マイアミ留学日記 & みちのく勤務医日記

2007年6月から2年間マイアミで過ごした後,家族5人で東北へやって来ました.

燃え尽きる前に

2012-02-06 21:24:37 | 医療改革
今年も神経内科病棟を中心としたスキー旅行を企画し、週末は研修医を交えて東北の有名なスキー場に出かけた。
今回はリハビリ科、脳外科、検査課などのスタッフも参加し、ちょっとした大がかりなツアーになった。
その中にふだんは私と全く面識のない内科系のA先生の姿があった。

A先生は30代後半であり、ツアーの中で私に最も近い年代の先生であった。
この病院に赴任して間もなく1年がたとうとしているが、もう春には異動になるという。
A先生は実は九州の出身だった。妻と子供2人を九州に残しての単身赴任である。
私はなぜ九州の医師がこんな東北の急性期病院に来たのかが気になった。

「なぜ、わざわざこんなところに来たのですか?家族がいるんですか?」
「いいえ。ここの病院は全国的にも○○で非常に有名なんです。その道でやっている内科医としては是非その技術を学びたいと思い一念発起して来たのですよ」

A先生は所属する医局を辞めて来たという。
その理由は2004年に始まった「新臨床研修制度」にさかのぼる。
新臨床研修制度のために大学医局からは研修医がいなくなり、いわゆる「中堅クラス」といわれる医者が大学臨床の中心を担うようになった。A先生は当時の中堅クラスそのものだった。

中堅クラスの仕事が大変な激務であったことは、当時大学で働いた私には容易に想像できた。
教授は「あと3−4年すれば何とかなるから、もう少し大学でがんばれ」
と当時の医局員を激励したらしいが、3ー4年経っても事態は何ら変わらず、むしろ医員の負担は増すばかりであったと言う。
さらに教授の命令で医員はことごとく地方の急性期病院をたらい回しさせられ、精神的にも肉体的にもボロボロになる医師を見た多くの医者が教授にも医局にも絶望し、医局と縁を切ったのだという。

その中の一人がA先生だが、今でもその当時のトラウマを引きずっていると吐露してくれた、
30代後半の最後に「勉強になる病院」でひと踏ん張りして、将来医者として生き残れる技術を学びに来たのだった。

「この病院の救急当直は辛かったですが、本当に来て良かったですよ。あのまま医局にいたら燃え尽きていたでしょう。
でも、これ以上忙しい病院で働く自信はありません。これが最後の無理になると思います。春からは救急のない、もう少しゆっくり仕事のできる病院で働こうと思ってます。たぶん今よりも”やさしい”医者になれると思いますよ」

A先生は大学で何のビジョンも目標も提示されることなく、ひたすら医局の都合でいいように使われていたのかもしれない。
大学が得意とする”その場しのぎの口実”に乗せられたのであろう。
この東北の病院への赴任は、”燃え尽きる危機感”を感じたA先生の最善の打開策だったのかもしれない。
私にはA先生の気持ちが痛いほど理解できた。

「先生は医局人事で異動しないのですか?」
A先生は私の身を案じるように尋ねてくれた。
「お世辞にも楽とは言えませんが、もう少しやってみようかと思います。燃え尽きたらまた考えますよ。」

医師は一生研鑽しなければならない職業ではあるが、「勉強」という大義名分を振りかざして、医局の都合のいいように医者を酷使する一部の傲慢な医者がいるのも事実である。勉強は結構だが、医者としてのモチベーションを崩壊させては本末転倒である。
大学が有益な研鑽の場であることは確かだが、そのすべてではない。
大学の使い方を誤ると「廃人」に至るリスクを背負うことにもなる。

目の前に「患者」が居る限り医者はどこでも研鑽できる。
大学にいる間は教授のコマに利用されてはならない。
その自己研鑽の技術と専門医としての確固たるモチベーションと誇りを育てることが大学の本来の仕事ではないだろうか。
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雲の上の学会

