天満放浪記

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シルビナの後継者レースが過熱中

2017年08月16日 | 西:書評③アンデス圏

一般的に男は生理的締め付けに弱い。簡単に言うと痛みに弱い。生理的現象にふだん親しんでいないからだろうか、その種の気持ちの悪さを書いた小説などにも惹かれてしまう傾向にある。昨今のラテンアメリカには幻想譚を得意とする女性の作家が増殖中。読んでいない作家も含めてリストを作っているのだが、けっこういろんな国にいて面白い。

 そして、その源流とみなせるのが、シルビナ・オカンポである。

 といってもシルビナって日本ではまったく紹介されていないので可哀想。と思って私、個人的に短編全訳集を企画しているところです。シルビナのことを「ボルヘスの周辺にいた女」とか「ビオイ=カサーレスの妻」とかいったレベルの認知度のまま放置しておくのは学者として怠慢だと思う。

 このシルビナの系譜では、同じアルゼンチンのサマンタ・シュウェブリンとマリアナ・エンリケスが一歩リード。あとチリとメキシコにいるのだが、それはさておき、今回はボリビア出身のリリアナ・コランシさん。

 こちらはブックフェアで本書の紹介を自分でしているビデオ。ボリビアはボリビアでもサンタクルス生まれ。ということはアンデス圏の人(コージャ)というよりは熱帯雨林圏の人(カンバ)、お顔立ちもペルーの沿岸部に多そうな感じの混血、優しそうな人なのでいつかランチでもお願いしたい。でもよく見るとエリートコースを歩んでおり、ケンブリッジでマスター、その後はコーネル大でドクター、むむむ、これは大阪の肋間神経痛オヤジ(博士号無し)にランチをご一緒する資格はないか。現在はニューヨーク近郊に在住、コーネル大で教えているのだとか。本書は彼女にとってははじめての刊行となる短篇集。なかなか切れ味のいいお話が並んでいます。

 冒頭の「目」は少女を語り手にした話で、過保護というか娘に執着する異常な母親の影をめぐる話。はじめての性体験をきっかけに語り手が変わっていこうとするにもかかわらず…。母娘のグロイ話は山岸涼子の短篇等でおなじみだが、南米では案外珍しいかも。

 次の「アルフレディート」も語り手は女性。作者の分身と思しき語り手が多いよう。その子ども時代のある葬儀の思い出が語られる。落ちはいかにもシルビナ的な開かれたもの。ちょっと呪い師っぽいインディオの使用人女性が面白い。

 スペイン語圏の書評を見ている限り評価の高い三つ目の「波」は作者自身が語り手と言えようか、コーネル大のあるニューヨークのイサカで始まるが、後半、危篤の父を見舞いにサンタクルスに戻った語り手がタクシーに乗ったところから話は意外な展開を見せる。短編小説を読む醍醐味を味わえる、世間の評価に違わぬレベルか。

 次の「隕石」は裏表紙の宣伝文句にあったオラシオ・キローガを彷彿とさせる辺境の農場主もの。最初の1ページの隕石の話がどうつながっていくのか…と思ったら、鮮やかな落ち。キローガはミシオネス州の奥地で狂っていったが、その場所はボリビアの密林地帯に案外近い。ミシオネスからパラグアイ、そしてサンタクルス界隈にかけての密林地域。いつかこの辺りをゆっくり旅してみたいものだが、夏に行くと大変なことになりそうだ。大阪の夏に比べたらマシかもしれないけれど。

 これまでとは一風変わった「カニバル」は運び屋と思しき美女の連れによる語りで、最後にどんでん返しが。読み返してみて伏線に気付いたが、スペイン語ってこれができるのよね。小説も読んでいて途中でよく「あれっ、こいつって、どっちだったっけ…」って悩んで数十ページ遡ることがあったり。

  「チャコ」はパラグアイとの国境紛争で知られるグラン・チャコ生まれの祖父をもつ語り手によるディープな田舎の宗教観。この辺まで行くとさすがに地の果てというイメージか。語りの向こう側をはっきり見せない手法はやはり幻想小説の書き手である。

 表題作「我らの死せる世界」はなんと火星が舞台のSF。

 そして最後の「鳥との物語」が構成的に一番こっている。異なる時間帯で複数の人物による語りを交差させたもの。ボリビアの非アンデス圏という、ある種、北側世界の誰も知らない風土を背景に、ラプラタ流の幻想譚の伝統を駆使した、なかなかいい感じの短編集。今後も同じ路線で質の高いものを書き続けられるかが、注目である。


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私のブログの前で怒らないでください~♪

2015年09月17日 | 西:書評③アンデス圏

 昨夜、ボケっと涎を垂らしながらテレビのニュースで国会前のデモを見ていて、ある懐かしい映画を思い出した。私がいつか岩波書店から研究書を出したいと思っている米国のクリエイター、ウォルター・ヒル監督の名画『ウォリアーズ』である。まだニューヨークが健全だった(=治安が悪かった)ころが舞台で、とりたてて前置きもなく、NY中のギャング集団がセントラルパークに集合するところから始まる。サイラスというカリスマ的なギャングの若手ボス、黒人とヒスパニックの混血というか、亡命キューバ人みたいな容貌の彼が声をかけ、街中のギャング、今のジャパン風に言うと半グレ連中に声をかけ、武装中立地帯で結束を図り、NYを乗っ取ろうともちかけたのだ。

 なぜNYを乗っ取るのかは明らかにされない。

 映画をボケっとみていると、ただのギャングの抗争に見える。

 でも、本当にサイラスがやろうとしたのは革命じゃないだろうか。

 若者の武装集団で米国最大の都会を占拠し、そのうえで何かと戦争する。

 その何かって、何よ。政府? 民衆? 秩序? 伝統? 地球? 近代?

