マイアミ留学日記 & みちのく勤務医日記

2007年6月から2年間マイアミで過ごした後,家族5人で東北へやって来ました.

小坊主の涙

2012-01-15 20:58:57 | 禅のはなし
今日の最高気温は-2度で一段と冷え込みが厳しい。街はパウダースノーで見事に化粧され、路面はカチカチに凍結している。
ブリザードのせいで視界もたびたび遮られ、空港までの運転も一苦労である。
そんな中、東京出張のため私は飛行機に乗った。
昨晩は午後11時に救急外来に呼び出しをうけ0時まで仕事をしたせいか、離陸後間もなく私は強い睡魔に襲われ、しばらく夢路に入った。


気づけば私は遠い遠い昔、昭和55年頃、まだ小学4−5年のころにタイムスリップしていた。
ちょうど今日のようなブリザードがふきすさぶ中、私は同じ村の小学生と5−6人で列を組み、学校まで約1kmある通学路をトボトボと歩いていた。そう私は幼少の頃、東北の人口2万程度の小さな町のある集落で暮らしていた。
農業が主産業であるその村のはずれに小さな禅寺があり、そこで私は高校まで過ごした。

通学路はたった一本で周りには建物らしきものが全くない。本当に田んぼだけであった。
冬になるとそこも一面の銀世界になるが、日本で屈指の強烈な横風を受けるため、豪快に押しつけるブリザードの威力は小学低学年の児童の歩みを完全に止めるほどであった。ゆえに学校までは同じ村同士の小学生が連隊を組み、高学年が先頭と一番後ろに立ち、その間に低学年の児童をはさみ、みんな自分の足下だけを見ながら、黙々と雪道を進んでいくしかなかった。その光景はあたかも、ちょうど八甲田山で遭難した兵隊を彷彿させるものがあった。

当時一番小さかった小学1年になったばかりの男の子Kがいた。
Kは他の小学1年生と比べても一段と小柄で、ランドセルや服装も明らかに「おさがり」と分かるような、いつも古い服を着ていた。しかし、とてもかいわいらい顔をして愛嬌たっぷりだったため、同じ村の誰からもかわいがられていた。まるで「子犬」のようなかわいらしさであった。

夏のお盆になると「棚行(たなぎょう)」といい、私は村の檀家を訪問しながら、仏壇の前でお経を読む修行をしなければならなかった。
実はKの実家も我が寺院の檀家だったため、恥ずかしさをかみしめながら小学5年の私は衣をまとい、Kの家にお邪魔した。
幸いその時間にはKはいなかった。

Kの自宅に来た瞬間、私はあまりに質素なたたずまいに大きなショックをうけてしまった。
家の壁はトタンでできており、今にも崩れ落ちそうであった。
たった4畳半しかない居間の畳は段差ができるほどへこんでおり、家具のすべてが黒ずんでいた。
しかし誠に簡素ながらも、ささやかな手作りの仏壇があり、私はその前に座った。
私は大学6年まで17年間、棚行を勤めたが、後にも先にもあれほど「質素」な仏壇を見たことはなかった。
読経が終わると、挨拶をしてくれたのはKの両親ではなく、年老いた夫婦(Kの祖父母)であった。
噂で聞いてはいたが、不幸にもKには両親がいなかったのである。(蒸発したかどうかは分からない)
さらに中学生の兄はその当時「少年院」で服役中であった。
つまり当時Kは祖父母に育てられていたのである。

読経後、私はお布施をいただいた。
当時、お布施の相場は1000円程度だったが、封筒に入っていたのは青い500円札であった。
このことが何を意味するのか、鈍い私でさえ直感することができた。
お経の意味も修行の意味も分からない小学5年のガキのお経に、とても500円の価値があるとは到底思えなかった私はお布施をいただくことにとても抵抗を覚えた。

夕方にひととおりの勤めを終え、自宅の寺院に帰った私は自分の部屋でひとり呆然としていた。
気づけば涙がボロボロと流れていた。
当時の未熟な私には「なぜ自分が泣いているか]さえ分からなかった。

今にしてみれば、「あまりに貧困で、あまりに残酷なKの境遇にショックを受けたこと、にもかかわらず、当人はそれを全くに苦にせず、純粋無垢な表情でいつも我々に愛嬌をふりまく姿」に涙してしまったのかもしれない。何よりも私は生まれて初めて「貧困」と「格差」という現実を目の当たりにしたのだ。