2012-01-27 14:02:21 | 勤務医の日常
最近は神経学会からやたらと国際学会やセミナーなどの案内メールが届くようになった。
今後ますますグローバル化する神経学としては当然の流れかもしれないが、正直、こんな東北の急性期病院で働く医者からすると、どこか「雲の上の世界」である。

外来診療は夕方3時から4時まであり、入院患者は30から50名にもなる。
3日に一回の呼び出し当番になれば、まず救急外来からコールを受ける。
市内の輪番制は完全に形骸化しており、当院は毎日2次、3次の救急患者が搬送される。。
救急センターの内科当直も半端ではなく、17時間連続勤務の上、午前3時に外傷患者の診療を強いられる。

一日の仕事が終わって帰宅してからも、「患者さんが眠れない」「患者さんが吐いている」「お腹を痛がっている」「薬が一つ足りない」「同意書がまだない」「心肺停止です!」などなど病棟から電話が来るため、とても安らかな睡眠どころではなく、常時精神は緊張状態にある。病状が好転しなければ家族からは不信の目で見られることも少なくない。

こんな戦場のような場所で働く医者とって、週末に1日だけ休みがとれるのが唯一の救いである。
日本には1日も休みのない勤務医も多いと聞くから、まだまだ当院は恵まれている方であろう。

しかし、とても学術活動などできる状況ではない。
田舎の急性期病院にとっては、地方会で症例報告をすることが精一杯である。
日本の神経内科常勤医のいる大学以外の病院で、一体どれだけの病院が国際学会に参加できる時間的余裕と人員的余裕を持ち合わせているのであろうか? 少なくとも3日以上休みをとって学会に参加できる病院はどれだけあるのだろう?

最近では母校からもしつこく研究会や勉強会の案内がメールで来るようになった。
しかし大抵は平日であり、大学からは280kmも離れているため、実際当院からの参加は不可能である。
地方病院に十分な余裕を与えていない大学が、自らの学術活動への協力だけは要請するというのも、無神経というか、大学の傲慢さを感じずにはおれない。この案内メールだけも大学がいかに現場の状況を理解していないかがよく分かる。


サンディエゴ、ワシントンDC, デンバー、フィラデルフィア、ハワイ、マイアミなどアメリカの学会に何度も参加した日が懐かしい。
おそらく「雲の上の学会」に参加することは一生ないであろう。
参加できるのは、それこそ死んだ後に地上から離れたときかもしれない。
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崩れゆく医師

2012-01-19 14:54:40 | 医療改革
以前このブログ「時間外勤務」で紹介した呼吸器科部長K先生がついに倒れた。なにせ一日に3時間半しか睡眠時間をとれない殺人的仕事量をこなしていた先生である。しばらく病気療養をすることになり当院の呼吸器診療はいよいよ危機的状況にさらされることになった。

K先生は海外留学の後に、私のように大学へは戻らず、直接当院に赴任され、その後当院の呼吸器診療に10年以上携わってきた。私と大きく違うのは、非情にまじめで責任感が強く、どんな患者の前でも常に紳士的であり、決して怒ることがない。
実際突然倒れてしまう医師というのは、こうした模範的な人が多いのではないだろうか。

しかし、こうなってからでは遅いのである。
K先生はかなり以前から大学に懸命に働きかけ、何度も足を運び、常勤医師の増員をお願いしていたようであるが、それもかなわなかった。地方の最前線で働く医者の痛みが分からないエリートには、馬の耳に念仏なのである。
それに比べ教授というのは気楽である。
当直もなければ、救急医療もしなくていい。
余計な仕事は部下に丸投げできる。
よって大学教授が過労死したというニュースは未だ聞いたことがない。

私だったら大学医局と教授を相手に、自身の医療費と慰謝料を求める訴訟を起こしてるだろう。
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小坊主の涙

2012-01-15 20:58:57 | 禅のはなし
今日の最高気温は-2度で一段と冷え込みが厳しい。街はパウダースノーで見事に化粧され、路面はカチカチに凍結している。
ブリザードのせいで視界もたびたび遮られ、空港までの運転も一苦労である。
そんな中、東京出張のため私は飛行機に乗った。
昨晩は午後11時に救急外来に呼び出しをうけ0時まで仕事をしたせいか、離陸後間もなく私は強い睡魔に襲われ、しばらく夢路に入った。


