そんなわけでへっぽこ和訳後編。誤訳はご容赦を。
↓The Japan Times記者の方の奥様のブログに日本語で詳細が!
http://blog.livedoor.jp/keikomc/archives/51088963.html
*************************
彼が言うハリウッド映画と邦画の大きな違いとは、アメリカのセットには
どれだけ多くの無駄があるかということらしい。
「ハリウッドでは大量に撮って後から最良の画を選ぶ。でも一旦撮影に入っ
てしまえば、邦画と外国作品にはそんな大差はありません。(日本でも)
何テイクも撮りたがる監督もいれば、(『硫黄島からの手紙』のクリント)
イーストウッド監督のようにたいてい1テイクでいい、という監督もいますしね。」
聡明で博識な渡辺はハリウッド作品にある文化的に合う俳優をキャスティング
することの危うさに鋭く気付いている。『ラストサムライ』のDVDボイスオーバー
にてズゥイック監督は以下のように説明する。渡辺謙というスターは何十年もの間
日本人俳優のイメージが「よくて二次元的で、しばしば風刺的に描かれる」のだ
と「いくぶん根本的に知っていた」ため、奮闘したのだと。
彼は偉大な俳優であるが、彼の名がアジア男性に対する極めて制限された
ハリウッド作品におけるステレオタイプを演じさせてきた。つまり武士、
軍司令官、実業家そして腹黒い東洋の悪役である。このステレオタイプを
壊すことは可能なのだろうか。
「う~ん、僕も普通の人を演じたくて、常にそんな脚本を(エージェントや
助言者、友人たちと)探しているんですけどね。」
それでも彼はそんな風に身をやつさなくてもよい役を見つけるのは難しいと感じている。
「僕のところに送られてくる台本の半分近くは僕が共感できないような
キャラクターを扱ったものなんですよ。特に一次元的実業家役とか、コメディ
だったらいわゆる10年来の馬鹿げたステレオタイプの日本人役とか ITとか
ビジネスに関連のある役とかね。そんなことに腹を立てても意味がないので。
ただそういうもんだし。でも僕は積極的にそういうステレオタイプには
立ち向かいたいと思っています。」
彼によれば、このことは役を受けた後でも監督や脚本に意見することも含むという。
「ええ。そのまま捨て置けないことが脚本にあったりしますからね。
『硫黄島からの手紙』ではイーストウッドに「これはありえない。」と進言する
こともしばしばありました。」さらに彼は毎日サジェスチョンをし、監督に
衣装や小道具、セットが正確なものであるように確認を依頼したとか。
「この物語は史実に忠実でなければならなかったので。しかしイーストウッドは
僕が戦わなければならない人ではありませんでした。彼は撮影の最後まで
いつも注意深く僕の意見を聞いてくれて、尊重してくれましたから。」
彼いわく、『硫黄島からの手紙』において最も深刻な議論になったシーンは栗林の最期のシーンである。
「僕らはその件で数週間話し合いました。最初の脚本のシーンには僕は反対でした。
栗林は刀で切腹自害すべきだという意見の人もいましたが、僕はそれは
彼の死を美化するものだと感じた。部下に多くを求めてきた彼だったら、
彼らしく自決するまで戦い続けただろうと。何もなくなってしまったときに
やっと死を受け入れただろうと。僕はそう強く感じたんです。」
渡辺はきわめてまじめであるが、彼自身が最もセクシーな男と見なされるのを辞退したがるのはそのためかもしれない。
「その(セクシーな男という)肩書きを頂くことは全然理解できないですね。」彼は笑って言う。
「自分がセクシーな男として見られることはさっぱりわからないですが、日本
では他国と比べて「セクシーな男」の定義は少し異なるかもしれません。
日本語での意味はある種大人だとか成熟した男性の魅力に強調があるような
気がします。そういう意味でなら、そう言われるのは嬉しいですね。」
渡辺は常に「直感で」作品を選び、めったにその直感が外れることはないと言う。
