今日の最高気温は-2度で一段と冷え込みが厳しい。街はパウダースノーで見事に化粧され、路面はカチカチに凍結している。
ブリザードのせいで視界もたびたび遮られ、空港までの運転も一苦労である。
そんな中、東京出張のため私は飛行機に乗った。
昨晩は午後11時に救急外来に呼び出しをうけ0時まで仕事をしたせいか、離陸後間もなく私は強い睡魔に襲われ、しばらく夢路に入った。
気づけば私は遠い遠い昔、昭和55年頃、まだ小学4−5年のころにタイムスリップしていた。
ちょうど今日のようなブリザードがふきすさぶ中、私は同じ村の小学生と5−6人で列を組み、学校まで約1kmある通学路をトボトボと歩いていた。そう私は幼少の頃、東北の人口2万程度の小さな町のある集落で暮らしていた。
農業が主産業であるその村のはずれに小さな禅寺があり、そこで私は高校まで過ごした。
通学路はたった一本で周りには建物らしきものが全くない。本当に田んぼだけであった。
冬になるとそこも一面の銀世界になるが、日本で屈指の強烈な横風を受けるため、豪快に押しつけるブリザードの威力は小学低学年の児童の歩みを完全に止めるほどであった。ゆえに学校までは同じ村同士の小学生が連隊を組み、高学年が先頭と一番後ろに立ち、その間に低学年の児童をはさみ、みんな自分の足下だけを見ながら、黙々と雪道を進んでいくしかなかった。その光景はあたかも、ちょうど八甲田山で遭難した兵隊を彷彿させるものがあった。
当時一番小さかった小学1年になったばかりの男の子Kがいた。
Kは他の小学1年生と比べても一段と小柄で、ランドセルや服装も明らかに「おさがり」と分かるような、いつも古い服を着ていた。しかし、とてもかいわいらい顔をして愛嬌たっぷりだったため、同じ村の誰からもかわいがられていた。まるで「子犬」のようなかわいらしさであった。
夏のお盆になると「棚行(たなぎょう)」といい、私は村の檀家を訪問しながら、仏壇の前でお経を読む修行をしなければならなかった。
実はKの実家も我が寺院の檀家だったため、恥ずかしさをかみしめながら小学5年の私は衣をまとい、Kの家にお邪魔した。
幸いその時間にはKはいなかった。
Kの自宅に来た瞬間、私はあまりに質素なたたずまいに大きなショックをうけてしまった。
家の壁はトタンでできており、今にも崩れ落ちそうであった。
たった4畳半しかない居間の畳は段差ができるほどへこんでおり、家具のすべてが黒ずんでいた。
しかし誠に簡素ながらも、ささやかな手作りの仏壇があり、私はその前に座った。
私は大学6年まで17年間、棚行を勤めたが、後にも先にもあれほど「質素」な仏壇を見たことはなかった。
読経が終わると、挨拶をしてくれたのはKの両親ではなく、年老いた夫婦(Kの祖父母)であった。
噂で聞いてはいたが、不幸にもKには両親がいなかったのである。(蒸発したかどうかは分からない)
さらに中学生の兄はその当時「少年院」で服役中であった。
つまり当時Kは祖父母に育てられていたのである。
読経後、私はお布施をいただいた。
当時、お布施の相場は1000円程度だったが、封筒に入っていたのは青い500円札であった。
このことが何を意味するのか、鈍い私でさえ直感することができた。
お経の意味も修行の意味も分からない小学5年のガキのお経に、とても500円の価値があるとは到底思えなかった私はお布施をいただくことにとても抵抗を覚えた。
夕方にひととおりの勤めを終え、自宅の寺院に帰った私は自分の部屋でひとり呆然としていた。
気づけば涙がボロボロと流れていた。
当時の未熟な私には「なぜ自分が泣いているか]さえ分からなかった。
今にしてみれば、「あまりに貧困で、あまりに残酷なKの境遇にショックを受けたこと、にもかかわらず、当人はそれを全くに苦にせず、純粋無垢な表情でいつも我々に愛嬌をふりまく姿」に涙してしまったのかもしれない。何よりも私は生まれて初めて「貧困」と「格差」という現実を目の当たりにしたのだ。
ふたたび猛烈なブリザードの中でにっこり笑うKの姿が出てきた。
目が覚めると、もう飛行機は東京間近であった。
気づけば自分は、ある祝賀会の席で、これまで仕事でお世話になった大勢の医師や研究者の中にいた。
この会場にいる多くの人は日本社会では「エリート」と称される人ばかりである。
そんな中に自分が存在していること自体、ある意味奇跡に近い。
人類と日本の福祉のためエリートはエリートとしての責任と使命を負って突き進まなければならない。
決して下を見ることなく、常に上を向いて上昇していかなければならない。
一方で「下」を向く医者も必要である。
「格差」と「貧困」と「医療の理不尽さ」を前に苦しむ医者も欠いてはならない存在である。
私は帰りの飛行機の中でひそかに願った。
Kがどうか幸せな人生を歩んでいることを。
