天満放浪記

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意外と完成度の高いラプラタ版ダメ男小説

2017年07月18日 | 西:書評④コノスール

ペドロ・マイラルの名前は知っていて、1970年生まれのほぼ同世代だから記憶には留めていたのだけれど、アルゼンチンは守備範囲じゃないので放っていた。短編アンソロジー『孤独な女の物語』に収録されていた女教授の話がわりと印象に残っている程度で、その後は小説も集めずに今に至るのだが、今年アステロイデが刊行した本書『ウルグアイの女』の評判がとてもよく、取り寄せて読んでみると、驚いたことに、ラテンアメリカでもまれにみる「一人称のダメ男小説」であった。

 ダメ男小説の定義は難しいが、日本の私小説のように、作家、あるいはその分身と思しき語り手が、己の醜悪な私生活や愚かな思念を濃密かつ自虐的に描き出していくという、ある種の露悪趣味を備えた作品を指し、概して男性の作家が多いが、別に女性が書いたっていいジャンルであるし、ダメ女小説があってもいいだろう。

 日本のラテンアメリカ文学界隈で、この種の小説は差別されてきた。

 ラテンアメリカ文学を積極的に日本に紹介してきたスペイン語の読み手、またそれを積極的に受容してきた読者層の多くが、おそらく日本近代文学における湿度の高い私小説的なものへの嫌悪感を共有していたからであろうし、解決すべき社会問題が山積しているラテンアメリカにあって自分のプライベートに拘泥している自己愛人間は生きていく資格はない…という風な硬派の学会気質や、悪い意味でのチェ・ゲバラ愛みたいなマッチョ的風土も影響してきたかもしれない。

 いずれにせよ、ポエム、女の小説、ダメ男小説といった、なよなよした感じの文学は、ラテンアメリカ各国においても、いや、ひょっとするとそれ以上に日本の翻訳業界において、不当な差別の対象とされてきたのである。

 しかし、ふだんからポエムや女の小説などに親しんでいる読者はとって、本書は、南米の小説に触れるにあたってガルシア=マルケスなどよりよほどうってつけの入口になるだろう。

 語り手は作家のルカス・ペレイラ。ブエノスアイレス在住。40代半ばで、今ひとつぱっとしない。作家の置かれた文学的立場には、作者マイラル自身の人生が反映されているようだ。

 小説はそのルカスのある一日だけを描く。

 朝早くに妻と幼い息子マイコの寝ているベッドを抜け出したルカスは、モンテビデオへ向かうフェリーに乗る。目的は経済破綻中のアルゼンチンで受け取れない外国からの入金をウルグアイの銀行で受け取るため。つまり大事な原稿料をもらうため。しかし真の目的はゲーラという20代のウルグアイ人女性と会うことだった。ゲーラとはあるブックフェアのイベントの後で知り合い、そのイベント会場でちょいとひっかけたのがうまくいって、ペッティングのようなところまで行ったのだが(昨今流行りの言葉をつかうと)一線は越えなかったので、その念願を果たすべく、というわけ。

 この船旅、港から首都までのバス、首都での彷徨と、1日の行程の合間に、ルカスは様々な回想をしていくことになる。回想の場面と、彼の観察するウルグアイの光景が綺麗にリンクしていくので、読んでいてダレることがない。

 ルカスは妻と共働き。売れない作家のルカスよりも妻のほうが稼ぎがある。なのに子育てはどちらかというと妻任せ。ささいなことが積み重なって、ルカスと妻は破たんの寸前にある。もはやセックスもない。ルカスは今風に言うと中年クライシスを迎えているのである。

 後半はルカスがゲーラと再会し、話をし、ウルグアイで合法化されているマリファナを吸い、そしていい感じになりかけたところである事件が起きる。事件をきっかけにルカスは厳しい現実の世界と、それまで知らなかった身近な人間の不思議な裏面と向き合うことになる。

 後悔と欲望とが入り混じる湿気の高い文体であるにもかかわらず、なぜかふと共感できてしまう間合いがあって、それが最後まで不思議だったが、おそらく脱線をし過ぎずにきちんと本筋に戻ってくる几帳面さがその理由のひとつ、もうひとつは最後に分かるが、文体上のトリックである。語り手は実は、ときたま妻に向かって2人称で呼びかける。語り手と妻との距離が分からないまま読者は彼の愚痴や妄想に付き合うのだが、最後にその謎が鮮やかに解き明かされるのだ。

 ルカスは自らの中年クライシスにけりをつける。

 語りを通してすべてを清算するのである。

 何が解決するわけでもないのだが、総括のカタルシスは読者を安心させる。

 とち狂ったルカスがゲーラに「君はラ・マーガなんだ」と話しかけたり、ボルヘスの短篇「エンマ・ツンツ」におけるトリック(二重の復讐譚)への言及があったり、アルゼンチン作家らしいブッキッシュなサービスも随所にあるが、決してぺダンティックにはならず、最後まで読者を飽きさせない。

