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日記(8.7) 新聞コラム

2013-08-07 11:56:03 | 日記
8月7日 (水曜日) 晴れ  

今日からは”暑中見舞いから残暑見舞い”へ立秋である。
朝方、窓から入り込む風はさわやかで少し冷えた感じであった。

よく観察してみると秋の気配を感じる。
夏の風と秋の涼やかな風が混在し始め、空を見上げれば巻雲なども!

でも8月、夏本番である。

孫君も市民プールに行くらしく、大騒ぎである。
背は伸びて大きいが太らないなあ~!
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永六輔さんがラジオで言っていた。

8月は 6日9日 15日

という、説明の必要のない句?が

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朝日のコラムには

きのうに続き、死者と通じ合うということについて。

来日中の米国のアカデミー賞監督、オリバー・ストーンさんが、
広島の原爆ドームや平和記念資料館を訪れた。
本紙のインタビューに「あの日の瞬間を感じた」と答えている。


  ☆個人的には広島・長崎・知覧特攻会館に行って観ているが
  凝視するのが辛くなって、自然と涙が出てくるのは
  私だけではないだろう。

▼感じる力、想像する力が大切というメッセージだ。
 「瀕死(ひんし)の被爆者がさまよっていた。
 川に浮き沈みする遺体も見えた」。
 この後、長崎と沖縄にも行く。

 米軍事戦略の最前線で苦しむ沖縄への「連帯」を、かねて語っている。
 米軍ヘリが墜落したばかりの現地で何を感じるだろうか?
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▼「生き残った者は、死者の無念を自分自身の生き方として
  受け止めなければならない」。


仙台で被災した宗教人類学者、山形孝夫さんの言葉だ。
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 近著『黒い海の記憶』の副題は「いま、死者の語りを聞くこと」
▼♪わたしは何を残しただろう……。

☆朝日新聞(12月6日夕刊)に掲載された彼のインタビュー記事
 彼が、8歳の時、母親が海で自死したのです。
  彼は、母親が独り言のように「死にたい」とつぶやくのを耳にしていたそうです。
 でも、彼は、父にも姉にも言えなかった。
 母はなぜ死んだんだろう。

 身を切られる悲しみは、いつの間にか
 遠い出来事として、心から消え去っていって・・・。
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 それが、40代になり、修道士たちの聞き取り調査のため
 エジプトに行き、砂漠を歩いていたある日
  不意に聞こえてきたのは、 紛れもなく母の声。
 忘れたはずの母の存在

 でも、ずぅーっと、自分の心の中で母が生き続けたことを知り、 驚きます。
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 そして、キリスト教への接近、彼の研究の核心には、
  母の死があったことを自覚するのです。

 彼は、定年間近に、その不思議な経験をエッセーにしました。
(『砂漠の修道院』88年日本エッセイスト・クラブ賞受賞)
  書き始めたら、記憶が噴き出して、
  母親と交わした言葉、
 その時の情景の色や音、匂いまでもがよみがえってきて
 涙が止まらなかったそうです。
 懐かしい至福の時。
 それは、封印していた耐え難い悲しみを
 解放した瞬間だったわけです。
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山形氏は、語ります。

「悲しみは、人間の成熟に大切な栄養剤です。
悲しみは、新しい生き方に変化する。」


 セミナーにいらっしゃるみなさんが素敵なのも、
うなずけました。
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みなさん、必死に悲しみから学ぼうとしているんですね。
みなさん、必死に悲しみを糧に成長しようとしているんですね。
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山形さんはNHKの復興支援ソング「花は咲く」の歌詞に目をとめる。
ここで歌っているのは死者ではないか。




だから、口ずさむとひとりでに涙があふれてくるのだ、と
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▼国策のため、繁栄のため、豊かさのためと称して、
 過去にどれだけの人々が犠牲にされてきたことか。

 戦争も、原爆も、沖縄の基地も、原発事故も。
 犠牲を強いる構造に抗(あらが)うには死者と共闘しなければならないと、
 山形さんは訴える。

 それは「殺すな」の哲学を徹底することだ、と
▼8月、列島の各地で死者の声が聞かれるのだろう。
 平和への、未来への思いがこもごも語られるだろう。じっと耳を傾けたい。
 20130807

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