今年も神経内科病棟を中心としたスキー旅行を企画し、週末は研修医を交えて東北の有名なスキー場に出かけた。
今回はリハビリ科、脳外科、検査課などのスタッフも参加し、ちょっとした大がかりなツアーになった。
その中にふだんは私と全く面識のない内科系のA先生の姿があった。
A先生は30代後半であり、ツアーの中で私に最も近い年代の先生であった。
この病院に赴任して間もなく1年がたとうとしているが、もう春には異動になるという。
A先生は実は九州の出身だった。妻と子供2人を九州に残しての単身赴任である。
私はなぜ九州の医師がこんな東北の急性期病院に来たのかが気になった。
「なぜ、わざわざこんなところに来たのですか?家族がいるんですか?」
「いいえ。ここの病院は全国的にも○○で非常に有名なんです。その道でやっている内科医としては是非その技術を学びたいと思い一念発起して来たのですよ」
A先生は所属する医局を辞めて来たという。
その理由は2004年に始まった「新臨床研修制度」にさかのぼる。
新臨床研修制度のために大学医局からは研修医がいなくなり、いわゆる「中堅クラス」といわれる医者が大学臨床の中心を担うようになった。A先生は当時の中堅クラスそのものだった。
中堅クラスの仕事が大変な激務であったことは、当時大学で働いた私には容易に想像できた。
教授は「あと3−4年すれば何とかなるから、もう少し大学でがんばれ」
と当時の医局員を激励したらしいが、3ー4年経っても事態は何ら変わらず、むしろ医員の負担は増すばかりであったと言う。
さらに教授の命令で医員はことごとく地方の急性期病院をたらい回しさせられ、精神的にも肉体的にもボロボロになる医師を見た多くの医者が教授にも医局にも絶望し、医局と縁を切ったのだという。
その中の一人がA先生だが、今でもその当時のトラウマを引きずっていると吐露してくれた、
30代後半の最後に「勉強になる病院」でひと踏ん張りして、将来医者として生き残れる技術を学びに来たのだった。
「この病院の救急当直は辛かったですが、本当に来て良かったですよ。あのまま医局にいたら燃え尽きていたでしょう。
でも、これ以上忙しい病院で働く自信はありません。これが最後の無理になると思います。春からは救急のない、もう少しゆっくり仕事のできる病院で働こうと思ってます。たぶん今よりも”やさしい”医者になれると思いますよ」
A先生は大学で何のビジョンも目標も提示されることなく、ひたすら医局の都合でいいように使われていたのかもしれない。
大学が得意とする”その場しのぎの口実”に乗せられたのであろう。
この東北の病院への赴任は、”燃え尽きる危機感”を感じたA先生の最善の打開策だったのかもしれない。
私にはA先生の気持ちが痛いほど理解できた。
「先生は医局人事で異動しないのですか?」
A先生は私の身を案じるように尋ねてくれた。
「お世辞にも楽とは言えませんが、もう少しやってみようかと思います。燃え尽きたらまた考えますよ。」
医師は一生研鑽しなければならない職業ではあるが、「勉強」という大義名分を振りかざして、医局の都合のいいように医者を酷使する一部の傲慢な医者がいるのも事実である。勉強は結構だが、医者としてのモチベーションを崩壊させては本末転倒である。
大学が有益な研鑽の場であることは確かだが、そのすべてではない。
大学の使い方を誤ると「廃人」に至るリスクを背負うことにもなる。
目の前に「患者」が居る限り医者はどこでも研鑽できる。
大学にいる間は教授のコマに利用されてはならない。
その自己研鑽の技術と専門医としての確固たるモチベーションと誇りを育てることが大学の本来の仕事ではないだろうか。
今回はリハビリ科、脳外科、検査課などのスタッフも参加し、ちょっとした大がかりなツアーになった。
その中にふだんは私と全く面識のない内科系のA先生の姿があった。
A先生は30代後半であり、ツアーの中で私に最も近い年代の先生であった。
この病院に赴任して間もなく1年がたとうとしているが、もう春には異動になるという。
A先生は実は九州の出身だった。妻と子供2人を九州に残しての単身赴任である。
私はなぜ九州の医師がこんな東北の急性期病院に来たのかが気になった。
「なぜ、わざわざこんなところに来たのですか?家族がいるんですか?」
「いいえ。ここの病院は全国的にも○○で非常に有名なんです。その道でやっている内科医としては是非その技術を学びたいと思い一念発起して来たのですよ」
A先生は所属する医局を辞めて来たという。
その理由は2004年に始まった「新臨床研修制度」にさかのぼる。
新臨床研修制度のために大学医局からは研修医がいなくなり、いわゆる「中堅クラス」といわれる医者が大学臨床の中心を担うようになった。A先生は当時の中堅クラスそのものだった。
中堅クラスの仕事が大変な激務であったことは、当時大学で働いた私には容易に想像できた。
教授は「あと3−4年すれば何とかなるから、もう少し大学でがんばれ」
と当時の医局員を激励したらしいが、3ー4年経っても事態は何ら変わらず、むしろ医員の負担は増すばかりであったと言う。
さらに教授の命令で医員はことごとく地方の急性期病院をたらい回しさせられ、精神的にも肉体的にもボロボロになる医師を見た多くの医者が教授にも医局にも絶望し、医局と縁を切ったのだという。
その中の一人がA先生だが、今でもその当時のトラウマを引きずっていると吐露してくれた、
30代後半の最後に「勉強になる病院」でひと踏ん張りして、将来医者として生き残れる技術を学びに来たのだった。
「この病院の救急当直は辛かったですが、本当に来て良かったですよ。あのまま医局にいたら燃え尽きていたでしょう。
でも、これ以上忙しい病院で働く自信はありません。これが最後の無理になると思います。春からは救急のない、もう少しゆっくり仕事のできる病院で働こうと思ってます。たぶん今よりも”やさしい”医者になれると思いますよ」
A先生は大学で何のビジョンも目標も提示されることなく、ひたすら医局の都合でいいように使われていたのかもしれない。
大学が得意とする”その場しのぎの口実”に乗せられたのであろう。
この東北の病院への赴任は、”燃え尽きる危機感”を感じたA先生の最善の打開策だったのかもしれない。
私にはA先生の気持ちが痛いほど理解できた。
「先生は医局人事で異動しないのですか?」
A先生は私の身を案じるように尋ねてくれた。
「お世辞にも楽とは言えませんが、もう少しやってみようかと思います。燃え尽きたらまた考えますよ。」
医師は一生研鑽しなければならない職業ではあるが、「勉強」という大義名分を振りかざして、医局の都合のいいように医者を酷使する一部の傲慢な医者がいるのも事実である。勉強は結構だが、医者としてのモチベーションを崩壊させては本末転倒である。
大学が有益な研鑽の場であることは確かだが、そのすべてではない。
大学の使い方を誤ると「廃人」に至るリスクを背負うことにもなる。
目の前に「患者」が居る限り医者はどこでも研鑽できる。
大学にいる間は教授のコマに利用されてはならない。
その自己研鑽の技術と専門医としての確固たるモチベーションと誇りを育てることが大学の本来の仕事ではないだろうか。
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