 むむむ…と思うだろうが、これを実際に分かりやすく物語化してしまったのがクリストファー・ノーランの『ダークナイト・ライジング』だろうし、ジョン・カーペンターの『ニューヨーク1997』も監獄島化したマンハッタンで大統領を人質にとった囚人たちが「何かを企てた」わけだ。軍人が義憤に駆られてアルカトラズ島を占拠する『ザ・ロック』も同じ。米国の映画にはこうした「ハンパ者が尋常ならざる結束を固めて何らか既成秩序に血みどろの戦いを挑む」というパタンが繰り返し現れている。

 シールズの皆さんも見習えばどうだろう。まずは武装から!

 とか言うと各方面から怒られかねない怖い世の中ですけど。

 ちなみに映画ではサイラスが何者かに殺され、濡れ衣を着せられた主人公たちのギャング集団がコニーアイランドまで逃げ帰る道中がスタイリッシュに描かれています。原作者はオデュッセイアをベースにしているのだとか。

 さて、ネット発言がもとで各方面から怒られた人が、ペルーにも。

 先日紹介した作家フェルナンド・アンプエロ。ネット投稿世代、これ、スペイン語で彼自身は generación post と言ってました。post が意味することろも含めてこちらを先にお読みいただき、そのうえで下の2人の「言い訳」と「弾劾」を読むと面白いかも。反論の急先鋒はプリンストンでアルゲーダスの博士論文を書いたペルー人。アメリカン文学者ということはやはりポリティカルコレクトネス教徒なのでしょうか。

 学者としてこういうもめごとは大好き!

 人間としては「まあまあ穏便に…」という典型的ジャパニーズですが。

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(オンライン版『エル・コメルシオ』紙9月17日付より)

 8月31日に「ペルー文学のネット世代」で作家フェルナンド・アンプエロがペルー小説の現状に関する好意的見解を示して以降、本紙には多くの声が寄せらている。アンプエロの先見の明と寛容さを褒めたたえる意見もあれば、反対の意を表明し、むしろ彼の見方が偏見に毒されていてイデオロギー的にも偏っているとする意見もある。

 批判派の急先鋒はプリンストンで博士号を取得したのち現在ルイジアナのトゥーレーン大学で教鞭をとるフェルナンド・リベラ。リカルド・ピグリアによる指導のもとでホセ・マリア・アルゲーダスの博士論文を提出しているリベラは、アンプエロの見解が「アンデス×クリオーリョ(沿岸白人文化)という馬鹿げた二項対立の図式」の再生産に過ぎないと指摘する。

 アンプエロは批判を受け補足のコメントを本紙に寄せてくれた。いっぽうのリベラはアンプエロの元の記事についてのコメントを寄せてくれた。以下にそれぞれ全文を掲載する。

 *アンプエロ「キャノンは議論の対象ではなかった」

 私の新しいペルー小説に関する記事「ネット投稿世代」が出て以降、賛同や批判など様々な反応が相次いだ。批判は予測できたものだ。幸いにも今のところは耐えられる範囲の議論で、大げさな言葉や罵倒語も出ていないようだし、無法地帯(=ウェブ上)での発言とはいえ互いを尊重しようとする意志がまだ感じられる。議論の核心、文学上の争点は二つに集約されそうだ。1)現代ペルーで有力な小説は都市文学なのか? 2)ペルー文学の新しいキャノンとは? 1については、私がリマの文学を称揚したからと言ってアンデス系の文学を軽視しているわけでないことを指摘しておきたい。現状として、アンデス的なテーマについては、記事でも挙げたごくわずかの作家を除けば特筆すべき小説家がいないと言っただけである。私は、何人かの連中が嬉々として批判しているような、作家を居住地や出自で差別するような人間ではない。

 ペルー文学の新しいキャノンについては、たしかに言葉足らずの面はあった。早とちりをして批判をする人が相次いだのもしかたがないかもしれない。ただ、よく読んでほしいのだが、私はペルー文学の新しいキャノンについて一言も提起はしていない。単に新しい作家、作品でその評価に足る実力を示した連中のリストを作ろうとしただけである(もちろん完全リストを目指したわけではない、電話帳を書くのとは違うのだから)。なかにはすでに評価が定まっている作家もいたし、定まりつつある作家もいた。なかにはまだ駆け出しもいたが、私の理解では、挙げた全員が将来有望な作家である(ちなみに50歳以上の作家は取り上げなかった、何人かの年配作家が文句を言ってきたので念のため断わっておく)。そして記事のなかでも正確に申し上げた通りあれは単なる現状総括に過ぎない。いわばスナップ写真である。仮に記事を書いたのが去年だったとしたら、新作を出していなかったレナト・シスネロスには言及していなかっただろう。

 キャノンについて私が述べた部分を引用しておく。<ペルー文学の伝統を見ると、短編や詩しか書いていないにもかかわらず非常に評価の高い作家がいることが分かる。たったひとつの短編でも、ただ一冊の長編小説でも、出来さえよければ、つまらない数多の作品群に勝るのだ。未来に渡っていい作品を書き続けられるか、あるいは将来的にペルー文学におけるキャノンの一画を占めるか、そのへんはまだ未知数だが、それでもいい作家が今もいるにはいる。>

 断っておくが私は予知能力者ではない。しかしそれでもなおペルーのネット投稿世代には期待をかけてしまう。今回挙げた作家たちのたとえ二人でも三人でもいいから、単なる机上の空論ではなく、本当にペルー文学の正統=キャノンとなってくれたら(要するにバジェホやエグレンやエイエルソンやバルガス=リョサやリベイロの域に到達してくれたら)、一読者としてどれだけ嬉しいことだろうか。しかしながら、それが分かるのには半世紀を要する。現代文学における成功などというものは、ペルーに限らず世界のどこでも束の間のはかないものであって、あとは時間の経過がそれを裏付けるか、あるいは消去してしまうのだ。

 かつて古本屋を渉猟していてある本を見つけた。20世紀初頭のペルー作家フランシスコ・ベガス・セミナリオの小説で、当時は各国でもてはやされ各種の賞も受賞している。悪くない小説だが、今やだれも彼のことを覚えてはいない。同じように忘れられ、古本屋の片隅で休眠している作家が他にも無数にいる。うちの何人かは将来的に眠りから覚めることもあるだろう。たとえばエレオドーロ・バルガス・ビクーニャ。いつかこの作家が思いだされる日が来るのだろうか?

