天満放浪記

matsuken tenma blog

せめてもの

2013年03月15日 | 和:新書

Nbc3私は実は酒井順子さんは好きなのです。むろん一面識もない人なので、人間性がどうとかいうのではなく、文章が。エッセイはこういうのが理想だ…とかいう話になって、松本先生はいかがでしょうか…などと問われることは永久にないと思うけれど、そういうときに、カッコつけた私は、いや~やっぱジョージ・スタイナーは捨てがたい気もしますが、若いころにはまったオクタビオ・パスなんかも挙げておきたいなあ…えっ、あっ、日本語に限るんだったっけ…アハハハハ、なんていう感じのガクシャっぽい嫌味も浮世に残したい。そんな色気もあるにはあります。

 でも日本語ですからね。

 足すと引くの合間で引くの算段がちゃんと出来る人。

 そういうエッセイの芸に私はなんとなく憧れているのである。

 それはさておき本書。

 いや~相変わらずツボを突くのが上手。

 そうなんです。そうなんす…の連続で読み走り抜けた。

 みなさん、どう思いますか?

 心地よく生きていくには、ある程度「俺はこいつよりマシ!」とかいう感じのいやらしい優劣をつけていくほうが楽ですよね。そんなのはアカン!と綺麗事を言っても、やはり多少はそういう我に依存して生きているのが人間でしょう。でも、その我をめぐってどういう言葉を立ち回らせておくか。そこがポイント。このポイントが難しいのである。

 我というのは要するに我が内なるバカということで、そのバカをバカとしてバカたるべくあしらってやる言葉づかいを大人は身につけねばならない。

 これはけっこう難しい。

 油断してると「人間は頑張ればいいんだ!!」みたいななんの根拠もない妄言を四海に向けて叫ぶ公害人間に変貌しているのである。

 競うこと。

 って、だれかより優位に立つこと。

 頑張ること。

 って、頑張らない奴を差別できる境遇にジャンプすること。

 アハハ。

 頑張った人が報われる社会!

 を国民挙げて目指しているらしいこのご時世にこんなことを言うと石を投げられるかもしれないが、私は頑張る人がとても苦手。なぜならたいていの頑張る人はファシスト的な性格を胚胎しているから。本当にファシズムを芽吹く人は少ないが、頑張らない人にファシストはいないので、私は平生から頑張る人だけを警戒するようにしている。石放らないでね。

 どうして頑張る人が苦手なのだろう?

 そもそも、私だって、実はけっこう頑張っている。

 俺って頑張り屋さん?

 アハハ。

 そうかもなあ。

 でも頑張る奴は嫌い。

 なんでかな。

 たぶん、頑張る人というのは、その自らの頑張りを異常事態として眺められなくなった瞬間に、頑張らない人々のことを自分の地位を危機にさらす人間とみなして徹底的に排除しようとする傾向にあるからだろう。

 その胡散臭さが私を頑張ることへの忌避へと向かわせる。

 とはいえ、理屈ではそうかもしらんが、教壇に立ったらそうもいかない。これでもいちおう語学の先生ですからね。一生懸命勉強しろ!とか、やったら、やっただけ報われる!の世界。

 頑張れ!

 頑張った過程が大事だ!

 結果がすべてじゃない!

 頑張りが大事だ!

 やったらやっただけ報われる!

 ぜんぜんスペイン語が分からなくても出席だけはしろ、その熱意を俺は評価したいんだあっ!!

