天満放浪記

matsuken tenma blog

画家は絵からいくらか身を引いている

2017年09月26日 | 西:書評⑤グラフィック

原案絵画のコンビというパタンで、原案のサンティアゴ・ガルシアは1968年生まれ、私と同い年で、今とても便利な教科書代わりにしているスペインコミックアンソロジー Panorama: La novela gráfica española hoy (Astiberri) の序文も書いている。いろいろな描き手と組んでいるらしく、このハビエル・オリバレスとも『ジキルとハイド』の翻案に続いて本書が2作目。1964年生まれのオリバレスは『ゼンダ城の虜』、『バスカヴィルの犬』、『野生の呼び声』、ディケンズ短篇集等、文学作品の翻案を得意にしているようだ。

 本書はベラスケスの人生をベラスケス以外の人々に語らせるという趣向。どちらかというと教育的配慮の行き届いた構成で、いまではプラド美術館の土産コーナーでも売られているに違いない。

 実は私、スペイン文学概論という(そんなの俺がやっていーのか…という題の)講義でかつて2度ほどベラスケスを語ったことがある。自分が好きということもあって。そのときネタに用意していったのがフーコーの『言葉と物』、さらにそれを受けて書かれたダニエル・アラスの『何も見ていない』、あとは雑誌や研究書からとても退屈で地味な宮廷人としての人物像を説明する資料を抜き出し、そこからは想像もつかないほど豊穣なその芸術世界、それは近代的な独創性や芸術というカテゴリーとは違う何かなのだ…というような展開で駄法螺をこいた記憶がある。

 本書は実はそのフーコーから始まる。

 全体としてはベラスケス自身の人生もコミックとして描き込んでいるのだが、そこには想像がかなり入り込まざるを得ない。なので、事実を提示するというのではなく、同時代の証言者や文学者、あるいは後世の芸術家や思想家たちが、この稀代の天才からいかに影響を受けてきたかという「傍証」を列挙し、それによってベラスケスという歴史的虚構を様々な角度から読み直すというスタイルに仕上げている。これはアイデア賞ものだ。

 そして本筋を貫く虚構はベラスケスにおける聖との格闘。

 ラス・メニーナスの自画像の赤い十字は、晩年にいたってサンティアゴ騎士団に入会するという念願を果たしたベラスケス自身が描いたとされるが、本書はそこへ大胆な解釈を導入している。あるいは巻末にけっこうな数の研究書が参照文献として列挙されているから、最近の研究で指摘され始めているのかもしれない。ボデゴンと呼ばれる静物画、あるいは矮人等の世俗イメージを積極的に絵画に取り込んだベラスケスは果たして単なる宮廷画家だったのか。二度のイタリア体験は彼になにをもたらしたのか。この辺りにやや近代的な解釈をもちこんで、17世紀に彼が背負ったひとつの宿命を最後にむけて描き込んでいる。

 同時代の証言者にはイタリアの師ともいえるスパニョレットことホセ・デ・リベラ、助手にして弟子のフアン・デ・パレーダ、ベラスケスに題材を得て詩を書いた作家フランシスコ・デ・ケベード、後世の人間では同じ宮廷画家のフランシスコ・ゴヤ、若き頃のパブロ・ピカソ、検閲下でラス・メニーナスをテーマに戯曲を書いたアントニオ・ブエロ・バリェホ、自分と古今東西の画家との勝敗表で唯一ベラスケスに負けを認めていたというサルバドール・ダリ、そして絵画の神学がナポレオン戦争後に辿った数奇な運命。これらが180-181ページのすばらしい見開きに集結する。

 ちょっとある種の説教臭さがあるのはご愛敬だが、文学等も含めた「ベラスケスのスペイン」という大きなイメージを提供してくれたという意味では、とてもありがたい本であるといえる。


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非常に優れたロードノベル

2017年09月24日 | 西:書評⑤グラフィック

スペインでは映画館での外国映画上映は長らく吹き替えが主流だったと聞く。そこではアメリカ人がスペイン語を話している。近ごろは日本の映画館も吹き替え上映が増えた。これは字幕を読み辛い大人たちのリクエストに応えているのだろう。当たり前だが、吹き替えは外国の舞台にいる外国人が私たちの母語を話す。これに違和感を覚える人はそういない。文字小説は、冒険ものやSFなどを除いて、わりとこれをしない。つまりスペインの小説家が米国を舞台に「英語を話しているという想定で」スペイン語の台詞を書くことは、あまりない。小説では翻訳を介してはじめてその種の「想定」が前景化する。いっぽう、イメージが物語を作っていくグラフィック・ノベルは映像表現に近いので、この作品にもさほどの違和感は覚えなかった。(スペイン特有の俗語が米国英語のどのような表現に相当するのかつい考えることが多かったけれど。)

