天満放浪記

matsuken tenma blog

見えざる拳(3)1916-20:チューリヒ

2013年11月03日 | 西:エッセイ

Nbc46サミ・ローゼンストックがいったい何語で創作を行なっていたか私はよく分かっていなかったし、今もあまり分かっていない。ハンス・リヒターはドイツ語、ルーマニア語、フランス語をぺらぺら喋ったと述べているので、それに従うなら母語のルーマニア語があり、次に同じロマンス語のフランス語があり、そしてドイツ語も話した。いっぽうマン・レイの伝記を書いているハーバート・ロットマンは、サミがルーマニア語で詩を朗読していたと書いている。いずれにせよダダの雑誌は山の向こうのパリを意識してつくられたそうで、写真版の資料を見るかぎり基本的にはフランス語で書かれている。朗読の事情はフィルムでも残っていない限り証言をまとめた研究に頼るしかない。

 キャバレー・ヴォルテールではドイツ語やロシア語の詩の朗読も平気で行なわれていたというが、刊行物の大半はフランス語だったろう。だとすると、たとえばフランス文学史ではダダイズムを教えるのだろうか。ラテンアメリカ文学を論じている限りダダイズムとは「ヨーロッパの前衛」に過ぎないが、語学屋の悪い癖で、じゃあいったい具体的なテクストは何語だったんだよというようなどうでもいいことが気になって仕方がないのである。まあフランス語だということにしておこう。

 この章ははじめは教科書的なことが書いてある。キャバレー・ヴォルテール、フーゴー・バルとエミー・ヘニングスのカップル、第一次大戦の中立ゾーンであった都市に避難してきた文化人たち。サミはレーニンとも会っていたことが伝記作者によって確認されているという。戦争を逃れて各国から集まってきた反体制的な文化人たちと、20世紀を席巻する社会主義の嵐を生みだした張本人。これがダダイズムの近景で、私たちにはお馴染のものだ。<ダダイストたちがマリネッティの詩的実験に再度着手し、意味内容を欠く音節群とアフリカ的なリズムと造語を駆使して詩作を行ない、詩からその意味をはく奪してその始原にあった記憶を取り戻させようとしていたころ、ジェイムス・ジョイスは『ユリシーズ』を執筆しつつ、物語の話法を再定義するとともに、未来の世代の作家たちに新しい武器を提供しようとしていた。(p.39)>という時代である。簡単に言えば。

 1896年生まれのサミがチューリヒにやってきたのは1915年のことらしい。ちなみに1892年生まれのバジェホが首都リマへ出てきたのも1915年である。ペルーにおけるダダイズムとかいう話も何度も読んできたが、よくよく考えてみるとサミのほうが4歳バジェホより若いのだ。だからなんだ、という気もするが、えてして「西欧文学をどれだけ有難く頂戴したか」的な議論に陥りがちな旧植民地文学を考える場合に、こういう基礎情報・背景の確認は大切である。

 このときサミは19歳。

 なんだ、大学1年の若造じゃないか。ハハハ。

 グラネースはルーマニア時代のサミについてはあまり行を割いていない。フランス象徴派に傾倒し、詩を書いていたという程度。世界のどこにでもいた「このころの近代詩人」である。チューリヒへ来た目的は哲学を学ぶためだったが、実際は、とにかく故国を捨てなんらかの騒乱に巻き込まれたかったからだという。仮に戦乱にあえぐルーマニアを離れたかったのであれば、後半の「騒乱に巻き込まれる」は奇妙であるが、これはおそらく「世間を騒がせる」という意味だろう。ただルーマニアから来たという点については<ルーマニアに生まれ、中欧人文学伝統の周縁部で育ったことで、偉大な過去の芸術作品を実に簡単に嘲笑することができた。(p.41)>という指摘もある。ここでいう「中欧人文学伝統」が具体的に何を指すのか不明だが、常識的に考えておそらくハプスブルグ帝国のドイツ語による伝統を指すものと思われる。なので、なおのこと、ユダヤ人でもあったサミとドイツ語との関係が気になって仕方がないのであるが、私の手元のわずかな日本語資料にはそういうことはあまり書かれていない。