 文学的キャノンとは移ろいやすい、変化する仕組みであり、時代の風によって様々に姿を変える。仮にセサル・バジェホが90歳まで生きていたら、ペルー文学のキャノンとはなっていなかったかもしれない。言葉を弄ぶ奇術師の類とみなされ、偉大な詩人とはなっていなかった可能性がある。ではなぜ彼はキャノン化したか。その早すぎる死か、あるいは共産主義的ユートピア思想に合致するその政治的パッションか、あるいは誰が見てもその明らかな才能か?

 私の記事の狙いはどんな読者でもひと目でわかる見取り図を提示することにあった。読むに足る作家がいるという報告だった。「甘過ぎる」と言われても謝るつもりはない。それは個々の本を実際に読んで確かめてくれと言うしかない。読んでもいないのに嘘をつくつもりもないし(なにしろ読書が好きだから)、文学とは関係ない私情を優先させるつもりもない。また、実は掲載された記事は私が用意した原稿の四分の三であり、スペースの関係上(ある大学の広告を入れられた)残りは載せられなかったことも、ここで断っておく。その残りこそが「文学的キャノン」だった。ごく短い文章なのでここに全文を採録しておく。<何年か前までは特定のメディアと接点のある批評家だけが文学的キャノンの選定をしていた。そこにはまっとうな判断もあれば、疑問に思う判断もあった。今のようなソーシャルネットワークが幅を利かす社会にあっては、作家自身がそれぞれ独自のメディアをもち、そこで自己主張をして然るべき場所を占めるべく行動する。結果的にそれで読者が欺かれることもあるが、それも長くは続かない。一瞬の輝きと真の才能とはまったく次元が異なるからである。>

 何人かの友人に遺漏を指摘されたので優秀な作家名を数人補足しておく。ルイス・エルナン・カスタニェーダ、オルランド・マセイラ、ミゲル・イルデフォンソ、フェリクス・テローネス、フアン・マヌエル・チャベス、マルティン・ロルダン・ルイス。全員有望な小説家だ。

 *フェルナンド・リベラ「住所がわかれば作家として評価してやるよ:アンデスVSクリオーリョという不条理な二項対立図式の回帰」

 フェルナンド・アンプエロによる最新の記事は40歳以下のペルー人小説家たちを「ネット投稿世代」と名付けている。これは実はアンデス作家対クリオーリョ(リマ在住の)作家という旧時代の馬鹿げた二項対立図式の使い回しに過ぎない。そんな対立図式はこれまでも文学主体をめぐるマトモな議論になり得なかった。ところがアンプエロによれば、今やアンデス系作家は姿を消し、ネット投稿世代というどうやら新手のクリオーリョ作家たちが主役となって、都会的なテーマの小説を書き、インターネットやソーシャルネットワークを住処とし、国際的出版社から本を出して大活躍しているのだとか。

 過去も現在もペルーの小説を真面目に分類し、考察し、議論するにあたってこうした評価基準は役に立たないものだ。作家をその居住地で分類してよいのだろうか。いわゆる「僻地」の作家はインターネットを知りもしなければ使用もしていないというのだろうか。アンプエロはクスコやアレキパやトルヒージョに出張した際はリマとの通信に焚火を使うとでもいうのだろうか? 今あげた三つの都市は村であって都市ではないとでも? それらの三都市で書かれ、刊行されている小説をアンプエロは読んだことがないのだろうか? そうした小説のテーマや文体を御存じないのだろうか? まず御存じないだろう。

 スラヴォイ・ジジェクが精神分析学の立場から指摘しているところによると、現実のあらゆる構造は一定のイデオロギーに支配されている空想の産物である。完全な中立、いわゆるゼロポイントなるものは存在せず、私たちは常になんらかのイデオロギーとつながりをもつ場所から互いを観ている。しかしその事実と人間がイデオロギーそのものに囚われてしまうのは別の話である。後者は現実というものを前に、それを観察したり接触することなく、既存の理解の図式を盲目的に受け容れてしまうことを指す。その意味でアンプエロの記事はペルーのジャーナリズムとある種の知識人集団内で今なお猛威をふるう二つの実に偏ったイデオロギーを暴露する偏見に毒されている。ひとつは作家の居住地に対する偏見。もうひとつは扱うテーマに関する偏見。

 最初の偏見は、単にある特定の場所に住んでいるか育ったという事実によってのみ作家の価値や、その作品の質、伝統性を評価する立場である。そこから生まれる図式はこうだ。1)伝統的で(=古臭く、遅れている)、アンデス的な地方作家たち:シロ・アレグリーア、ホセ・マリア・アルゲーダス、マヌエル・スコルサ。2)先端的で、近代的で、ポストモダン的(という語はコスモポリタンのような語と同じでもはや過去の遺物になりつつあるが)で、都会的なリマ作家たち:フリオ・ラモン・リベイロ、マリオ・バルガス=リョサ、アルフレード・ブライス=エチェニケ。

 二つ目の偏見は、ある特定のテーマを書いているという事実のみをもって作家を特定の小説流派に位置付ける。作家がアンデスやいわゆる「僻地」、あるいは先住民共同体や、ある種の社会問題、先住民神話等について書いていれば“先住民小説”だとされ、技術的には単純で魔術的リアリズムにまだ依存しているとか評される。いっぽう作家が都市について(というよりはっきり「リマについて」と言ったほうがいいだろう、彼らにとってこの国にはリマ以外に都市は存在しないのだから)、近代社会とポストモダン社会のテーマや諸問題(移民の問題は含まれていないようだが)について書いていれば、それらはより複雑な構造をもつ小説で文体もまずまず満足のいく出来であるとされる。ただしその文体は多くの場合、欧米先進諸外国(なんて概念を使っていいのだろうか、この時代に)のそれの模倣とみなされる。こうした分け方には笑わせるものがある。エフライン・クリスタルがすでに30年も前から明確に指摘しているように、初期のインディヘニスモ小説はリマ的な眼差しとリマ的な意識から始まっているからだ。ということは、たとえばアルゲーダスの小説のいくつかはインディヘニスモではないということになり、いっぽうバルガス=リョサの『アンデスのリトゥーマ』やイバン・タイスの『豚の耳と呼ばれた場所』はインディヘニスモ小説だということになるのだろうか。なるほどと言うしかない。

