天満放浪記

matsuken tenma blog

ゾンビ襲来!

2012年12月23日 | 映画:2012年

 このところ風邪気味でほとんど仕事らしい仕事をしていない。気づくともう年が暮れようとしており、年賀状の整理をしながら「これって先月もやった気がするなあ‥」と思う。歳をとるごとに時間の速度は増すのである。

 陰気な気分で年を越すと験が悪いので、来年たのしみな映画をいくつか紹介しておこうか。今年は大作でいいのが少なかった。やはりエイリアンがどがあーっと攻めてくる‥とか、ゾンビが全力疾走で追いかけてくる‥とかいった映画が月に一度はみたい。そう思いますよね。

 というのでまずはこれ。

Brad_pittworldwarzposterブラッド・ピット主演ということはA級ゾンビ映画という史上初めての試み。うどん屋でフルコース、みたいな予想外のセッティングであるが、それだけゾンビも文化として普及した証拠であろう。

 このトレイラーを見る限りゾンビの襲来が蟻の集団みたいで、けっこう斬新。最近のゾンビは「個性化」に走っていた。元は「個性喪失化」が特徴だったので、そこはけっこう面白かったが、今度のゾンビは「集団化」のようである。ちなみにゾンビに関しては国際的な学術研究も進んでおり、科研費の採択でもゾンビをテーマにすればすぐ通るという噂もある。その意味で、白水社から出ているダニエル・ドレズナー『ゾンビ襲来 国際政治理論で、その日に備える』(谷口 功一、山田 高敬訳)を読んで予習してから見に行ったほうがいいかもしれない。

 3月公開予定。

 次はこれ。

Oblivionposterトム・クルーズ主演の宇宙ものらしく、題名からどうも記憶にまつわる物語を内包した未来もののよう。こちらのトレイラーを見た感じでは、モーガン・フリーマンが出ているようで、内容はどうもディックの『最後から二番目の真実』あたりを想起させる、ある種の現実改変詐欺世界(=マトリックス)もののようだが、よくは分からない。

 トム・クルーズというので、なんとなく直観で見かけ倒し的な予感がするのだが、SFの王道みたいな映画らしいので、いちおう見に行きましょう。

 こちらは5月公開予定。

 次。

 来年最大の話題作はなんと言ってもこれだろう。

 ポスターからして凄いです。

Pacific_rimguillermo_del_toroposter一瞬、鉄人28号か?!と思うロボットだが、でも本当に巨大ロボットが怪物と戦う話のようで、こちらのトレイラーだけでもものすごいことになっています。モンスターは海から来るみたいで、エイリアンではなさそう。そちらの正体も気になるところだが、とにかくロボットが凄そう。これはぜひ3Dで見たいところだ。

 監督はギジェルモ・デル・トロ。なんでも日本の怪獣特撮モノへのオマージュでもある映画なのだとか。でも、だからと言って日本映画が昔の怪獣ものをリメイクすると、こうはならないんだよなあ。なぜでしょうか。

 『パシフィック・リム』は夏に公開予定。

 個人的に気になるのはこちらである。

Darkchyldアメコミの有名なキャラで女のデビルマンみたいな話なのだとか。ジョン・カーペンターが映画化することだけが決まっていて、ファンはみないつ来るか楽しみにしているのだけど、ホクテン座亡き今、ひょっとすると関西の映画館では上映されないかもしれない。

 これらのほかには『ダイハード』の新作。マクレーン刑事は今度はモスクワで大暴れするようだ。ブルース・ウィリスもしぶとい役者である。SFの有名小説を映画化した『エンダーのゲーム』はハリソン・フォードの出演で話題を呼んでいるが、子どもが遠隔操縦で戦うという話で、私はあまり興味がない。クェンティン・タランティーノは『ジャンゴ』(邦題『続・荒野の用心棒』)をジェイミー・フォックス主演でリメイク。演技派への脱皮(というか、もうじゅうぶん演技派だと思いますが)を目指すレオナルド・ディカプリオが悪役をやるらしい。そのディカプリオは『グレート・ギャツビー』に主演、これは彼に合っている役だと思う。オーストラリアではジョージ・ミラーが『マッドマックス』を撮影中で、メル・ギブソンは関係ない新ヴァージョンの模様。ロベルト・ロドリゲス『マチェーテ、殺すよ』は続編。今度は麻薬抗争の激化するメキシコ北部が舞台のよう。メキシコ北部は今後しばらくハリウッドが荒稼ぎする舞台になりそうな感じ。ちょっと興味があるのは『ハングオーバー3』で、アホ馬鹿三人組が二日酔いでひどい目に遭う映画の第三弾。おそらくメキシコ系っぽいホセ・パディージャ監督は『ロボコップ』をリメイク中。ゲイリー・オールドマンが脇役で登場する。サム・ライミ監督の『オズ』はあの映画に絡めたメタフィクションのよう。