彼が言うには『硫黄島からの手紙』や『明日の記憶』は特別だということはすぐ
わかったそうである。しかしひとたびそれぞれの役を引き受けると、自分自身を
深く掘り下げねばならず、その過程で彼はヘトヘトになったという。
「どんなにメイクしても僕は僕以外の人間にはなれませんから。自分自身の過去
や経験、人格そのものからその役に投影されますが、それって芝居をとても
リスキーなものにする。自分自身が曝け出されるわけですから。
どうにか逃れられないものかといつももがくわけです。」
日本以外で芝居をすることは言語の壁のせいで難しかったに違いない。渡辺は
『ラストサムライ』や『SAYURI』のために熱心に英語を勉強してきたわけであるが。
彼によると、台詞そのものはそんなに難しくないのだが、台詞にない意味や監督
や脚本家が言わんとすることを理解するのが大変だったという。
『ラストサムライ』で勝元を演じた後、栗林を演じる重圧、歴史的・政治的負担
を負わされ、日本では後にも先にも他の映画ではめったに吟味されなかったような
二つの当たり役が昨年彼が極度に疲労した原因となったのかもしれない。
渡辺は『硫黄島からの手紙』の撮影に対して「緊張」していたと認めている。
「自分の文化に大変重要な意味を持つ映画」であったからだ。彼は確かに
自分の役に全力で打ち込んだが、この映画を評価しない映画批評家もいた。
ロンドンに本社を置く『インディペンデント紙』はこの映画が、何十年も昔の
映画でありがちな筋で万歳を連呼する将校たちの戦争映画の後に現れた偉業である
ことを無視して、「日本人も人間であるということを除いては特筆すべきことはない。」
と報道したのだ。
渡辺はめったに自分の病気について語らない。彼を知る者は彼の画面での静と動
はある面では死に直面し、また再び直面するかもしれないと知っていることの
産物ではないかと言うものもあるのだが。『明日の記憶』を撮影していたとき、
白血病と闘病していた時の記憶がこみ上げてくることがあったと認めている。
「そういう経験ってスクリーンで見せるべきではないと思ってました。
そういう経験が演じる役を引き継いじゃうから。しかしこの映画を撮ってるとき
思い出し始めて。病気になったとき、一日24時間ずっと自分が患っていることや
死ぬことを考えているわけじゃないんです。話したり、笑ったり、他の事を
考えたりしたい。普通に人生を生きようともがく霧の中、全て終わるかもしれない
という恐怖や不安、実感が自分の中に去来するんです。それが僕が映画に
持ち込んだものです。最初はそうするつもりはなかったのですが。監督が僕の
意見を聞いてくれたので、いくつかのシーンを変えました。」
スクリーンの中の役柄と、現実世界のその人と境界線を惑わせるこの俳優は
もちろん多少映画人っぽいところがある。渡辺は威厳があり、立派で、
運命的な男たちを演じてその俳優としてのキャリアを積んできたが、彼の映画
での登場人物の多くより身近に感じられる。
彼はつつましい生活を送ってきたとされ、また几帳面なほど注意深く、誠実である
と評判である。彼のもの静かで思慮深く熟考された返答にはむしろ仏の境地の
ようなところさえある。新聞記事で指摘するものもあるように、彼は現代のサムライなのだろうか。
「そうですねぇ。質素な侍のような生活を送りたいものですね。必要最低限の
身の回り品だけもって。」彼は笑う。
「しかし現実には人生においていろいろ集めてしまうので。いるものと
いらないもの分けるようにしています。ものを買う前に妻や子供たちにそういう
話をします。しかし侍の精神はもっと深いものがあると思います。他人を
尊重するとか、時間を有効に使うとか約束を守るとか。こういうことが日本が
かつて持っていた、しかし今いくぶん忘れつつある資質だと思います。
僕にとってこういうことは大切なことですね。」
『EARTH』は1月12日日本全国公開である。
↓The Japan Times記者の方の奥様のブログに日本語で詳細が!