Nbc45ただ、もう研究では明らかにされている事実のようだが、上の塚原さんの本によると、サミはルーマニア時代にフランス語による黒人詩集を読んでいたらしく、実はダダ宣言に先立つダダ的な作品『ンパラ・ガロー』の校正刷りのなかにあった詩がその源であるとされているようだ。このあたりは黒人詩が得意な方にお話を詳しくうかがってみたいものである。

 それにしてもルーマニア時代のサミのことが気になる。

 そもそも、ダダは第一次大戦で荒廃しつつあったヨーロッパ各地から文学者たちが結集してチューリヒで生まれたというのが教科書的な記憶だが、ヨーロッパ各地といったっていろいろだろう。1918年以降の光景を、戦争で荒廃したヨーロッパ、ロシア革命と国際共産主義、そこに咲いた前衛文化…と紋切り型で語るのもいいけれど、戦争でヨーロッパ全土が荒廃したわけではない。ではあの戦争はどんな戦争だったのか。

 第一次大戦勃発のきっかけは言うまでもなくサラエボ事件である。私の知る限りでは、オーストリア・ハンガリー帝国、ハプスブルグ帝国の王子、というか殺された段階ですでに51歳だったフランツ・フェルディナントはセルビアとの戦争には乗り気ではなく、それまで通り、ドナウ川沿いの各種異民族を帝国がゆるやかに統合しつつ、ロシアやトルコとの緊張関係を維持するという路線で自らの継承のシナリオを描いていたそうだ。セルビアは露土戦争でオスマン帝国からのスラブ民族国家独立を勝ち取ったが、その後は隣のハプスブルグ帝国に接近し、その承認のもとでセルビア王国を名乗るようになった。しかし20世紀に入ってから両国の関係は悪化、セルビアでは1912年にバルカン戦争が勃発してオスマン帝国と闘ったことをきっかけにスラブ民族主義が高まってゆき、なかでももっとも過激な一派が黒手組、すなわちフランツ・フェルディナントを暗殺したガブリロ・プリンツィプを生みだした組織だった。

 ちなみにこのプリンツィプについてはこの写真が知られているが、経歴を見ると1894年生まれ(その後1918年に獄死した)であり、要するにサミとほぼ同じ歳なのである。サミとプリンツィプは同世代だった。ただし、サミが文学的なボマーだったのに対して、プリンツィプは本当のボマーだった。私はサミがチューリヒでレーニンとであったことなんかよりも、こちらの偶然のほうに心を惹かれてしまう。

 話を戻すと、こうしてセルビアをめぐるハプスブルグ帝国のいわゆる東方問題に端を発した第一次大戦であるが、ここにフランスとの利害関係を打開する機会を狙っていたドイツが参戦、フランスとロシアが中央同盟を両端から攻め、制海権を失えば国家存亡の危機になると踏んだ英国が最後に参戦し、これにより真の世界大戦の火ぶたが切って落とされる。それって「第一次近代ヨーロッパ戦争」じゃないか、と私なんかは思いますけど、それはともかく、戦争勃発後の東欧はどうなったのだろう?

 特に気になるのがルーマニアである。

 私はルーマニアについてほとんど何も知らない。パラグアイ以上に知らない。そこで地図を見てみると、大きく4つの国と接している。北はロシア。西はハンガリーとセルビア。そして南はブルガリア。東は黒海に面しているが、こことブルガリア方面はオスマントルコに、そして北はロシアに、東はオーストリア・ハンガリーに、20世紀初頭にあった3つの帝国に囲まれていることが分かる。ヨーロッパをひとつの世界に見立てるなら、ルーマニアはまさに辺境であり、さらにオスマントルコに象徴される東の蛮族に半分取り込まれているような地域である。トランシルヴァニアとドラキュラのイメージもある意味で正しい、東のど田舎である。

