天満放浪記

matsuken tenma blog

アイ・アム・ジョン・ヴァーノン

2014年08月06日 | 映画:クラシック

Mc4授業が終わっておまえはいわゆる世間で言うところの夏休み。さぞやヒマなんだろうなあ~。

 という声に接する確率においては、全国の国立大准教授のなかでもおそらくトップテンに入ると自負している松本です。なにかと「トップテン」に類するイメージが好きそうなうちの総長に気にいられる日を夢見てやみません。

 とはいえ、まじヒマ。

 年がら年じゅうヒマですけど、ここから2か月はヒマ。

 どうこのヒマを潰そうかな~なんて考えたりして。

 今日もボケっとしているあいだに日が暮れたので、焼酎を飲みながらケーブルテレビでバイクレースを見ていました。それも飽きたので、チャンネルをカチャカチャ(ピコピコ?)変えていると、映画チャンネルで懐かしい作品をやっていた。

 ドン・シーゲルの『チャーリー・ヴァリックを殺せ』。

 日本語題は『突破口!』で、感嘆符がいいなあ。

 やっぱりカタカナ題はダサいよね。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』って、アンタさ‥。『明日に向かって死ね』でいいじゃんか!

 ドン・シーゲルは‥‥謎だ。

 たぶん私が最初に見たシーゲル映画は『ラスト・シューティスト』で、これはジョン・ウェインの遺作という宣伝しかなされていなかったが、私にとってはジェイムズ・ステュアートが何者であるかを親から聞いた最初の機会だったという記憶がある。

 もちろんイーストウッドの『ダーティ・ハリー』を実現させた実力者という形でシーゲルを知ることになった人間は世界に多いと思うのだが、ではシーゲルってどんな映画をとっていたのかと聞かれるとよく分からない。実は『ボディスナッチャー』とかも手掛けている。あれは名作だと思うなあ、今も。

 でも私のなかのシーゲル映画ベストはこれ。

 何がいいのかよく分からなかったが、今日見て分かった。 

 おそらく彼の映画作法は成り行き任せ。

 よく言えばジャズの掛け合いに近く、テキトーさのさじ加減が絶妙なのである。こういうことは知った相手じゃないとできないので、自然とシーゲル組みたいなのができることは予想がつくのだが、そういう感じでスタッフグループを組むのは芸術系のひとくせもふたくせもある連中のみ。娯楽畑で育ち、その種のスノッブとは縁のなかったであろうシーゲルがそんな「インテリどうしのいちゃ付き合い」を毛嫌いしていたことは容易に想像がつく。

 だからシーゲル映画は全般にデタラメ。

 統一感がないのである。

 なのに忘れ難いというのが、本当の意味での作家性かも。

 それにしてもこの映画、脇役が渋すぎる。

 まずもってジョン・ヴァーノン。

 この人は『ダーティ・ハリー』で優柔不断な市長をやっていた人だが、ハリーではこの市長の長回しがけっこう多くて、なぜシーゲルはこんな誰も知らん俳優を画面に出すんだと訝しんでいたが、私は今、とてもこの人が好きである。

 子どものころは、白人に生まれ変わるなら1970年代前半のスティーブ・マックィーンかクリント・イーストウッドがいいと思っていたが、今はジョン・ヴァーノンでいいです。ハハハ。なんだか親近感を覚えるのよね。

 同じ親近感を覚えるが、絶対に生まれ変わりたくないのが、この映画でマフィアの殺し屋をやっていたジョー・ドン・ベイカーである。

 ジョー・ドン・ベイカーって、けっこういろんな映画で見るんだけど、現実の人生で知り合ったら絶対に「悪徳上司」とか「すぐキレるコンビニ店員」とかやっていそう、という気持ちがあって、正直、けっこういい人だと思うので、逆に申し訳ない気持になります。

 そしてなんといってもアンディ・ロビンソン。

 白人最凶役者といえば彼の横に並ぶものはいないのでは。

 ただのチンピラなのに、いつもいい味を出している。

 この人とはぜひ私生活で酒を飲みたいものである。

 それにしてもウォルター・マッソー。

 むむむむ、実は私生活ではこの人がいちばん悪人かも。

 私が映画館で初めてこのマッソーに出会ったのは『ハロー・ドーリー』というミュージカル映画である。なぜそんな映画を見たかというと、主演のバーブラ・ストライサンドが好きだったから。米国では、男性でバーブラが好き=ゲイ、という共通理解があるらしく、大人になってそれを知ったとき、ある意味で、なるほどな、と思ったものでございます。