http://blog.livedoor.jp/keikomc/archives/51088963.html
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彼が言うハリウッド映画と邦画の大きな違いとは、アメリカのセットには
どれだけ多くの無駄があるかということらしい。
「ハリウッドでは大量に撮って後から最良の画を選ぶ。でも一旦撮影に入っ
てしまえば、邦画と外国作品にはそんな大差はありません。(日本でも)
何テイクも撮りたがる監督もいれば、(『硫黄島からの手紙』のクリント)
イーストウッド監督のようにたいてい1テイクでいい、という監督もいますしね。」
聡明で博識な渡辺はハリウッド作品にある文化的に合う俳優をキャスティング
することの危うさに鋭く気付いている。『ラストサムライ』のDVDボイスオーバー
にてズゥイック監督は以下のように説明する。渡辺謙というスターは何十年もの間
日本人俳優のイメージが「よくて二次元的で、しばしば風刺的に描かれる」のだ
と「いくぶん根本的に知っていた」ため、奮闘したのだと。
彼は偉大な俳優であるが、彼の名がアジア男性に対する極めて制限された
ハリウッド作品におけるステレオタイプを演じさせてきた。つまり武士、
軍司令官、実業家そして腹黒い東洋の悪役である。このステレオタイプを
壊すことは可能なのだろうか。
「う~ん、僕も普通の人を演じたくて、常にそんな脚本を(エージェントや
助言者、友人たちと)探しているんですけどね。」
それでも彼はそんな風に身をやつさなくてもよい役を見つけるのは難しいと感じている。
「僕のところに送られてくる台本の半分近くは僕が共感できないような
キャラクターを扱ったものなんですよ。特に一次元的実業家役とか、コメディ
だったらいわゆる10年来の馬鹿げたステレオタイプの日本人役とか ITとか
ビジネスに関連のある役とかね。そんなことに腹を立てても意味がないので。
ただそういうもんだし。でも僕は積極的にそういうステレオタイプには
立ち向かいたいと思っています。」
彼によれば、このことは役を受けた後でも監督や脚本に意見することも含むという。
「ええ。そのまま捨て置けないことが脚本にあったりしますからね。
『硫黄島からの手紙』ではイーストウッドに「これはありえない。」と進言する
こともしばしばありました。」さらに彼は毎日サジェスチョンをし、監督に
衣装や小道具、セットが正確なものであるように確認を依頼したとか。
「この物語は史実に忠実でなければならなかったので。しかしイーストウッドは
僕が戦わなければならない人ではありませんでした。彼は撮影の最後まで
いつも注意深く僕の意見を聞いてくれて、尊重してくれましたから。」
彼いわく、『硫黄島からの手紙』において最も深刻な議論になったシーンは栗林の最期のシーンである。
「僕らはその件で数週間話し合いました。最初の脚本のシーンには僕は反対でした。
栗林は刀で切腹自害すべきだという意見の人もいましたが、僕はそれは
彼の死を美化するものだと感じた。部下に多くを求めてきた彼だったら、
彼らしく自決するまで戦い続けただろうと。何もなくなってしまったときに
やっと死を受け入れただろうと。僕はそう強く感じたんです。」
渡辺はきわめてまじめであるが、彼自身が最もセクシーな男と見なされるのを辞退したがるのはそのためかもしれない。
「その(セクシーな男という)肩書きを頂くことは全然理解できないですね。」彼は笑って言う。
「自分がセクシーな男として見られることはさっぱりわからないですが、日本
では他国と比べて「セクシーな男」の定義は少し異なるかもしれません。
日本語での意味はある種大人だとか成熟した男性の魅力に強調があるような
気がします。そういう意味でなら、そう言われるのは嬉しいですね。」
渡辺は常に「直感で」作品を選び、めったにその直感が外れることはないと言う。