ふたたび猛烈なブリザードの中でにっこり笑うKの姿が出てきた。
目が覚めると、もう飛行機は東京間近であった。


気づけば自分は、ある祝賀会の席で、これまで仕事でお世話になった大勢の医師や研究者の中にいた。
この会場にいる多くの人は日本社会では「エリート」と称される人ばかりである。
そんな中に自分が存在していること自体、ある意味奇跡に近い。
人類と日本の福祉のためエリートはエリートとしての責任と使命を負って突き進まなければならない。
決して下を見ることなく、常に上を向いて上昇していかなければならない。
一方で「下」を向く医者も必要である。
「格差」と「貧困」と「医療の理不尽さ」を前に苦しむ医者も欠いてはならない存在である。

私は帰りの飛行機の中でひそかに願った。
Kがどうか幸せな人生を歩んでいることを。




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東北の秋

2011-10-24 10:34:56 | 禅のはなし
東北では紅葉シーズンである。
というわけで、子供を連れて東北の山奥へ向かった。
今年こそはトレッキングをやろうと思い、先週トレッキングシューズに登山用のズボン、防寒具などを買いあさったばかりであった。あいにくの曇り空ではあったが、それでもそこには絶句するほどの美しく燃え上がるような山の姿がそびえていた。
湖の水も透き通っていた。
山と川のある土地で幼少を過ごした自分としては、このような景色には何ともいえない安堵感を覚える。

「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪冴えて涼しかりけり」

曹洞宗の開祖、道元禅師の有名な短歌である。
自然は花、ほととぎす、月、雪を通して、その瞬間その瞬間の命を精一杯燃やしており、その真実の姿、仏教的には「仏」の姿をいかんなく発揮しており、そこには微塵の迷いもない。
ここで、「涼しい」というのは、心が清らかであるという意味らしい。
さりげなく「諸行無常」の道理を提示しながら、「実は諸行無常はこんなに美しいものだよ」という仏の考え方を表しているようにさえ思える。そんな道元禅師の悟りの境地を歌ったものだが、ここではそんな深いことは考えなくても、単純に「日本の四季の美しさ」を実にうまく表現したものだと感銘する。

とくに最後の「冬雪冴えて涼しかりけり」というのは、雪に囲まれ、静寂かつ清涼な永平寺の禅堂の様子を彷彿させるものがある。

急に寒くなったせいだろうか。いつのまにか週末に肺炎患者さんが6人も入院していた。
先週まで比較的病棟は安定していたのだが、週末に呼吸トラブルを起こす患者さんが頻発した。
やはり「諸行無常」というのは、凡人には辛いものである。

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老師と少年

2011-07-30 20:37:29 | 禅のはなし
 私、マイアミ太郎は実は禅宗の寺院に生まれた。
2人の祖父も父も2人の弟も皆、僧侶である。

長男として生まれてしまった私は幼いころから寺の跡継ぎとして大いに期待を背負って育ち、小学校3年で得度したあとは、医学部6年の夏まで毎年”棚行(たなぎょう)”といい、檀家さんを訪問してはお経を読む仕事をさせられていた。
佛教の中心的教典である般若心経はもちろん、曹洞宗の教典”修証義(しゅしょうぎ)”も5章すべてを暗唱した。
小学生の頃、”参同契(さんどうかい)”をある法事で経典を見ずに読経したあとには、同伴していた老僧からえらく褒められた記憶がある。小中高と10年間の修行(?)でいただいた”お布施”はひそかに貯金され、自分の大学の入学資金になっていたことは大学に入ってから知らされたことであった。

しかし、何を間違ったのか、私は僧侶一門から脱走をはかったのであった。いい意味でも悪い意味でも、”周りの期待を裏切る”のは幼いころからの私の性(さが)なのである。

なぜ仏門を捨てたのか言われても当時の高校生であった私の”気まぐれ”だったといしかいいようがない。
父も祖父も教師を兼務していたが、”教師にだけはなりたくない”と思ったこと、そして死者を弔うことだけに終始している”葬式佛教”に何ともいえない”うさんくささ”を強烈に感じていたことは事実であった。ただ、当時医学部に進もうとする私を父も祖父も決してとめようとはしなかった。