 ルーマニアが具体的に第一次大戦に巻き込まれていくのは、いわゆるルーマニア戦線が激化して以降のことだ。きっかけは急逝した前王に代わって即位したフェルデナンド1世の妃が英国人だったこと。また首相が親仏家だったこともあり、1914年以降、ルーマニアは反ハプスブルグ路線を強めていく。大戦の進行を遠目で見ていたルーマニアは、弱体化していくハプスブルグ帝国に対し、オーストリアに割譲されたままであったトランシルヴァニアの返還を要求する。そして1916年にオーストリア・ハンガリー帝国に宣戦布告。が、ロシアはルーマニアの援助をしている余裕はなく、逆にオスマントルコとドイツがハプスブルグ帝国の援助に回り、この小国はとんでもない危機にさらされる。戦線は激化し、やがてドイツがブルガリア軍と組んで南から侵攻、トランシルヴァニアでもドイツとオスマントルコの援軍を受けたオーストリア軍がルーマニア軍を圧倒する。ちなみにトランシルヴァニア戦線のドイツ軍には、若き日のあのエルヴィン・ロンメルも参加していた。結局1916年末、ブカレストはオーストリア同盟軍の支配下に落ちる。

 その後ルーマニア軍はロシア領内のモルダヴィアに撤退して戦闘を継続するが、1918年にロシアが革命のため戦線を離脱、後ろ盾を完全に失ったルーマニア軍は同盟軍に降伏する。ところが戦局は一変、ブルガリアが連合国軍に敗れ、セルビア等バルカン半島でもオーストリアの敗退が決定的になったとたん、ルーマニアは同盟軍に反旗を翻し独立、オーストリア・ハンガリー帝国の瓦解を利用してちゃっかりトランシルヴァニアを奪回する。この瞬間からルーマニア領内のドイツ語話者が少数民族化したという話を先日ある研究会で聞いたのだが、それはまた別の話だ。

 いずれにせよ、この東の小国は、ドイツ・ロシア・トルコという3つの親分たちの間で常に顔色をうかがいながら今日まで凌ぎを続けてきたわけだ。なにか同情してしまうなあ、なくなってしまった我が母校を思い出す。

 さて上記のハンガリー戦線は1916~18年。

 この時点でサミはもうチューリヒだ。

 なので、ある意味、サミがルーマニアから戦乱を避けて亡命したとも言えそうなのだが、ことはそう単純でもないようである。

 ではサミがいたルーマニアはどういう国だったか。

 と思って調べていたら、グラネースが依拠しているフランソワ・ビュオの伝記が今年になって邦訳されていることが分かった。4000円もするが、買ってめくってみました。

Nbc47サミの父親は当時のルーマニアに80万人ほどいたユダヤ人コミュニティのちょっとした成功者で、石油と林業でそこそこの財を築いていたという。まだまだ前近代的だったこの小国で財界の中核でわずかな産業を推進していたのはサクソン人、要するにドイツ人だった。サミの父はその雇われだったというわけ。

 1907年に中等学校へ進学したサミはフランス語の教養に接する。もう言うまでもないとは思うのだが、この時代の東欧における英語は現在の日本におけるウルドゥー語よりも「習っても仕方のない言語」であり、プチシャンゼリゼまであったブカレストの人々にとって文化の模範はいまだにフランスであった。サミが文学に関心を示し始めた1910年代にはルーマニアの文学者たちがフランスから象徴主義を持ちかえって間もないころだった。彼はこの中学の寄宿舎でマルセル・ヤンコというのちのダダの盟友と知り合う。

 詩人には若いころに冒険をともにした盟友がつきものだ。(ランボーなどを省くと)サミとヤンコはその原型かもしれない。彼らはそこでボードレールやアルベール・サマンを読んだ。なんだ、このあたりはトルヒーヨにいたバジェホと同じじゃないかという気もしてくる。1913年あたりからサミは詩を書き始め、ヤンコらと同人誌活動を始めている。このころの詩はルーマニア語。ルーマニア前衛詩人のヴィネアとラフォルグやホイットマンについて議論を交わし、雑誌に詩を書き、ヤンコが挿絵を描いた。いっぽうでランボーやモルゲンシュタインにも影響を受け始めていた。今風に言うと高校生。昔の高校生は早熟だけが売りでした。西欧も東欧も日本も。みんな焦ってたんでしょうね。今どきの大学生に文学のことを聞いても「イサベル・アジェンデは面白いんですか?」みたいな感じで皆さん妙に老成してらっしゃいますけど。

