Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

Taking Ourselves Seriously

2008年11月17日 11時59分38秒 | Weblog
Taking Ourselves Seriously and Getting It Right
 これも以前、紀伊国屋に平積みしてあった。面白いところを引用すると、

・・・Love is not a conclusion. It is not an outcome of reasoning or a consequence of reasons. It creates reasons.
page 25

愛は結論ではない。愛は理由の帰結や結果ではなく、理由の原因なのだ。


で、その愛とは、
・・・love is a particular mode of carrying. It is an involuntary, non-utilitarian, rigidly focused and as is any mode of caring --self-affirming concern for the existece and the good of what is loved---The object of love can be almost anything--a life, a quality of experience, a person a group, a moral ideal a non-moral ideal, a tradition,whatever. page 40)

愛は気にかけることの一種である。意志で頑張ってどうこうするというものでもなく、また、利益考量するものでもなく、不動のものであり、気にかける場合なら、どんな場合でもそうだが、愛は、愛するものがそこにあること、そしてそれに善かれとあれこれと配慮する自己肯定的なものである。愛の対象はそれこそほぼ何でもあり得るーーー人生や特殊な経験、人物であったり、団体であったり、道徳の理想であったり、道徳とは関係もない理想であったり、あるいは、伝統であったり、なんでもあり得る。


ここらへんは面白いところで、要するに、自分の馬鹿息子や馬鹿娘を愛するってとき、ああ、こいつは老後役にたつな、とか、美男美女だな、とか、ーーーそういう場合もありますけどーーーではなく、むしろ、愛が先にくる。愛が先にきて理由が後からついてくる。そういったことであります。そうした愛が中心になって、自分の行動や経験、人生を意味あるものにしている。
 で、その愛は、
On Frankfult's view, love is a form caring especially tied to self-integration. Love plays this role because love is a matter of necessity. We cannot but help care about the thingswe love---as in Matin Luther's famous remark that that here stands, he can do no other. When we overcome our ambivanlentce and came to care about people and things wholeheartedly.page x)

 必然的なものだと言います。人間は必然的に自分の存在が維持・持続しようとする、そういう意味では自分の存在に対する愛があります、その周辺に、ある個人に対する愛だとか、名誉だとか、金だとか、郷土だとか、国家だとか、そういった愛ある。いろんな愛の対象がありえるが、とにかく人間は何かを愛さずにはいられない、というわけです。

 個人的にいうと、ぼくはそれほど楽観的でもない。自分の人生や経験を意味あるものにしていく契機として愛が非常に重要な役割を果たす、ということはそうでしょうけど、それを必然とまではいえない。

 例えば、以前紹介したの一節にこういうのがあります。
・・・postmodernism is by its nature subversive of all paradigms, for as its core is the proposition that reality is always multiple, local, and temporal. It proclaims that there are no universal and time less truths. In the context, freedom easily slip into anarchy. The freedom to choose is absurd if no choice is worse making. "worth " in this case meaning a choice that is secured or legitimated by something that is not groundless or arbitrary. A tolerance of a plurality of viewpoints degenerates into indifference when all viewpoints equally groundless and equally arbitrary. Nihilism results if no choice is better than any other.・・・if all paths lead to nowhere then it just as well to choose any of them. ・・・・we can choose defy conventional proibitions against murder, incest, and genocide as it serve our purpose. ・・・・if God is dead, everything is permitted. page 134

 ポストモダン社会の雰囲気ついてですけど、ポストモダンというのは普遍的な真理とかいうものに非常に懐疑的で、なんでもローカルで、歴史的な真実しかみない。まあ、それは多元主義的て、いままで、抑圧・弾圧されてきた文化圏にとってはある種、解放的、そして、その社会自体は開放的になってきたのですが、様々な価値が妥当として認識されるようになると、あれもこれもよい、あれでもこれでもよい、ということになってくる。しかも、あれがこれよりよい、とも決定的には、言えなくなってくる。超越的な根拠がなくなってしまう。
 もっとも、客観的にあれがこれよりいい、とは言えなくても、個人的には嗜好というものがありますから、主観的には言えるわけで、ーーーーちょっと主観・客観という言葉がおおざっぱですけどーーーーーしかも、豊かな現代社会では、個人はほぼ無限の自由を与えられる。あれでもいいよ、これでもいいよ。で、どれが客観的に善いかは決定的にはいえないけど、好きなの選びなさい、と。明治のチョコでも森永のチョコでもどっちてもいいですよ、また、どんなライフスタイルを選んでもよいーと。極端にいえば、殺人もジェノサイドでもいい。神は死んだ、すべては許される、という世界観まで登場する。
 で、先ほどのフランクルのような愛がある人は自分が気にかけている愛の対象を中心にライフスタイルを選んでいけばよい。
 ところが、食い物でもそうですけど、ある程度腹いっぱいになってくると、これがいい、という嗜好がうすれてくる。満腹になるとなくなってくる。同じように豊かな社会になってくると、これが自分にはいい、というライフスタイルがわからなくなってくる。選択肢も豊富にある、自由も与えられている。なんでもいいが、どれもどうでもよくなってくる。特に死の意識を媒介して、どうせ死んでしまう、どれも同じだ、と主観的にも、より根底的に、すべての価値を無効にする無が浸透してくる。生も死もどうでもよくなってくる。ニヒリズムが待ちかまえている。 (ここらへん、私見を交えて論述していますが・・・)

 愛の減退がニヒリズムで、ニヒリズムからの回復に愛がある、という関係にあるのかもしれません。


参考投稿
seach for meaning
愛に関する理論
華は愛惜に散り・・・
隻手音声
姨捨
日本人の死生観
moral relativity

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