 彼女は歌手として超一流であることは言うまでもなく、基本的には歌って踊る舞台女優で、顔の造作が大ざっぱ。

 日本風に言えば宝塚役者ね。

 そこがいいというファンが世界に大勢いるのだが、映画ばえしないわけだ。そこは本人もわかっていて、いつも映画では「顔の造作が大がかりなイケメン」を起用する傾向にある。覚えている限りで順にあげると、オマー・シャリフ(『ファニー・ガール』)、ウォルター・マッソー(『ハロー・ドーリー』)、イブ・モンタン(『晴れた日に永遠が見える』)、ジョージ・シーガル(『フクロウと子猫ちゃん』)、ライアン・オニール(『おかしなおかしな大追跡』)、ロバート・レッドフォード(『追憶』)、ジャームズ・カーン(『ファニー・レディ』)、クリス・クリストファーソン(『スター誕生』)と、なんとなく大げさな顔の役者ばかり。

 唯一の醜男はマッソーだが、この映画はそういう役柄。

 ちなみにこの『ハロー・ドーリー』は駄作だった。

 というか、彼女の出ている映画はほぼすべて駄作なのだが、彼女を好きな奴はそれをすべて思い出の映画として記憶にストックしている。それだけの話である。私がけっこう好きなのは作家と娼婦のラブコメディ『フクロウと子猫ちゃん』で、この種の映画は1970年代にしかできなかったろうなあ~と感慨深い。

 さ、明日もヒマをもてあまそうか‥。

↓私のなかではわりと「マシ」の部類に入るバーブラのジャケット。なんとなくこのユダヤ人っぽいつくりが素敵(でも同じアルバムの裏ジャケット写真は最悪)。

Mc5

ちなみに『突破口!』にはシーゲル映画の常連であるアルバート・ポップウェルもちゃんと出ていた! どこかは内緒ね。


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世界共和国へ:嫁=ねーちゃん=おかんを超えて

2013年02月17日 | 映画:クラシック

Bc260シネ・ヌーヴォへは色々な行き方があって、電車だと市営地下鉄中央線の九条駅まで行けばよい。問題はチャリで行く場合である。私の家は天満なので、ふつうに考えて最短コースは、とりあえず中央市場を目指し、土佐堀川と堂島川の合流地点、すなわち安治川を渡って港区のみなと通りを真っすぐというコースである。松島新地には寄らないですよ。

 野田のほうを回って安治川トンネルをくぐるという手もある。市場の北側の路地が好きなので、その辺をウロウロしたいときにたまにめぐるコースである。

 昨日は開始が10:10で時間があったため(オッサンは毎朝6時半には起きていますので)、時間つぶしに第三のコースを選択した。早くに大川を渡り(その前に朝の新地で吉野家に入って「牛小鉢ハムエッグセット」を所望し)、江戸堀からうつぼ公園を迂回して西区へ入り、西長堀の市立中央図書館へ寄る、というコースである。図書館から九条までが実は近い。最近、図書館を使って「1950年以降に生まれた欧米作家の翻訳を読む」という趣味を開始し、とりあえずジョン・バンヴィルから始めている。どこで読んでも寝てしまうので、いっそのこと借りた場所で読んでみようと思って行ったら、これが意外に塩梅がよい。

 朝の図書館はトイレがけっこう渋滞している。

 ハハハ、誰でも入れますのでね。

 で、映画を見てきたわけである。

 観終わって最初に浮かんだのが今日の表題。1981年にファスビンダーがつくったこの映画は半世紀前の映画『嘆きの天使』のリメイクである。そして『嘆きの天使』の原作はハインリヒ・マンの小説で、これは『ウンラート教授 あるいは、一暴君の末路』(今井敦訳、松籟社)という邦訳があり、このあとがきに原作と映画との相違が詳細に述べられているらしい。

 『嘆きの天使』は、簡単に言うと、ギムナジウムの初老教師がキャバレーの歌手にいれあげて身を滅ぼす話だ。まあ、私みたいなマジメな教師が新地のおねえさんにいれあげてついに大学を辞職、研究費をネコババして彼女と陸奥を放浪‥みたいな感じでしょうか。

 『嘆きの天使』は教授を中心にしたドラマづくりを目指していたらしいが、歌手役をマレーネ・ディートリヒが演じることになって彼女中心に回り始め、今では誰もがこの映画をディートリヒの映画だと思っている。いずれにせよ、情けない中年オヤジが恋で身を滅ぼすという設定であることは間違いないだろう。

 いっぽうファスビンダーの『ローラ』は舞台を学校から役場に移している。というので主人公も生真面目な役人。

 時代は1950年代末期、アデナウアー政権下で戦後の経済成長が進んでいたころという。ある地方都市に新任の都市計画局長フォン・ボームが赴任する。部下の青年エスリンはフォン・ボームに、町の建築はすべてシュッカートという土建業者が牛耳っていると説明する。そのエスリンは夜になると町の売春宿でドラマーのアルバイトもしていた。