 いわゆるロード・ノベルである。この言葉がいつどこで用いられるようになったのかは誰かがすでに調べていると思うのでそっちに任すとして、米国に多いことは容易に推測がつく。

 ポリー(右)とモオ(真ん中)とパイター(左)。モオはスペイン語の黴だが、英語のモーホーなのか黴のモールドなのか、それが上の理由で分からない。いずれにせよモオはあだ名。ポリーのバンドのライブ会場で知り合った腐れ縁の3人が車で旅をする。死んだエクトル(or ヘクター)の遺灰をもって。

 エクトルは遺言である海辺の町を指定し、そこで3人の友人の手で散骨するよう指示していたのだ。3人(と一匹の猿)の珍道中に、それぞれの過去の話や、あと一定の間隔で世界の火葬の伝統が紹介されていく。台詞以外の筋回し的な語りがあって、これはパイターの声であることが最初に分かるしかけになっている。そしてこの物語をつくったのもパイターであること、彼の名字がオルティースであることも最後に分かる。途中で現れる謎の女もきちんと最後に回収されて、けっこうかたい小説的構成をもっている本である。ページ数も187とこのジャンルにしては比較的多い。

 いろいろな影響をすでに裏表紙が紹介している。

 ホテル・エグジステンスはポール・オースターの『ブルックリン・フォリーズ』。映画関係ではデヴィッド・リンチ、タランティーノ、あと米国産テレビドラマの数々。私は正面顔がちょこまかと入れ替わるカットわりに小津映画の余波を見た。

 作者のアルバロ・オルティスは1983年生まれ。比較的若い世代ということもあってか、経歴を見る限り、グラフィックノベルの専業といってもいい感じである。

 グラフィックノベルを読むときのポイントは字。

 吹き出しも含めて字はすべて手書きが主流。

 この字との相性が読みやすさを決定する。

 アルバロ君の字とは、私はかなり気分があった。


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ほんの少しの違いをわかるために

2017年09月23日 | 西:書評⑤グラフィック

作品が単行本になった場合はグラフィック・ノベルと分類されるが、彼らの仕事はほかにもたくさんあって、それは脇役的な位置づけがほとんど。そんな「彼ら」をスペイン語では今のところ ilustrador, -dora と呼んでいるようだ。日本語のイラストレーターとはずれているかもしれない。画家 pintor, -tora とも違う。画家は脇役の仕事はしないから。ここの線引きには芸術としての社会的価値が関与している。いずれにせよ、そんな ilustrador の大物が、このミゲル・ガリャルドというバルセロナの作家。

 名前と makoki という単語を入れるといくつも記事が出てくるだろう。1955年生まれなのでけっこうな重鎮。1977年にピカレスク小説の現代版アングラ漫画の『マコーキ』で一世を風靡した。つまりフランコ死後のスペインを席巻したポップカルチャー全盛期の申し子のような人。HPの自己紹介欄を見ると「あなたの仕事は?と訊かれたら、他のひとが言葉で考えていることをイメージに翻訳すること、と答えている。絵描き(dibujante)というよりは絵訳師(tradujante)だ」とおもしろいことを言っている。この職業の人たち、小説家です、とか、詩人です、で終われるおめでたき人たちとは違って、自己定義がとってもユニークです。

 スペインの新聞や米国の雑誌などと風刺画などの仕事をしつつ、ちょっと変わった形で単行本ともかかわってきた。その代表がこの『弟はどうしたの?』という絵本。これの版元はMRWという宅配便の会社らしいのだが、その慈善事業の一環として無料配布されていて、今でも会社のHPからダウンロードできる。ミゲルは娘のマリアが自閉症。それもあって子どもむけのイラストもライフワークにしつつ、一般向けの啓蒙書にも積極的にかかわっているらしい。

 本書『マリアと私』はそのマリアとの暮らしを描いた本。

 マリアは母親の一家とラスパルマスに住んでいる。ミゲル自身はバルセロナに家があって、彼女はグランカナリアを拠点にしつつふたつの都市を行き来しながら暮らしているようだ。ドイツ人であふれる(って知りませんでした)ビーチでの1週間を中心に、すこしひととは違うマリアとどうコミュニケーションをするのか等が淡々と描かれる。もちろん彼女を知らない「通りすがりの人たち」の冷たい視線も。

 今日は学校でなにを食べたの?