 しかしまあ、そんな彼のいる場所はブカレスト、世界(=ヨーロッパ)のど田舎であったわけだ。

 このマインドはラテンアメリカ出身者によく似ている。たとえば下の文章だが、ブカレストをリマやメキシコ市に変えても普通に読める。

 <ブカレストの地方都市的な雰囲気は、息がつまりそうだったのだ。理工科大学に登録したヤンコとともに、彼は旅立ちを夢見ていた。だが、戦争中のヨーロッパを、いったいどうやって旅行できるだろうか? それに、いつまでも保護者であろうとして、嫌気がさすほどだった家族の存在もあった。単調さと凡庸の混ざった奇妙な感情が、しばしば彼を捕らえた。夢のない、きまりきった生活を受け入れるのは、いつもつらいことだった。若者は、めまいがするほどの倦怠感を体験していた。(ビュオ『トリスタン・ツァラ伝 ダダの革命を発明した男』塚原史、後藤美和子訳、思潮社、p.27)>

 あれれ、亡命じゃなかったんでしょうか?

 伝記ではこのあとすぐチューリヒへ発ってしまうので、私の中のいくつかの疑問が解決されないままである。もう少し総括的な議論がないかなあと思い、あれこれ探しているうちに、意外なところで役立つ本を発見、要するにサミ、いやツァラ自身の著作の邦訳あとがきである。最初からこれを読んでいればよかった…。

Nbc48つづく…


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見えざる拳(2)1908~17:ニューヨーク

2013年07月17日 | 西:エッセイ

 ラテンアメリカの前衛をやっていると、その本拠地の話は案外簡単に処理されているにもかかわらず気にしないということがよくある。シュルレアリスムはブルトンとパリで生まれその後メキシコに伝播し、ダダイズムはチューリヒで生まれその後地球の各地に伝播し…云々。第三世界の文化がその余波にどれだけ与ったかを調べるという、ある種「アヴァンギャルド進歩史観」とでも呼ぶべきスタンスは、とりわけラテンアメリカのような、ヨーロッパ文化を後追いしたとされる地域の文化研究には顕著である。

 だからと言ってロートレアモンがウルグアイ生まれだとか、いわゆる前衛のプリミティビズムには植民地の先住民文化が大きく影響しているだとか、こちらにも「こんな独自発展したアヴァンギャルドがあった」とする主張も私には不毛に見える。

 私が見たいのは、文学史ではトピックの羅列に過ぎない現象の流動性と回帰性である。ペルーやチリを見るときには回帰性のほうが重要だが、流動性については本書のようなルポルタージュが役に立つ。そういう意味でこの章は面白い。ダダイズムの揺籃地をニューヨークに見立てているからだ。

  とはいえダダの発祥をめぐる議論は昔からある。手近の本をひも解けば、やはりそこにもチューリヒを発祥地とする前提のさらなる前置きで次のような指摘がある。<いったいダダは、どこでどのようにして生まれたのか。これは今日では、すでにホメロスの出身地のように、たしかめるのがむずかしい。人びとは何の困難もなしに、近い時代や遠い時代にダダ的な傾向や現象をみいだすことができるが、だからといって、それらをダダとよぶ必要はない。ところが、一九一五、一六年ごろ、地球のさまざまな部分、いたるところで似たような現象が昼と夜の光を浴び、それらがダダという商標にふさわしかったことは事実である。

 とpp.25~26で述べるのは次の書。

Nbc27すなわちニューヨーク・ダダについては言いつくされているのであるが、リヒターはそれを1915年から20年に限定している。やはり15年が大事。そこをグラネースは敢えて08年にまで遡った。理由はよく分からないが、きっかけはひとりの写真家だろう。

 ニューヨーク・ダダと銘打た以上、むろんこの章の中心はマルセル・デュシャンなのだが、最初に登場するのはマン・レイである。そして鍵となるのがマン・レイが絵画を学んでいた学校ニョーヨーク・モダン・スクール、通称フェレール・スクールである。