 最後に『第九地区』のニール・ブロムカンプ監督がマット・デイモンを主演に迎えて撮影中のSF『エリュシオン』。

 このあたりが来年見てみたい映画であるが、もう少し第七芸術劇場とかシネ・ヌーヴォなどにも通って社会問題にも目を向けるべきかも。ハハハ。


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新しいID映画

2012年09月13日 | 映画:2012年

Mc20あの映画のビギニング版だという話を聞き、なおかつインテリジェント・デザインにまつわるテーマだと知れば、見る前からだいたい脚本にも見当がつくというものだが、単純にSF映画を楽しむのが好きなこともあって、またあの映画のシリーズなら「怖い女」が主人公だろうから、それへの興味もあり、3D上映へ。

 映画館のホールは若者たちでいっぱい、これはアイドルの出る日本映画を見に来たのだろう。いっぽうの『プロメテウス』はオヤジが多かった。私もそのワン・オブ・ゼムである。

 近ごろの3Dは効果を控えめにする傾向にある。

 SFの場合は、宇宙船やホログラム画像などが綺麗に見えるので、今後もう少し進化をすればより映像的可能性が膨らむことだろう。私はけっこうこの種のガジェットは大好きである。

 宇宙船はアナログチックで、あの映画の雰囲気に合わせているようだった。推進装置に関する説明はあいかわらずなかったが、その辺は想像して楽しむこととしよう。いっぽう、異星の宇宙船内部はギーガー好きにはたまらないグニャグニャ内臓系。そして問題のエンジニア‥。

 これ以上は言えないが、隣のカップルと思わず笑うタイミングがシンクロしてしまったのは、主人公のエリザベスが自分の腹を縫うところ。デカいホッチキスでバチバチバチって、あーゆーのは男は見ただけで卒倒しそうになるのですが、女性は逆に笑ってしまうようです。マイケル・ファスベンダー演じるロボットがいみじくも言っていたように「あなたはサバイバル能力に優れている」というタイプはだいたい女と相場が決まっている。

 それにしても、米国人はインテリジェント・デザインが大好きだ。先日読んでいたオーストラリアの作家グレッグ・イーガンはこれを非常に嫌っているそうで、ID説を否定するためだけに小説を書いているという説もあるぐらいだ。

 ID説とは、私たちの存在を認知不可能な次元の創造主によるデザインに帰すトンデモ理論である。SF映画のルーツとしては『2001年宇宙の旅』があげられる。ID理論は、比喩としては、私たち人間によって生み出された人工知能の在り方にも適用できる。なので、IDを背景にした物語には、たいていなんらかの人工知能が登場する。HAL9000のような。『プロメテウス』もそこを意識し、結末はやはりふたつの被造物による造物主探求の旅となっていく。

 要するに起源への旅だ。

 この話が、ホント、キリスト教圏の人々は大好き。

 日本人の私としては『百億の昼と千億の夜』のような輪廻的うやむやに落とし込むほうが「そうだよね‥」と納得しやすいのだが、彼らはそうもいかないらしい。

 純粋にSFとしてもそれなりに楽しめるし、若干のホラーとしても満足度は高いし、怖い女マニアにもそこそこの充実感はあるし、(超大作と謳われていた割には)手堅くまとめた中編佳作という趣で、さすがはあの映画の関係者が作っているだけのことはある。