 というミゲルの質問に彼女がスパゲティと答えるまで、迂回に迂回を経る絶妙な1ページがあり、そこを見るだけで、マリアのような子とも特殊な回路さえ知っていれば交流できるという事実を理解できる。

 少しの「違い」をわかるだけでいい。

 そんな簡単なことだけをやさしく丁寧に伝えてくれる素敵な本。

 おそらくこの本だけが単独で評価されているのではなく、面白い人生を送ってきたミゲルというこの「訳絵師」の人としての全体像とあわせて評価されているのだろう。HPには一般向けのイラスト教室や自閉症に関するレクチュア等の活動も紹介されている。むかし暴れていた今は気さくなオジサン、という感じで、とっても素敵だ。2015年には本書の続編『マリア20歳になる』が刊行されている模様で、さっそく発注してしまいました。

私がいま教科書代わりにしているこの本でもミゲルは別格扱い。こんな人の存在を今まで知らなかったとは、スペイン語学屋としても恥ずかしい限りです。


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エロとはなにか

2017年09月22日 | 西:書評⑤グラフィック

ナチョ・カサノバは1972年サラゴサ生まれのスペイン人。同姓同名のサッカー選手がいるようですが、まったくの別人です。ウィキペディアではやはり historietista と ilustrador の併記で、本人のHPを見ても曖昧な書き方をしている。historieta も刊行しつつ(=単著)、他人の本に ilustrar もし(=共著)、装丁のデザインもてがけている(=出版業界で絵の仕事)。実際こういう人がほとんどなのだと思うと、小説家とか詩人とか名乗っている人々って、逆に何者…なんて変なことを考えてしまいます。

 この本はエロ。

 エロは難しい。

 言葉を当てるのが。

 むむむ…。

 伝統的なエロ媒体には絵画、それに類するイメージ系、音声系、トーイ系、ほかに何があるだろうか。活字本でエロを体験した…というのは、多少本を読んでいれば誰でもあると思うが、エロは基本は想像の世界で、実は直接触れられる対象があっても、最終的にはイメージと虚構の世界に属しているものであるから、エロはこれだよ、という共通理解は難しく、世のなかには石ころに発情する人間や、ラーメンにのっかってる肉に欲情する人間がいたりして、これといった答がないのが、難しいところである。

 セックスは最後はポリティカルな議論になるので、戦おう!

 という理路も、私は自分のこともあり、それなりに分かるのだが、なんだか生理的にイヤなんですね。セックスとエロは違う。なのでエロをすべて性交と生殖をベースに語るゲスな…じゃなくマトモな人たちが私はなんとなく苦手で。この変な生理感覚は死ぬまでに解決したいと思っているのですけど。

 いっぽう、えらい哲学者や詩人がエロを語るのも、私はそれなりにイヤ。

 たとえばオクタビオ・パスのエロ論。エロ論じゃなくエロス論でしょうか。

 翻訳で、エロはエロと言わずに、エロスという。

 エロとエロスはどう違うのか。

 私はエロは好きだが、エロスという言葉は好きになれない。

 エロスという言葉をもてあそぶ連中より、エロい人、のほうが私は好きだ。

 街場でウロウロしていればエロに出会うこともある。エロを語るオヤジもボウフラのように絶えない。ではそのエロは自分が納得できる質感を備えているかと言えば、そんなことはまずない。

 実は、人はエロを語っているようで、なにも語っていないからである。

 エロに答はない。

 エロはあるようでどこにもない。

 あるのはイメージのみと言えましょうか。

 エロを語るのはえろう難しいと思う。


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スペイン・グラフィックノベル・ベスト25

2017年09月21日 | 西:書評⑤グラフィック

 メキシコ留学中の学生諸君とは連絡がついて安心したが、セントロをはじめとする被害の程度がまだよく分かっていない模様で、依然として気がかりではある。まあ彼らの行動力があればなんとかなるだろう。