 とか熱く叫んでたり。

 ハハハ、いやですねえ。

 やったらそれだけ報われる…なんていかにも貧乏たらしい。

 と私は思うのだが、それを上手に論理だてて話せるか、というと難しい。こうしてつたない言葉で誰かを怒らせているかもしれない。そこを、こういう文章だと「ああ、なるほどな、頑張るのもほどほどにせなのう…」と誰もが思う、そんな本も書けるのですね。そう、まさに酒井さんの言うとおり、人はある程度他人を相対的に下に見たい欲求を持っているのだが、そうした醜い欲求を持っていることを自覚することくらいは、せめてものマナーなのである。

 うまいエッセイとはこういうことだろう。

 言いたいことはだれもほぼ同じなんだけど、それを説く文章「だけ」が突出して際立っている。当たり前なんだけどね。酒井さんにはいつまで経ってもかなわないのである。


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若者よ、自衛せよ

2013年02月05日 | 和:新書

Bc255まずはちょっとした反省から始めねばならない。旧大阪外国語大の末期、いわゆる就職支援部門の一員だった。ふつうは事務サイドで引き受けるところを、金のない地方国立大学なので全学を挙げてやる、という趣旨だったように思う。

 時代は‥暗かった。今もだけど。

 うちは(って昔のね)女子が7割の大学であるが、その女子が軒並み返り討ちにあって大変なことになっていた。4年の10月を越しても企業を回っているなんてのはザラにあった。そのころ私が何を言っていたか。それは「ニコニコして、アナタ色に染まる私を演出しなさい」の一言に尽きる。

 外語は留学した学生が多い。また、こういう職種がいい、こういう作業が得意だ、といった自己主張が強い。もちろん学力が高く、総じて能力は高い。いっぽう、南北間格差の実態やいわゆるグローバル企業と称する連中のデタラメにも通じている。そして、その種の学生を、当時の就職戦線は「扱いにくい奴」として敬遠する傾向があった。少なくとも私たちはそう判断し、たとえば「語学ができる」や「~国に詳しい」や「~的な商売の仕方はオカシイ」といった特殊な話は封印し、とにかく「なんでもします」という感じでいなさい、と。

 早い話が「従順にしていなさい」とばかり言っていた。

 これはある意味で正しい部分もある。

 どんな仕事でもやってみなければ自分の特性は分からない。やらされる、巻き込まれる、という経験を経て、初めて「その場における自分の適性が生まれる」と言っていい。だから自己分析なんて「私は普通の人間です」とかテキトーに書いておいて、あとは良い縁組を待てばいい、のである。

 これは今も正しいと思う。

 実際、苦戦しながらも多くの卒業生が良縁に恵まれて巣立っていった。とりわけ関西地方の小規模の、たとえば社員が100人程度だが、非常に風通しの良い「多くを望まないが着実な企業」に行く子が増えてきて、最後は私も学生たちに、(結果的に今続々と希望退職者を募っているような)大企業のエントリーに無駄な労力を使わず、近場で良縁を探しなさい、と言い続けていた記憶がある。

 東京行っていい男探す!とか鼻息荒くして上京、結局身も心もボロボロになるくらいなら、商店街でお見合いでもしなさい。

 そんな感じでしょうか。

 それから数年経ち、外大はなくなった。

 阪大外国語になってからの意外な驚きは、女子の就職環境が劇的に向上したことである。もちろん、元々外大時代が少し悪すぎたのであり、今が彼女たちの能力に見合った当然の結果が出ているわけだ。男子の就職状況に大差はないことを考えても、これは明白な事実である。阪大という看板になってようやくうちの女子がマトモに評価されだした。ある意味で嘆かわしいとも言えるが、まあ、ここは実をとって、言祝ぐことにしよう。

 就職活動そのものをしたことがない私は、よく彼女たちから集団面接などの体験談を聞く。これがけっこう奇奇怪怪である。うちの女子は総じて能力が高いうえに、中米をひとりで放浪しているような野蛮人が多く、まあ、どんな場所でも比較的冷静に周りを見ている。愛想笑いができない(ほうがマトモだと思うが)稀な女子も結構多い。そんな彼女たちがトイレに行くと、そこには笑顔の練習に励んでいる他大の子たちがいるのだそうだ‥。