気づけば私は遠い遠い昔、昭和55年頃、まだ小学4−5年のころにタイムスリップしていた。
ちょうど今日のようなブリザードがふきすさぶ中、私は同じ村の小学生と5−6人で列を組み、学校まで約1kmある通学路をトボトボと歩いていた。そう私は幼少の頃、東北の人口2万程度の小さな町のある集落で暮らしていた。
農業が主産業であるその村のはずれに小さな禅寺があり、そこで私は高校まで過ごした。

通学路はたった一本で周りには建物らしきものが全くない。本当に田んぼだけであった。
冬になるとそこも一面の銀世界になるが、日本で屈指の強烈な横風を受けるため、豪快に押しつけるブリザードの威力は小学低学年の児童の歩みを完全に止めるほどであった。ゆえに学校までは同じ村同士の小学生が連隊を組み、高学年が先頭と一番後ろに立ち、その間に低学年の児童をはさみ、みんな自分の足下だけを見ながら、黙々と雪道を進んでいくしかなかった。その光景はあたかも、ちょうど八甲田山で遭難した兵隊を彷彿させるものがあった。

当時一番小さかった小学1年になったばかりの男の子Kがいた。
Kは他の小学1年生と比べても一段と小柄で、ランドセルや服装も明らかに「おさがり」と分かるような、いつも古い服を着ていた。しかし、とてもかいわいらい顔をして愛嬌たっぷりだったため、同じ村の誰からもかわいがられていた。まるで「子犬」のようなかわいらしさであった。

夏のお盆になると「棚行(たなぎょう)」といい、私は村の檀家を訪問しながら、仏壇の前でお経を読む修行をしなければならなかった。
実はKの実家も我が寺院の檀家だったため、恥ずかしさをかみしめながら小学5年の私は衣をまとい、Kの家にお邪魔した。
幸いその時間にはKはいなかった。

Kの自宅に来た瞬間、私はあまりに質素なたたずまいに大きなショックをうけてしまった。
家の壁はトタンでできており、今にも崩れ落ちそうであった。
たった4畳半しかない居間の畳は段差ができるほどへこんでおり、家具のすべてが黒ずんでいた。
しかし誠に簡素ながらも、ささやかな手作りの仏壇があり、私はその前に座った。
私は大学6年まで17年間、棚行を勤めたが、後にも先にもあれほど「質素」な仏壇を見たことはなかった。
読経が終わると、挨拶をしてくれたのはKの両親ではなく、年老いた夫婦(Kの祖父母)であった。
噂で聞いてはいたが、不幸にもKには両親がいなかったのである。(蒸発したかどうかは分からない)
さらに中学生の兄はその当時「少年院」で服役中であった。
つまり当時Kは祖父母に育てられていたのである。

読経後、私はお布施をいただいた。
当時、お布施の相場は1000円程度だったが、封筒に入っていたのは青い500円札であった。
このことが何を意味するのか、鈍い私でさえ直感することができた。
お経の意味も修行の意味も分からない小学5年のガキのお経に、とても500円の価値があるとは到底思えなかった私はお布施をいただくことにとても抵抗を覚えた。

夕方にひととおりの勤めを終え、自宅の寺院に帰った私は自分の部屋でひとり呆然としていた。
気づけば涙がボロボロと流れていた。
当時の未熟な私には「なぜ自分が泣いているか]さえ分からなかった。

今にしてみれば、「あまりに貧困で、あまりに残酷なKの境遇にショックを受けたこと、にもかかわらず、当人はそれを全くに苦にせず、純粋無垢な表情でいつも我々に愛嬌をふりまく姿」に涙してしまったのかもしれない。何よりも私は生まれて初めて「貧困」と「格差」という現実を目の当たりにしたのだ。