 売春宿と言っても、正確にはキャバレーである。酒を飲み、歌を聞き、で、囲っているオンナと2階でことにおよぶという、そういうシステムのお店です。

 そこでいちばんの売れっ子がローラ。日本で言うたら花魁みたいな存在で、金持ちひとりが彼女の身を引き受けている。それはシュッカート。このシュッカートはメキシコや日本の田舎にいそうな、いかにも脳天気で、いかにもお調子者で、いかにも「金が回ればそれでよし!」的なお気軽人生を送っている、面白いオジサンなのである。嫌いな言葉ですがラテン的、そこに日本風の談合体質が混じっている。一言で言うと、いい奴。妻ももう浮気は諦めていて、ローラのことを第二夫人程度に考えてあしらっている。いい妻である。

 こんなふうにして、このシュッカートは悪徳市長(も、いい奴です)とつるんで町の利権を独占しているのであった。

 いっぽう、エスリンは役人という立場でありながら、夜は売春宿でバイトをし、ローラの楽屋での話し相手になったり、また休日になると左翼団体の連中とデモに参加したりしている。エスリンは「思想を語る思想のない男(いいなあ‥最近いませんが)」で、これもまた面白い、いい奴である。

 市長とシュッカートとエスリン。

 どいつもいい奴。

 こいつらが売春宿のトイレで鉢合わせになるところから話が始まり、その後もこの三人がいろいろなところでつるむ。その感じが私はとても面白かった。

 で、そこに現れた堅物のフォン・ボーム。

 映画のなかで唯一「本当に嫌な奴」ですね。ハハハ。

 ところが女は案外「嫌な奴」に弱く、またいい女であればあるほど男社会での「いい奴」のいい加減さを知り尽くしており、後者をいつか出し抜いてやりたいというプライドも持っている。ローラは些細なことから男たちともめてしまい、フォン・ボームのような堅気の男にだって好きと言わせてみせると宣言、徐々に接近していく。

 いっぽう、甘い汁を吸いまくれる団地建設事業を推進したい市長とシュッカートは新都市計画局長をさんざん恐れていたが、意外なことに、フォン・ボームは話の分かる男であった。実はいい奴だったんです。ハハハ。

 で、すべては丸く収まるはずだった。

 それが、フォン・ボームとローラの仲が思いのほか進展してしまう。フォン・ボームは戦争から帰ってきたら妻が勝手に恋人をつくっていた‥という、失意のオジサンである。年齢も50がらみ。いっぽうのローラは30がらみでしょうから、ちょっと無理がありますが、そこはそれ。

 そしてローラはある日手紙を残して消えてしまう。

 前と変わらず仕事に邁進するフォン・ボームの健気な姿と、失意のローラの両方を見かねたエスリンは、たまりかねて、フォン・ボームをマリ・ルイーズ(という本名しか彼には名乗っていなかったローラ)が歌うキャバレーへと連れて行く。彼女がシュッカートの情夫で売春婦だったことを知ったフォン・ボームは失意のズンドコに落ち、でもウンラート教授と違って理性と行動の人間であった彼は、一夜にしてすっかり「嫌な奴」へと変身してしまい、諸悪の根源シュッカートをとっちめるためその全能力を仕事につぎ込み始める。そして例の「甘い汁団地」の計画を反故にする決断を下す。

 困ったのが「いい奴」連合。

 面白いのは、一度は男同士のサークルを裏切ったエスリンが、今度はシュッカートのために働き始めることだ。いい奴は機を見るに敏いのである。

 フォン・ボームは役人としては一流なので、一度動き始めるともう誰にも手のつけようがなく、市長とシュッカートは頭を抱える。悩んだ末にシュッカートはフォン・ボームに近付き、ローラを好きにしていい、と申し出る。

 ハハハ。

 で、土壇場で「いい奴」に戻ったフォン・ボームがローラと結婚して、甘い汁団地もめでたく着工され、エスリンはシュッカートのもとで働くようになり、フォン・ボームも「いい奴」連合に加わり、そして終わり。と言ってもローラとシュッカートの関係はその後も続くような感じで、ということは、色々な意味で八方丸く収まったわけですね。まあ、嫌な奴(=マジメな皆さま)には不快極まりない結末でしょうけれど‥。

 思うに、たぶん、職業を売春と限定せずとも、ある種の「いい女」が一定数いると世界は共和国化するということだろう。これは単に女性が社会進出するとかいう話ではなく、マインドの問題。要するに私は、女が男にとって「嫁」候補になるか、あるいは「ねーちゃん」として性的想像の対象になるか、あるいは「おかん」として依存する対象になるか、この三択程度に落ち着いている社会はあまりよくない、と思っているに過ぎない。せめて3つの顔を本人が使い分ける自由ぐらいはあった方がいいだろうし、どの顔も拒むという道もあったっていい。ローラのような女の面白いところは、特定の顔への居着きがないことだろう。

 いっぽうで、そういう理想共和国が、実際には、猥雑な酒場や利権渦巻くビジネスの場、あるいは都会の孤独や不毛な独身ライフといった混沌と不安定の中にしか浮上できないことを思えば、これは映画と同じく夢として思い描く程度に留めておく方がいいのかもしれない。

 ま、少なくとも私はローラのような女の周りでウロウロしているのが好きですが、そちらのほうは日本の男としては少数派でしょうか。日本ももっと共和国化せねば!