 ダメ男小説なのに読んでいて飽きない…というのは、実はちょっとした傑作なのではなかろうか。


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これまでとは違う視点

2017年07月09日 | 西:書評④コノスール

またチリに戻って今度は1983年生まれのアリア・トラブッコ・セランさん。実質これが文学でのデビュー作で、版元は Demipage というスペインの聞いたこともない会社。というのはどういうことかと言えば、彼女の拠点がチリにはないということである。大学の関係でロンドンに今は居を定めているのだとか。仮にサンティアゴにいた場合は、現地のマイナー出版社、たとえばパウリナが最初に短篇集を出したウエデレスとか、あるいは少し頑張ってメキシコのセクスト・ピソ、あるいはスペインのアステロイデといった小さいながら志ある出版社から薄い本を出す。ここで行けそうだという感じになってランダムハウス系に目をつけられたらアルファグアラなどから、プラネタ系ならセイクスバラルから、ホルヘ・エラルデ系ならアナグラマということになるのだろうか。私もよく実態は分かっていないけれど、国際的な知名度の低い南米作家がどこで本を出すかというのは、ある程度目配りしておく必要があるのかな、ラテンアメリカ文学とかいうザッパきわまる看板を掲げている以上は…とぼんやり思うこともある。

 私もまったく知らない会社から出たまったく知らない作家。

 いちおうチリの作家ということだが、チリではあまり名を聞かない。

 もっぱらネット上で見るのみ。

 百聞は一見(一読?)にしかず、というので取り寄せてみました。

 題名は「引き算」といい、どういうことかというと292ページの冒頭が11章。

 むむむ。

 やはり「石けり遊び」の子どもたちか。

 中身であるが、やはりポスト軍政期の文学ということである。つまり子の世代が前の時代の説明しつくされていない謎を様々な形で解き明かしていく(解き明かせない現状に直面する)というスタイルの小説で、これは少し上の世代のオッサンの小説家、たとえばセルヒオ・ミッサーナや(カルロス・フエンテスご推薦の)カルロス・フランツやアルトゥーロ・フォンテインといった作家たちがなんらかの形で試み続けていた作業ではあるが、私もすべては読んでいないので何とも言えないのだけれど、この世代の人たちは「公表されていない事実を明かす」といスタンスであったように思う。要するに事後確認の文学であって、それはそれで読みごたえがあれども、なにも文学者がしなくたっていいじゃんか、という感想も抱いてしまう。

 なんにせよ、状況に関与する文学って、最後はやはり「それをポエムで表現する必然性はどこにあったんでしょうか?」という問いをクリアできるか否かに尽きるんじゃないでしょうか。だってポエムしかないじゃないかこれは!という声を受け止めるのは平気。でも「ポエムで表現するのもありだと思って」みたいな半端なことをいう書き手のテクストはどこか信用ならない。そんなリジッドな考え(ポエム原理主義)を捨てて、どんな文学も、ただそこにある文字とその文字が立ち上げるものだけを虚心に受け止めればいい、という意見も、私のなかにはいまだにありますけど。

 奇数章と偶数章に異なる語り手が配されている。

 奇数章は11章から始まり、それが1章まで。それが偶数章と交互に。全体で22章になるが、偶数章のほうに番号はなくて、数字のない単なるカッコ()が付されているけれど、その意図するところは最後まで分からなかった、ハハハ、スミマセン。

 読んでいくうちにわかるのだが、改行のない意識の流れをつづった奇数章の語り手はフェリペという青年。より小説っぽい偶数章の語り手はイケラという女の子。イケラの章は、最初だけが1988年の回想になっていて、あとは最近のこと、つまり2010年代のものである。

 大雑把な流れをかいつまんで説明すると、フェリペとイケラは子どものころから同じ家に暮らしていた兄妹どうしのような関係だ。イケラの両親は左翼の活動家だった。父親は投獄され拷問されたのちに釈放されるが、その後は荒んだ不健康な暮らしを送り、民政移管後にがんで亡くなっている。つまりイケラの家には母クラウディアとフェリペの3人が暮らしている。フェリペも活動家の子どもで、彼は親の顔すら知らず、祖母の家で育ったが、やがて活動家仲間だったイケラの親の家に預けられる。フェリペは独特の感性をもち、生き物を殺す趣味があるなどやや危ない奴。その危ないフェリペのかろうじて支えになっているのがイケラというわけ。

 で、そこへパロマという女の子がドイツからやってくる。

 パロマはイングリッドという活動家の母とドイツ人のあいだに生まれた。1988年に民政移管を問う国民投票があり、イエスの票が上回るという出来事があった(つい最近ガエル主演で映画化もされた)が、最初の偶数章で描かれているのがこのときのパーティー。イケラの家に集まった左派の人々のなかにはパロマの家族もいたのだった。イケラとパロマは子どもの頃に一度だけであっているという設定なのである。

