おにあずまさんのところで、現代においてアイヌとして生きることを選んだ若者に関するニュース番組を紹介している。
いわゆる、差異主義といわれるものについて考えていたが、まとまらないままだったので、考えるいい刺激になった。
で、アイヌに対しては日本の残酷な差別の歴史があるのは事実だろう。そして、北海道にはいまだに差別意識があるという。当たり前のことだが差別はいけない。
番組のなかで紹介されたのは、若者が自分の素性をしらない自分の彼女に「アイヌってきもいよね」といわれた、とある。あるいは、自分の家にゴミを捨てられたこともある、という。ひどく、ショックだったろう。あるアイヌの女性は差別されるかもしれないという不安におびえながら自分がアイヌであること会社などで隠していたのだという。
そこで、彼らが選んだのアイヌとして誇りをもって生きるということであった。
彼ら若者はアイヌとして生きる道を選んだ。で、それはどんな道か。現代の若者らしい普段着を脱いで、アイヌ風でかつロック調の歌と踊りをアイヌ風の服飾に着替えて、披露する。たしかに格好いい。そして、また他の若者と同じような日常性格にもどっていく。かつてアイヌの民がしていたであろうような、狩猟して、生活の糧を得る、生活にもどるわけでもない。
そういえば、オニアズマさんのところの他のビデオで縄文人はアイヌ人だ、という番組があった。その中にでてくるアイヌの血をひく若者もアイヌとしての生きる道を選んだのだが、彼もアイヌの古来の楽器を作り、また、ときに演奏する。ビデオに出てくる彼のおじさんは民芸品のおみやげやさんをやっていたように思う。
伝承芸能を引き継いでいくことはすばらしいことだ。
また、それを現代風にアレンジしていくこともすばらしいと思う。
「アイヌってきもいよね」って言った若者の彼女は偏見をもっていた。「アイヌとはかくあるものなり」という偏見をもっていた。そういった偏見を打ち消したり、アイヌに対する社会的なイメージをよくしていくという意味でもそういった企画はすばらしいことだと思う。
しかし、それが、アイヌとして生きるということなのだろうか?
個人的には自分の記憶にもないような、民族的な服飾や音楽、それを記録をだとって、アイヌとはかくあるものなりを再構成し、かつまた、それが自分が自分であることの重要な何かであるなにかのように再構成する。
アイヌであることを差別されたことに起因するなにか悲壮な物語が待ちかまえていないとはいえない。
以前海外の記事だったと思うが、やはり先住民の集落を取材した記事があった。その集落は民芸品を売ったり、あるいは、伝統的な踊りを観光客にみせながら生活をしている。政府からの補助もあったように思う。ところが、若者はそこを出て都会にでたい。伝統的な服装をして踊ることなど、まっぴらだ、という。両親の世代はこうやっていれば生活していけるのだから、と若者たちと対立する。
、オニアズマさんなど、大阪だって差別されているんだぞ!と主張している。大阪に対する偏見というは確かにあろう。「なんぼでっか?もうかりまっか」の世界だと思っている人もいる。偏見である。そんな人ばかりでもない。
で、わりに大阪の人は大阪人として誇りをもって生きているんじゃないかな?東京にきて東京弁以外の方言である大阪弁を堂々としゃべっているのは大阪人だ。東京と大阪お互いにコケにしながらわりにわりにうまくいっているようにも思う。もっとも、東京で東京弁をしゃべっている東北人でアイデンティティの危機に陥ったという話もあまりきかないが・・・。
むかし大阪出身の学友がいて大阪落語の大ファンだった。「いや、やっぱり圓生が一番やな」といったら、うん確かに「圓生はいい」といっていた。おれはおれで朱雀の才能をみとめていた。
大阪で生まれた女も大阪をでた。大阪にこだわっていた時代は青春の一こまだったのかもしれないが、多分彼女も薄口のうどんを食べながらも、大阪以外で大阪人であったとか、何人(なにじん)であるということを忘れて子どもを叱りながら幸せに暮らしているんじゃないかね。
