのひとりごと
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City Limites Bluegrass Band at 銀座Rocky Top with Matsumot-san

2024年03月04日 | 日記

2週間前にボーカルの久仁也さんが気管支炎を患い、しばらく療養が必要になった。Rocky Topでのライブをどうするかということになり、本間さんが松本さんに代打を打診した。松本さんからは了解を得、それを聞いてそれならベースはMさんにしNessie Expeditionでやっては?と私は本間さんに伝えた。しかし「これはCity Limitesだからベースはおまえだ!」とうれしいお言葉だった。さて、バンド練習する時間はなかったが、曲目などメールでやり取りした。Nessie Expeditionからのナンバーが多かったので私はその曲を覚えるべく準備を始めた。今は便利でU-Tubeでほとんど音源は得られる。ただ決めごとなどはわからないのだが、何も調べずに教えてもらうのはイヤだったのでNessie Expedition の動画をみたり、NessieのCDを購入したりして曲を覚えた。さて、ライブ本番。時間がなく心配だった曲のイントロ等の確認だけをしてスタート。ライブは松本さんのリズムにのるように進んでいった。松本さんと本間さんの掛け合いは絶妙でお客様だけではなくバンドのメンバーにも良い影響を与え、ライブ全体の一体感を生み出した。松本さんのギターは時折リズムを崩しかける私を後押しするようなところがあり、それは私だけではなくみんなに対してもそうであり、リズムメーカーとはこういうものかと改めて感じさせた。コーラスは良かった!そしてリズムもおしゃべりも、やってる方も見てる方も楽しいライブだった。機会があればまたご一緒したい。
さて、次回のCity Limites Bluegrass Bandはぜひ久仁也さんの元気な唄声が聴きたい!!
 


児童デイ退社

2023年05月14日 | 僕のこと

この1月いっぱいで児童デイを退職した。2年2か月お世話になったが、ここで初めて障がいのある子どもたちと出会った。知的障がいの子、発達障がいの子、盲の子、言葉を発する事が出来ない子、車椅子から降りられない子。皆明るく元気できれいな目をしていた。この子たちの人生にほんの少しでも手助けになれたらと思い入所を決めた。ただ、私は児童デイという職場のあり方を知らなかった。子どもたちがいない時間はやる事がない。この時間を有効に使っている事業所は多いだろうが、ここはそうではなかった。内紛などもあり管理者や児童発達管理者はやめ、その後の管理者は全く障がい者支援の経験の無い人だった。いろいろ提案もしたがうまくいかなかった。しばらくして入ってきた児童発達管理者は経験や知識が豊富で私の期待は大きかった。その人のおかげで子どもたちやご父兄のあつい信頼を得たがはっきりした性格と行動力が理事長や後の管理者に疎んじられ、揉める事も多かった。経営がうまくいってない事もあり縮小や廃業が囁かれ始めた頃、辞める事にした。
実は、私の都合もあった。終業時間が19時なのだが、夜にライブなどがあると行けない。17時から19時は送迎などで忙しいのでなかなか早退もできない。少し自由に音楽も楽しみたかったので悩んでいた。それもあってここを退職することを決めた。

やる人がいなかったので生まれて初めて壁飾りも作った。約40名の子どもたちと接することができた。
可愛かった! 楽しかった! ありがとうございました!
私は何もできなかったけど皆さんの明るい未来を心からお祈りいたします!


バイト先を巡る旅

2023年02月27日 | 日記

この1月で職場を変わり3月から新しい職場に移るのだが(要するに転職)少し時間ができたので、大好きな街歩きをすることにした。私は大学生の頃いろいろなアルバイトをしてきたが、思い出深いものが多くその街の今を歩いてみることにした。バイト先を巡る旅である。
 
私が大学に入ってすぐ決めたバイトが神宮前3丁目のレストランの出前のバイトである。宅配サービスなんて言葉のない時代、出前である。大学が駒澤であり自宅が川口だったので学校帰りに寄れる。最寄り駅は原宿。今は大騒ぎの竹下通りを通ってかよった。当時は吉田拓郎さんの歌やドラマなどがあり表通りは賑わっていたけどこの竹下通りはまだ静かな裏通り商店街だった。やれやれすごい人だなあ~!
  