 こうしたある種の風土性によって文学を分類するイデオロギーは150年前のイポリト・テーヌの思想に起源をもつわけだが、これでは僻地で書かれる作品にも「アンデス的な」都市文学や小説技術上の進化(というものが実は地方にもあるのだ)があるという議論にはなりにくい。自らの視点と小説的価値をあらかじめ決定づけるこうした偏見がある以上、そうした文学営為は考察の対象にならないし、読まれることもなければ、存在すらしないことになる。こうした分類には文学的な意味を越えた次元で政治的な意味があって、それはすなわち文化的社会的支配の構造を確立し、強化することにある。すでにアルゲーダス・コルタサル論争(訳注:1967年に作家フリオ・コルタサルがキューバの雑誌で中南米のナショナルな土着的文学を否定的に語ったことにアルゲーダスがペルーの雑誌で反論したことがきっかけで始まった一連の論争。詳しくはこちらからそうしたイデオロギーに説得力はなくなっていたが(後にコルタサル本人が私的に自説の誤りを認めている)、ましてや今や21世紀なのだ。フアン・ホセ・サエールやユリ・エレーラのような作家を「僻地作家」と呼んで特定の小説ジャンルにまとめてしまうのは、いかにも馬鹿げたことではあるまいか。

 とはいえ、どんな分類にも例外は発生する。アンプエロのイデオロギーに歪められた視野にもいくつかの名前は入っていた。治癒の兆候と言えようか。彼が挙げているのはカリナ・パチェーコ、クリスティアン・レイノソで、それぞれアンデス作家、僻地作家だとしている。アンプエロはおそらく知らないのだろう、クスコ在住のパチェーコとプーノ在住のレイノソがかつてマドリードに住んでいたことや、今も世界中を旅してまわっていることを。彼らはあくまで「田舎の作家」に過ぎず、あくまで「例外」として(ネット投稿世代やキャノンの候補リストに)入ってくる。あらかじめ「その他の地域の作家」として用意されたカテゴリーに収まるというわけだ。

 パトリック・モディアノ(パリのいくつかの地区についてしか小説を書いていない)か偉大なるゼーバルト(もう亡くなっている、彼もまた田舎や小さな村について語った)をパリやノリッチから呼び出してアンプエロに言ってもらいたいものだ(無理だとわかってはいるけれど、フィクションの練習として考えよう)。「そこのあんた、あんたも地球規模ではアンデス圏作家、地方作家になるんだぜ! 世界文学っていう別の偏見の眼差しで見れば、あんただってリマの自分が住んでる街のことしか書いちゃいないロクデナシなんだよ!」。こう言われたら彼だっておかしいと思うだろう。そう、フェルナンド・アンプエロだって立派な都市文学作家だ。同様にカリナ・パチェーコもクリスティアン・レイノソも立派な都市文学作家だ。カルロス・エレーラも、ディノ・フラードも、ファティマ・カラスコも、ユリ・バスケスも、フアン・パブロ・エレディアも、ゴジョ・トーレスも、ソイラ・ベガも、ロサリオ・カルデーニャも、オルランド・メセイラもみな40歳以下のアレキパという「都市」を舞台に小説を書いている作家だ。「例外」だけこんなにいるなんて! 他にも無数に作家がいるわけで、それも含めて全員「ペルーの作家」と言えば済む話じゃないか。

 もちろんアンプエロと共有できる基本的認識もある(この種のマッピングが提供してくれる明るい側面もいちおう理解しているつもりだ)。すなわちペルー小説が現在大盛況を呈していて、その種類こそ多くはないが、革新的な小説をいろいろ提供しつつあるという事実のことだ。語りの手法をめぐる技術革新も進み、表象行為や哲学的思考や世界に対する問いかけといった言説が小説にどんどん取り込まれつつある。だからこそ、たしかな理解と知性をもたらす批評や書評といったものが求められているのだ。それらはオープンな価値基準とたしかな判断力に基づいていなければならず、対立軸をつくる発想や偏見をもちこむべきではない。鏡ではなくプリズムとなるような批評言説が今こそ求められている。

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よくよく考えるとこのブログでのペルー文学は「アンデス圏」としてカテゴライズされていました! 私としてはボリビアとエクアドルを含む、という意図がありましたけど、それじゃあ逆に今度はアンプエロに怒られるかも。


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注目の小説『キモカワイイ』

2015年09月01日 | 西:書評③アンデス圏

 スペイン語の文章でも post という語をよく見かけるようになった。だいたい名詞として使われるようで、たとえば Leí un post interesante.(面白い post を読んだ)というふうに使われる。英語の「投稿する」「掲示する」に由来する語のようで、ネット上に文を載せること、つまり今私がやっているような作業や、それで書かれた文章を指すみたいだ。

 とはいえ、今のジャパンではラインが主流。

 ブログや、おそらくツイッター、あるいはフェイスブックでも管理者本文(っていうんですかね?)のところなどは post に該当すると思われるが、ラインのあの吹き出しの中の言葉は post と言えるのだろうか。{マツケン、ブログでまた大ぼけ} {またっ!!} {バカに付ける薬なし} {} {}みたいなの。

 ま、よくは分りませんが、ペルーの若者たちもそういう世界に生きているようです。今日の新作情報はフェルナンド・アンプエロがまとめた40歳前後のペルー作家について。アンプエロは1949年生まれ、ジャーナリスト上がりの作家。ノワール、特に短編でわりと面白いのを書いていたが、世界化しないまま今に至っております。いや~、30代に「新しいペルー小説」として割とよく読んだアンプエロに「若い世代の紹介」をされ、それを整理して本を買うことになろうとは、思ってもみませんでした。