 アハハ。ホントの話です。

 集団面接のときに、これまでに「困難を克服した体験を話せ」とか問われて、うちの子たちが率直に「特に覚えていません」とか答えると、終了後に他大の子に呼び止められて「あんなこと言っちゃだめですよ」と注意されたりもするらしい。小グループでディスカッションをするときに手を挙げてリーダー役をしたがるのは、だいたい同じ大学の人間だという。よほど訓練されているのだろう。

 ほかにもいろいろ面白いエピソードがあるのだが、たとえば面接に来ていたオヤジどもの「空気の悪さ」からその会社の先が見えたと話す子や、内定通知メールの漢字が間違っていたことが致命的でその会社をスルーしたとか、まあ要するに彼女たちは冷めた目でお見合い相手を見つめてもいる。

 逆に、そういう冷めた目が一切ない、まるで兵士のように、というか殺されると分かっていてひたすら突進していくエイリアンのように、就職戦線という荒波に正面突破を挑んで疲弊している大勢の若者がいることが、私にもうすうす分かってきた。

 そして、外大があのまま外大であったら、おそらくうちの優秀な女子たちも落ちていたかもしれないコースが、そうした「自己分析という名の自己否定をくり返し、全面的な人格改変を己に課し、それでも決まらず、結局大量採用のグローバル企業に滑り込み、そこで4月からさらなる競争に突入する、なぜならその企業は採用者の半数が2年で離職するから、そして結局耐えきれずに辞職しようとすると、鬱を病院通いで治してから自己都合退職しろと言われ、そのようにして二束三文の退職金とともに二十代で無職化、生活保護をもらおうとすると「甘えるな」と社会からバッシングされたので、仕方なくあいりんに流れ着いた、もう自己否定の習慣が身についていて、すでに生きていく意味が分からなくなっている‥」というもの。

 それが本書の語るブラック企業である。

 詳しくはお読みいただきたいが、読んでいると沸々と怒りがこみ上げてくる。私は社会に対する憤りの少ない男だと自分でも思うが、この本を読んで久しぶりに、なにかこう、腹の底からこみあげてくる憤怒を覚えた。思春期の男によくある、爆弾作りたくなるような殺伐たる気持ち。

 と書き進めると、なにを言いだすか自分でも分からず、テロリストを名乗ってしまいそうで怖いのでこの辺でやめましょう。あとは、みなさん、ご自分でお読みくださいませ。学生諸君も、特に大学2年生あたりにはおすすめである。大丈夫とは思うが、自衛のために、就職を考える前に一度読んでおこう。

 昔は学生に「従順になりなさい」と言った。

 この言い方は誤解を招く。 

 なので、今は「冷静に良縁を探しなさい」と「人間としての尊厳を失うな」の二つを私の学生たちに言っておきたい。前者については、優秀な君たちのことだから大丈夫だと思う。が、仮に良縁に恵まれたあとも、後者は大切にしていかねばならない。

 ブラック企業、悪質なグローバル企業は、この後者、すなわち働く人間の人としての尊厳を徹底的に破壊することで成長する。これは特にどの企業がブラックだ‥とかいう問題ではなく、どんな組織も陥りがちな罠なのだ。

 私たちはそんなものを成長させてはいけない。

 そこに歯止めをかける、それを監視するのは、幸運にもホワイト企業と結婚した君たちの義務でもある。そういうことが本書を読めばよく分かるので、すでに内定をもらった人にも読んでみることをおススメしたい。

 良いほうに考えるなら、今は時代の変わり目だ。

 ブラック企業的なものは過渡期に特有のダークサイドである。今はまずしっかりした自衛方法を講じつつ、ホワイトな領域の拡大を模索するしかない。繰り返すが、どんな組織もブラック企業的な罠に陥る可能性がある。今ホワイトだと思っていても、組織は常に内側にグレーゾーンを抱えている。それが真っ黒にならないよう、監視を怠ってはならない。