 モダン・スクール、スペイン語のエスクエラ・モデルナは、1901年バルセロナでフランシスコ・フェレール・グアルディア(1859~1909)によって創設された。フェレールは自由思想の教育学者で、アナルコサンディカリズムに傾倒、思想を具体的に実現する場所としてこの学校を創設した。フェレールは当時としては珍しい男女共学を実現させ、また一般社会向けの雑誌を刊行するなど自由主義思想の普及活動もこの学校を通して行なった。いっぽう保守派による様々な妨害にも遭い、また図書館員が国王暗殺未遂事件を起こしたことにより数年閉鎖も余儀なくされた。そして1909年、モロッコ支配を巡る一連の顛末から軍に反感を抱いた市民が蜂起する「悲劇の週」の最中に逮捕され、処刑されている。これについてはフェレールが事件に関わったからではなく、アナーキスト思想家として教会や軍といった体制組織ともめていたことから、また政敵が多かったことから、事実上、騒乱を利用して「消された」可能性が高いとされている。

 しかしながら、その後、フェレールの思想に影響を受け、世界各地で同様の学校が創設された。ニューヨーク・モダンスクールは1911年に創設される。1890年生まれのマン・レイはこの学校で絵画を習っていた。そして、この学校でよく読まれていた一冊の本と出会っている。この本の英訳が刊行された年こそが1908年。あっ、そうか、だからこの章は1908年を基点としているわけだ。その本とはマックス・シュティルナー『唯一者とその所有』。シュティルナーの存在は知っていたが本など読んでいるはずもなく、早速図書館へいったみた。訳者による序文からぶっとんでしまった…。

 <この本を初めて読む方のために、便宜と思われる気のついた点を少しばかり書いておきます。この本は元来あまり読み易い本ではありません。原文が既に難しいのですから、この種の書物を訳すにあまり適当ではない日本語に改める時に、それが愈々読み悪くくなるのです。(中略)僕は独逸語が残念ながらよく読めないので、これを英語から重訳しました。しかし単語位は字引を引けばわかるので、時々原書を参照したところもあります。英訳は "Ego and His Own" と題して、亜米利加の言語学者で同時にアナアキストでもある Steven T. Byington という人が主として訳したので、それを当時亜米利加で一番だといわれていたスティルネル学者のウオーカアが検閲し、更に英語と独逸語とどちらが自分の国語だかわからなくなっているという、これもスティルネリアンである Emma Hellen Schumm と George Schumm の二人が手伝い、それ等の人々の解釈が相異する場合には、この書(英訳)を発行した亜米利加のインディビジュアル・アナアキストのベンジャミン・タッカアが間に入って定めるという風に、随分念入りに訳されたものなので、原書の "Der Einzige und sein Eigentum" という書名をどう訳していいかということに就いて先ず頭を痛め、その題名の文字通りの訳 "The Unique and His Property" ではあまりに野暮くさく、牽引的でないというところから、"The Single One and His Property" "The Only One and His Property" "The Individual and His Prerogative" などと色々やってみたがどうも面白くなく、結局、文字通りではないが如何にも歯切れがよく、感じが出ているというので、"The Ego and His Own" としたなどと断ってあるのを見ても、充分に信頼される訳書であることが肯かれます。(辻潤著作集6『唯一者とその所有』1970年、オリオン出版社、pp.3-4)>

 この本は分からんよ、と最初に断り書きする訳者…。

 それでもがんばって、このシュティルネルの主著が何を言っているのか解説に従ってまとめるならば、それは、ある種究極の自我肯定であり、ニーチェの超人、カーライルの英雄、エマソンの賢者などの概念もみなこれを受け継ぐものだという。唯一者とは創造者と被造物を兼ねた存在であり、なにより大事なことはこの全人的な自我は決して侵されてはならない聖域なので、シュティルナーは「自分はすべての国家というものに戦いを宣告する。その国家が最も民主的なものであっても」と高らかに宣言する。辻はもともとこの本に『自我経』と副題をつけていたという。つまりシュティルナーは自我宗教とでも呼ぶべき自我信仰の理論の周辺に無政府思想をちりばめていた。無政府主義的自由主義、無政府主義的個人主義、これはフェレールのアナルコサンディカリズムと親和性がある。

 グラネースもシュティルナーに触れて、その思想を<エゴイズムの際限なき擁護(p.31)>と要約している。シュティルナーにとっては<現実的なものとは個人とその意志の力である。それ以外のこと――教会、国家、理性、真理、法、社会、あるいは自由主義者の人権思想であれなんであれ――すべては個人の意志を自由を制限するまやかしでしかない(p.31)>のである。