 コンテンポラリー文学に向き合うと、なんだか無常感を覚えますね。

 ここで紹介されている作家たちは私より若い。1968年生まれの私はイバン・タイスらと同い年で、もはやそれは「かろうじてネットにアクセスできた世代」にすぎません。イバンと私が共にブログという旧ツールをし続けているのが象徴的。

 私も来年こそはスマホ購入を真剣に考えたい(考えるだけならできる!)。

 ところで、下記の作品でいちばん気になっているのが、エンリケ・プラーナスという1970年生まれ(また同じ世代だ)の作家が書いた小説『キモカワイイ』。こちらのインタビューを読む限り Ultra Siete、すなわち『ウルトラセブン』とその主役 Koji Moritsugu への愛に基づいて書かれた小説である模様。なんだそりゃ? 表紙はこんなの。至急取り寄せたうえ、中身をご報告させていただきます!

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フェルナンド・アンプエロ「ネット投稿世代:ペルーの新小説」(コメルシオ紙オンライン版2015年8月31日)

 ソーシャルネットワークと中小の民主的ジャーナリズムは "post" という語を当たり前に使用している。スペイン語ではつい最近までラテン語起源の「~後」を意味していた接頭辞だが、今ではインターネット上の各種ソーシャルネットワークやツイッターやブログなどに投稿されるテクスト全般を指すようになった。私たちはなんらかの共感、または反感に基づいてネットに投稿し、よくいえば、なんらかの情報を共有し、誠実さの赴くがままに意見を述べるべく、ネットに投稿をする。この post 「ネット投稿」という新語を、2010年代になって驚くべき勢いで才能を発揮し始めた若いペルー人小説家たちの世代の名前としたい。彼らの作品はペルー文学に長いあいだ吹いていなかった新風を呼び込んでいる。これらの新しいペルー小説は読者のあらゆる嗜好に合致するもので、我が国特有の伝統につながるものもあれば、そうでないものもある。

 なぜネット投稿世代なのか? それは彼らがフェイスブックを住処とする作家だからだ。彼らの家は実質ネット上にあり、実際の居住地がペルーであろうが外国であろうが関係ない。私たちは作家がどこにいようが彼らの存在を身近に感じることができる。彼らは絶えざる情報の波のなかに生きているから、私たちは彼らの姿を毎日目にするし、彼らが何を考え、何を読み、どこへ行ったのかを知ることができる。私たちは彼らの友人、恋人、夫や妻や子どもたちのことまで知っている。休暇はどこで過ごしたか、どういうことに感動し、どういうことに憤慨するのかを知っている。私たちは作家たちが推薦するネット上のエッセイや記事を読む。私たちは作家たちの怒り、喜び、その生来の――噂に高い――文学的ナルシシズムをすべて見届ける。私たちは彼らの好みも憎悪対象も知り尽くしている。

 これらの作家たちはなによりも世界中の文学的伝統によって育まれているが、だからといってペルー人としてのアイデンティティを失っているわけではない。彼らは徒党を組まず、単に友だちという関係になることはあっても、それぞれは自立していて、独自のスタイルをもつ。年齢的には40歳前後という若手だ(マリオ・バルガス=リョサのような例外を除けば作家として40代はまだ若いと言える)。実験的手法より昔ながらのスタイルを好み、革新派の顔を見せることもあるが、あらゆるイデオロギーの表明には嫌悪感を示す。反抗的青年ではあるが、健全な日常習慣を維持している(一時代前の麻薬中毒や人格破綻路線ではなく、今風のよりクリエイティブな放浪生活を好む)。一市民として政治的に正しくないことにも敢えて手を出すが、やり過ぎることはない。彼らはどちらかといえば勤勉な作家で、その多くは作家教室で育った(教えていることも)。彼らはグローバル社会の申し子だ。彼らはデジタル革命を子どものことから当たり前に受け止め、前の世代のようにジタバタすることはなかった。子ども時代で記憶にあるのは夜間外出禁止令、停電、車爆弾。彼らの多くはいわゆる教養小説、すなわち今で言うオートフィクション(あるいは自伝小説、自己言及小説、日記や回想録の類)を好んで書く。

 先行する世代とくっきり違う性格のひとつに、親(=伝統)を抹殺する欲望の不在があげられる。不在というか興味がない。というよりその点については深刻に考えていないのだろう。彼らの大半は――20世紀以来私たちの国の小説を特徴づけてきた――リアリズムを迷わず選択し、既存の伝統に乗っかることをよしとしている。21世紀の小説家である彼らは過去のペルー小説のあらゆるジャンルと触れつつ育っていて(歴史小説、ノワール小説、政治暴力の小説、感覚小説、実存小説、幻想小説等)、1980年代から90年代にかけてのペルー小説で支配的だった“汚い系”リアリズム、過激主義、ミニマリズム等を乗り越えようとしている。さらに全員に二つの共通点があって、これがこの世代の特徴とも言える。まず都会を舞台にした小説を書くこと。次にストーリーテラーであること。彼らは過剰な言語実験は得意ではなく、あまり興味もない。

 作品について特に真新しさはない。彼らは20世紀の偉大な革新者たちが試した小説技法をそのまま受け継いでいる。敢えて言うなら内的独白(あるいは意識の流れ)、唱和的・多声的な語り、様々な人称の語り手、時空間の飛躍といった手法をそつなく駆使するが、それらはすべて読みの行為を阻害しない程度に文学的な強度を増し、それによって読者を感動させる、読者の心を震わせることを目的として採用される。当然ながら物語的な緊張感、語りのリズム、人物造形、細部の整合性などに気を配る。