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極めてアメリカンな調停役的英雄

2012年09月01日 | 映画:2012年

Mc19リーマンショック以降の世界では革命という言葉がわりと平気で使われるようになったような気がする。オレンジ革命からアジサイ革命から大阪維新まで具体的な形を取るものから、現存する唯一の知識人であるテレビコメンテーターの「閉そく感の打破」という決まり文句まで、破壊と刷新と変革の出来願望に惑溺する扇情的なムードが気持悪い。革命などという名の暴動が身近で起こったら私はとても困ると思うが、現実にはそういう暴動を促す空気がどこかにあるのかもしれない。佐藤優もこう言っていた。<もしかすると、新自由主義に対する歯止めはもはや利かなくなっており、ごく一部の経済エリートとそれに結びついた政治エリートだけが生き残り、大多数の人間は富を絞り出すための原材料として用いられる、純粋な資本主義社会が出現するのかもしれない。/もっとも人間には反発力がある。いつまでも虐げられた状況に置かれていて我慢する人間はいない。不満をもつ人々を糾合する思想が現われると、社会はまたたく間に変化する。通常、それは革命という形をとる。革命による流血と混乱は、人々に大きな災厄をもたらす。革命を阻止するためにも新自由主義の流れを止めなくてはならないというのが私の信念だ。/なぜ新自由主義がいけないのか? 私の理解では、新自由主義が、国家と社会のもつ暴力を加速する傾向があるからだ。(『テロリズムの罠 左巻 新自由主義の行方』角川ONEテーマ21、pp.4-5)>

 国家と社会の暴力加速は、治安の強化と言論の封殺という形(警察国家化)か警察の弱体化に伴う治安悪化と私的暴力の蔓延(無法国家化)という形を取ると思う。

 リーマンショック以前の新自由主義的なライフスタイルが力をもっていたころは、よく前者が架空の物語としてハリウッド映画になっていた記憶がある。金持ちが警察を裏で動かし貧しいものを虐げているという構図で、最近でも『トータル・リコール』のリメイク版はそういう設定だった。これのいちばんの傑作はジョン・カーペンター監督の『ゼイリブ』という珍映画で、これは地球上の金持ちがぜんぶエイリアンで人間に変装して新自由主義をやっているという無茶な内容だった。だが、この種の映画はほんとうはアメリカ的とは言えない。なぜならば、アメリカとは国の成り立ちからして本質的に無法国家的な状況をどう制御するかを常に考え続けていると思うからである。

 というので、リーマンショック後にこういう映画が出てきはじめたのは、新自由主義の行き詰まりが原因というよりも、アメリカ的な自由を求める戦い(それが経済的主体であれ、犯罪者であれ)において “みんなの気持は分かるが、ではいったい誰がこの混乱を調停するのか?” という古くからある問題系が再び(ハリウッドがもう何度となくそうしてきたように)脚光を浴びているというだけの話なのではないだろうか。

 つまりこの映画におけるバットマン=ブルース・ウェインとは実はウェスタンにおける保安官的な人物の焼き直しなのであり、そうであるがゆえに、彼は闇の無法の世界(犯罪者)における顔と秩序の世界(新自由主義の権化)における顔の二重性を刻印されている。それがあの仮面の機能である。

 個の自由を追求する。

 その追求過程での摩擦を調停する。

 本来、この二つは暴力を介在させることなく同時に実現する方途を模索すべきものであると私は思うが、なぜかアメリカは前者ばかりを優遇し、そして後者についてはどの個の利害にも属さない両義的な外部者を仲介させて「血の記憶」を共有することでなんとか事なきを得ようとする、そんな習慣が、それこそ文化として根付いているような気がしてならない。アメリカのお家芸と言いますか。

 比較してみると、たとえば日本の場合は、個の自由追求という欲望はもともとそんなに大きなものではないと思う。いっぽう、摩擦解消については天にまかす‥みたいな、お上重視主義があるようにも思う。

 そう考えていくと、これについては各国それぞれに奇習がありそうで、なかなか一般化は難しい。

 あるいはこうも考えられる。

 新自由主義的な個の自由の追求を、アメリカンスタイルでもし本気でやろうとするならば、それに伴う個のあいだの摩擦調停に際して、私たちは定期的にバットマン的な外部者を血祭りに上げていかねばならない。むろんそんな外部者は映画の中にしかいないし、アメリカのようにせめてそれを映像で再現して予行演習するという奇習ももたない以上、おそらく私たちの行きつく先は、この映画の前半のようなすべての秩序を破壊する大暴動を待ち望むことだろう。

 いや、ホント、大阪って現にそうなってますんで。

 それにしても、我ながら嫌になったのは、映画の途中で「影の悪玉」が誰なのか早々に分かってしまったことである。私もすっかりスペクタクルの文化に毒されているのかもしれない。


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ボンドの後継者になれるか?