 その後ドイツに暮らしていたパロマの母イングリッドが病でなくなる。離婚していたイングリッドは自分の亡骸をチリで埋葬する希望を周囲に伝えていた。残されたただひとりの親族であるパロマが母の棺と共にサンティアゴに到着する。空港まで迎えに行ったのがイケラだった。

 ところが航空会社の手違いからイングリッドの棺がアルゼンチンに誤送されてしまったことがわかる。アルゼンチンのコルドバ。アンデスを越えた向こう側の町である。パロマとイケラとフェリペの若者3人組はサンティアゴ市内の葬儀屋に車を借りて、いざメンドサを目指すことになる。

 という、実はそう、ロードノベルなのでした。

 生き物の死体に異常な執着を示すフェリペの章は、最初こそ回想などが混じって面白いものもあったのだが、後半は同じ車の旅が視点を変えて語られているだけ、という節もあり、その必然性が少しわからなかったが、まあ小説っぽくて(いろんな声が混じり合うという意味において)それなりに楽しめました。

 この小説は活動家を親にもつ世代、すなわち1980年代に生まれた20代の連中が、親世代のなんだか古臭い「気持ち」をあれやこれやと類推しようとするも、特になにか衝撃の事実に遭遇するというわけでもなく、微妙な違和感を抱き続けたままやっぱりよく分かんないよ…というのを実感するプロセスが描かれているように思った。死んでいった者と生まれて来た者とのあいだの駆け引き、引き算。死体に異常な興味を持ち、死の闇に惹きつけられていくフェリペはいわばその媒介者となっているのであって、彼は記憶を介しておそらく軍政下で死んでいる不在の父にもつながっている。イケラも母クラウディアと(いっこうにつながらない)電話を介してなにかの接点をもってはいるのだが、彼女が分からないことをフェリペがその語りで幻視するという構成はそれなりにユニークで楽しめた。おそらく2010年の地震と火山活動の影響だろう、小説中のサンティアゴではずっと灰がふっている。こざかしいことを言うなら、ここでの灰とは死者の骨を表象する記号でもあり、いっぽうでは過去の軍政時の記憶を塗りこめる忘却の膜でもある。メンドサへ向かう道で次第にその灰が晴れてくるにつれて、3人の過去へ向かう姿勢も少しずつ変わっていく。

 構成と文体とも、やや荒削りの感も否めないが、軍政の記憶を受け継ぐ世代の文学のひとつとして、いちおう記憶にとどめておくことにしたい。


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日常のささやかな異変を描く

2017年07月07日 | 西:書評④コノスール

昨日まで少しハードな内容のルポルタージュを読んで頭がつかれたので、気分転換に、珍しくウルグアイの作家による短編集を読んでみることにした。作者のベラ・ヒアコーニさんは1974年生まれ、私の6つ下。ウルグアイの独裁政権から逃げて(またか!)ブエノスアイレスに移り住んだ両親の子、というので、アルゼンチン人といってもいいかもしれない。優れた短編の書き手だというので注目していたのだが、調べていくとこんな美しい人らしく、このところ私が読む本の作者はみな美人でなんだか嬉しいなあ~。作者の見た目で本を選ぶという作戦、けっこういけるようです。なにしろ横文字の本。書評がいいと言ったってわかんないですよね。どれを優先的に読むべきか。過去にいろいろやって悩んだ末、どうせなら好みの美人から…と思って読み始めたらけっこう好調。こんなことを言ってたらいつか同僚の女性研究者に secuestrar され torturar されそうですけど。

 スペイン語作家につながりがなく、どちらかといえばフラナリー・オコーナー、ユードラ・ウェルティ、キャスリン・マンスフィールドといった英語作家の系譜に連なる(マルセロ・コエン)のだとか。

 そして読んでみた冒頭の「サバイバー」。女性の語り手が妹を語るといういわゆる姉妹もの。こんな単純な物語すらラテンアメリカ文学は禁じてきた…というかなかったのですね。それにしても最初からやられてしまった。好きになってしまったかも(外見ではなく短編作家として)。ラプラタ圏は短編文学の伝統が女性に引き継がれているのだろうか。おそらくブエノスアイレスにいると思しき姉がロスに移住した妹から新しい彼氏の話を聞く。そいつはリアリティショウの「サバイバー」の人気者だった。ところがあるとき…。ちなみにスペイン語で「ググる」という動詞はなんというか、この小説で発見。白水社スペイン語大辞典に掲載されていないようなので引用しておくと<Yo había googleado Ozzy y Survivor en cuanto ella me lo mencionó por primera vez.(オジーとサバイバーについては彼女が彼の名前を最初に口にしたときすぐにググっていた)>となります。googlear だからゴーグレアール、あるいは英語風にググレアールと発音するのか。あとメールの受信トレイのことは bandeja de entrada というらしい。私が惚れた文章。<No había nadie en el mundo a quien yo quisiera más que a mi hermana y no había ninguna otra persona que despertara en mí sentimientos tan bajos como el rencor y la envidia.(私がこの世で妹以上に愛している相手はいないし、妹ほど私に恨みや妬みといった下卑た感情を呼び覚ます人は他にいない。(p.19))>