 ジェイムズ・ジョイス、ジョン・ドス=パソス、アーネスト・ヘミングウェイ、ウィリアム・フォークナー、あるいはマリオ・バルガス=リョサ。現代的な小説作法を打ち立てたこれらのビッグネームがすでにある以上、これ以上、新たな小説作法を求めるのは難しい。もちろんそれなりの作品を書いている実験的手法の作家を無視するわけにはいかない。だが、上のビッグネーム以降、小説技術について根本的な革新があったとは言えまい。これ以上技術革新が進めば、それこそ現代アートのように、絶えず新奇な手法は出てきても、中身はゼロということになりかねない。ヌーヴォーロマンや文学もどきの詐欺師たちの作品が大失敗に終わったのを最後に、もはや小説というジャンルにこれ以上の革新は必要なくなっているのだ。現に今なお小説は活況を呈しているではないか。

 時代状況の報告だけに留めたいこの記事でもっとも困難な箇所にさしかかってきた。具体名を挙げねばならない。発展途上の作家や、たった一冊しか作品がないにもかかわらずじゅうぶん才能の片りんを見せている作家について語るのは、果たして軽率なのだろうか? ペルー文学の伝統を見ると、短編や詩しか書いていないにもかかわらず非常に評価の高い作家がいることが分かる。たったひとつの短編でも、ただ一冊の長編小説でも、出来さえよければ、つまらない数多の作品群に勝るのだ。未来に渡っていい作品を書き続けられるか、あるいは将来的にペルー文学におけるキャノンの一画を占めるか、そのへんはまだ未知数だが、それでもいい作家が今もいるにはいる。

 ネット投稿世代の主要作家は、私のみたところでは、非常に若い人たちだ。『語り尽くす』のヘレミーアス・ガンボア、『私たちを分かつ距離』のレナト・シスネロス、『冷戦の新たなおもちゃ』のフアン・マヌエル・ロブレス、『テキサス州オースティン』のフランシスコ・アンヘレス、『ビオイ』のディエゴ・トレジェス=パス、『曙の血』のクラウディア・サラサル=ヒメネス、『最高刑』のサンティアゴ・ロンカリョーロ、『夜、僕たちは輪になって歩く』のダニエル・アラルコンなど。この他にカルロス・ユシミート、ジョアン・ペイジ、ダンテ・トルヒージョ、セルヒオ・ガラルサ、ルイス・アリオーラ、ラモン・ブエノ=ティソン、スザンヌ・ノルテニウス、マルコ・ガルシア=ファルコン、ジュリー・ドゥ・トラゼニス、エシオ・ネイラ、アレハンドロ・ネイラ、ペドロ・ホセ・リョサ、ビクトル・ルイス=ベラスコ、ミゲル・アンヘル・トーレス=ビトラス、アレクシス・イパラギーレ、カーチャ・アダウィ、ジャック・マルティネス、マリア・ホセ・カロ=レオンベラルデ、ラウル・トーラ、レオナルド・アギーレ、ガブリエル・ルイス=オルテガ、ロナルド・アルキニーゴ、ペドロ・ノボア、ダニエル・ラミレス、ジェニファー・ソーンダイク、ジェニバ・フェルナンデス等。散文も書く詩人としてはホセ・カルロス・イリゴージェン、ヘロニモ・ピメンテル、ビクトリア・ゲレーロ等。ルポルタージュに特化している作家としてはマルコ・アビレース、ダニエル・ティティンヘル、ガブリエラ・ヴィナー等。これらはすべて、私がかろうじて読むことのできた作家たちの名に過ぎない。他にも埋もれた作家がいるのだろうか? そこのところはまったく関知していないが、もしいるなら、やがて頭角を現してこのリストに入ることだろう。

 ネット投稿世代はいきなり現れたわけではないことも指摘しておかねばならない。やや先行する世代のなかには、彼らと同様ネットでの発信に興味を示し、かつ重要な作品を書いている作家がいる。『犬の耳と呼ばれた場所』のイバン・タイス、『古書収集家』のグスタボ・ファベロン、『爆撃機』のセサル・グティエレス、『深海魚の目』のウリセス・グティエレス、『キモカワイイ』のエンリケ・プラナス、さらにルポ作家のフリオ・ビジャヌエバ・チャン等、彼らはまだ50歳以下の世代に属す。

 新しい小説では言うまでもなく様々な文体と多種多様なテーマが目立つ。いわゆる1960年代のラテンアメリカ文学ブームも過ぎ去り、そしてロベルト・ボラーニョと彼のメキシコ風ダダがつくりあげたブームも過ぎ去って、このところのペルーの作家は内面小説と歴史主義小説の混合か、極端な主観小説(いわゆる“私の文学”と呼ばれるもの)か、断片化・周辺化・虚無化したペルーの再現小説か、あるいはペルーではない地上のどこかで展開する曖昧なポストモダン小説に賭けている。とはいえ多くの作家は地に足がついているようだ。シスネロス、ロブレス、アンヘレスらは父親という古典的テーマを取り上げ続けている。家族(人を一人格として説明する社会の核)というテーマでの探求、そのオラルな文体、会話文体の自然さなどにより極めて濃密な世界が浮かび上がっている。ガンボアとアラルコンはより心理的である。トレジェス=パスとサラサル・ヒメネスはより政治的だ。

 ただ、ネット投稿世代の存在は、ペルーの中央集権主義という嘆かわしい事態の裏返しでもある。私たちペルー人も(ソーシャルネットワークで多くの扉とつながる)グローバル社会を生きているし、国内出版業でもマイナーな会社が台頭し、また文芸雑誌もかつての勢いを取り戻してはいるが、そのいっぽうでいわゆるアンデス文学は凋落の一途を辿っているではないか。誰も相手にしない文学だというわけではない。ただ表には出てこない。20世紀半ばにかけ、エンリケ・ロペス=アルブーハル、シロ・アレグリーア、ホセ・マリア・アルゲーダス、短篇の名手エレオドーロ・バルガス=ビクーニャらによって興隆を極めて以降、アンデス系の文学で突出した作家は生まれていないのである。エドガルド・リベラ=マルティネス、オスカル・コルチャード、ルイス・ニエト・デグレゴリ、ルイス・フェルナンデス=クエト、フリアン・ペレス=ワラッカ等のベテラン作家、あるいは若手ではクスコのカリナ・パチェーコ、プーノのクリスティアン・レイノソ、ワンカーヨのサンドロ・ボシオ、既に挙げたウリセス・グティエレス等がいる程度だろうか。結局のところ、ネット投稿世代とは、マリオ・バルガス=リョサ、フリオ・ラモン・リベイロ、アルフレード・ブライス=エチェニケといった都市文学作家の系譜につながっているわけだ。