明治通りを過ぎるとブティックやオフィスが多くなり、大人らしい雰囲気になる。さらに坂を上ると住宅街に入る。
 
この辺だったかなあ… 何か面影があるかと期待したがすっかり変わってしまってお店らしいものはなかった。もともとシェフだった老マスター夫婦が若いシェフを雇ってやっていたお店でそのシェフも独立を目指していたのでそう長くは続かなそうな店だった。田舎者の私には食べたことのない物ばかりで何を頂いても美味しかった。とても優しい夫婦で私の母や妹まで招待しご馳走してくれた。出前のお届け先は場所柄ファッションデザイナーのオフィスが多く、VANのオフィスにも行ったなあ。ベンツが行きかう通りを岡持ち付きの50㏄スーパーカブを走らせていた。川口の田舎とは全く違う世界だった。
さて、ここからVANのあったあたりの交差点を過ぎ、青山通りを渡り、西麻布へ向かう。大学に入り自転車部に入る。私としてはサイクリングのつもりだったが自転車競技部だった。サイクリングもたまにはやるらしいのだが。面白かったがピストと呼ばれる空回転のしない競技用の自転車に乗れず、挫折。音楽でもと思いあれこれ見ていたらBluegrassやってる人たちがいて、そのサークルに入る。フラットマンドリンが弾きたかったが、いつの間にかウッドベースになっていた。練習日とバイトの時間が合わず、どうしたものかと思っていたら、ベースを止めないという条件でライブハウスのバイトを紹介してくれた。西麻布「タイムトンネル」である。
 
 
このビルの地下だったと思うがビルも変わってしまい面影はない。角はお茶屋さんだったような… 多分このファミマがお店の食品などの買い物に来たスーパーではないかな。西麻布のライブハウスのバーテンのバイトだなんて我ながら驚きだった。カントリーのライブとは言えみんなしゃれて見えた。このお店でたくさんのBluegrassの先輩たちと出会い知り合った。このことがその後大いに役立った。残念ながら半年後、マスターの失踪で閉店。最後の日シャッターの前でカントリーバンドの人たちとマスターの来るのを待っていたっけ。その日のバイト代まだもらってないなあ…
次は青山一丁目を目指して歩こう。
 
青山1丁目「アジア会館」。タイムトンネルの後、上野の焼き鳥屋でバイトすることになるが夏休み、春休みは掛け持ちでバイトをした。ここもその一つ。当時は学生の長期休みのみの短期のバイトも結構あった。今は立て直してすっかり新しくなったがここのレストランの厨房で洗い場のバイトをしていた。その名の通りアジア系のビジネスマンの出張や研修などの利用が多く国民宿舎のような建物だった。インド系の人が多く、そのせいかカレーが有名だった。トッピングで大きな骨付きの鶏肉が入ったカレーが人気で美味しかった。それがまた食べたかったが、レストランもすっかり変わってしまって、そのカレーはなかったが今でもカレーが売りなのかランチメニューの一番上にカレーがあった。残念ながら海鮮仕込みでトッピングはエビフライだった。でも程よい辛さでとても美味しかった。ここのバイトは後輩が引き継ぎ、ディナータイムのウエイターを卒業までやることになる。次は赤坂見附を目指して歩きます。
赤坂見附「ホテルニューオータニ」。このホテルの客室掃除を請け負っていた会社でバイト。ここも長期休みの間だけのバイト。春休みだったかな。ここの社食は安くてうまかったなあ。普通の部屋は案外質素だった。一度だけ自殺した後の部屋の掃除があったが「君は入らなくていいよ」と社員の人だけで掃除をしてた。血の処理が大変で気持ちのいいものじゃないので気を使ってくれたのだ。
目黒駅前「𠮷野家」。当時は大学の近くで一人暮らしを始めていたので、焼き鳥屋を止めてここでバイトしてもいいかなと思って始めた。午前中の授業がなかったので午前中のシフトでスタート。朝6時からだったがよく遅刻しないで行ったもんだ。夏休みには午後のシフトにも入り、一日2食牛丼を食べた。並盛茶碗に盛り放題ということで盛り方を工夫してご飯押しつぶしてたっぷり牛を載せていただいた。焼き鳥屋で慣れてはいたが時間によってはとても忙しくて大変だった。店長が癇の強い人ですぐ怒る。私はあまり怒られなかったがイラついて厨房で茶碗を投げつけるのを見たことがある。他のバイトと喧嘩もしてた。雰囲気悪くて最初の約束の3か月で辞めた。
 