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商店街の存在理由

2012年07月08日 | 和:新書

Bc176うちの近所のスーパーが昨日から新装開店セールをしている。ほぼ毎日利用していたこともあって、改装中の一週間はとても困った。そこは阪急系のスーパーだが、界隈にはスーパーが乱立、まさに天満界隈はスーパー戦国時代に入った観がある。南森町にはコーヨー、天六にはイズミヤ、読売新聞近くにライフ、ちなみにライフは天七にもある、商店街には安売りのスーパー玉出。

 これらはみな、日本一長いと言われる天神橋筋商店街のそばにあり、商店街を利用する客の大半は、私のようにスーパー利用者でもある。大店法改正後にモールが増加した結果、商店街と食料品型スーパーが共存する光景は、郊外では極めてまれなものとなっており、それを思えば、うちの近所は例外的と言える。天満界隈に限らず、大阪市の環状線近辺はそういう光景はまだ多く、知るかぎりでは大日あたりまで行けばイオンモールがあり、おそらく郊外と都心の境目はその辺にあるのだろう。日本初の郊外団地のある勤務先大学近辺には、商店街という理念すらないように見える。

 こんな私の居住環境は異常だ。

 自宅周辺には商店街とスーパーが共存する昭和的光景があり、いっぽうの勤務先がある大阪北部地区では、サラリーマン+専業主婦ユニットだけを想定して作られた “ニュータウン” が “オールド化” し、孤独死など様々な問題を抱えつつも、今なお山肌を削って(いいんでしょうか?と思うくらい高くまで)新たなニュータウンを増設しようとしている。

 ある意味で、この両者は共に滅びゆく光景だ。

 そのどちらもが大阪にあるのが象徴的である。

 人口減の社会でニュータウンなる理念が(おそらく彩都で打ち止め)無効であるのと同様、商店街のある光景も今や無効化しつつある。

 その原因は何か。

 それを解き明かしているのが本書。

 もっともユニークな視点は、日本の近代化、すなわち都市化において増加する都市労働者の受け皿となったのは一般企業以外に自営業でもあったという観点から、今後の就労先確保のためにも商店街の位置づけを見直すべきだとする著者の視点。あとがきを読んでそのわけが分かった。著者自身の両親が酒屋という自営業からコンビニに転換して苦労しているのである。

 商店街の店の特徴は何か。

 それは、営業の好・不調に関係なく、ある日、忽然と姿を消してしまうこと、気付いたときに閉店してしまっていることだ。理由の9割は「その代限りの廃業」である。おこみやき屋も靴屋も時計やも本屋も、ほかに要因は様々あれど、私が見ている限り、たいていが後継者がないことで店を閉めて来た。それは天神橋筋商店街とて例外ではないと思う。

 これこそが商店街の亡びた原因だと著者は言う。新規参入を阻害する規制によって身内だけの経営に邁進してきた商店街だが、いっぽうでその家族経営を支えた「家族」というのは、前近代のように「場合によっては外部の血でもOK」という緩やかな組織ではない、せいぜい3代限りの「核家族」に過ぎなかった。息子が上京してサラリーマンになったらそれでおしまい。番頭さんを店主に格上げ‥なんてわけにはいかないのである。

 商店街の果たした役割と滅んだ理由とを明快に論じた後、最終章で著者は興味深い提言をしている。それは構造改革時代に緩和が進んだ規制の見直しだ。それについて天神橋筋商店街がどうなっているのか私は知らないのであるが、直観で、この長いトンネルに相当強固な自己規制の精神が働いていることは確かで、その証拠というのもデタラメだが、たとえばスターバックスがない。ドトールなどはあるが、スタバがないというのは、スタバに恨みはないけれど、商店街的な規制の論理が「ここにそういう店は不要」という判断を集団的に下した結果だろう。

 むろん、法的な規制を上手に行使しなけれれば生き残れない商店街も多々あるのであって、全部が全部、天神橋筋のようにも行くまい。そもそも、著者の指摘するように、商店街とは国を挙げて守るべき文化遺産などでもなんでもなく、戦後の雇用安定のため人工的に作られた空間である。