 「デュマ」と表記していいか分からないが、人名なので許してほしい。これは初孫を溺愛する祖父の話で、本書は題名が示す通り家族のなかの愛する相手をめぐる話に終始している模様。これは作者自身の両親の体験をベースにしているのだろうか、おそらく活動家と思しき子ども夫婦(つまり主人公の息子夫婦)は1974年に政治亡命を余儀なくされる。では孫はどうする…という単純な話なのだけれど、最後の一段落が秀逸。過去完了形、線過去形、過去未来形という流れで、たった1文ですべてを語ってしまう。余計なものがない。削ぎ落すタイプの作家は近年いるようでいなかったので、とても期待が持てると私は思う。

 「鑑定士」は中年の独身男と母の話。私がまず身につまされた文章。<Adrián mira a su madre. Se quedó dormida. Tiene la cabeza inclinada a un costado y respira pesadamente. Hace tiempo que ya no se tiñe el pelo porque dice que no se justifican el gasto ni esfuerzo.(アドリアンは母をじっと見る。眠り込んでいた。首をかしげて深い息をついている。母はしばらく前から白髪を放ったらかしだ。金も努力も無駄だから、という。(38)> teñirse という動詞が人生を語るなんて、私もこの歳になるまでよく分かっていませんでした。女が母との関係で分かることを男が理解するのには余計な時間がかかるのかもしれません。

 「ピラニア」は記憶に新しいあの話、そう、ラプラタ川上流で水浴びをしていた人々を肉食川魚が襲うという、にわかには信じがたい話がありました。題材はそれだけれど、物語の面白いところは、男の子が突然自分に襲いかかった非日常の隙間を介して家族の現実に触れていくプロセス。たった数ページにこれを凝縮する作者のセンスに拍手。

 「遺品」は冒頭の作品と同じく姉妹の話。といっても今度は老姉妹。3人姉妹の末の妹が大往生を遂げ、孤独に二人で暮らしていた上の2人が葬儀前の屋敷にやってくるが…という実に実に渋い短篇である。心の機微という言葉があって辞書を見ると「表面だけでは知ることのできない、微妙なおもむきや事情」とあるが、この短篇集は主としてそういう「微妙なおもむき」をターゲットとしているようだ。そしてそれは日本語の小説を読みなれた私たちには極めて近しいものに思える。

 「リンボ」は精神分析の盛んなアルゼンチンらしく女性患者と医者の話。父のように依存していた医者がある日入院したことをきっかけに、少しずつ崩れていく女性のこころが淡々と。これも結末のページが生理的にじわじわきて素晴らしい。co-bar-de、と囁くところ。

 「暗闇で」は姉弟の話。この家には父親がいない。というより1978年から行方不明になっている。母親は家政婦のニルダに子どもたちを預けて遊びに行く。ニルダは二人と仲が良く、二人は暗闇のなかで彼女とかくれんぼうをするのが好きだ。ところが二人の子どもが苦手なのが、ときたまやってくるニルダの夫のミゲル。ニルダとのひそひそ話を耳にした子どもたちはミゲルがある「人殺し」を追いかけていることを知る…。軍事政権下の恐怖がうっすら透けて見える、実はとてもこわい短編。

 「おめでたい人たち」は子どものいない夫婦の家で家政婦をしているロサの話。妻クラウディアが自殺未遂をし、その後、健気な夫は退院した妻のためにあるプレゼントを買ってくる。それは一匹の犬だった。その犬をめぐる二人のやり取りを聞いていたロサは…。Es exactamente lo mismo. が~ん。見事な落ち。

 「肉」は拒食症になってしまった娘を前にオロオロするばかりの父を描いた話で、最後の2段落にホッとする。結末でおさまりのつくお話、ひねくれた読者が眉をひそめそうな展開でも、文体ひとつで灰汁が抜けてすっきり味わえるのだから、なんとも不思議である。無駄な単語がないのだろう。

 「再開」は同じくアルゼンチンで活躍中のマリアナ・エンリケスを思わせるブラックウッド風の不気味な話。主人公は独身の女性フリーライター(なんていう語り手がラテンアメリカの暑くてウザいオヤジ小説には出てこないのである)。知り合いの夫婦は子どもを欲しがっていたのにできない。それは彼らがあるとき起こした交通事故に原因があった…。いわゆる呪いの話で、そちらの面白みというよりはやはり女性どうしの生理的ないがみあいに味わい深い情緒が漂う。