ふたたび猛烈なブリザードの中でにっこり笑うKの姿が出てきた。
目が覚めると、もう飛行機は東京間近であった。


気づけば自分は、ある祝賀会の席で、これまで仕事でお世話になった大勢の医師や研究者の中にいた。
この会場にいる多くの人は日本社会では「エリート」と称される人ばかりである。
そんな中に自分が存在していること自体、ある意味奇跡に近い。
人類と日本の福祉のためエリートはエリートとしての責任と使命を負って突き進まなければならない。
決して下を見ることなく、常に上を向いて上昇していかなければならない。
一方で「下」を向く医者も必要である。
「格差」と「貧困」と「医療の理不尽さ」を前に苦しむ医者も欠いてはならない存在である。

私は帰りの飛行機の中でひそかに願った。
Kがどうか幸せな人生を歩んでいることを。




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真冬の救急(その3)

2012-01-08 17:29:18 | 勤務医の日常
世間は3連休だが、当然勤務医には休みはない。
昨日は当番のため病棟回診。今日は救命救急センターの日勤である。

記録をみると昨日の受診者は50名弱。大晦日、元旦の受診者はゆうに1日に100名を超えていたので、それに比べればかなり少ないほうである。休みになると市内の医療機関はのきなみ機能がストップし、そのしわ寄せが救急センターに来るため、当番に当てられた医師はたまったものではない。しかし救急センターには患者が容赦なく殺到する。

午前0時以降は1時間おきに受診者がいるが、感冒(発熱)で午前2時に受診する男性、下痢だけで午前3時に受診する女性など、結果をみると腰がぬけてしまうくらいがっかりする患者もいる。いずれも若い20代である。わざわざこんな大雪警報で出ている、しかも休日の深夜に受診しなくてもいのではと思うのだが。

当番医は少なくとも16時間以上の連続勤務の後につかの間の仮眠をとり、その最中にたたき起こされ、翌日には通常勤務をこなす現実を一般市民はどれだけ理解しているのだろうか?
少子化の影響で若者は大事に大事に育てられ、熱や下痢にも耐えられない体になってはしないか? 昔は「しょうが湯飲んで、一晩寝て汗かけば熱なんて下がる!さっさと寝ろ!」と逆に親にしかられることもあったくらいだが。

午前8時半スタート。早速救急隊からコール。
「90代女性が今朝から呼吸状態わるくSat 90%以下です!」 →誤嚥性肺炎で呼吸器科に入院となった。

すかさず救急隊から。
「70代女性。今朝トイレで意識失い倒れました!」→いろいろ検査した結果、血管迷走神経反射による失神のため帰宅。

またまた救急隊から。
「80代男性が午前10時に急にうなり声をあげてます。左共同偏視あります!」→けっこう重症の脳梗塞を認め神経内科入院。

さらに救急隊から。
「70代男性。午後1時45分ころ突然反応がなくなり、右に倒れたようです!」→病着時には症状は消失しており、TIAであった。→神経内科入院。

もういっちょ救急隊から。
「神経内科にかかっている患者さんです。熱が下がりません!」→パーキンソン病の患者さんだが、肺炎のため神経内科入院。

んー、まだまだ。最後の閉めに救急隊から。
「70代女性が今朝から反応がにぶいそうです!」→脳梗塞のため神経内科入院。


気づけばもう午後4時になっていた。
ほとんど救急車で搬送されてくる患者の対応に追われた1日であった。
この2日間で神経内科には6人の入院があった。院内ではダントツの多さである。
正直疲れた。
そろそろ病院辞めようかな。
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教授の収賄事件(その2)

2012-01-06 17:24:40 | 医療改革
新年早々、性懲りもなくまた教授の収賄事件である。

”和歌山県立医科大学(和歌山市紀三井寺)の血液浄化センター長を務めた元教授(64)が、在任中に二つの病院から現金290万円を受け取ったと一部で報じられたことを受け、医大は5日、外部の有識者や学内の医師ら計6人でつくる調査委員会の設置を決めた。 元教授は1999年4月〜05年8月、医大の血液浄化センター長を務め、現在は都内の私立大学教授。医大の広報担当者は「現金の趣旨も含めて調査委で明らかにしたい」と話した。”