 天神橋筋の場合は、たとえばもうすぐある天神祭というイベントがあったり、商店街内を横に3本ほど重要な幹線道路が通っていて、さらには要所に三つ鉄道駅があるといった、地形的なよさにも恵まれているが、こういう商店街ばかりでもない。

 シャッター商店街のほうが多いというのが現状だろう。

 いっぽう、日本中がイオンモールで埋め尽くされて、それにより安定して持続可能な社会が生まれるかと言えば、それはあり得ない話だ。

 人口減の社会で、少ない若者たちが全員「サラリーマン」のパイを目指して争っている状況は、実にいびつである。俺は豆腐屋になるわ、と豆腐屋の息子ではない大学生が思える。私はしばらく服でも売ってみるわ、と国立大出身女子が言える。少々クライ奴が村上春樹のようにサテンでも経営してみる。どう考えてもそういう社会のほうが長期的に安定して暮らせる環境であるはずだ。そして、どうあがいても、日本はそうならざるを得ない。

 そういう意味で、まだ色々な変化に対し開かれている商店街に歩いて1分の環境に住んでいられて、私は幸運だったと思う。商店街の発展を見守ることは、今後の日本社会の落とし所を見極める意味でも意義深いものがあるからだ。代替わりの問題についても、最近ではこのような報告もある。

Bc175商店街があることで、ものすごく便利だというわけでもない。食料品はほとんどをスーパーで調達している。では商店街の近所に住んで何があるかと問われたら、それはある種の公共性に毎日接しているという感覚である。イオンモールにそんなものはない。商店街というのはバーと同じで、そこで酒を飲むのが目的ではなく、そこにいること自体が目的なのである。

 私は自分の教え子のやっているバーで酒を飲むのが一生の夢だ。商店街的な公共性を考えることは、若者の労働形態の多様性を考えることでもあり、著者に言わせればそれは<商店街の存在理由は「生存競争の平和的解決」にある(p.210)>らしい。

 就活中の学生は「コミュ力」「コミュ障」とか意味不明の呪いに振り回されている暇があったら、商店街をウロウロしてみればどうか。国立大出身のカレー屋とかうどん屋がいたってなんらおかしくないと私は思うけど。特に私の勤務先は「地域に生き、世界に伸びる」とか言ってるわけだし、世界に伸びるのが面倒なら地域で花屋をやったっていいじゃないか。


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素晴らしい新世界

2012年01月06日 | 和:新書

Bc100_2 俗に言う、飲む、打つ、買う、とは広辞苑によると「大酒を飲む、ばくちを打つ、女を買う。男の代表的な放蕩とされるもの」とある。たとえば「いや、あいつの叔父は、飲む、打つ、買うの三拍子がそろったヒドイ男でね、嫁にはずいぶん苦労をかけたものだよ」という風に用いられる。

 これはあくまで三点セットである。

 どれかひとつが突出していることはままあるが、それが三つ揃うことが堕落した大人の男の印となる。たとえば私は酒を飲むが、博打はしないし、むろん買春もしない。

 強いて言うなら、外国の小説を買うのは博打に近いと言えるかもしれない。買った100冊のうち1冊でも当たりがあればいいほうなのに、ダラダラと中毒のように買い続けてしまうからである。

 しかしながら、私がいくら私生活で酒を飲んでも、またいくら無駄な金をスペイン語の小説に投じようとも、そのことをもって公職を追放されることはないだろう。いっぽう、買春に関してはどうだろうか。周知のように我が国には売春防止法がある。こちらで全文を読むこともできる。その第三条に<何人も、売春をし、又はその相手方となつてはならない>とある以上、仮に私がこうした場所で「いや、昨日も飛田に行ってきました」と書いたなら、それは重大問題に発展するに違いない。