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同志よ

2013年02月14日 | 映画:クラシック

Bc258第二次大戦末期のベルリンで結婚をしたマリアは婚姻届けを出した翌日に出征した夫を終戦後も待ちつづけている。やがて親友ジュディの恋人ウィリーが帰郷し、マリアに夫のヘルマンが戦死したことを告げる。モノ不足(とオトコ不足)にある終戦直後のベルリンで母と祖父の身内二人を養っていくためにも、マリアは米国人の集まるバーで働くようになる。

 以下、多少ネタもばらすのでご注意を。

 マリアはやがて黒人将校のビルと恋仲になり、彼に求婚されるが、自分の愛はあくまで亡くなった夫のヘルマンのものだと拒絶。ある日、マリアとビルがセックスに及ぼうとしている最中、死んだはずのヘルマンが現われる。二人は取っ組み合いの喧嘩になるが、マリアがビルの頭を酒瓶でカチ割って殺してしまう。

 ハハハ。

 米軍による裁判が行なわれるが、そこでマリアがビルは like だが夫は love だ、みたいなことを言って、それに感激したヘルマンが殺したのは自分だと言って身代りに投獄される。

 その後、マリアは普通に働く道を選ぶのだが‥。

 さすがにこれ以上は慎んでおきましょうか。

 私が同志よ‥と思ったのはこのマリアに対してもあるけれど、周辺の男どもに対してである、もちろん。

 もう40何年も生きてくるとさすがに思うのは、女の生き方ってここ100年ほど抜本的な変化はないのでは、ということ。まあ男もない気がしますが、男が仮に「よっしゃ、ワイも心入れ替えて生きていくで!」とか言ったときに、あまりその彼のオトコに関する凌ぎは問題にならない気もする。

 逆に男=オトコで開き直ってたりして。

 でもオトコで開き直ってオトコを利用できる男って実は稀。

 というか、オトコで開き直るには相当の資格が要る。

 いっぽう、女が「よっしゃ、アチキも心入れ替えて生きていく!」と決心して、そこでオンナという社会性で凌いでいくことはあるでしょうか? 私はあると思う。今のところは。なので、男がオトコで開き直るときには資格が要求されるが、女がオンナで開き直るには自覚(資格に引っかけたダジャレです、念のため)が要求されるだけで、私は個人的に、いいなあ、と羨望したりしてます。

 冗談ですよ。断罪しないでね。

 どちらがどうだとかいう問題ではないし、たぶん当たり前の話をしているのは承知であるけれど、男はわりとアホらしいほどにオトコを意識しているかもしれない。たぶん女もそうだと思うけれど、意識してますという身振りは女のほうが際立つようになっている、というか、オンナとの距離感は女のほうが知っている、少なくとも日本では(そしてマリア・ブラウンの生きたドイツでも)。なのでその自意識をどう扱うかという点に男(~オトコ)や女(~オンナ)の社会性が集約されていくと思う。オトコを扱いなれていない甘やかされている男たちは、オンナを意外に扱いなれている女が「普通に生きたい」と言ってオンナを道具にし始めたとたんにウロタエル。そういうことじゃないでしょうか。男は自分のなかのオトコを突き放して観察するという習慣が(ジャニーズを除いて)ないでしょうから。

 たぶん、オトコもオンナも、「容姿」とか「語学力」とか「挨拶できます」とまったく同じの要するにマスカラなのだろう。

 なので、むしろそうした男やオトコや女やオンナやといった意識のもちようのチグハグ振りが滑稽だと、最近常々思う。

 むろん愛すべき滑稽だけど。

 そして、この種の滑稽に関しては、滑稽と分かって滑稽を演じられる人間がいちばん知性的でエロティックであると相場が決まっている。私がマリア・ブラウンという人物造形に思いを寄せるのはそうしたレベル、つまりオンナという表象を分かってオンナを扱えるという感じ、での共感であり、これが度を越すと男に向かって「なぜアンタはオトコというフィクションの意味が分からんのよ!」とか怒る方もおられますが、それはさておき、マリアの周囲の男たちについては少々事情が異なるような気もするのですねえ。なにせ同業者だしなあ。同情します‥。

 しかしながら、それを語るのに、勉学三昧でスペインにばかり興味を寄せてきた初心な私には、あまりにも恋愛体験が乏し過ぎるような気も。というので、残りの生涯をかけて、ヘルマンやオスワルドのメンタリティを研究したいと思ったりしている今日この頃だ、アハハ。