 ただ、いくらフェレール・センターで読まれていたとはいえ、このシュティルナーをマン・レイが読んでいたとする根拠がこのグラネースの本には示されていない。デュシャンとピカビアは1913年にこれを読んだと断言してあり、こちらは根拠がありそうだが、マン・レイはどうだろう。

Nbc49マン・レイは自伝も邦訳があるのだが、この本はその自伝に書かれなかったことまで解き明かしているというので参照してみよう。

 マン・レイは本名エマヌエル・ラドニツキー、ロシア系ユダヤ移民の長男として1890年にニューヨークで生まれた。幼いころから何かを組み立てたり絵を描くのが好きで、初めて描いた絵はハバナ沖で撃沈されたメイン号の記事に触発されてのものだった。高等学校にいた18歳の時、つまり1908年にひとつの転機が訪れる。これについてはグラネースももちろん指摘しているが、フェレール・センターの教師でもあったロバート・ヘンリが主催する形で開かれたいわゆる8人組の展覧会である。地元の新聞が「ゴミ箱派」「無法サロン」と呼んで貶したこの展覧会にレイは強い刺激を受けた。ロバート・ヘンリらの画風は単純で、日常の平凡な世界を生きる人々の陰影を何ら脚色することなくそのまま大胆に提示するというものだった。まず対象の本質を見極めて、それと交流するところから絵を描く。この方法論はのちの写真という媒体への接近をすでに予告しているものだ。

 だが、伝記を見ている限り、レイはすぐにフェレール・モダン・スクールに入学しているわけでもない。高校卒業後、頭がよかった彼は大学に進学することを期待されていたが画家になると宣言、意外にも賛同してくれた父の援助で絵を描き始める。そのかたわらいろいろな文物を吸収していった。彼のこのころの愛読書はホイットマンだったらしい。

 ウォルト・ホイットマンがこの当時の南北アメリカの詩人や芸術家たちにどれほどの影響力を及ぼしていたか、私たちはまだまだ認識が甘いのではないだろうか。シュティルナーの自我肯定論を実地で言葉にしていたホイットマンから、おそらくレイはとてつもなく多くのことを吸収している。そして、当時は詩人や画家はみなホイットマンを読んでいた。「私は我が身を褒めたたえる」。この強烈な自我肯定の言説をみながある程度共有していた。

 レイはコニーアイランドにイーゼルを立てて描くのが好きだった。彼はソローのような自然との向き合い方を理想としていた。自分をソローになぞらえて、社会とのあらゆるつながりを断とうとした。彼は隠遁詩人の系譜も受け継いでいる。高校卒業後は仕事を転々としながら絵を描き続けていた。

 若いころのレイに大きな影響を与えていた人物にアルフレッド・スティーグリッツがいる。1911年、画廊に置いていたセザンヌをレイは見せられ、それ以来、彼の画廊に足しげく通うようになる。そこでレイはスティーグリッツが撮りためていた写真も見る。

 ホイットマン、ソロー、八人組、スティーグリッツ。

 このあたりの固有名詞が出てきたその次にフェレール・モダン・スクールとの出会いが訪れる。21歳のレイはすでに長ったらしい名前を「マン・レイ」に改めていた。ある日彼は、スティーグリッツの画廊で聞いた風変わりな学校の講義に飛び込む。フェレール・スクールで無報酬で講義をしていたロバート・ヘンリの授業だった。ここでレイは、徹底した個人主義芸術の理論を叩きこまれた。

 レイはスクールでサミュエル・ハルパートという画家とも出会う。ハルパートはフォービズム風の絵画をすでにいくつか描いていた。<フェレール・センターはアナーキズムの信条にもとづいて創設されていたが、荒々しいフォービズムも、「何をやってもかまわない」と考えている点で、アナーキズムに近かった。フォービズムの理論によれば、顔料をいくら気前よくべったりと派手に塗りたくってもいいし、現実的なイメージを吸収し、ばらばらにしてから、マティスが言っているように「色彩の平面で絵を構成」してもよかった。(ニール・ボールドウィン『マン・レイ』鈴木主税訳、草思社、p.42)>