 売防法は、売春をせざるを得ない女性を保護する目的で制定されたらしく(だから売春「禁止」法とは言わない)、むしろ売春を助長する人間・団体を取り締まるためのものだ。逆に、読めばわかるが、買う側に対する厳しい規制はないようなのである。私の読んだ限りでは第三条の「又は相手方となつてはならない」という前提しか見当たらなかった。だから、法の主旨として「女性の尊厳を損なう行為だから買うのもダメ」とある以上、お上に給料をもらっている私が買うのはマズイと判断しているだけの話であり、すべての「金銭授受による性行為」を禁じてしまうと、自由な性行為の侵害にもなりかねないことは想像がつくわけで、私は売買春行為自体を倫理的に否定して怒声を上げるつもりはない。私は買いません、と言うだけである。

 飛田は不思議な街である。

 西に釜ヶ崎という日本最大のドヤ街を擁し、北に新世界という観光のメッカを望み、そして東の坂を上がれば最近新しいモールで若者の往来が激しい阿倍野に至る。大正区の尻無川を渡船に乗り、そこから北東へ向かって進んでみれば、日本近代の光と影のすべてが見渡せる。

 本書はその飛田を取材したノンフィクションで、関西地方ではベストセラーとなっている。どうか世の男性は本書をガイドブックと勘違いしないようにしてもらいたい。また、あとがきにもあるように「客として金を落としに行くならともかく、物見遊山で見物に行くのはもってのほか」である。どんな場所であれ、そこに生きている人にとっては自分の街なのだ。

 かつての遊郭の時代から、戦争と売防法施行による受難の時代を経て、いわゆるアルバイト喫茶にヒントを得、お茶屋の二階で客と従業員が自由恋愛をするという名目で現在も生き延びているのが、この街である。が、そこにあるのはいつの時代にも変わらない、社会の負の連鎖だ。<売買春の是非を問いたいわけではなかったが、そのことについては、書き終わった今も私に解答はない。それよりも、今思うのは、飛田とその周辺に巣食う、貧困の連鎖であり、自己防衛のための差別がまかり通っていることである。多くの「女の子」「おばちゃん」は、他の職業を選択することができないために、飛田で働いている。他の職業を選べないのは、連鎖する貧困に抗えないからだ。抗うためのベースとなる家庭教育、学校教育、社会教育が欠落した中に、育たざるを得なかった。多くは十代で親になる。親になると、わが子を、かつての自分と類似した状況下におくことになる。(p.298)>

 ただし、女の子をそこに行かせることになった社会的背景の取材だけに特化するのではなく、売春のまわりで様々な形でこの街を支えている脇役たちにも目を向けているのが、本書の興味深い点のひとつだ。インタビューで聞いた情報を「嘘かも」と譲歩付きで紹介していくあたりも、安心して読みやすい。

 あとがきによると、暴対法の施行で、周旋業にヤクザと関係のない、それこそ「金勘定だけにアザトイ新手の半グレ」が登場してきたそうだ。この流れは暴排条例で加速するだろう。売春まで至らずとも、すでに水商売の世界にはキャバクラなど価格破壊と消費者目線サービスを特徴とするニッパチ的な波が押し寄せている。売春にもグローバリゼーション。まったく想像するだけでウンザリするような21世紀の「素晴らしい新世界」ではないか。

井上理津子『さいごの色街飛田』筑摩書房


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ラーメンポエムの誕生

2011年11月23日 | 和:新書

Bc87天五の総合うどん店「こまいち」が閉店した後に、しばらく前からラーメン屋が入っているのに気がついた。学食みたいな簡単な内装で、外にはこれまた簡単な看板に、いかにも若者向けのこってりラーメンの写真、そのそばには「チャーシューバカ盛り有り」とか書いてあって、いわゆる “ガッツリ系” であると思われる。

 なんか荒っぽい店だな~と思っていたが、どうやらこれが最近全国に増殖中の「二郎系ラーメン」なのだという。なんだそりゃ?