 ちなみに九条のシネ・ヌーヴォで「ファスビンダーと美しきヒロインたち」という特集を今月22日までやっている。実は『マリア・ブラウンの結婚』は高校のころに見ている気がする。サッパリ分かりませんでした。40を越さないと理解できない映画がある。当たり前ですね。近日中にあの『ローラ』を見る予定。これは凄い映画なのだそう。ふふふ。


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アウトローの原型

2012年04月18日 | 映画:クラシック

Mc13ウエスタンはもう古い。だから1990年代生まれの日本人にはその起源から説明してやらねばならない。

 だが起源とはなんだろう。

 ちなみに西部には騎兵隊というのがあった。日本の奇兵隊じゃない。騎兵なので馬に乗る部隊である。cavalry のこと。似た語にcavalier があるが、これは英語ではknight のほうがおなじみの騎士のことである。

 じゃあ騎士とはなんだろう。

 それはある種の精神のようである。

 だから騎士道精神という。

 今日、騎士道精神にのっとって‥というのはフェアプレイとレディファーストくらいしか意味しないが、かつてはそうではなかった。時代とともに虚構を通して出来上がった騎士というイメージが、人の(ただし男性の)理想的生として、多様な形で模倣された時期がある。ホイジンガによるとそれは<生命の危険を感じたとき、狭いエゴイズムの枠を破り、ふるいたって一歩外へ足を踏み出す、その感情の動き。友の勇敢さを目にしての深い心のなごみ。誠実と自己犠牲に感じる喜び。これら、禁欲主義のプリミティブな衝動の上にこそ、騎士道理想は築かれて、男性的完成というイメージにまで高められ、ギリシア語でいうカロカガディアと同じ血筋につらなる、美しい生活を求めるはげしい熱望として、数世紀にわたって人びとの心に活力を吹きこんだのである。しかし、同時にそれは、私利私欲と暴力とが隠れひそむ仮面ともなったのである。(『中世の秋』上巻、中公文庫、p.142)>ということになる。

 最後の一行でも分かるように、封建社会における騎士とはけっこう厄介な連中であったという可能性もある。あくまで物語として重視され、多くの騎士も先行する騎士像を真似た、あるいは少なくとも頭の中では模倣しようと願ったのであろう。さらには、時代の流れで、実際の騎士という職業軍人たちが、もはや文字通りの中世の遺物と化しつつあったことが、色々な本を読んでいると見えてくる。たとえばジュール・ミシュレの『ジャンヌ・ダルク』(中公文庫)の訳者あとがきを見ていると、ジャンヌの救った百年戦争時のフランスは、封建体制下で騎士を中心とする軍隊を擁していたが、彼らは長弓を携行する機動力のある歩兵部隊が中心のイギリスに太刀打ちできなかったようだ。

 そりゃそうであろう。

 馬上槍試合とかやってる連中に近代戦が戦えるわけがない。

 いっぽうで、ルネサンス期のヨーロッパでは、私たちが思っている以上に騎士道小説というものがリアルに近かったらしく、増田義郎は『新世界のユートピア スペイン・ルネサンスの明暗』(中公文庫)でこう述べている。<今ではほとんど読む人もいないこれらの冗長な物語は、いずれも空想的な内容であり、まさしく小説以外のなにものでもない。ところが、それは今日的見解にすぎないのであって、当時は、小説として読まれた根拠はまったく存在しない。それらは、形式としては古い実際の歴史記録、実話として物語られているのである。たとえば、『アマディス・デ・ガウラ』の著者ガルシ・ロドリゲス・デ・モンタルボは、序文で、じぶんが原記録の編者にすぎないことをわざわざことわっている。 中略 そして、今日の観点から見ればまるで非現実的なその内容、たとえば異教徒の世界に遍歴をして、龍と戦ってそれにとらわれた姫君を救ったり、コーカサス山脈の彼方の湖の魔法の島で怪物と渡り合ったりするキリスト教徒の騎士の冒険は、今までに説明したような十六世紀当時のヨーロッパ人の世界にたいする知識から見れば、当然あり得ておかしくない出来事だったのである。(増田、pp.77-78)>

 この辺までは明日の講義のメモ代わりに書いている。騎士道とジャンヌとドンキホーテとコルテスを “つなぐ” ことだけをウダウダ考えている、ほとんど香具師興業の演説だ。で、それがどうウェスタンにつながるのかを強いて言えば、たとえば増田の指摘する騎士道小説をリアルとみなす中世的な世界観は、征服者コルテスらによって新大陸の記述の際にトレースされている。

 だが、それは合衆国ができてからの物語とは関係がない。

 むしろ注目したい相似は、中世的マインドが時代の流れで消えゆく際におそらく現われたのであろう、ある種のインターフェイスである。

 たぶん、騎士や騎士道精神も、ある時代を境にパタンと消え去ったわけではないだろう。武士や武士的精神も、おそらく昭和の戦争時までは、すなわち江戸に接続している明治人が生きていたあいだは、生のエートスとして生きていたに違いない。

 近代戦の進化の中で騎士という職業自体が無用とされていったように、あるいは近代化の過程で武士がみな刀を筆にもちかえたように、おそらく合衆国のフロンティアでも誰かが前世紀の遺物として消えていった。

 それは誰だろう?