2012年05月26日 | 映画:2012年

Bc146相変わらず「?」の邦題で配給会社のセンスを疑うが、言わずと知れたジョン・ルカレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の映画化だ。ジョージ・スマイリーを実はけっこう女性に人気のあるゲイリー・オールドマンが演じているせいか、あるいはほかに人気の役者がいるのか、この種の映画には珍しく3~40代単身女性が目立った。こういう映画こそオニイチャン・オッサンが見るべきだと私は思いますけど。

 ハヤカワ文庫の『冒険・スパイ小説ハンドブック』(1992年)という本があって、私にとっては子どものころの『世界のSF文学総解説』(自由国民社、1982年)とならぶ愛読書なのだが、この序文にはこんなことが書いてある。

 <思えば、冒険小説、スパイ小説は世界大戦や国際情勢の変化に伴い、そのつど新しい情勢を反映した作品が生みだされて発展し、読み継がれてきました。東西冷戦の終結、ソ連邦の崩壊などの歴史的事件が相次いで起き、冒険小説、スパイ小説が大きな転換点を迎えている今、それらの作品を体系的・系統的にまとめて紹介するのは意義深いことだといえるでしょう。このような考えにもとづき、本書は作られたのです。(pp.11-12)>

 1992年はスパイ小説にとっても転換点だったのだ。

 とくにソ連が消滅したことが大きい。

 ジェームス・ボンドは、その後、敵を共産国家以外に変えて(というか、もともとスペクターというコングロマリットみたいな悪の組織が敵なのである)転戦しているが映画は先細り。今年末に新作『スカイフォール』が公開されるそうだが、新機軸は望めそうにないだろう。

 ではボンドの後継者は誰か?

 それが山のようにいる “オヤジスパイ” たちである。

 チャーリー・マフィンと並ぶ英国スパイの双璧ジョージ・スマイリーが満を持してスクリーンに登場してきたことには、それなりの時代背景がある。

 なにしろソ連崩壊から20年が経った。今や共産圏は歴史の風物詩になりつつある。昨今の大学生にとっては、ソ連邦の名すらアステカ帝国やローマ帝国と同じレベルの歴史の一コマになりつつあるみたいだ。逆に、現実にそれだけリアリティが薄れた分、ソ連や冷戦を物語の背景として設定しやすくなったとも言えるだろう。小説のほうはともかく、映画は今後、東西冷戦がけっこう流行るのではないだろうか。

 ちなみに上述書には『ミステリ・マガジン』が読者アンケートを基に作成した、スパイ小説ベスト30がリストアップされている。上位10作を見てみると、①ジョン・ル・カレ『寒い国から帰ってきたスパイ』(ハヤカワ文庫)、②ブライアン・フリーマントル『消されかけた男』(新潮文庫)、③マイケル・バー=ゾウハー『パンドラ抹殺文書』(ハヤカワ文庫)、④ブライアン・フリーマントル『別れを告げに来た男』(新潮文庫)、⑤グレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』(ハヤカワ文庫)、⑥イアン・フレミング『ロシアから愛をこめて』(ハヤカワ文庫)、⑦エリック・アンブラー『ディミトリオスの棺』、⑧ジョン・ル・カレ『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(ハヤカワ文庫)、⑨ジョン・バカン『三十九階段』(創元推理文庫)、⑩グレアム・グリーン『第三の男』(グリーン全集、早川書房)なのだそう。

 私はこのうち⑤⑦⑩を除く7作を若いころに読んでいる。ハハハ、その時間に村上春樹や太宰治を読んでいればもう少し文学センスが向上していたのになア。グリーンの小説は『トリホス将軍の死』しか読んでおらず不勉強だが、⑩はもちろん映画は見ている。

 1位もルカレで、これはあまりに有名な小説だから仕方がないとして、私のなかではスマイリー三部作が彼の最高傑作になっている。映画を見る限り、どうもこのまま終わりそうにはないので、ひょっとすると『スクールボーイ閣下』『スマイリーと仲間たち』と立てつづけに映画化していくつもりかもしれない。

 スマイリーというのは五十代後半の冴えないオジサンで、分厚い眼鏡と猫背が特徴だったように思う。眼鏡は映画で忠実に再現している。小説はうろ覚えで、過去の引っ越しの際に手放したのだろう、本棚にもないのだが、新訳が出ているそうなので、できれば近いうちに読み直してみたい。

 なぜなら、この小説は三時間足らずの映画では再現しにくい複雑さを持っていると思うからだ。映画は過去と現在を巧みにパッチワークして小説の構造を出来るだけ再現しようとは試みているが、それでも遠く及ばない。それなりに楽しめる作りにはなっているが、映画を見て、余計に原作を読みなおしたくなった。特にスマイリーの脳がこうが~っと回転しだす感じが、映画ではやはり極端に省略されてしまっており、ブダペストやイスタンブールの情景などはまだしも、いわゆるスパイ小説特有の「頭脳戦」を映像で再現するのがいかに難しいか、思い知らされる。