 同じく気になるのはカタルーニャ州の情勢。

 ところが、日本のNHK地上波報道を見ていても自国中心主義がひどすぎて、ほとんどロシアや北朝鮮のレベル。NHKではBS世界のニュースだけが頼りだが、これもミサイルが飛ぶと大本営一色に。あとはケーブルのCNNという裏技があるのだが、最近なぜか受信できなくなっちゃった。契約しようかな。私は近ごろ、ドイツのZDF、フランス2、米国CNNとABC、スペインTVE、そしてアルジャジーラがあればNHKの地上波報道はもう不要、という気持ちになっている。

 『今日の料理』のためだけにでも受信料は払い続けますけど。

 話は変わるが、趣味で集めているグラフィックノベルが、ちょっと「来ている」感じ。スペイン語圏は小説は全体的に頭打ちだし、ポエムなんか読んでたって悲しいだけだし、もう鞍替えしようかな。でも研究をやるというのとは少し違うかも。そうかといって、では仕事になるかと問えば、それもまた難しい。かなりの投資額になっていることに気がついたが、まだまだ集める予定で、その計画を立てるべくエルパイス紙に掲載されている一連の記事を整理している。

 こちらでは現時点でのベスト25作が紹介されている。見ていくと

 1:アントニオ・アルタリバ他『空を飛ぶ方法』(取り寄せ中)

 2:サンティアゴ・ガルシア他『ラス・メニーナス

 3:パコ・ロカ『偶然の溝』(発注予定)

 4:パコ・ロカ『皺』(邦訳があるらしい)

 5:マックス『汽船』(発注予定)

 6:ミゲル・ガリャルド『マリアと私

 7:マックス『超現実主義者バルディン』(発注予定)

 8:ミゲランショ・プラド『アルダレン』

 9:ガビ・ベルトラン他『バリオの物語』(取り寄せ中)

 10:アルバロ・オルティス『

 11:アントニオ・アルタリバ他『折れた羽』(有り)

 12:クリスティナ・ドゥラン他『千にひとつの可能性』(発注予定)

 13:カルロス・ヒメネス『パラクエリョス』(発注予定)

 14:パコ・ロカ『家』(取り寄せ中)

 15:ミゲル・ブリエバ『金』(発注予定)

 16:コンチータ・エレロ『でっかいアイスクリーム

 17:フアン・ディアス・カナレス他『ブラックサッド』(発注予定)

 18:ソニア・プリード他『カタツムリの決闘』(発注予定)

 19:パブロ・アウラデル『失楽園

 20:ロラ・ロレンテ『私の血のなかの血』(発注予定)

 21:フアン・ベリオ『水曜日

 22:セント『ドクトル・ウリエル』(有り)

 23:ケコ『俺は殺し屋』(取り寄せ中)

 24:ライコ・プリード『ネラ』(発注予定)

 25:ケコ『四足のブーツ』(発注予定)

 いまだによくわかっていないのだが、どうも、スペイン語圏の子どもはアニメは見ても「マンガを読む」という習慣がないようで、これはおそらく雑誌がないからだろう。今の子どもは知らないが、少なくとも私の世代までの日本人は雑誌を通じてマンガを読む習慣をつけている。今だって、電車でいい歳をしたサラリーマンがジャンプをめくっていても、まあ、さほど気にもならない(スマホじゃなく書物を見ているという意味ではむしろまだマシ?)。いっぽう、スペイン語圏で、子どもがマンガをむさぼり読んでいるという光景に出会うことは、私の記憶ではあまりない。

 上にも子ども向けの本はひとつもなく、すべて大人向け。エルパイスの関係する記事を読んでいても、被差別階級だったマンガが大人も読むに値するジャンルとして認知された、という書きぶりが目立つ。子ども向け市場として成立しないので、現実的に大人向けを目指さざるを得ないという、出版社の事情もあるかもしれない。

 日本語の漫画に近いスペイン語は historieta である。

 ただ、それだと伝記的なものや、上の16のような詩的なものを含みにくいため、あいまいではあるが、こうしたイメージに文字テクストを合わせた大人向けの書物全体をグラフィックノベルと呼ぶようになってきたということだろう。

 ちなみに、上には含まれていないが、いちおうエロもある。それは日本の「漫画のエロ」とはかなり異なるので、そこにも注目していきたいと思っている。エロ系には裏表紙に solo para adultos の表示が。


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