もちろん、何人(なにじん)であるということを意識させないような不当な差別のない社会づくりが大切なのだが。
いわゆる、差異主義といわれるものについて考えていたが、まとまらないままだったので、考えるいい刺激になった。
で、アイヌに対しては日本の残酷な差別の歴史があるのは事実だろう。そして、北海道にはいまだに差別意識があるという。当たり前のことだが差別はいけない。
番組のなかで紹介されたのは、若者が自分の素性をしらない自分の彼女に「アイヌってきもいよね」といわれた、とある。あるいは、自分の家にゴミを捨てられたこともある、という。ひどく、ショックだったろう。あるアイヌの女性は差別されるかもしれないという不安におびえながら自分がアイヌであること会社などで隠していたのだという。
そこで、彼らが選んだのアイヌとして誇りをもって生きるということであった。
彼ら若者はアイヌとして生きる道を選んだ。で、それはどんな道か。現代の若者らしい普段着を脱いで、アイヌ風でかつロック調の歌と踊りをアイヌ風の服飾に着替えて、披露する。たしかに格好いい。そして、また他の若者と同じような日常性格にもどっていく。かつてアイヌの民がしていたであろうような、狩猟して、生活の糧を得る、生活にもどるわけでもない。
そういえば、オニアズマさんのところの他のビデオで縄文人はアイヌ人だ、という番組があった。その中にでてくるアイヌの血をひく若者もアイヌとしての生きる道を選んだのだが、彼もアイヌの古来の楽器を作り、また、ときに演奏する。ビデオに出てくる彼のおじさんは民芸品のおみやげやさんをやっていたように思う。
伝承芸能を引き継いでいくことはすばらしいことだ。
また、それを現代風にアレンジしていくこともすばらしいと思う。
「アイヌってきもいよね」って言った若者の彼女は偏見をもっていた。「アイヌとはかくあるものなり」という偏見をもっていた。そういった偏見を打ち消したり、アイヌに対する社会的なイメージをよくしていくという意味でもそういった企画はすばらしいことだと思う。
しかし、それが、アイヌとして生きるということなのだろうか?
個人的には自分の記憶にもないような、民族的な服飾や音楽、それを記録をだとって、アイヌとはかくあるものなりを再構成し、かつまた、それが自分が自分であることの重要な何かであるなにかのように再構成する。
アイヌであることを差別されたことに起因するなにか悲壮な物語が待ちかまえていないとはいえない。
以前海外の記事だったと思うが、やはり先住民の集落を取材した記事があった。その集落は民芸品を売ったり、あるいは、伝統的な踊りを観光客にみせながら生活をしている。政府からの補助もあったように思う。ところが、若者はそこを出て都会にでたい。伝統的な服装をして踊ることなど、まっぴらだ、という。両親の世代はこうやっていれば生活していけるのだから、と若者たちと対立する。
、オニアズマさんなど、大阪だって差別されているんだぞ!と主張している。大阪に対する偏見というは確かにあろう。「なんぼでっか?もうかりまっか」の世界だと思っている人もいる。偏見である。そんな人ばかりでもない。
で、わりに大阪の人は大阪人として誇りをもって生きているんじゃないかな?東京にきて東京弁以外の方言である大阪弁を堂々としゃべっているのは大阪人だ。東京と大阪お互いにコケにしながらわりにわりにうまくいっているようにも思う。もっとも、東京で東京弁をしゃべっている東北人でアイデンティティの危機に陥ったという話もあまりきかないが・・・。
むかし大阪出身の学友がいて大阪落語の大ファンだった。「いや、やっぱり圓生が一番やな」といったら、うん確かに「圓生はいい」といっていた。おれはおれで朱雀の才能をみとめていた。
大阪で生まれた女も大阪をでた。大阪にこだわっていた時代は青春の一こまだったのかもしれないが、多分彼女も薄口のうどんを食べながらも、大阪以外で大阪人であったとか、何人(なにじん)であるということを忘れて子どもを叱りながら幸せに暮らしているんじゃないかね。
もちろん、何人(なにじん)であるということを意識させないような不当な差別のない社会づくりが大切なのだが。