 また、現実のキム・フィルビー事件をベースにしていると言われている、この英国諜報部のソ連潜入スパイ(もぐら、と呼ばれる)探し譚の面白みは、記憶を頼りに今考えてみると、結局、英国風の「男どうしの妙なホモソーシャル的愛憎」に尽きるんじゃないだろうか。パブリックスクール上がりで、知的で、センスがよく、女を憎悪し、俗世間を嫌っている。故に理念的に資本主義と違う立場を選択する。そういう「スノッブな裏切り」に価値観を見出す風土が肌で分かっていれば、小説もさらに面白くなるのかしれない。映画は、ある意味でそのエッセンスを上手にとらまえているが、逆にそれが仇となって、後半は妙な恋愛譚と誤解されかねない展開にもなっている。やはり人間関係の奥にある英国的なものを三時間足らずの映像では再現し難いのだろう。

 唯一、あっ、これは読んだ‥

 と思いだしたのは、映画ではマーク・ストロングが演じていたジム・プリドーが学校で鈍重ないじめられっ子のビルと心をかわす場面。小説ではたしか結末がここだったような気がする。

 それも含めてもう一度読み直してみることにしよう。

 変な言い方だけど、オジサン向けの冒険小説。

 スパイ小説とはそういう位置づけかもしれない。

 それにしてもゲイリー・オールドマンがジョージ・スマイリー役にはまり過ぎである。他の役者ではあり得ないイメージを彼が創り出してしまった。


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主役はどちら?

2012年05月14日 | 映画:2012年

 文系の学生はユングが好きな気がする。

 特に若い院生で「普遍」を志すタイプが宗教のようにユングにはまるというパタンを何度か見てきた。そういうタイプにフロイトを読んだことはあるか?と尋ねると、まず判で押したように読んでいないと答える。

 ということもあって、ときたまマルクス・フロイト・レヴィ=ストロースは文系学生の(文学とは関係ない)常識三点セットになってきたんで、いちおう国立大生なら薀蓄ぐらいは傾けられること、と話すのだけれど、経験上、この3人のうちマルクス←フロイト←レヴィ=ストロースの順に認識度が低い。たぶんマルクス辺りまでは高校で習うのだろう。

 特にラテンアメリカに向かうならレヴィ=ストロースを読んでいないと話にならないのであるが、意外と欠落しているのがフロイトである。

 フロイトについて、私は正面の門として、中公文庫の『精神分析学入門』から入ること(というかこれ一冊でほとんど足りる)をすすめているが、ユングを学生にすすめたことは一度もない。特にポエムをやっているとユングに走るという傾向が見られる気がする。20代後半になると熱狂が覚めて現実世界に戻ってくるという感じか。ポエムをやるには現実の生臭い話をしたほうがいい(大人になった方がいい)、という真相には、30歳前後にならないとなかなか気付かないから、そんな躍起になって若気の至りを修正するのも無粋だけど。

 そして今日は、そのユングとフロイトを主人公にした映画の紹介が、大学でとっている雑誌Nexos. 412号(2012年4月号)に載っていたので、日本公開前に少し紹介しておくことにする。デイヴィッド・クローネンバーグは、たしかドン・デリーロ原作の『コズモポリス』も今年公開されるようで、どちらも楽しみだ。

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       ダビー・ミクロス

   「クローネンバーグの『危険なメソッド』」

 誰もがみなその肖像写真を見ており、それはすでに無意識や集合的記憶を形成していると言えるかもしれない。たとえそうだとしても、もう一度観察し、それを言葉で表してみることにしよう。

 時は1922年。身だしなみのよい一人の男性がこちらをじっと見つめているが、その片目は暗闇のなかに消えてこちらからは見えない。右手の人差し指と中指に葉巻を挟み、薬指にピカピカの指輪をはめ、シャツの袖口は見えないカフスボタンで留めている。左手は腰に当てており、まるでそのこちらを見ている男が自分の体を支えているような、自らの象徴的な重みを自覚しているかのようだ。ベストのボタン穴からはチェーンが垂れ、ポケットに懐中時計を忍ばせていることが分かる。ネクタイの結び目は細く、見たところグレーのスーツは質の良いウール地のようだ。睨みつける男の鼻は鉤鼻で、さほど大きいわけではないが、ユダヤ的ではある。薄い唇の周りを綺麗に切りそろえた白い髭が囲み、いっぽう、白く薄い頭髪が鉛筆で描いたみたいに頭蓋にぺたりと貼り付いている。