 こんなにも繊細な人間模様をかくもぎりぎりまで切り詰めた文体で書く作家が現れるとは、さすがラプラタ文化圏は侮れない。長編を書くタイプではなさそうなので、次も短編集になるだろう。出たら真っ先に読みたいものである。


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未知の次元

2017年07月05日 | 西:書評④コノスール

ラテンアメリカ文学は世界でもまれにみるオジサン文学。担い手の大半はオッサンかオニイサンで、私がそのことを異常だと思うようになったきっかけは日本の本屋の文学書コーナーでの風景。そこには「男性作家」と「女性作家」という2つの区画があった。私たちはそれを当たり前のように思っているけれど、スペイン語圏の文学書コーナーにそんな区分はない。ジェンダー的に後者が正しい!というのはごもっともだが、そんな話ではなく、結局あまりに女の作家が少ないのでそんな分類すら必要ないというのが実態である。また、数年前にフリオ・コルタサルの『石けり遊び』を読んでレポートを書いてもらったところ、主人公の造形や娼婦の描き方など、すべてがオッサン目線の文学であり、読むのが苦痛(そもそも読みにくいというのは別にして!)という手厳しい評価を複数の女子学生から頂戴した。もう教室でガルシア=マルケスなんて読めないな、と思うようになった。

 というわけで、バルガス=リョサなどのオッサン系の文学はオジサンひとりの愉しみで密かに自宅で読むことにしまして、お仕事系では積極的に女性の小説を読もう、と決めたのが今から5年ほど前。その後、あまり進歩はしていないが、各国にいる優秀な作家の存在はうっすら分かってきた。

 こちらではメキシコの1983年生まれの作家を紹介している。

 こちらではチリの1988年生まれの作家も。この子は特に優秀。

 そして今回はチリの1971年生まれのノナ・フェルナンデス。私とほぼ同じ世代の人で、すでにチリではベテラン格になるのだが、国際市場ではいまだにパッとしない。ウィキペディアにもあって、これを見る限りはテレビ畑で育ってきた人に見える。ピノチェト時代に被抑圧者の支援をしたカトリック組織いわゆるビカリーアを扱った連続ドラマの脚本も書いたりしている。本書もビカリーアが大きくかかわってくる内容だ。小説は2012年以降に本格的に書き出していて、そういう意味では少しスタートが遅かったのかもしれない。私は一昨年アルゼンチンのパトリシオ・プロンがサンティアゴ大かどこかに講演できていたときにフロアで彼女と会ってハグしているはずなのだが記憶が定かではなくて。

 本書は軍事政権時代の拷問者をめぐる話。

 アンドレス・アントニオ・バレンスエラ・モラレスといい、彼の衝撃の証言はこちらで全文が読める。チリの雑誌に出たのは1986年らしいが、その表紙が彼の似顔絵と「私は拷問をした(Yo torturé)」という衝撃的な文句であったことから、多くのチリ人にとって忘れがたい顔と存在になった。

 作者のノナは71年生まれなので86年の段階で15歳。

 日本風に言えば中学生。

 そして21世紀、大人になった彼女は子どもと母を連れて、2010年にオープンしたチリの記憶博物館へ赴く。小説はそこらあたりから徐々に時代をさかのぼっていく。記憶博物館はサンティアゴのキンタノルマル公園の手前にあるモダンな博物館で、民政移管後の和解プロセスの総仕上げとなる記念碑的な場所として知られる。私もここで初めて訪れたときは、そのあまりの充実ぶりに驚いたものだ。

 この小説は純粋な虚構というより、作者自身がこの「拷問者」アンドレスのイメージ、それは思春期に見た雑誌のあのイメージであり、記憶博物館展示の(物足りない)イメージであり、彼がかかわった失踪者たちの資料から逆照射される想像上のイメージでもある。小説は基本的には作者自身の身辺と記憶をたどりつつ、アンドレスが絡んだ失踪事件の被害者の末路をひとつずつ追っていく。