Nbc50つづく…


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見えざる拳(1)1909~31:ミラノ、ローマ

2013年07月15日 | 西:エッセイ

Nbc26本書の題は『見えざる拳―芸術、革命、文化変容の一世紀』という。入手したきっかけは著者のカルロス・グラネースがメキシコの雑誌レトラス・リブレスに書いていた記事が面白かったからで、その後、この本が2011年の第三回イサベル・ポランコ・エッセイ賞というのを受賞しているのを知って取り寄せた。どんな賞かは知らないが、第一回の受賞はラファエル・ロハス『空気の共和国―イスパノアメリカ独立革命におけるユートピアと幻滅』といい、こちらは歴史書。第二回はウンベルト・ロペス=モラレス『スペイン語の世界における足どり』といい言語分野の概説書。そして本書はスペイン語圏とはまったく関係ない20世紀アヴァンギャルドの興亡を綴ったエッセイである。

 著者のグラネースは1975年生まれのコロンビア人。社会人類学の博士号を取得している。文化人類学者と分類していいのだろうか。2008年に『想像の報復―マリオ・バルガス=リョサとホセ・アレハンドロ・レストレーポの創作過程に関する人類学』を刊行している。この本は私のバルガス=リョサ棚に入っていた。ちなみにレストレーポはコロンビアの前衛芸術家で、この本においてすでに、グラネースの文学と芸術を結び付けて思考するスタンスが打ち出されているかっこうだ。

 その後はバルガス=リョサに可愛がられでもしたのだろうか、このノーベル賞作家のエッセイをアンソロジーにまとめる仕事もしている。また雑誌レトラス・リブレスの常連寄稿者でもあり、それらの散文をまとめた本も2冊刊行されている。

 本書は文字通り未来派に始まる20世紀アヴァンギャルドの趨勢をまとめたものであるが、平易なルポルタージュの文体で読み物として入っていきやすい。悪く言えばテレビ的と言えようか、格調高い学術本の雰囲気はまるでない。最大の面白さはアヴァンギャルドをその本来の意味「前衛」と認識し、政治運動と同列に並べていること。結果、フィデル・カストロとギ・ドゥボールが同じ章で論じられたりしている。

 アヴァンギャルドを文学史のなかの現象と捉えるだけでは、実はなにも分かっていないのではあるまいか? 私のなかにあったこの疑問に多少なりとも答えてくれそうな本なので、しばらくゆっくり付き合ってみたいと思う。

 まずは第一章。

 主役はフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ。

 未来派、未来主義宣言、未来派の芸術…と教科書的な情報は容易に入手できるのだが、この運動をマリネッティの人生を通じて見つめなおすとかなり戯画的なものに変貌する。

 マリネッティは1876年にアレキサンドリアで生まれ、フランスのイエズス会宣教師やスーダン人の乳母の手で育てられたが、だからといってコスモポリタンな人間になることは決してなかった。彼は徹頭徹尾イタリア的なものを愛する人生を送るが、その愛はかなり屈折したもので、最初に彼がその屈折に気付くのはパリ時代らしい。過去の栄光にとらわれて時代の変化についていこうとしないイタリア。レオパルディの再生産に甘んじる詩人たち。旧弊な社会に満足しきっているブルジョワたち。マリネッティは自分のイタリアへの愛がこうした古いイタリアへの敵意として現れてくることに気付き、その情念を文学活動に移行させていく。そしてこうした彼のイタリアに対するアンビバレンツな思いは、当時のイタリア社会のあるセクターに広がりつつあったナショナリズムに共振していく。特に1896年のエチオピア植民地喪失以降に広がっていた、帝国としての弱体化に対する国内の不満感と奇妙にシンクロしていくのである。結果導き出される詩学は、戦争の肯定、機械文明の賛美、速度への信仰、楽観主義と自尊心の回復…と書いているうちに21世紀の日本を思い出してしまうようですけど、こうしたグロテスクな「帝国主義的超近代」を意図的に肯定する詩学が未来主義の根にある。