きっと氷山の一角であろう。
多くは内部で知っている人間がいても、教授の報復を恐れるあまり大抵は表に出てこない可能性がある。
今回は良識ある内部告発者がいたのだろうか。

何度も何度も訴えているが、いいかげんに人事権を教授から剥奪してもいい時代ではなかろうか。
地域の病院での臨床経験が浅く、痛みの分からない教授になぜ人事権が付与されているのか、私は理解に苦しむ。
甘やかせば甘やかすほど彼らはつけあがるだけである。

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発見の対価

2012-01-01 17:52:36 | 大学病院の思い出
かって「青色LED訴訟」という裁判があった。
青色LEDを発明した中村氏(米カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)が、かって働いていた日亜化学工業を相手に訴訟を起こしたものである。青色LEDにより会社は一兆円を超える巨額の利益を得たが、中村氏へ支払われた当時の報奨金はたった2万円だったという。

結局、同社が中村教授に8億4391万円を支払うことで和解に至った。
司法は発明の貢献度としては中村氏に50%,会社側50%という判断を下した。
この裁判は企業の知的財産権に対する意識改革の必要性を喚起したものであり、会社は職務発明といえども社員に大きな対価を求められる時代であることを知らしめたのだった。


話はすこし変わるが、医学部における研究のスタイルとしては、教授や準教授などの主任研究員が研究費を獲得し、大学院生などの部下に実験をさせることで研究をすすめる。その研究成果はおおまかには主任研究員が所属する教室のものであるが、正確には論文のfirst authorとlast authorとなる人間が、その研究への貢献度が最も高いものとして認知されるのが一般的である。
しかし実際にはその後の研究費の獲得や、昇格人事を含めた利益を得るのは教授や準教授であり、肩書きのない下っ端には何の報酬もない。この場合の報酬というのは奨学金のこともあるが、「評価」や「Award(賞)」と言った金銭以外の意味である。

肩書きのない部下は、皮肉なことに医局の都合で降格することすらある。
さらに皮肉なことに「論文のfirst authorから外せ!」と「鶴の一声」さえ部下にかかることもある。
ここまでくるとscientistとしてはほとんど犯罪である。
家族と過ごす時間を犠牲にしながら、汗水垂らして働いて、自分で書いた論文のfirstから引きづり降ろされる力が働くのだ。
にわかには信じがたいが、TVドラマまがいのことが現実でも起こる。
私が大学に幻滅した瞬間でもある。


もちろん「企業の発明」と「医学的発見」とは次元の異なる話であるから、単純な比較はできない。
また医学的発見はただちに利益に結びつくものでもない。
旧態依然の教授の独裁体制ではなく、最近は民主的な医局も多いだろう。
ただ医学的発見にも「知的財産権」すなはち特許は存在するため、もし特許がからめば、上記のような裁判が医学研究の分野でも起こっても不思議ではない。


私がかって10年間大学で研究生活を送った経験から言わせていただくと、どうにも理解に苦しむのが、上記のような報われないfirst authorがいかに多いかということだ。そして多くの尊敬する優秀な先輩や同輩は大学を去っていった。
大学のポストにうまくおさまる決定要因は教授に気にいられるか否かである。
出世のポイントは以下の3つだ。
1)決して教授に逆らわず、自分を殺し、徹底的に迎合すること、
2)部下の業績の「おいしいとこ取り」を重ねること
3)なるべく臨床(病棟業務)をしないこと.
  大学以外の病院での臨床は最大の足かせであり、ましてや地域医療や救急医療など言語同断である。
この3つを外せば出世からは自ずと遠ざかるが、逆に忠実に守れば若くして教授になれる。

大学というのは「教授」になる人間にとっては実に都合よくできているが、そうでない人間には非情である。
かくして大学で働くのがばかばかしくなる。
そして何よりも腹立たしいのは、そのような教授は地域医療には全く関心を示さないことだ。
彼らの最大の関心事は、学会の幹部になることである。
実につまらないことに力を無駄にしている。

