こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

真実の前ではみんな平等のはずなのに(上)

2017年12月11日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

一昨日、神戸での学会のあと”真実の前ではみんな平等”という記事を書いた。そこでコロ健、”真実は一つしかなくて、その前では国籍も人種も関係なく、わだかまりは一切なくなる。”と書いて、自然科学が素晴らしいものであると強調した。でも、昨日放送されたNHKスペシャル”追跡 東大研究不正~ゆらぐ科学立国ニッポン~”を観て、その時感じた晴れ晴れとした気持ちは暗転した。

昨日の放送では、研究結果の改ざんの手口には触れていなかった。これらについてはこれまでに数多くの報道がされてきたので、ご存知の方も多いだろう。”自分の予想した研究結果”を自分で作ってしまうのは簡単だ。狙った遺伝子の発現が対象とする病気でなかったとしたら、どうしようかと思う。大抵の研究者は石にかじりついてでも、その遺伝子と心中する思いでその研究を続けるのだろうけど、ひとたび”転んでしまえば”インチキは簡単にできる。別の病気の細胞を混ぜてしまうとか、もっとひどいのは画像を作り変えるとか、やろうと思えばいくらでもできる。よせばいいのに、大型研究費欲しさに有名雑誌に投稿して、余計に大きな注目を浴び、追試による再現不可能という段になって不正が発覚する。簡単にバレるようなことをよくするものだと思うが、追い込まれたらなりふり構わなくなってしまうのか。

日本では研究者の偏差値のようなものであるインパクトファクター(その科学雑誌の内容の社会的価値のようなものを示す数値。IF)が偏重され、研究者間ではNature, Cell, Science, New England Journal of Medicineなんていう雑誌に論文が掲載された人が偉いと目される。大学受験でいえば駿台模試とか河合の全統模試で1位を取ったことがあるか、みたいなものだ。大学入試の偏差値で人の評価をし続けるこの国ならでは、そのトップの大学であれば、驕りが出ても仕方あるまい。

「あの人、ネイチャーが何本あるんだよ」なんていう、それがいかにも客観的な評価であるかのように語られ、その内容については誰にも理解されていなくても盲目的に尊敬されてしまう。それに研究者なんて、研究のプロではあるけれど、研究室の運営のプロではないし、人間的に疑問符がつく人も少なくない。科学を冒涜しても平気な、研究不正を行うことにためらいを感じないような人はいくらでもいる。そんな人ばかりではなくても研究不正を行う気持ちが出てきても仕方ないと思う状況はいくらでもある。

研究者の生活は不安定だが、いつまでものんびりと成果の出ない研究を続ける余裕は今の日本にはない。だが、何十人もの研究者が動員される大型プロジェクトですら、2、3年結果が出ないことは大いにありうる。その先には大発見があるかもしれないが、一度は諦めるしかない。その時、何でもいいから適当にデータを作って、論文を出せ、と言われて功を焦って不正を働く人間が一人でもいたらそのラボはお取り潰しにもなる。自縄自縛だ。

でも、問題はこれだけではない。

明日に続く

自然科学者と研究者の間

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