 引き込まれる文体だが、昼間には読まないほうがいい。

 記憶博物館の構造はウィキペディアがいちばん分かりやすいと思うのでこちらを参照してもらいたい。1階の1はチリの出来事が異常事態ではなく、世界にけっこう広く起きている普遍的な問題なのだということを教えてくれる。2階に上がったらいわゆる9.11を再現する2があり、ここは一種のスペクタクルである。その後、回廊を経めぐる形で、3「法治国家の終焉」でピノチェトら軍部による権力掌握までのプロセスが新聞などを介して紹介される。同じ回廊の4「独裁は国境を越えて」ではコンドル作戦など、南米全体に広がった反体制派の弾圧が紹介される。この辺はものすごく暗い気持ちにさせられるところ。ところがこれは序の口で、回廊を曲がったところにある5「抑圧と拷問」に入るのは覚悟がいる。ビデオを流している小部屋があり、秘密警察の強制収容所(といってもその辺の家屋の地下室とかに過ぎない)での拷問体験を本人が語る。延々と。阪大外国語学部のスペイン語を学ぶ諸君はこういう場所で耳(と心)を鍛えるべきだと私は思う。6「子どもたちの痛み」は、遺族など、子どもの世代が被った傷などが痛々しい手紙などを介して紹介されている。7以降は、ノナが小説でも言うように、少しほっとできる空間で「真実と正義の追求」「不在と記憶」「自由を求めて」と続き、日本も含めた国際的な抗議運動の痕跡なども展示され、そして10「希望の復活」でようやく民政移管のプロセスが紹介される。締めくくりは11「Nunca más(決して二度と)」。

 ここでは時間をかければビデオも含めて膨大な数の被害者の声を聴ける。

 しかしこの博物館ですら聴けない声もある。

 それが失踪者の声だ。

 彼らについては写真など遺族の提供した資料があるのみなのである。

 この小説は拷問者アンドレスの告白に至った経緯をノナが想像をしつつ、彼があの雑誌に語った過去の拷問や虐殺現場に実際に居合わせた人々の「最後の瞬間」を辿っていく。ふつうの日常を送っていた人々がある日誘拐されて市内の得体のしれない場所で拷問されるのと同様、自分の暮らしていた同じ町であった恐怖をたどることは、彼女にとって、子どもの頃によく見たテレビシリーズ『トワイライトゾーン』の冒頭のナレーションにあった五次元の世界、未知の次元へと移動することを意味していた。

 ノナはアンドレスの証言にあった犠牲者たちのケースを追いつつ、その実況もする。この小説には imagino que という導入句がリフレインのように挿入され、ときとしてそれが sé que に代わる。アンドレスの証言やその後の人権委員会等の調査によって明らかになったことと、明らかになっていないことの間を行きつ戻りつする。そういう意味ではある種のルポルタージュと言ってよく、小説と定義するのは難しいかもしれない。またノナは映画や小説などのテキストを巧みに語りにはめ込んでいく。基調を成している米国のテレビシリーズ『トワイライトゾーン(日本ではミステリーゾーン)』の数々のエピソード、彼女がかかわったドキュメンタリー、これはおそらくこちらの『枢機卿の文書保管庫』というビカリーアの活動を扱った地味なもの、これが映画館で上映されたのを彼女が母と観に行くと、映画館はもちろんほぼ無人、ところが隣の映画館3つから同時に少しずつ時間がずれてハリウッド映画『アベンジャーズ・エイジ・オブ・ウルトロン』の大音響が聞こえてきたり、また、アンドレスが関わった旧共産党員で仲間を裏切りDINAの一員になって最後には殺される男の真相を辿るところでは、クリス・マルケルによる沖縄戦従軍者のドキュメンタリー『レヴェル・ファイブ』が挿入されたりする。ほかにもディケンズの『クリスマス・キャロル』、そして最後にはビリー・ジョエルの曲『ハートにファイア』チリ版が延々と。これは結構強烈でした。メロディとはなんの関係もないけれど。

 ある種の私小説とも言えようか。

 少し露悪趣味に過ぎると思いつつ読んでいたのだが、後半でその理由が分かった。

 アンドレスが「ネズミとカラスの夢に悩みぬいた末に」サンティアゴ市内の雑誌社『カウセ』に駆け込み、記者のモニカ・ゴンサレスに「話したいことがある」と切り出したのは1984年8月27日である。このビルはウエルファノ通りとバンデラ通りの角、ここは私がいつもチリから本を送るDHLの事務所があるすぐそば。ここでアンドレスは驚くべき内容のテープを残した。事前にビカリーアの司祭にも協力を求めていたアンドレスは、ビカリーアの弁護士コントレラスの庇護下に入り、アルゼンチン経由でのフランス亡命計画を立てる。事態を察知した軍は10月に戒厳令を発布してマスコミの引き締めにかかり、カウセも監視対象になる。

 アンドレスの証言内容のあまりの深刻さから、その反響を危惧したモニカは親友の共産党員で、ビカリーアの協力者でもあったホセ・マヌエル・パラダに助言を求める。パラダはモニカとテープを検証、実際に投獄され拷問された経験を持つ親友のマヌエル・ゲレーロにさらなる助言を求める。テープの内容はすべて真実だった。

 国内での公表が不可能と判断したモニカは2人と相談のうえ、いったんワシントンポスト紙へ持ち込み国際世論を喚起したあとでチリの司法に訴えるという算段を立てる。ところがモニカに文書を託された親友が機内でそれを読んでしまい(というのがノナの想像)、あまりの動揺から経由地のカラカスで知り合いのジャーナリストに内容を明かす。1984年12月、アンドレスの証言は、カラカスの新聞に掲載された。