臨床の最大の対価は患者に感謝されること、そして患者の病状が良くなって退院することである。
それに比べ研究の対価はあまりに乏しい。
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真冬の救急(その2)

2011-12-24 01:21:40 | 勤務医の日常
今は24日午前1時30分。ようやく仕事が終わって一息ついたところだ。
連休は寒波が襲うという予報通り、東北はすっかり冷え込んで路面はカチカチに凍結している。

23日は当番のため午前中は30人の患者の病棟回診。
年末には患者さんが退院することが多いため、かなり入院患者は減ったが、連休に救急外来に殺到するのが常識である急性期病院ではもっとベッドを空けておかないといけない。

早速、回診中に救急外来からコールがあった。
「先生の外来に通院しているアルコール性肝硬変の方が来てます。足がむくんで歩けないそうです!」

もともとはアルコール性ニューロパチーで神経内科に通院していたのだが、そもそもアルコール依存症で肝硬変もある患者さんである。これまで当科には10回の入院歴がある常連だ。肝硬変は消化器科が診るべき疾患だが、消化器科の医師に相談しても、アルコール依存症だと分かるとまともに取り合ってくれないのである。適当なアドバイスはもらえるが、結局、腹水のコントロールと食事指導を私がやっているはめになっている。

診るとお腹がパンパンに張っており、足の浮腫もひどい。
年末に懲りずに酒を飲んだようで、アルコール臭もする。
さすがにここまで来ると「神経内科」が責任を負う状態ではないと思い、
「当科では手に負えません。消化器科の医者を呼んでください」とつっぱねた。

午後4時。病院で仮眠をとっていると救急から2度目のコール。
「午後2時50分発症の脳梗塞です!左麻痺があります!」
急いで救急室にかけつけ、t-PA静注を行った。

隣では低体温を合併するCPAに対して救急部の医師3人、研修医3人と看護師3人が寄ってたかって異様な雰囲気を醸し出していた。瀕死の状態だが、PCPSを回しながら何度もDCをかけている。
救急室にはほかに消化器科や小児科の医師などがひしめきあっており、休日とは思えない賑わいようである。

10月に脳外科の後輩医師K先生が赴任してから、実は私はK先生の脳梗塞治療の教育係になっている。
K先生が来てからまだ一度もt-PAは使ってないため、久しぶりの適応症例であった。
いつか「t-PA治療」の劇的な回復を見せてやりたいと思っているが、今日は奴はスキーに行っているらしい。
劇的とはいえないまでも軽度の改善を認め、ICUに入室した。

午後7時に帰宅し11時に就寝。
熟睡モードに入った11時45分、救急室から3度目のコール。
「11時発症の脳梗塞です!右麻痺があります!」

急いで着替え、外にでると車は粉雪で覆われていた。
t-PAを使うつもりで、車を爆走させ救急室にかけこむ。
診察すると麻痺は改善していた。どうやらTIAのようであった。ABCD scoreは6点とハイリスクであり、入院となった。

これだから真冬は困る。
大学と違い、当番ともなれば何度でも救急室の呼び出されるのが現場の臨床である。
しかし、ここの雪は実に美しい。
このパウダースノーを楽しまない手はない。週末には子供を連れて山にくり出す予定だ。
頼むから、もう今晩はゆっくり休ませて欲しい。
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雪積もる東北

2011-12-12 12:49:33 | 勤務医の日常
いよいよ冬本番だ。今朝から雪がしんしんと降っており、午前中であっという間に道路や町並みがすべて雪で覆われてしまった。
曇り空ではあるが、雪化粧された山の景色が美しい。
子供たちは2ヶ月前からこの日をとても楽しみにしており、既に昨日は「雪だるま」を作って遊んでいた。

しずかな日曜の夜を過ごそうとしていた矢先、午後10時に救急外来からコールがあった。
「これから一酸化炭素中毒の患者さんが来ます! 先生お願いします」

いつもながら、心の静寂を一気にぶちこわす、憎たらしいばかりの救急コールである。
本当に疲れてきってしまい、これから寝ようとする瞬間に病院に呼び出しを受けるときが、実は「病院を辞めたい」と真剣に思うときでもある。同じことを30代後半の泌尿器科医が先日の忘年会で漏らしていたのを聞き、自分だけではなかったと多少安堵した。