 こちらを見ているその男は1856年オーストリアに生まれ、無意識という哲学的概念に科学的で医学的な性格を付与し、その全ての弟子たちにとっての後見人にして権威となるに至った。その弟子の中でもひときわ群を抜いていた1875年生れのスイス人カール・グスタフ・ユングこそが、デイヴィッド・クローネンバーグ監督の最新作『危険なメソッド』(2011)の主人公である。

Mc17さて、前置きをそろそろ終えて問題の映画の講評に移る前に、必ず答えてほしい質問をもうひとつ。先ほどまで述べてきた男と同じほどのインパクトをもつユングの肖像画があるだろうか? 答はノーだ。(スペイン語のグーグル画像検索でJungをかけてみると、最初に左端に出てくるのは、片目をきらりと光らせ葉巻を持つあの男である。)彼によって提唱された共時性、シンクロニシティーという考え方に幾度と無く依拠しておきながら、私たちの無意識や集合的記憶においては、あのスイス人学者の温和な顔は主要な役割を果たしていないのである。だが、こうしたことは私たちの取り上げる話題ではない。

 マイケル・ファスベンダー演じるユングは、ある女性ヒステリー患者――キーラ・ナイトレイがその大根振りを克服するのに成功している――の入院から始まるこの映画で二番目に登場する人物だ。落ち着きを取り戻した女性患者が診察室に座っている。顔がときどき歪む。医者はあくまで温厚に、これから治療を行う、あなたが話す番だ、私は背後でそれを聞いているから、と説明する。やがて女性患者はドクター・ユングの弟子になり、そればかりか愛人にもなる。これこそが、映画後半の主役とも言える人物、すなわち上述したこちらを見る肖像画の男とユングとのターニングポイントとなる事件なのだ。映画のなかでこの男はやがて語り始め、動き出し、私たちの目の前で命を得る。ある形容しがたい役者の姿を借りて。ヴィゴ・モーテンセンだ。

 この映画は精神分析学の歴史的転換点を描く実証ものなのではなく、一連の権力関係をめぐる物語だ。その中心には映画後半の主役とも言えるジークムント・フロイトがいる。二人の間をつなぐ中間点――支柱――がザビーナ・シュピールライン、ユングより十歳年下のロシア系ユダヤ人で、死の衝動というフロイト的概念の生みの親である(そして、ロンドン亡命中のフロイトの死の三年後の1942年、娘とともに潜伏中のシナゴーグでナチスSSによって殺害された。ちなみにユングは二人より20年以上も生きる)。

 クローネンバーグの映画はクリストファー・ハンプトン――すでにラクロの『危険な関係』の脚色が舞台化・映画化されたことで知られる脚本家――の原作に基づいて、上述したフロイトの肖像写真と同様の簡潔さで、(ラカンによってかき乱される以前の)二大精神分析医の関係を、みだりに脚色したり文学的色彩を与えたりすることなく、ありのままに、描き出している。

 今回のクローネンバーグは、同じモーテンセンを主役に迎えた先行する『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(2007)や『イースタン・プロミス』(2009)――今作の序章とも言える彼の最高傑作二本だ――で表現していた暴力からは距離を置き、恐怖と錯綜した精神世界を中心とする初期作品の精髄を真っ向からなんの衒いもなく追求しているようである。そうした路線の今のところの到達点は『スパイダー』(2002年)だ。さらに、ファスベンダーとナイトレイの演じるSM的場面も(これまでのクローネンバーグの傾向を考えれば)ポルノというより自然主義的で、エロチックな仕掛けより、動きのある画面構図が顕著である。

 結末、波乱が一段落して三角関係が破綻――フロイトとユングは仕事での協力をやめ、ユングとシュピールラインは関係を絶つ――三人それぞれのその後が明らかにされる。そして、物語としても人間性としても、いちばん耐久性のあったのはたしかにユングなのかもしれないが、私たちのもとに留まり続けるのは、こちらを見つめて葉巻を手にもつ男の姿、私たちの無意識と集合記憶の永遠の住人であるフロイトなのだ。

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 映画は去年日本で公開されたのだろうか。

 私は知らない。

 クローネンバーグは『ビデオドローム』が好きだ。


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