 マリネッティはある種の躁状態にも近い会合をイタリア各地で催し、そこでは聴衆たちのなかにある伝統主義を徹底して嘲笑した。彼はそれを「女性的後退」と称していたらしく、そういう意味でアヴァンギャルドの先駆者である未来派にはかなりマッチョな性格もあったようだ。そういえばシュルレアリスムをはじめとするアヴァンギャルドには女の影が薄い。やはり戦争でありアジテーションだから、全般にマッチョになりがちなのでしょうね。そう考えると、なんだかヤだな。

 マリネッティの毒舌はイタリアだけにとどまらず、ヨーロッパや南米各国でも繰り広げられた。未来派の南米における影響については別途調べる必要があるが、グラネースはマリネッティがロンドンで行なった演説に注目している。ここでマリネッティは、英国流の個人主義や功利主義をほめたたえた後、イタリアを軟弱な観光立国にしたのはあんたらのせいだ、あんたらも過去の栄光に閉じこもるという意味では軟弱で女性的なイタリアと同じ穴のむじなだ罵った。

 こうしたなか、1909年2月に、あの未来主義宣言が現れる。これについてはいろいろな本で読めるのでさておき、興味深いのは、彼の詩法がドラスティックに変化していくきっかけが、リビアとバルカン半島での戦争に従軍した際に塹壕で体験した爆発音だということ。ここから彼のオノマトペを多用する詩のヒントを得た。戦争従軍をきっかけにして生まれる文学は、たいてい戦争を「負の遺産」と捉えるのであり、このような関係は珍しい。国家間戦争が産業の近代化と平気で結びつくイメージに、詩人ならではの感性の鋭さ(=いい加減さと倫理の不在)によって同調することができたわけで、ある種の戦争の詩学としては興味深いものがある。

 進歩に対するマリネッティの信仰はもうひとつの信仰をも敵に回すほど強くなっていった。1916年はバチカンを公然と攻撃するようになり『速度という新たな倫理的宗教』を刊行。カトリックに代表される伝統を攻撃する手段なら思想の左右を問わずに飛びつき始めた。パリではジョン・スチュアート・ミルの自由主義に関する論文を書き、もちろんジョルジュ・ソレルを熱心に読み、ニーチェの超人思想、ベルグソンのエラン・ヴィタール、なんにでも関心を示した。

 また戦争礼讃は単なる礼賛に留まらず、彼を戦場にまで赴かせた。第一次大戦時には介入派の論客としても頭角を現し、ここでムソリーニと合流する。ムソリーニはソレルやクトロポトキンをイタリア語に翻訳するなどこの当時はラディカルなアナーキスト左翼を看板に掲げていた。未来派の連中は自転車部隊をつくって帝国領への奪還を狙う周辺地域にも赴くなど積極的に「戦争に関わる意志」を見せる。マリネッティ自身も戦闘中に重傷を負った。どうやら彼らにとって戦争はいまだ英雄的行為に過ぎなかったらしい。

 終戦後、イタリアではいわゆる未回収のイタリア問題が保留のままとなったことなどから、「名誉なき戦勝国」と不干渉の過程を非難する声が高まる。1918年、マリネッティは未来主義のかじ取りを政治的方向へと切り、ムソリーニのファシスタ党に合流。

 改めて言うまでもないが、20世紀アヴァンギャルドは、20世紀最大の政治的癌とも言えるファシズムと親類関係にあった。

 しかしムソリーニとの蜜月関係は長くは続かず、1919年の総選挙では無残にも敗退。その後、マリネッティは、大土地所有者などと手を組みボルシェビキ的思想を捨てたムソリーニを見限る。変化を信仰し、伝統や因習を蛇蝎のごとく嫌うマリネッティは、右であろうが左であろうが、ムソリーニが伝統勢力と手を組んだことが許せなかった。ところがその四年後、ローマ進軍を達成したムソリーニが政府の中心に立つと、マリネッティを再び迎えようとする。これにマリネッティは応じてしまう。24年にはファシスト党に入党。このころにマリネッティの文学者としての道は断たれたと言ってもいいかもしれない。良くも悪くも転機だった。そしてアヴァンギャルドの中心地はチューリヒやパリ、あるいはマドリードやニューヨークへと移ろうとしていた。

1、終わり


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