彼が言うには『硫黄島からの手紙』や『明日の記憶』は特別だということはすぐ
わかったそうである。しかしひとたびそれぞれの役を引き受けると、自分自身を
深く掘り下げねばならず、その過程で彼はヘトヘトになったという。
「どんなにメイクしても僕は僕以外の人間にはなれませんから。自分自身の過去
や経験、人格そのものからその役に投影されますが、それって芝居をとても
リスキーなものにする。自分自身が曝け出されるわけですから。
どうにか逃れられないものかといつももがくわけです。」
日本以外で芝居をすることは言語の壁のせいで難しかったに違いない。渡辺は
『ラストサムライ』や『SAYURI』のために熱心に英語を勉強してきたわけであるが。
彼によると、台詞そのものはそんなに難しくないのだが、台詞にない意味や監督
や脚本家が言わんとすることを理解するのが大変だったという。
『ラストサムライ』で勝元を演じた後、栗林を演じる重圧、歴史的・政治的負担
を負わされ、日本では後にも先にも他の映画ではめったに吟味されなかったような
二つの当たり役が昨年彼が極度に疲労した原因となったのかもしれない。
渡辺は『硫黄島からの手紙』の撮影に対して「緊張」していたと認めている。
「自分の文化に大変重要な意味を持つ映画」であったからだ。彼は確かに
自分の役に全力で打ち込んだが、この映画を評価しない映画批評家もいた。
ロンドンに本社を置く『インディペンデント紙』はこの映画が、何十年も昔の
映画でありがちな筋で万歳を連呼する将校たちの戦争映画の後に現れた偉業である
ことを無視して、「日本人も人間であるということを除いては特筆すべきことはない。」
と報道したのだ。
渡辺はめったに自分の病気について語らない。彼を知る者は彼の画面での静と動
はある面では死に直面し、また再び直面するかもしれないと知っていることの
産物ではないかと言うものもあるのだが。『明日の記憶』を撮影していたとき、
白血病と闘病していた時の記憶がこみ上げてくることがあったと認めている。
「そういう経験ってスクリーンで見せるべきではないと思ってました。
そういう経験が演じる役を引き継いじゃうから。しかしこの映画を撮ってるとき
思い出し始めて。病気になったとき、一日24時間ずっと自分が患っていることや
死ぬことを考えているわけじゃないんです。話したり、笑ったり、他の事を
考えたりしたい。普通に人生を生きようともがく霧の中、全て終わるかもしれない
という恐怖や不安、実感が自分の中に去来するんです。それが僕が映画に
持ち込んだものです。最初はそうするつもりはなかったのですが。監督が僕の
意見を聞いてくれたので、いくつかのシーンを変えました。」
スクリーンの中の役柄と、現実世界のその人と境界線を惑わせるこの俳優は
もちろん多少映画人っぽいところがある。渡辺は威厳があり、立派で、
運命的な男たちを演じてその俳優としてのキャリアを積んできたが、彼の映画
での登場人物の多くより身近に感じられる。
彼はつつましい生活を送ってきたとされ、また几帳面なほど注意深く、誠実である
と評判である。彼のもの静かで思慮深く熟考された返答にはむしろ仏の境地の
ようなところさえある。新聞記事で指摘するものもあるように、彼は現代のサムライなのだろうか。
「そうですねぇ。質素な侍のような生活を送りたいものですね。必要最低限の
身の回り品だけもって。」彼は笑う。
「しかし現実には人生においていろいろ集めてしまうので。いるものと
いらないもの分けるようにしています。ものを買う前に妻や子供たちにそういう
話をします。しかし侍の精神はもっと深いものがあると思います。他人を
尊重するとか、時間を有効に使うとか約束を守るとか。こういうことが日本が
かつて持っていた、しかし今いくぶん忘れつつある資質だと思います。
僕にとってこういうことは大切なことですね。」
『EARTH』は1月12日日本全国公開である。