ブリザードのせいで視界もたびたび遮られ、空港までの運転も一苦労である。
そんな中、東京出張のため私は飛行機に乗った。
昨晩は午後11時に救急外来に呼び出しをうけ0時まで仕事をしたせいか、離陸後間もなく私は強い睡魔に襲われ、しばらく夢路に入った。
気づけば私は遠い遠い昔、昭和55年頃、まだ小学4−5年のころにタイムスリップしていた。
ちょうど今日のようなブリザードがふきすさぶ中、私は同じ村の小学生と5−6人で列を組み、学校まで約1kmある通学路をトボトボと歩いていた。そう私は幼少の頃、東北の人口2万程度の小さな町のある集落で暮らしていた。
農業が主産業であるその村のはずれに小さな禅寺があり、そこで私は高校まで過ごした。
通学路はたった一本で周りには建物らしきものが全くない。本当に田んぼだけであった。
冬になるとそこも一面の銀世界になるが、日本で屈指の強烈な横風を受けるため、豪快に押しつけるブリザードの威力は小学低学年の児童の歩みを完全に止めるほどであった。ゆえに学校までは同じ村同士の小学生が連隊を組み、高学年が先頭と一番後ろに立ち、その間に低学年の児童をはさみ、みんな自分の足下だけを見ながら、黙々と雪道を進んでいくしかなかった。その光景はあたかも、ちょうど八甲田山で遭難した兵隊を彷彿させるものがあった。
当時一番小さかった小学1年になったばかりの男の子Kがいた。
Kは他の小学1年生と比べても一段と小柄で、ランドセルや服装も明らかに「おさがり」と分かるような、いつも古い服を着ていた。しかし、とてもかいわいらい顔をして愛嬌たっぷりだったため、同じ村の誰からもかわいがられていた。まるで「子犬」のようなかわいらしさであった。
夏のお盆になると「棚行(たなぎょう)」といい、私は村の檀家を訪問しながら、仏壇の前でお経を読む修行をしなければならなかった。
実はKの実家も我が寺院の檀家だったため、恥ずかしさをかみしめながら小学5年の私は衣をまとい、Kの家にお邪魔した。
幸いその時間にはKはいなかった。
Kの自宅に来た瞬間、私はあまりに質素なたたずまいに大きなショックをうけてしまった。
家の壁はトタンでできており、今にも崩れ落ちそうであった。
たった4畳半しかない居間の畳は段差ができるほどへこんでおり、家具のすべてが黒ずんでいた。
しかし誠に簡素ながらも、ささやかな手作りの仏壇があり、私はその前に座った。
私は大学6年まで17年間、棚行を勤めたが、後にも先にもあれほど「質素」な仏壇を見たことはなかった。
読経が終わると、挨拶をしてくれたのはKの両親ではなく、年老いた夫婦(Kの祖父母)であった。
噂で聞いてはいたが、不幸にもKには両親がいなかったのである。(蒸発したかどうかは分からない)
さらに中学生の兄はその当時「少年院」で服役中であった。
つまり当時Kは祖父母に育てられていたのである。
読経後、私はお布施をいただいた。
当時、お布施の相場は1000円程度だったが、封筒に入っていたのは青い500円札であった。
このことが何を意味するのか、鈍い私でさえ直感することができた。
お経の意味も修行の意味も分からない小学5年のガキのお経に、とても500円の価値があるとは到底思えなかった私はお布施をいただくことにとても抵抗を覚えた。
夕方にひととおりの勤めを終え、自宅の寺院に帰った私は自分の部屋でひとり呆然としていた。
気づけば涙がボロボロと流れていた。
当時の未熟な私には「なぜ自分が泣いているか]さえ分からなかった。
今にしてみれば、「あまりに貧困で、あまりに残酷なKの境遇にショックを受けたこと、にもかかわらず、当人はそれを全くに苦にせず、純粋無垢な表情でいつも我々に愛嬌をふりまく姿」に涙してしまったのかもしれない。何よりも私は生まれて初めて「貧困」と「格差」という現実を目の当たりにしたのだ。
ふたたび猛烈なブリザードの中でにっこり笑うKの姿が出てきた。
目が覚めると、もう飛行機は東京間近であった。
気づけば自分は、ある祝賀会の席で、これまで仕事でお世話になった大勢の医師や研究者の中にいた。
この会場にいる多くの人は日本社会では「エリート」と称される人ばかりである。
そんな中に自分が存在していること自体、ある意味奇跡に近い。
人類と日本の福祉のためエリートはエリートとしての責任と使命を負って突き進まなければならない。
決して下を見ることなく、常に上を向いて上昇していかなければならない。
一方で「下」を向く医者も必要である。
「格差」と「貧困」と「医療の理不尽さ」を前に苦しむ医者も欠いてはならない存在である。
私は帰りの飛行機の中でひそかに願った。
Kがどうか幸せな人生を歩んでいることを。
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