 それを考えるには、失われたものとの連結点、インターフェイスを想像するとよいかもしれない。

 騎士道的世界と近代市民世界のあいだには、たとえばドンキホーテという超複雑なインターフェイスがある。武士と近代日本をつなぐインターフェイスがなにかは司馬遼太郎に訊かねば分からないが、たとえば任侠という世界がある。この種のインターフェイスは、長い目で見れば、ある種過去の死者たちの弔いのようなもので、結果的に表象としては「奴らを忘れるな」という追慕の形を取らざるを得ない。

 で、ウェスタンでそういう役割を果たしているのが、いわゆるアウトローたちであるように思う。米国のマニフェスト・デスティニーの陰にある邪道をもっぱら担当した連中で、実はウェスタンのほとんどはこのような連中を主人公にしているのではないだろうか。

 というので、ようやく今日の映画の話。

 『平原児』という邦題が素晴らしい。

 原題はThe Plainsman.で、いまならぜったいカタカナだろう。この題はよほど日本に定着したと見え、ドン・シーゲルがエルビス主演で撮ったウェスタンにも(原題は違うのに)『燃える平原児』という題が採用されている。~児が大人の男でもアリ、という共通理解すら今はないかもしれない。

 製作は1936年、スペインで内戦が始まった年だ。

 ゲイリー・クーパーは35歳のとき。ちなみにクーパーはその後1943年にスペイン内戦を舞台にした『誰がために鐘は鳴る』に主演している。

 主人公は米国西部開拓史に名高いワイルド・ビル・ヒコック。ほかにその親友という設定でバッファロー・ビル・コーディ、恋のお相手としてカラミティ・ジェーンが登場し、もちろんカスター将軍の第七騎兵隊や、シャイアン族などの先住民などもぞくぞく現われ、まさに西部劇の教科書みたいな映画である。

 ワイルド・ビル・ヒコックもバッファロー・ビル・コーディも(こいつら、どっちもビルなんで、映画ではヤヤコシイ)カラミティ・ジェーン(厄介者ジェーン、みたいな感じのあだ名)も、実は、みな実在する西部の英雄である。といっても、彼らを有名にしたのはダイム・ノベルと呼ばれる安物の西部劇小説で、そういう意味で、彼らは19世紀の米国に現れた騎士の変奏と言えるかもしれない。では、彼らはどのような「生の模範」となっていったのか。

 それは、暴力を体で引き受ける、という形である。

 彼らは、西進(あるいはメキシコへの南進)の陰で死んでいった大勢の人間たちを、その屍のうえに築き上げられた近代米国へ接続するという役割を背負っている。

 そもそもワイルド・ビルはよく分かんない人物だ。駅馬車を営んだり(現に映画でもクーパーが駅馬車の御者台に乗ろうとする場面がある)、土地を購入したり、北軍のスパイのようなことをしたり、でも結局はただのギャンブラーに過ぎないようで、また興業家精神の旺盛だったバファロー・ビルに誘われて東部で西部劇ショーのような真似ごとにも加わったりし、そして保安官までやっている。

 やはり保安官。

 そう、両義的な存在なのである。

 開拓の表舞台にも関わりつつ、裏で暴力殺人を引き受けた連中。治安をつかさどる体制側に雇われて働くが、野盗、芸能、酒場、売春などといった裏社会を真の根城としている連中。

 問題は、こうしたアウトローがどういう観点から描かれているかということで、そこにウェスタンを見る楽しみがある。

 アメリカン・ニューシネマが盛んなころは、アウトローたちのコミューン的なユートピアがむしろ称賛され、そして彼らが体制に弓を引いて(ウェスタンだから銃を向けるが)無惨に殺されてゆくさまが、美しい悲劇として語られていた。代表が『明日に向かって撃て』である。

 体制との関係をまったく無視してアウトローたちの人間的な情念にのみ焦点を絞ったのが、米国の外で作られたマカロニ・ウェスタンだ。ここで育ったクリント・イーストウッドは、のちにアウトローを米国暴力の神話的象徴にまで昇華させる名作『許されざる者』を撮ることになる。

