天満放浪記

matsuken tenma blog

シルビナ・オカンポの後継者あらわる

2017年01月03日 | 西:書評④コノスール

教室でとつぜん片手の爪を歯ですべて引きはがした少女マルセラ。その後も奇行が続き、トイレで「私」たちが見守る前でカミソリで頬を深々と切る。マルセラは「彼」がすべての奇行を命じていると主張するが、誰にもその彼なる人物の姿は見えない。それでもマルセラの奇妙な魅力から逃れられない私は、退学してしまった彼女の家に向かう…。というのが、マリアナ・エンリケスによる7ページの短篇「学期末」。この物語設定と切り詰めた文体に触れれば、多少アルゼンチン文学に明るい人ならだれでも思い出すであろう先行作家が、シルビナ・オカンポである。

 ラテンアメリカの短篇小説といえば、多くの人はフリオ・コルタサルを思い出すだろう。コルタサルの有名な説にノックアウト理論がある。彼は小説と読者との関係をボクシングになぞらえ、長編小説はぎりぎりの判定勝ちでもよいが、短篇小説はノックアウトを必ず奪わねばならないと述べた。このノックアウト理論はラテンアメリカ全域で少しでも小説執筆などを目指す若者に知られ、今なお頻繁に引用される。

 しかしながら短篇小説を毎日読んでいても(実際に私はかつて数年やっていた)、そう毎回ノックアウトされるわけでもない。だからと言ってそれらが凡作かといえば、必ずしもそうではないと思う。ノックアウトという表現でコルタサルが目指していたのは、あくまでコルタサル流の小説世界に過ぎず、それを一般化して語ることが間違いであるのは小学生にだってわかるだろう。ある種の特殊な名人芸が、短篇小説という、それこそ千差万別の語りの器を判定する唯一の基準であるかのごとくに語られることに、私は当時、強い違和感を覚えたものだ。

 その後はノックアウト以外にも、いわば芸の種類を問うような概念を、他にもいろいろ考えることにしている。そのなかのひとつに、じわじわくる短篇、というものがある。じわじわ系の生理的気味悪さ。これはコルタサルのような男性作家にはあまり見られない、どちらかといえば女性作家が得意とする領域である。その代表がシルビナ・オカンポだった。シルビナのじわじわ感は言葉で説明しがたい。強いて言えば絵画的、印象的である。案外マンガと相性がよさそうな気がしている。

 前に何度か紹介したサマンタ・シュウェブリンもじわじわ系に近いが、彼女の場合はもう少しクリアな知性も感じられて、近作の中篇では社会批判の要素も織り交ぜるなど、自らの中にある夢幻的要素を(愛し慰撫せずに)突き放してみている部分もあって、そういう意味でシルビナ的じわじわには少し遠い気もする。いっぽうこの短篇集には、ほとんどシルビナと同一の生理的戦慄がありながら、そのいっぽうでシルビナにはない精緻なホラー感覚もある。まったく新しいタイプの書き手が現れてくれたなあ~と、なんだか新年からとてもありがたい気持ちにさせられた。

 アナグラマ版の袖情報に従うと、テラーのプリンセスことマリアナ・エンリケスは1973年にブエノスアイレスに生まれた。ブエノスアイレスの新聞や雑誌の書き手(スペイン語ではラダクトール/ラ、日本でいうところのライター)をしつつちょこまか本も出してきた。長編は1995年と2004年に1冊ずつ。22歳でどうやって長編小説の刊行なんかできたのかは不明だが、結局はこういう「やる気」だけが後に開花する可能性を孕んでいるということだろう。その後は短篇集やエッセイも刊行し、そして2014年には伝記本『次女―シルビナ・オカンポの肖像画』を刊行している。伝記を書くくらいのファンだったのね、なるほど。

 エピグラフはブロンテ『嵐が丘』とアン・セクストンの詩。このあたりも「そうだよな~」と納得する選択で読者として嬉しくなる。本書についてはここでもインタビューに答えており、ラヴクラフトやヘンリー・ジェイムズの名前が出てきて本人も terror の小説という言い方をしているようだ。

 「汚い少年」はブエノスアイレスの治安が悪い区画に住む語り手が遭遇した猟奇殺人事件を描く。アルゼンチンの庶民のあいだに今なお根強く残るらしい民間信仰を巧みに利用しているあたりが、いかにもライターあがりらしい目配りで、こうした才能は貴族的家庭で育ったシルビナにはなかった。ノックアウトではない、もやもや感だけを残した終わり方が素敵である。