 私は人より長く大学にいたのだが、授業が少なくなってきた頃、夜バイトする必要もなくなリ、日勤のバイトに切り替えた。水道橋の「佐藤測量」さん。測量補助のバイト。メインは某住宅メーカーの宅地測量と地耐力調査である。街はすっかり変わっていて、新しいビルが立ち並び「佐藤測量」も見当たらなかった。Googleで探ってみたが見つからず移転したのかな。社長も社員さんの雰囲気も良かったし、測量のことも少しは覚え楽しい職場だった。日給8千円。時給が600円程度の当時としては破格。現場周りで車移動も残業代になるので平均一日1万円位になった。月収は後に就職した会社の給料より高かった。楽しかったし面白かったので卒業後もお世話になる。社長からは資格も取らせてやるからうちに就職しろよと何度も言われ、だいぶ迷ったがやってみたい仕事があり、辞退し他へ就職した。その後の私の選んだ仕事が衰退し苦労した事を考えれば社長の誘いを受けていたら今頃どうなっていただろう ?
さて、最後だがタイムトンネル閉店の後大学時代を通してお世話になった上野駅駅前の「焼き鳥のいわさき」。お店は別のオーナーになりお店の名前も変わってしまったが面影はそのままである。店内もちっとも変っていなかった。懐かしい。3人のスタッフと都内の大学生のバイトでやっていたお店。私の学校からも数人ここでバイトした。活気があっていいお店だった。お店が終わった後浅草で朝まで仲間と飲んだこともあった。お花見の頃は忙しく焼き場に入って間もない頃忙しさについていけず焼き鳥を真っ黒にしたこともあった。他の大学の学生と交流できたのがよかった。
色んなバイトをしたが、バイト代は学費と学生生活のためと音楽を楽しむためで、一生懸命バイトした割にお金はすぐ無くなってしまった。どうやって食っていたのだろうと思うこともあるが、飲食店でのバイトが多いのは「飯が食える」からであった。バイト先で栄養を摂って、貧しい食生活を補った。
さて、久しぶりに学生の頃の思い出を思い起こしながら街歩きを楽しんだ。街の変遷を感じ、人との出会いを思い出し、懐かしさをたくさん感じた一日だった。


銚子電気鉄道 デキ3

2022年04月24日 | 散歩・旅行・鉄道

以前から行ってみたいと思っていた銚子電気鉄道に家内の提案で行くことにした。事前にネットで情報を調べたところ、懐かしい機関車が出てきた。
 「デキ3」凸型の小型電気機関車。私が中学生の頃(1972年頃)、鉄道模型が好きになり、一番最初に買ったのがHOゲージの凸型電気機関車だった。無名の廉価機だったがその可愛らしい姿が気に入って購入。小さな貨物車を引かせて楽しんだものだ。今は人に譲ってしまい手元にはないが、その姿が懐かしくなりネットで画像を探ったが見つからなかった。さて、デキ3。その頃の思い出もあり、家内に頼んで旅程に入れてもらった。銚電「仲ノ町駅」の車庫に保存してあり見学も可能で間近に見ることができた。その姿はやはり可愛らしい。保存状態も良くすぐ走り出しそうだった。走る姿を見たいなあ!


銚電の旅はノスタルジーでジブリの映画のひとコマを思わせるような旅になった。

 


この一年

2021年07月10日 | 日記

ブログの投稿にまた間が空いてしまった。一年3か月かな?
この一年色々なことがあった。

2010年7月 株式会社〇退社
      コロナの影響による業務縮小のための解雇
   9月 コスモス福祉教育学院にて初任者研修受講開始
      仕事見つからず介護職に職を探すことにする。
   11月 卒院。介護初任者研修終了証を受ける。
   12月 P児童デイに入所。
      障害児童放課後デイサービス施設にて新しい仕事を始める。
2021年4月 職員にコロナ感染者見つかる。児童からの感染が疑われた。
      事業所、クラスター指定を受ける。
      PCR検査の結果、感染が分かる。38.5℃の発熱。
      保健所より川口市内のホテルで10日間の療養命令を受け入所。
   5月 療養も済み、その後の数回のPCR検査はいずれも陰性。
      事業所も再開し6月からは通常業務に戻る。

やれやれやっとつかんだ定年退職後の仕事がコロナによって奪われ、その後やっと見つけた仕事先で感染し、コロナに振り回された一年だった。その中で幸いだったことは障害のある子供たちとの出会いである。〇を退社後、コロナの影響と高齢のため仕事が見つからなかった。需要があるのは介護職、建設、警備だった。面白味のある仕事がいいと思い介護職を選びハローワークを通して介護初任者研修を受ける。介護職の欠点は土日休みの事業所が少ないこと。私はやはり音楽をみんなと楽しみたいので土日休みは必須。なかなか見つからない中で障害者介護を進められる。その中に障害児放課後児童デイサービスの求人があり、まったくわからない中で面接・見学に行く。見えない子、話せない子、歩けない子、わからない子、こういう世界を始めて知った。私は子供好きではなかったが、このわからない子たちの笑顔がとても可愛いく感じられた。一日研修を受けているうちにこの子たちの笑顔が忘れられなくなった。どちらかというと寡黙な私が子供たちの相手ができるだろうかと不安があったが、少しでもこの子たちの力になれないだろうか思い、やってみることにした。すでに半年が過ぎたが、このような子供たちに接することはとても大変で毎日が勉強である。最近だいぶこの子たちを見る目が変わってきたような気がする。
この子たちは「困った子」ではない。わからなくて、できなくて「困っている子」である。

さて、音楽の方だが、失職したせいで時間ができ、楽器に接する時間が増えた。ちっともうまくならなかったけど。しかしまた再就職によってその時間は少なくなってしまった。最も私の場合は音楽をどうするというよりも、練習時間が…という初心者的なものだが…