 アンドレスも見つからないまま先に証言を外国ですっぱ抜かれた軍部は激怒、カウセの系列で証言を公表する可能性のいちばん高かった左派系の印刷所を強襲し、翌1985年3月、印刷所の責任者だったサンティアゴ・ナッティーノ、そしてパラダとゲレーロの3名を拘束、拷問の末に殺害、みせしめに切断した3人の頭部をプダウェル空港近くに放置するという残虐な事件を引き起こした。

 これが今日 caso degollados と呼ばれる事件で、ピノチェト軍政末期でもっとも悪質な抑圧の例らしい。そして、この作品の結末が、まさしくこの事件の、2016年におけるメモリアルデイを描いている。つまり作者ノナは、殺された三人、すなわちアンドレスの証言公表に多少なりともかかわった人物の関係者と、その家族(具体的には同級生だったパラダの息子)とつながっていたのである。

 アンドレスをめぐっては、いわゆる改悛の物語として、安手のロマンも交えたくだらないドラマまで作られているそうだ。本書はそうした元拷問人をめぐる《物語形成》に何かを言いたいわけではないように思う。本書は実は、今を生きているすべてのチリ人がもつある種の罪悪感、記憶博物館を訪れるチリ人がみな抱くのであろう、かつてそばにいたはずのあの人たちへの贖罪の思い、不在の誰かをめぐる自己探求の物語を形成しているのではないだろうか。つまりノナはアンドレスという男の顔に自分自身の未知の次元を見出していたのではなかろうか。

 という意味ではローカルな話で、なかなか世界化しない文学かも。

 しかし最後のチリ版『ハートにファイア』だけは本当に傑作です。

 ここだけでも読む価値はあった。ホントに。


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古風な短篇を書く頑張り屋さん

2017年01月09日 | 西:書評④コノスール

昨年、スペインの大手から再版されたこの短篇集が好評のパウリナ・フローレスは、1988年生まれの現在29歳。自分が29歳のときどれだけ愚か者であったかを思うと、つい遠い目になりますね。

 彼女は今、サンティアゴの旧市街に暮らし、中等学校で教鞭をとりながら作家生活を続けている。この記事によると、大学へ入学した段階で家を出たそうだ。この辺、前にチリから学者二人を招いてゼミで学生と話してもらったとき、日本の、大学生が卒業時に一斉に企業就職していくという奇怪な習慣を理解してもらうのに大変だったのを思い出す。(実際は理解していなかっただろう、私自身がいまだに理解できないのだから。)彼女はいろいろと私的な奨学金を得ながら卒業したが、文学部なんか出ても仕事はない。すでに物書きの真似ごとはしていたが、発表のめどもなく、挫折感と共に親もとへ帰る。

 チリにはいろいろな文化系の金蔓があっていつも不思議なのだが、彼女も2011年に fondo del libro というある種の支援金を得てしばらく執筆に専念できたらしい。実家は特に本もなく、家族も読書の習慣はなく、自分でもどうして文学部に入ったか分からないという彼女だが、大学で目覚めた模様。作家仲間の先輩がいっしょうけん命朝から書いているのを見て感動したと。そのあとは汗と涙で頑張ったというから、実は体育会系?

 この本に収められた短篇9つは2年で書き上げたという。

 その後は各社へもちこみを続けるがすべて玉砕、推敲を重ねてようやくこの Hueders からの刊行にこぎつけた。そこで彼女は「作家もひとつの仕事のなかの歯車に過ぎない」と知ったそうだ。こういう社会の真実を体験を通してすぐに学んでいくというのが真の意味での若さなのだが、これを知らない若者ってけっこう多い。私もそうでしたから。

 このデビュー作でいちやく時の人になったパウリナだが、学校時代は地味な生徒で、いわく「最初は本を読む暗いオタクでその後はパンクになった」という。オタクからパンクへの移行の意味がよく分からないが、チリの女の子にはよくあることなのだろう。去年サンティアゴを歩いていた時は、コスプレマニアの女子高生がとても多いのに驚いた。

 それはともかく実際に短篇集を読んでみて私は驚いた。

 そのなんとも古風な空気に。

 表題が Qué vergüenza. だから何やら若者らしいスキャンダラスな内容のパンクな小説なのかと思ってこわごわめくってみたら、そこにあったのはリベイロ的な世界、分かりやすく言えばチェーホフ的な人間模様の物語にすぎなかった。表題作は、真夏のサンティアゴ中心街を歩く親子の描写に始まる。時代は1996年と明示してある。失業中の父、10歳ほどの長女、まだ年端も行かない次女。三人が向かった先はあるオーディションだった。題名の言葉はこの短篇の最後に父が発する台詞に過ぎない。敢えて訳せば「とんだ恥をかいたぞ」くらいの意味になる。描写の焦点が途中で娘から父にずれたり、(小説執筆をある種の芸とみなせば)まだまだ稚拙なところも目に付くけれど、なにより、今どきこういう20世紀前半型の物語とまじめに取り組む作家がいることに、私は単純な驚きの念を禁じ得なかった。