 要するにネット投稿世代とはまずもって「リマ文学」の書き手であり、さらに国際社会の住人であり、すでに読み手をもっていて、なかには国際的に知名度のあるペルー人もけっこういて、すでにその地位を固めてしまっているわけだ。ネット上にあふれる匿名の投稿のなかには、そんな彼らを「多国籍出版企業のでっち上げた詐欺文学の書き手」と断罪するものもある。(そうした批判によれば、最近有名になった若手作家たちはマーケティング戦略の落とし子に過ぎず、その陰で本来評価されるべき作家たちが無視されているらしい。)では彼らは大出版社の後押しを得て成功したのだろうか? それは程度問題だろう。大出版社がそれなりの宣伝チームを有していることは事実だが、事はそう簡単ではないと私は考える。彼らが成功しているのは、それなりに質の高い文学を提供しているからだ。

 ではそれらはペルーの錯綜した現実全体を提示する作品になっているだろうか? かつて全体小説と称された一種のホメロス的叙事詩小説はすでにその輝きを失いつつある。ここ三十年ほどのペルー小説はより断片的なものへと向かってきた。短いテクストでささやかな「一全体」を提示しようとする小説だ。だからといって(今なお尊敬に値する)全体小説構想が否定されるわけでもないし、小さな小説だけがもてはやされているわけでもないが、ペルー文学の現状としてその選択肢が急速に増えていることは事実だ。短編集であろうとルポであろうと、短い小説であろうと五百ページを越す小説であろうと、それなりの価値を与えられ、それなりに評価される。

 今のペルーはかつてないほど小説家が多い国だ。1920年代には、さらに1950年代、あるいは60年代に至るまでペルーが詩人の国だったことを思えば隔世の感がある。もちろんここで私が語ってきたことだけが真実ではないし、実際には見落としもあるだろう。そこで、最後にひとつ、興味深い事実を指摘しておきたい。先日行われたリマのブックフェアの懸賞には大量の応募があったそうだ。こうなるともう私ひとりでは無理である。ペルー文学の全体像、現状の見取り図を、誰かやる気のある人にお任せしたい。単なる一過性の盛り上がりか? 真の才能が燃え盛っているのか? そこは皆さんに判断してもらいたい。さっそく読んでみようではないか!

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と言われて、そうか、読まねば…と思ってる日本人は私だけだと思います。


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ブックフェアに見るペルー文学のいま

2015年05月04日 | 西:書評③アンデス圏

 ペルーの作家といえばマリオ・バルガス=リョサ。これ以外に名前が思い浮かぶ日本の読者も少ないとは思うが、昨年はたとえばグスタボ・ファベロン=パトリアウ『古書収集家』(水声社)のような新しい作品も紹介されている。若手から中堅でもっとも評価が高いのはサンティアゴ・ロンカリオーロ(スペイン語ではロンカグリオーロと発音する人もいるが、彼のアルファグアラ賞受賞作を紹介しているここで指摘されているようにイタリア語名なのでロンカリオーロが正しいのだろう、たとえば下にでてくる Gabriela Wienner もウィナーさんだし。ペルーは作家のような金持ちの家系ほど非スペイン語名が増えます。)、アロンソ・クエト、ホルヘ・エドゥアルド・ベナビーデスら。ペルーで生まれた、というだけでいいなら英語ライターのダニエル・アラルコンがバルガス=リョサに次いで知名度が高い。

 知名度って大きいですよね。

 今日はサント・ドミンゴのブックフェアについてのブログがあるので紹介しておこう。私の視点もほぼ彼と同じです。国際的な知名度がある…はずのセサル・バジェホすら日本ではまったく知られてませんので、ま、正直、世界文学の読み手である読者の皆さんには「どうでもいい田舎の話」でしょうけど。

 ちなみにバルガス=リョサは長編小説『チボの狂宴』でドミニカ共和国の独裁者トルヒーヨを取り上げていて、この国とはちと微妙な関係。ドミニカ人ブロガーが邪推したのはそのあたりの事情だと思われる。

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 ここ数日来開催されているサント・ドミンゴ(ドミニカ共和国)の国際ブックフェアにペルーも招待国として出展している。ところがホセ・カルバハルのようなドミニカ人ブロガーが、マリオ・バルガス=リョサやサンティアゴ・ロンカリオーロのようなドミニカ共和国と深いつながりをもつペルー人作家が不在であると嘆いている。ロンカリオーロが招待を断ったのは、周知のように小説『貴婦人の回想』で彼が取りあげたドミニカの有力一族の圧力で同書の再版刊行をアルファグアラ社が断念し、さらに同社が書店から既存の版を回収する事態にまでなった経緯があるからだ。バルガス=リョサについては他に先約があって参加を断念したのか定かではないが、彼が招待されなかったとは考えにくい。

 ホセ・カルバハル自身は他の投稿でも、ペルーのブースにバルガス=リョサの本が一冊もなく、代わりにフリオ・ラモン・リベイロの本が目立っていたという事実を引き合いにいったいどこから引っ張り出してきたのかは不明だが「ウマラ大統領よりの代表団」によるドミニカ側への配慮説をもちだしているが(ウマラ大統領とバルガス=リョサが今や政敵ではなく、むしろノーベル賞作家が批判を加えつつも現政権を擁護しているという事実をカルバハルが知っているか否かも不明だが)、実際のところペルーのブースはけっこう面白い構成になっていて――もちろん完全ではない、それは仕方のないことだ、多くの作家が欠けているし、いつかはそうした作家が皆こうした舞台で陽の目を見ることを期待したいが――ペルー文学の実態を少しでも知りたいと思う人なら、招待作家たちからかなりの情報を聞き出せるに違いないのだ。