 ところで、アウトローたちの伝記を見ていると、たいてい背後から撃たれて死んでいるようだ。ワイルド・ビルもそうであるし、ジェシー・ジェームズもそうだし(これについてはブラッド・ピットがジェームズ役で出演した『ジェシー・ジェームズの暗殺』という佳作があり、いつか紹介したい)、ビリー・ザ・キッドを殺したパット・ギャレットもそうである。ビリーも寝床で丸腰でいるのをギャレットに射殺されたという話もある。

 この、背後から撃たれる、というのはウェスタンではその殺される人物の生前の悪を清算する贖罪行為として機能することが多い。『平原児』のラストはそれをかなり強調しており、おそらくそれはセシル・B・デミルという聖書スペクタクルを得意とした監督のカラーだろう。

 この映画にはいろいろなモノが詰まっている。

 たとえば、映画はまず、ワイルド・ビルが結婚したバファロー・ビルにセントルイスで会う場面から始まる。

 二人の男のホモソーシャル的な友情に結婚という形で余計な女が割り込んでくるという、ヒジョーにヒジョーに米国的なミソジニー(女嫌い)の構成がアラレもなく展開する。

 が、軍との付き合いがワイルド・ビルより上手なバファロー・ビルは、成り行きで第七騎兵隊の軍人を殺してしまったワイルド・ビルを追って、彼をつかまえに来る。デッド・オア・アライブで。

 ここには「かつてのアウトローの片方が体制側に取り込まれてやむなく仲間を殺しにくる」という、これまた、その後も何度も繰り返されるパタンが形成されている。このパタンを好んだのはサム・ペキンパー監督で、ジェームズ・コバーンにパット・ギャレットを演じさせた『ビリー・ザ・キッド21歳の生涯』がその代表だ。とはいえ、これもある種の弔いなのである。

 近代文明(かつての前近代)が泣く泣く前近代を葬る物語。

 これを弔いと呼ばずして何と呼ぼうか。

 また、映画では最後、ワイルド・ビルが、実はそうとう嫌っていたのであろうカラミティ・ジェーンと結婚する決意を固めるが、これはすなわち、ワイルド・ビルが前近代をやめる決断をしたということを意味する。もう自分の生きていく時代じゃないのかもしれない。彼はそう思い、結婚を決意する。

 まあ、結婚って、実際のところ、本当にそう(=象徴的な死)なのかもしれないけど。ハハハ。

 実際のカラミティ・ジェーンはそうとう虚言癖のあった女性のようで、彼女自身が喧伝していたというワイルド・ビルとの関係もそうとう疑わしい。が、デミルは彼女に寛大で、現代風の「男勝りなオンナ」という位置づけを与えるのみに留めている。演じているジーン・アーサーも都会的な顔立ちで、写真で見る実際のジェーンとは程遠い。

 そして映画の勘所、つまり武器商人たちが、リンカーンの政治理想を裏切って敵側に銃を売っているというのも、どこかで見た光景だ。インディアンが今はイランやイラクに変わっているだけのことで、米国ってホント昔からこうなのね、とため息が出る。

 そしてインディアン。

 1936年のインディアンって、こうだったのだ!

 実際のワイルド・ビルは先住民ともかなり親しかったらしく、先住民女性と結婚までしていたそうだが、そのことに映画は触れていない。そこまで踏み込んだ先住民との関係を描くには時代が早過ぎたのだろう。だが、ワイルド・ビルはいちおう人道的にも正しい男とされており、先住民にも一定の理解を持つ白人として描かれている。その彼ですら白人の横暴には疑問すら持たない。せいぜい、インディアンの友人が「白人は無茶をするから殺す」と主張するのに対し、「気持ちは分かるが白人の侵攻を食い止めるのは無理だろう」と言うに留まる。

 ちなみにこの場面、赤狩りの際のクーパーの公開尋問を思い出した。ゲイリー・クーパーって、不思議な人だなあ。知性と倫理をはかりにかけて悩んでいる顔。演技してないのにそういう空気が出せる。稀な役者だ。

 話を戻すと、言うまでもなく、米国の歴史にとって真に失われた前近代とは、実はこの先住民の文化なのである。だが、今もそれが形でシッカリ残っている中南米に比べて、米国のそれは文化表象としてあまりに弱い。『ダンス・ウィズ・ウルブス』のような映画も近年は出来ているが、時代は1936年だ。

 だから、先住民という死者は、とりあえず除けて考えるしかない。メキシコより南の文化表象ではあり得ない話である。

 では、最終的に、この映画でアウトローとしてのワイルド・ビルの描かれ方はどのようなものになっているか。

 答は簡単。

 殉教者である。

 形はどうあれアウトローは葬られなければならない。

 ドンキホーテも最後は死ぬ。

 ヤクザ映画も最後は自殺に近い決闘に乗り込む。

 こういうインターフェイス的人物は、先行する死者たちの弔いをしているうちに、次第にそうした死者に寄り添い、ついには同化し、最後は自分の肉体を葬り去ることで、人類社会において未来永劫必須とも言える死の儀礼の反復可能性を図らずも証明してみせるのである。