大学に入ってから医者になることを一直線に目指していたかと実はそうでもない。
医学部の教官の姿を見ながら、その”偉そう”だが”不幸そうな”表情や態度をみるにつけ、医学部に入ったことを後悔した時期もあった。大学4年にはその不満はピークを迎え、ふたたび”仏門”が何度も私の頭をかすめるのであった。
「やはり蛙の子は蛙か」
医者になる気をすっかり亡くした22歳の夏休みに、私は福井県の永平寺へ赴き、3泊4日の参禅研修に参加した。
永平寺は言わずと知れた、曹洞宗の大本山である。
曹洞宗の寺院に生まれながら私はまだ一度も本山を訪れたことがなかったゆえ、そのスケールの大きさと荘厳な雰囲気に猛烈に感動した。

あのときの参禅研修のことは今でも鮮明に覚えている。
老若男女問わず、全国から7名ほどの参禅者が集まった。
参禅研修であるから、私は一般の人に混じって参加したわけで、自分が小坊主であることは一切伝えなかった。
定年後、毎年参加しているという禅フリークな関西弁を話すおやじ、不幸が重なり、占い師に”永平寺に行きなさい”とアドバイスを受けた神経質そうな20代の女性、物静かで何か思い悩んでそうな細身のサラリーマンなどなど、それぞれの事情を抱えながら永平寺に来た人々で、私以外はみな社会人だった。朝4時に起床し夜9時に就寝するまで、修行僧と全く同じものを食し、同じ時間帯に座禅をし、同じように作務(さむ)にはげんだ。

何よりも辛かったのは、座禅であった。
足がとにかく痛い!
一回40分の座禅を1日6回もこなすのである。
”無心になれ”とか”自分を見つめる”などという高尚な心境とはほど遠く、ひたすら”痛みとの戦い”であった。
しかしそんな中でも坐禅堂の中に立ちこめるかぐわしい線香の臭いと深山霊谷(しんざんれいこく)ゆえの深い静けさは、我々をまったくの別次元の世界へ誘うのだった。

研修の最終日、永平寺では20年以上も修行しており、永平寺の幹部とされるある偉い禅僧とお茶を飲む機会があった。
その禅僧とざっくばらんに雑談を交わす会であったが、その”眼光のするどさ”と巧みな会話に圧倒された。
”宗教とは何か””仏教とは何か”,”もとはクリスチャンであったその禅僧がなぜ永平寺の門を叩いたのか”などそんな話題だったと思う。しかし、その禅僧は参禅者に対し”なぜここに来たのか?”といちいち質問することは一切しなかった。
そこにはふだんから”うさんくさい”と思っている現代の葬式仏教とは全く次元のことなる、本来の仏教を追い求める姿があり、
おそらく私が出会った僧侶の中でも最も”禅僧らしい”僧であった。

大学病院の医者とその禅僧。
比較することが妥当ではないかもしれないが、明らかに後者のほうが、より目が生き生きとしており、より深く人間を理解しており、そしてより”実存”しているという印象を受けた。

その後なんだかんだと言いながら、私は医者になり、いつのまにか神経内科医になり、いつのまにかアメリカに留学し、いつのまにか3児の父親になり、いつのまにか大学を脱走し、いつのまにか急性期病院で疲弊する立場になっていた。
あれから、19年。
あのとき若き日の私の心を深くとらえた眼光鋭い禅僧が誰であるかを知った。
”老師と少年”という本の著者、南直哉氏、その人だったのである。
南氏は語る禅僧として、メディアでも有名な方である。

この本は非常に抽象的だが、実に禅の世界を如実に表現している。
”人はどこから来て、どこへ向かうのか””自己とは何か””死とは何か”
誰もが一度は考える人類永遠のテーマである。

病院では毎週のように人が病気で死ぬ。
周りの人間も確実に老い、そしていつかは死ぬのだ。
”いかに生かすか”というのが医者の至上の義務だが、未曾有の超高齢化社会を迎えた現在、”いかに死ぬか”ということは、もしかしたら、生かすこと以上に大事なことなのではないか。
そんな疑問を臨床現場で考えてしまうのも、「蛙の子」ゆえの性(さが)なのだろうか。
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