この地域では冬には「練炭」を炊く習慣がまだまだ存続しており、特に部屋を閉め切って暖をとった場合は、一酸化炭素中毒が発生することになる。また残念なことに自殺企図による一酸化炭素中毒も多い。
実際この病院に赴任してからこの2年半に、50人以上の一酸化炭素中毒患者を診てきた。
おそらく日本でもトップを争う患者の多さではないかと思うが、おかげで一酸化炭素中毒についてはかなり詳しくなった。

多くは何の後遺症もなく退院されるが、ときどき重症例になると「遅発性脳症」といい、退院後1〜4週後に認知症のような症状を発症し逆戻りする患者がいる。

この遅発性脳症を神経内科医が診ることにはおそらく異論はないだろうが、急性一酸化炭素中毒は本来は救急部で見るべき患者ではなかろうかと思うことがある。このあたりは施設によって方針が異なるかもしれないが、ここでは神経内科医が最初から診る。
これほど日常臨床ではcommonな病気であるが、「神経内科ハンドブック」や「神経疾患診療ガイドライン」などの教科書には昔から一切記載がないのが、個人的には非常に不思議である。変性疾患の極めて稀な現象を説明するよりも、せめて「遅発性脳症」くらいの説明はあってもいいのではないかと思うが。大学の偉い先生は神経救急の現場を知っているのだろうか?

雪が降れば増えるのは交通事故と脳卒中である。
スキーができるはうれしいが、救急医療の現場としては嫌な季節でもある。
特に荒れた真冬の真夜中に、呼び出しを受けるのはけっこう辛い。
去年の悪夢が脳裏をよぎる。
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時間外勤務

2011-12-03 11:57:55 | 勤務医の日常
昨日は一足早い病棟の忘年会であった.
開始から1時間ほど遅れて,いつもお世話になっている呼吸器科のK先生が姿を現した.
K先生はもう50代である。

「いやー,先生遅くまでお疲れさまです.まず一杯やってください.」
「ありがとうございます.けっこうお腹空いてまして.ようやく昼食にありつけますよ」
「え!? 昼食? 今日は昼食はとらなかったんですか?」
「ええ.でもいつも私は日中は食事とれません.いつも午後7時に昼食とってます」
「朝食をとったあとは夜まで食事しないんですか?」
「ええ.ただ午前2時にいつも夕食をとってますから,一応1日3食はとってますよ」
「え!?午前2時? それまで何をしてるんですか」
「病院で働いてます」

どうやらK先生は朝6時半に起床後,朝食をとったあとは夜の7時までずっと働きづめらしい.
しかも帰宅は午前2時ころ.就寝するのはいつも午前3時だという.
つまり自宅での睡眠時間はたった3時間半である.

「そんな睡眠時間でよく体がもちますね」
「まあ,日中でも病院で空いた時間にこまめに休むようにしてますから.この生活リズムに慣れてしまいました.」

受け持ち患者は20名を超える.
一人主治医制のため土日も休みがない.
365日病院勤務である.
当院には月に100時間を超える超過勤務をこなすスタッフがいると聞いていたが,おそらくK先生もその一人なのだろう.
K先生の実態を知ってしまっては,まだまだ自分は甘いほうである.

月に80時間を超えた超過勤務は「過労死」との有意な相関があると言われている.

この悲惨な実態を大学は知っているのだろうか.
現場がこれほど苦しんでいるのに,なぜ人を派遣しないのだろうか?
どれほど医局のために尽くしたところで、一旦学外に出てしまえば用無しとなり、「本当に苦しいとき、本当に困っているとき、本当に助けてほしい」ときには彼らは見向きもしない。

K先生が過労死しないことを祈るばかりであるが、我々が今できるのは「肺炎当番」として当院の呼吸器診療をサポートしていくことである。
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