 ゲイリー・クーパーという俳優は、アウトローにしてはややいい男過ぎると思うけれど、イーストウッドはクーパーの体現している西部の男が理想だと語っているみたいだ。

Bc128ポーカーのテーブルでいさかいになった相手を銃で脅すワイルド・ビルの絵。映画『平原児』ではこの絵にまったく忠実な場面がある。(リチャード・アードース『大いなる酒場 ウェスタンの文化史』平野秀秋訳、晶文社、p.323)


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失敗作なりの香り

2012年04月10日 | 映画:クラシック

Mc14アメリカン・ニューシネマとは1970年代初頭に多く作られたアウトロー的主人公が出てくる反体制的な映画、と簡単には説明できるだろう。反体制というのは曖昧な言葉だから、なかには『ダーティ・ハリー』のような刑事ものまでアメリカン・ニューシネマの一種だという場合もあるのだが、それは少し分かりにくいので、このうち、アウトローが各地を放浪するロード・ムービーに絞るなら、やはり代表は『イージー☆ライダー』と『ペーパームーン』と『ワイルドバンチ』あたりになるのではないだろうか。いや『明日に向かって撃て』だとか『俺たちに明日はない』だとか、異論はあるだろうが、そういうハミダシ者の集団がアメリカの田舎を車や馬で彷徨うという内容が多い。

 だいたい主人公は死ぬ。

 この背景には、ベトナム戦争の行き詰まりとともに、アメリカ国内の若者を中心に蔓延していたある種の厭世感もあったのだろう。そこに日本的な隠居の美学はなく、これは元をたどれば、マニフェスト・デスティニーという国家的フロンティアスピリットの影に蠢いていた暴力に根をもち、そういう意味でウェスタンにロード・ムービーが多いのは示唆的である。

 そのロードは表のロードではなく裏のロードだ。

 これを日本語で言うと裏道とか路地裏になっちゃうが、そうじゃなく、強いて言うならカムイの通る獣道だろうけれど、厳密に言ってそれでもない。というより、米国、あるいはアメリカ大陸にはいわゆる表街道というものがないのではなかろうか。

 それくらいにハリウッド映画のロードは暴力に満ちている。

 そして、おそらく米国文化の真打ちが表象する相手はその暴力そのものであるから、そうした暴力の餌食となったり暴力から逃げるように彷徨うアウトローたちが主人公となっているニューシネマは、どこかみな、なにかこう、トホホ感が漂っているのである。これを一言で表すならフラジャイルなもの、なのだけれど、米国ほど「か弱きもの」が忌み嫌われている国もないかもしれない。

 モンテ・ヘルマン監督の世紀の失敗作であるこの映画も、一般に言われているように『イージー☆ライダー』の出来そこないとして観れば、たしかにツマラナイし、いっぽうで(おそらく配給者が宣伝したいように)自由を求める若者たちの究極の疎外を描いた隠れた名画‥とかいたずらにそのロマンを称揚しても「ホントにそうかよ」と私は素朴に思う。

 失敗作にも失敗作なりの香りがある。

 私はそういうのが好きだ。

 この映画についてもそう思う。

 有名ミュージシャン二人は映像的に未消化なのだが、この二人はある意味でカキワリに過ぎない。自分がオッサンだからということもあるが、私は彼ら二人と絡んでいくウォーレン・オーツのダメおやじぶりに、この監督独自のフラジャイルなものへの気付きを見てとる。

 周知のように、ウォーレン・オーツは『ワイルドバンチ』でペキンパーとメキシコへ旅をしたあと、改めて『ガルシアの首』というダメおやじ映画でその真骨頂を発揮している。

Mc12『ガルシアの首』はロマンだ。それにくらべてどうだろう。この映画『断絶』のオーツは、ダメにもほどがある。

 オッサンのダメダメぶりを長回しで描くには「若さの暴走」という梃子が必要になる。ダメぶりはロマンを梃子にして初めて際立つ。この映画の二人の若者たちと「ザ・ガール」はその梃子に過ぎない。

 反体制、アウトロー、虚無。

 たしかにカッコいい。

 が、カッコいいだけの意味不明な言葉では見えてこないフラジャイルな血脈が米国映画にもある。そして、そういうか弱き血は、気高い体制によっても、また鼻息の荒い反体制によっても、同時に抹殺される。か弱いので。

 というより、目立つ前に地下に葬られるのだ。

 分かりやすいのは『イージー☆ライダー』のジャック・ニコルソンだが、この映画ではその位置づけに当たるオーツが最後まで生きる。珍しい。

 そのヒョンな言動を見るだけでも観る価値のある映画だ。

 それにしてもヒドイ邦題‥。

モンテ・ヘルマン監督『断絶』(1971年)


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