 「安宿」は北部ラ・リオハの変な家に逗留した姉妹を描く。アルゼンチンは首都ブエノスアイレス圏以外はすべて辺境とされ、そこには人智を越えた、人の知らない地下の闇の何かがある…という決まりきったイメージがあるが、それをどう変奏するかが作家の腕の見せ所。ちなみにその北部そのものを文学の現場にしてしまったのが同じアルゼンチンのセルバ・アルマダという作家で、私は好きなのだがあまりに地味すぎるのか世界的にはまだ認知度が低い。

 「薬漬けの歳月」はジャンキーな女の若い頃の5年間の回想録という風体で、文体もパンクな感じで淡々と進んでいくのだが、いちおうホラーの仕掛けも用意してある。ライターあがり(ってバカにするわけではないですが)だけあってけっこう器用な作家だと思う。

 「アデラの家」はいわゆる恐怖屋敷もの。ライターの仕事が終わったら家で一人ブラックウッドやキングばかり読むという暗い生活をしていそうなマリアナの私生活が少し心配です。ツイッターとかフェイスブックとかやってんでしょうか。

 「ペティソ・オレフドの亡霊」はブエノスアイレスの殺人現場をめぐるツアーのガイドをしていた男が遭遇する亡霊の話に家庭生活を絡めた、最後は少しグロイ展開のもの。マリアナの私生活が本気で心配になってくる。ちゃんと彼氏はいるんだろうか。

 「蜘蛛の巣」という題が意味するのはパラグアイの伝統工芸品ニャンドゥティ(グアラニー語)なのだが、ここはダブルミーニング。舞台はまたもや北部コリエンテスで、ここからアスンシオンへ向かう道は私も学生時代に通ったことがある。夜になると漆黒の闇。舞台をストロエスネル政権下にしているのも面白い。何が蜘蛛の巣なのかは読めばわかるが、この短篇の語り手のダンナであるフアン・マルティンの描き方にはなにか邪悪な執念のようなものを感じる。本当に大丈夫なのか、マリアナ?! ま、こんなゲスな男(今すぐ消えていなくなってしまえと念じたくなる大馬鹿者)って、国を問わず、本当にいそうですけど。

 「わたしたちの体に肉はなし」は町で拾ったされこうべに奇妙な愛着を抱いてしまう女の語り。全体的に女が主人公か語り手になっているのもシルビナと同じ。

 「隣の中庭」は本書の中でいちばん読後感が気持ち悪い話でここでは説明しにくい。ケッチャム的なグロさなのだが主人公の造形と彼女のノイローゼの背景が上手に描かれていて、ストーリーテリングは器用な作家であると改めて感心する。でもこの短篇は食前にはあまり読まないほうがいいだろうなあ…。

 「黒い水の下で」はどこかのホラー映画みたいな題名だが、中身は明らかに「インスマウスの影」へのオマージュだと私は思った。ブエノスアイレス南部のスラム街で子供を川に蹴落とした警官の捜査に当たっていた女性検事が、川に落ちた少年のひとりがそのスラム街を歩いていると聞いて、実際にそこを訪れてみると、そこには工場の垂れ流した廃液によりたくさん生まれた身体障碍者がうようよしていた…という筋。深夜にひとりでクトゥルー神話再生を構想しているマリアナのことが改めて心配。

 「緑、赤、オレンジ」は引きこもってしまった友人とチャットで会話する女の話。こんな記述が。<Hoy leí sobre la gente como vos, le escribí una madrugada.  Sos un hikikomori.  Sabés quiénes son, ¿ no ?  Son japoneses que se encierran en sus habitaciones y las familias los mantienen, no sufren otro problema mental, nada más les resulta insoportable la presión de la universidad, de tener vida social, esas cosas.  Los padres nunca los echan.  Es una epidemia en Japón.  Casi no existe en otros países.  Aunque a veces salen, sobre todo de noche, solos.  A buscarse comida, por ejemplo.  No hacen cocinar a su madre, como vos.(p.178)>クールジャパンは引きこもりまで輸出し始めた? un hikikomoriと一般名詞化しています。

 最後の表題作「わたしたちが火の中で失ったもの」はパイロマニアにジェンダーを絡めた風変わりな話だが、ここに現れる主人公の名がシルビナ。この名前が意味するところについては上で述べたとおりである。

 久々に期待の持てる幻想作家が現れた。次はぜひ長編小説にチャレンジしてもらいたい。

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