 続く「テレサ」は図書館にいた女がふとしたことから自転車に乗る父娘と知り合い、誘われるがままにその父のマンションへ行って関係を持つというそれだけの話に見えるのだが、きちんと伏線が張ってあって、最後は鮮やかな落ちがある。いわゆるノックアウト系の短編と言えましょうか。

 三つ目の「タルカワノ」はむむむ…、ちょっと好きになっちゃったかも。

 他愛のない話だ。女性作家が書く、少年の昔話。日本のエンタメ系なら当たり前のようにあるけれど、オッサンばっかの南米文学では実に稀。タルカワノという疲れた沿岸都市(というのはチリはほとんどそうなのですが)に住む中学生くらいの語り手が、キングの『スタンドバイミー』的な交友を近所の憎めない不良兄弟と結び、バンドをやり始める。どうしてもギターが欲しいというので、楽器屋に押し込みをたくらむ。ところが田舎のアホなガキどもなので、とりあえず忍び込むためにハポンに伝わるニンジュツを修行しよう…というので、あれこれおバカなことをやりだす。というのは、実は本題ではないのです。この短篇は、語り手のよれた元海軍の父の話なのだ。もう実に実にこう、リベイロ的というか、あの日、僕の子ども時代は終わった…遠い目…という、人類に欠かせない男の子の物語を21世紀の20歳そこそこのチリ人の女の子が書いている、という事実に世間は驚いたのかもしれない。なんだか書いている自分がオッサンになったことを痛感させられますね。

 「アメリカン・スピリッツ」と題する短編もおそらくパウリナ自身の体験を語ったものか。昔、フライデーでいっしょにアルバイトをしていた仲間に呼び出された語り手があることを知る。その呼び出される経緯が今どきのスペイン語。<Me contactó por facebook y propuso que nos juntáramos en un restaurán de comida italiana.(フェイスブックでつながって、イタ飯屋で会わない、と向こうから申し出てきたのだ。>今やフツーに読めますが、10年前の人間が見たらほとんどSFでしょうか。で、語り手はその相手ドロシーから意外なバイト時の話を聞かされて目から鱗の体験をする。こういう話が読みたいのよね、チリやアルゼンチンで。魔術のリアリズムとか、もう前世紀の半魚人たちに任せておいてさ!

 短い「ライカ」も忘れがたい。これ、初体験小説なのです。今や懐かしい…。しかし語り手は女性。18歳というから、こちらでいえば高校生。アルゼンチン人の男の子と二人で海辺に来ている。初めて男の「変化した」体を見る。そこで彼と語り合い、共有できることと共有できないことを彼女は知る。題のライカとは、日本ではスウェーデン映画『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』で知られるようになった、スプートニクに乗って宇宙に行った(そして生き物史上最初に成層圏で死んだ)犬のこと。南米ではメカノというバンドの歌で知られている。こんなの。オッサンには絶対に書けない小説であり、それをもってしてだけでも、この子を21世紀のラテンアメリカ文学の旗手として私は推したい。

 その次の「最後の休暇」は男の子が語り手。語り手=作家とは限らず、いろいろな風合いの短編が揃っているのもこの本のよいところ。大人になった語り手の回想というスタイルだが、中身は悲しいもので、離婚した貧しく暗い母に育てられた少年がひと夏をラ・セレナの伯母宅で過ごす。伯母一家はブルジョワで、従姉妹も可愛い。少年は読書好きの従姉ハビエラにほのかな恋心を抱くも、あるときふとしたころから「ささやかな嘘」をついてしまう…。全体的に今のチリにおける貧しさの痛みを描いたお話が多い。

 最後の「恵まれた私」は本書でいちばん長めの小説で、異なる時間の異なる語り手による話が交互に。ひとつは共同住宅で孤独な暮らしを送る、周囲に異常な気を遣うあまり苦労の絶えない、司書の女性による語り。もうひとつはセーラームーンのカードを集める少女がふとしたことから身分違いの女の子と知り合い、交流するうちに、双方の親どうしが微妙な関係になっていくという話。もちろん最後に交差するのだが、予想を裏切る展開で、私は楽しめた。

 予想通り、今年にかけて、方々から「こんなのは去年のベストテンじゃない」みたいな声も出てきているようだが、私は長い目で応援したいと思う。次はパタゴニアを舞台にした小説を構想中なのだとか。

 


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