 私はラーメン屋の行列が苦手である。

 なんとはなしに「ハイパー消費者」というイメージを、いや偏見を抱いてしまう。街の風景から浮いているのも嫌いだ。ケータイ上のネット情報だけを頼りに生きている人種が放つ奇妙な異臭を感じる。むろん、実際には私と同じ普通の人々だとは思うが、あの列になると違って見える。

 もともと大阪では店に行列を作る習慣はない。

 が、最近では天満の飲み屋にも行列ができるぐらいで、それもおそらく「ネットに生きる人々」が増えているからだろう。だとするなら、いわゆる行列ネット人とは、ラーメン屋に限らず、あらゆる店に関して、その店がネット上で話題になれば群がるということだろう。だから、行列は気持ち悪いにしても、それはラーメン屋が気持ち悪いということにはならない。

 それに、うちの近所、すなわち天神橋筋商店街は、有名なラーメン好きの漫才師に「麺神橋筋商店街」と名付けられているほどラーメン屋が多い。というより、新陳代謝が激しい。潰れてもすぐに新店舗が入る。不思議なことに、その新店舗は毎回必ず「雑誌で日本一に選ばれました!」と宣伝する。私はもうかれこれ少なくとも5軒ぐらいの「各種メディアで日本一に選ばれたラーメン店」があえなく潰れるのを見た。

 もっと不思議に思うのは、このデフレ化の日本にあって唯一ラーメン屋の価格帯が下降しないことである。むしろ上がってるんじゃないか。ニッパチラーメンの店も思い出したように現われるが、阪急そばなどと違って、どこか蔑まれているような気すらする。

 また、バールやイタ飯のような小洒落系の店ですらマニュアル化とチェーン店化とニッパチ化に猛進しているこのご時世に、ラーメン屋だけは不思議な「徒弟制度」のようなものを維持していて、この不思議な徒弟制度は、脱サラブルジョワオヤジに限定されがちな蕎麦打ちなどに比べると、基本的には若い無職者などが中心であり、ある意味よほど庶民的であると言える。

 さらに、うどんが香川などを頂点とするスッキリした序列関係を持つのに対し、ラーメンは実に複雑な地方色をもつ。札幌、博多は言うに及ばず、和歌山、喜多方、今では「大阪高井田醤油」なる御当地ラーメンまでできている(駅ビル2のB2にある店は私もときたまウッカリ入ってしまう。喉が乾くほどしょっぱい)。ラーメンは究極のスローフードなのだろうか。

 また、以前もここで書いたが、近ごろのラーメン屋は「北関東から天下を取りに渋谷へ出てきた元ヤンキー」みたいな店員ばかりになっている気がする。彼らは必ず黒っぽい服を着て、必ず黒っぽいバンダナを巻いている。バールの店員には女子が多いが、ラーメン屋は圧倒的に男子が多い。

 最後に、近ごろのラーメン店には壁に詩が書いてある。ストレートな人生訓が多いが、中身は単純で高度な比喩に乏しく、田舎の暴走族の先輩が後輩に語りかけているような感じだ。相田みつおのヤンキー版だと思ってもらえば話は早い。

 奇妙な行列。

 奇妙な価格の高止まり。

 奇妙な徒弟制度。

 奇妙な地方性。

 奇妙な店内意匠。

 こうしたラーメンの不思議を、日本のものづくりの伝統や、太平洋戦争、戦後の食糧政策、田中角栄、高度経済成長、バブル崩壊、プチナショナリズム、ロスジェネ世代など、時代のキーワードを縦横無尽に絡めて論じたのが本書だ。

 著者は最近のラーメン「職人」を “作務衣系” と名付けている。

 また、詩については “ラーメン・ポエム” という新しい国民文学の分野ができつつあるらしい。

 いやあ、目からウロコとはこのことだ。


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