(次の話に移る前にお断りしておくと、私は今回のブックフェアにはペルー側ではなくサント・ドミンゴの主催者側から直接招待されているので、上記の「ウマラよりの派遣団」があったとしてそれを擁護するつもりは毛頭ない。)

 第一に、実はバルガス=リョサは、ペルー作家を対象にした写真家ダニエル・モルジンスキの展示ブースに特別枠が設けられている。というわけでドミニカ政府の介入があったわけではない。ペルーのブースにバルガス=リョサの本がなかったのはおそらく他の理由によるものであって、なんらかの検閲が働いたわけではない。次に、ペルー代表団がバルガス=リョサではなくリベイロの作品を中心の構成にしたのは今回が初めてではなく、詩人アントニオ・シスネロスを看板に掲げたボゴタでのブックフェアなど前例がある。ペルー代表団はこうした機会があるたびに、世界的に知られたバルガス=リョサやセサル・バジェホ以外にもペルー文学には豊かな多様性があることを、なんとか世界に示そうと試みている。ブックフェアはそのかっこうの舞台なのだ。たしかに今なお欠けている重要作家(ブランカ・バレーラ、ホルヘ・エドゥアルド・エイエルソン等)も多いが、それはペルー国内における刊行物の不足と関係している。つまりペルーではそうした作家の本がいまだに再版されず、一般に出回っていないのである。悲しいが、それが事実だ。

 いっぽう、読者がバルガス=リョサやロンカリオーロなど国際的に知名度の高い作家以外のペルー文学に興味をもつのであれば、今回の代表団のなかに実に興味深い名前を見出すことができるだろう。(もちろんこの2名が参加していればもっとよかったし、同じく欠席のアルフレード・ブライス=エチェニケも来られたらどんなによかったことか。)たとえばホルヘ・エドゥアルド・ベナビーデス、アロンソ・クエトという各種ブックフェアには必ず駆けつける著名な2人の作家。直接参加することは滅多にないものの、常にその優れた作品を提出し続けているエンリケ・ベラステギ、ロンセージャ・ディパオーロ、マルコ・マルトス、ドミンゴ・デ・ラモスのような詩人たち。マリオ・ゲバラ、オスカル・コルチャードなどアンデス系の作家。日系のアウグスト・ヒガのように、近年になって再発見され、若い世代から師とみなされるようになった作家。ジェニファー・ソーンダイク、あるいは二作目の小説がペルー国内で昨年絶賛されたフランシスコ・アンヘレスなどの若手。ヘレミーアス・ガンボア(ペルーとスペインで現在もっとも評価が高いペルー人若手作家)とガブリエラ・ウィナー(ペルーにおけるニュージャーナリズムの旗手)が招待されたが参加できないことも分かっている。これを見るだけで、代表団がわずかな財源しかもたないにもかかわらずできるだけ広範囲の実力派を集めようとした痕跡がうかがえる。

 最後に指摘したいのは、ペルーのブースが小さな出版社が出している文学を重視している点だ。ペルー国内の文学に賭け、ペンギン・ランダムハウスやプラネタのような巨大グループのあいだになんとか場所を占めようと奮闘している若いマイナー出版社たちだ。もしカルバハルがもう一度彼の言う「ウマラよりの代表団」を訪れる機会があるならば、そこにノーベル賞作家の手によるものではないにせよ、同じく力強く魅力的なペルーを見せる作品たちと出会うことができるはずだ。彼にまず薦めたいのは先ごろ亡くなったばかりのカルロス・カルデロン=ファハルドだ。郷愁の亡霊の異名をもつ彼の作品の文学的価値は疑いようもないものである。そのうえでいつか期待したいのは、リマで開催されるブックフェアにドミニカ共和国代表団が主賓として招かれ、そこにいわゆる有名作家ではなく、なかなか国境を越えることはできないもののその価値と才能は測りしれない大勢の作家を連れてくることだ。

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マドリードのペルー人

2014年11月28日 | 西:書評③アンデス圏

セルヒオ・ガラルサは1976年にペルーの首都リマで生まれた。ということは現在38歳のペルー人。見開きの写真を見る限り白人だ。紹介によると「法学部を出たが法律を仕事にしたことは一度もない。ある大学に勤め、テレビ局の報道部門でライターをやり、ある雑誌の文化欄も担当していた。第一短編集は Matacabros.(松本注:意味不明)で、最新作は『飛行機たちの孤独』。クチョ・ペニャロサとの共著ルポ『ローリングストーンズ、ペルーに来る』はスペインのペリフェリカ社から再版された。現在はマドリードのマラサニャ区に在住。雑誌『ルーム』と『レトラスリブレス』に協力中。日曜にはアマチュアサッカーチームの猛烈なミッドフィルダーと化す。そして犬を連れて入店できる書店で働いている。木こりシャツが好き」とある。

 木こりシャツってなんでしょうね。

 写真ではチェックの麻シャツを着ているから、そういうのを指すのでしょうか。

 それにしても上の履歴、自虐的な小説家が自分語りの物語で設定しそうなショボさ加減。本屋で働いていたり、「ある大学」で働いたり(何の仕事かは不明)、有力雑誌には「協力」しているだけで実際に何をしているかは不明、日曜にサッカーをしていたり。

 この小説もおそらく自分の身に起きた出来事を描いているようで、舞台は2009年のマドリード郊外。語り手は30にならんとするペルー出身の独身男性で、いっしょにペルーからやてきたラウラ・ソングと同棲したいたが、やがて別れる。上司のいる会社で働くことができない語り手はひとりでできる仕事を選ぶ。それはJFKという名の怪しげな(といっても別に怪しくはなく、ホルヘ(かフアンかホセ)・フェルナンデス・クリンキエヴィッチという名前の頭文字にすぎない)男が経営する犬などペット専門のケア会社。要するに金持ちの飼っている犬の散歩がお仕事。なかには変わり種もあって、アライグマの檻の掃除をさせる、アルツハイマーになった老人などもいる。

つづく…


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